Ep.94『その妖精は知らない』
「リゼルキルト、今日お父さんに着いてくから、一人でお留守番しておいてね。」
テーブルに置かれたパンを一瞥して、少年は頷きを返した。
それを見てもいなかった母親は、どたどたと忙しなく部屋を往来し、やっとのことで見つけ出したイヤリングを耳にはめた。
両親が家を空け、ただ一人きりとなった家。木造の、小さな家だった。
ダイニングの椅子は、彼の背丈にはまだ高い。ぶらぶらと足を揺らしながら、パンを食した。
空は晴天。というよりも、太陽があまりに強く照り付けるので、青は褪せ、麦畑の色合いも相まってセピア色の気色を見せていた。
なにをするでもなく麦畑の中を歩いていた少年は、突如催した吐き気に、胃の内容物をぶちまけた。いつそんなことになったのか、冷や汗はあまりにも苛烈に噴き出し、着ていた麻の服をぐっしょりと侵食した。
震える四肢でなんとか歩みを進め、しかしおぼつかない足取りは少年を地面に磔にした。飛び込んだ顎が地面を削り取り、土の味がした。吐き気は収まらず、そうして地面に顎を擦り付けながら二、三度と吐いた。
地面に突き立てようとした脚は、震える膝のせいでかくりと折れて、先の転倒を再演するにとどまった。
感情に由来しない涙が視界を滲ませて、短く切れる息が空回る。
そうして、一時間ほど、少年はただ苦しんでいた。
なにを呪うでもなく、誰に助けを求めるでもなく、ただ、苦しんでいた。
自らに吹きつける苦痛と苦悶を、自らが受け止める者なのだと疑わず、ただ耐え忍んだ。そして、太陽が下り始める昼下がりの頃、奇妙な音頭を取る呼吸のまま、すくと立ち上がった。
そして、少年は家に戻り、口をゆすぎ、水を飲んだ。
いつものことだった。それでいて、慣れるものではなかった。
リゼルキルトは、何者でもなかった。
なにか特筆した血を引くでもなく、何者でもない者と何者でもない者がまぐわった結果できた子供であった。そして、その何者でもない者というのが母親で、その片割れの何者でもない者とは、父親ではなかった。リゼルキルトは、不貞の末に生まれた望まれない子であった。
生物学上の彼の父親の行方を、リゼルキルトは知らなかったが、その父親もまた何者でもない者だった。
村の中で、最低限の容姿と、少しばかり最低限より上だった体つきの母を、一晩限りの慰めに使ったのが運の尽きだった。彼女は身籠ってしまい、その伴侶であるリゼルキルトの父からの報復を恐れ、男は逃げ出した。
村の教会は、その男を公然と批判し、私刑すら下そうとしたが、実行されなかった。男が死体で見つかったからだった。これは、なにも探求心を誘発するようなセンセーショナルな謎があったわけではなく、酒を飲み過ぎて足を滑らせ、石造りの階段の角に頭をぶつけて死んだだけだった。
彼を殺したのは、不貞を働いたことに対して神が下した天誅でも何でもなく、頭を強く打ったことによる脳挫傷であったのだ。
そういった一幕を経て、リゼルキルトは生を受けたわけだが、母にとって彼は自分の過ちの具象化であり、父にとっては誰ともわからない男の子供であったのだ。
もちろん愛情など与えられることはなく、子供という識別子を与えてしまったから、仕方なく生かしている、というような状態だった。
故に、リゼルキルトは毒が混ぜられたパンを毎日食したし、それによってこれまで幾度もの吐瀉物を吐き、罵詈雑言を浴びせられ続けてきた。しかし、それでも彼は、自分が生きていてはいけない存在なのだという自罰的な考えには至らなかった。
その日、彼は両親の言いつけを破り、街に出た。
目的地は特になく、自分によくしてくれる教会にでも行こうと考えていただけだった。教会で出される温かいパンと冷たい水は、彼の希薄な人生の中の明確な楽しみの一つだった。
教会の門戸を叩き、しかし返ってこない声に違和感を覚える。それどころか、くぐもった狂乱の音が中から聞こえてくる。
閂はかかっていなかったので、そのまま入った。
教会の中には、全裸の男女がひしめきあっていた。
彼らは、各々に好きな相手を見つけて、淫行に耽り、そして相手を変え、あるいは自慰をして、また次の相手を見つけた。
彼らが蹴り倒したテーブルからは、杯が転がっており、そこから得体の知れない液体が流れていた。
なにか湿り、忌避感を覚えるような臭いが充満していて、リゼルキルトは踵を返した。肉と肉がぶつかり合う湿った音も、聞くに堪えなかった。
さて、行き場を無くしたリゼルキルトは、そのまま家まで帰り、久しぶりに見つけた銀髪の少女と言葉を交わした。
その時間は、少年にとって何よりも楽しいものであり、それは、温かいパンと冷たい水では到底太刀打ちできなかった。
翌日、リゼルキルトの家には火が放たれた。
もはや因果関係などリゼルキルトにとっては意味がなかったが、そこで放たれた火には少なからず意味があった。
村の人間は、まずリゼルキルトという少年が被った血縁の呪いに対して心を痛めていた。その上で、麦農家であるリゼルキルトの両親が教会に納品した麦の一部には、麦角に汚染されていたものが混入していた。
度々人々はそれについて麦農家の関与を疑っていて、仕入れ先を別の農家に移し始めていた。まだ、麦角という存在は知られていなかった。
首が回らなくなったリゼルキルトの両親は、麦角から作り出した粘性の液体を、食前酒として教会に納品し、狂乱する彼らの様子を知らしめることで脅迫しようとしたのだった。その考えの浅はかさは、村の住民に火を打たせることとなったが、それがなければリゼルキルトは生誕しなかったともいえる。浅はかな不貞が、彼を産んだ。
ともあれ、そんな経緯でリゼルキルトの両親は腹を穿たれ腕を切られ、生業としていた麦畑は焼かれることとなり、住処としていた小屋は爽快にも爆散することとなった。
その爆風に巻き込まれ、肺を破裂させたリゼルキルトは、燃える麦畑の中、セピア色の太陽に手を伸ばした。
「フラクタル……」
銀髪の妖精は、悲しそうな顔をした後、リゼルキルトの頬にキスをした。
「君、……が、……ぶじで、よかった……」
意識を失ったリゼルキルトを、妖精は介抱し、それに気付いた村人によってリゼルキルトは助け出された。
妖精はそして、リゼルキルトの両親の元まで、優雅に歩いて行った。それは、まるでランウェイでも歩くように堂々と、そして可憐に行われた。
翻った銀髪に、血まみれの手が伸びる。
虫の息だった矮小な人間を、妖精は炙った。
ひたすら、炙り続けた。皮膚が、筋肉が、血管が、組織が、内臓が、心臓が、体の芯まで、苦痛を指の先まで浸透させるように、灼き残しがないように、丹念に。どろどろに、ぐずぐずに、ぐにゅぐにゅに、ぐしゃぐしゃに、もはやそれが、人であったものだとはわからなくなるくらいに、灼き続けた。
麦畑を揺蕩い、ただ我儘な笑顔を浮かべるばかりであった静謐な表情には、そのときばかりは、純粋無垢な怒りがあり、そしてそれは、鬱積されたものであった。
最期、伸ばされた血まみれの手そのままに、炭のような死体はぼろりと崩れ去った。
リゼルキルトという少年が、その後教会で育てられたことも、まだ幼いながらそこを脱し、隣街に移り住んだことも、そこで死の商人と出逢い、ひと悶着あったことも、隣国に移住し、燻っていたことも、その妖精は知らなかった。
*
オトハ公園で煙草を吸っていたアステアは、呆れたような顔をする僕に一本勧めた。
僕はここに来る途中で無人になっていたコンビニエンスストアから拝借していたので、紺色のボックスから自分の煙草を取り出し、火だけアステアに借りた。ちゃんと六百エンは置いてきていた。
彼女が、吸っていた煙草の先を差し出してきたので、意図を察して火を移す。アステアの煙草がジジ、と発熱したから、彼女が息を吸ったのだと分かった。僕もその火種を育て、紫煙がゆっくりと立ち上った。
満足そうに微笑んだアステアは、僕とアステアの煙草の交じり合った煙に目をやられ、「んにゃ”ぁ!」と奇妙な鳴き声を上げていた。
「首尾はどうだ?」
僕とアステアのスーツは、互いにボロボロになっている。肌が露出するほどではない。
「ちゃんと殺った、ぴーす」
「そうか、ありがとな」
駅前の酷い惨状を見れば、モルヒネアとエミリアが大暴れし、その勝者がアステアだったことは一目瞭然だった。
互いに深く息を吸い、やがて二筋の紫煙が立ち上る。
あれだけ人がいたのに、今となっては動いている人間はほとんどいない。いたとして、立ち上がることができないような重傷者だけだ。それと死体。
「あなたの方は?」
「……マツシマを取り逃がした。あっちから仕掛けてきたんだ、僕もやるとこまでやってやらないと。」
煙草が燃焼し、白い紙巻部分がひらりと舞った。
ちらりと窺ったアステアは、そういうことを聞いたんじゃない、と眼でなによりも訴えていた。それくらい、最初からわかってはいた。
「ハナブサは……解放する運びとなった。」
「……ふふ、なにその言い方。でも、よかった。」
ぷふ、とリップノイズが挟まれて、「よかった」の先が寸断される。その間に、僕は考えを巡らせて、真意を知るためにアステアの表情を見た。
「死ななくて、よかった。」
本当に嬉しそうだった。眦を綻ばせ、旨そうに煙草を吸う。
彼女は、その顛末の詳細についてを知りたがらなかった。詮索してこないその態度こそ、僕がなにをも知られているという反証に思えて、居心地が悪かった。
「あの子が」
アステアの声色は、言いようのない親愛を孕んでいる。
「あの子が、閉じ込められた箱から解放されたとき。」
あの子───僕が反射的に想像した人物ではなく、ハナブサのことだろう。
彼女は、一度アステアによって誘拐されている。アステアが人気のない場所までどうやってハナブサを輸送したのか気になっていたが、僕に送られてきた写真を見る限り、箱を使ったのだろう。アステアは、そのときの話をしようとしている。
「いつか、話すんじゃなかったのか。」
「うん。いまが、いつか」
いつか、と、わざわざ迂遠な言い回しをしたのに、それが翌日を指していたとは。でも、わかる。それは、ハナブサの話であり、僕の話であり、マツシマの話であり、エンケファリンの話だ。いつか、という時間を指定しない語彙。しかし、それは時間以外の全ての条件を厳しく制約している。
それが、今なのだと、僕はわかった。
「大体半日くらい、あの子は箱の中に閉じ込められてた。怖かったと思う。わたしも、心が折れてたらどうしよ、って心配だった。でも、扉を開いたとき、差し込んだ光が、あの子の表情を照らしたとき、あの子は。
まだ、やれる。って、顔してた。
まだ生きてける。まだやれる。まだ戦える。そういう顔、してた。」
「あぁ、……そうか。」
「……眩しかったよ、ハナブサは。なんでだろ」
自嘲気味に、アステアは乾いた笑みを漏らした。
お前だって、似たようなものだろう、というのは、わざわざ言わなかった。人間は、自分の事には鈍感だ。そしてそれは、僕も同じことだった。
*
飛行機は東都国の滑走路に着陸し、静かにタキシングしてボーディングブリッジと接続した。荷棚から鞄とコートを取り出して、男はふと、窓の外を眺めた。東都人としては、何の変哲もない光景。規模は違えど、そういった空港は東都国の至る所にあった。
飛行機を下り、ターミナルの中を歩く。税関は、彼の本物の戸籍情報を裁く刑法を持たない。自分の家の扉を抜けるくらい気安く、男は東都国に侵入しえた。
タクシーに乗り込んで、とあるホテルを指定する。車内の温度に気を遣う運転手は、その具合を聞いた。男は短く「問題ないですよ。」と答えた。礼儀正しい運転手が腰を据える運転席の背もたれには、十五インチほどのディスプレイに、サイバーセキュリティの広告が流れている。
東都国の首都である東都を、タクシーは快適に走り抜けた。
多麻川に沿うように走るタクシーの車窓からは、小舟の係留設備が点在する一級河川の流れが現れては消えた。
巨大な河川敷は、多麻川緑地といわれ、ゴルフの打ちっぱなしやサッカーコート、野球場などが設置されている。そのふちをなぞるようにして、タクシーは国道十五号───第一京浜の本線に合流する。
東都 森蒲区と上那川県 神崎市を隔てる県境。その境界が具象化したように、多麻川は両県の境に横たわっている。そして、それを横切り、越境するのが、第一京浜が走る六郷橋であった。男が眺めた反対車線、それを裏付けるように、「上那川県」「神崎市」のカントリーサインが設置してあった。
男は、その場所になにも期待していなかった。
それは、東都国の裏社会が、世界のブラックマーケットに接続する場所として、なにか風が合わないように感じたからだった。男がそういった青写真を描くのは、専ら北九州を想定するものだった。
しかし、この六郷橋というモチーフは、男にとってなにか忘れ難いものを持っていて、どうにも嫌いきれない場所であった。自嘲した男を、若い運転手はルームミラー越し、不思議そうに見た。その橋は、三十五号線に似ていたのだ。
六郷橋を渡り終えると、タクシーは神社のある交差点を右折して入り組んだ一方通行ばかりの道を入っていった。一際大きな建物───目的のホテルの前に車を駐車させる。
長財布から紙幣を数枚渡して、男は釣りを断った。代わり、領収書を受け取った。ホテルのロビーに入り、自動チェックイン機でチェックインを済ませる。機械から吐き出されたルームキーを見て、エリンのスニッフィングにおあつらえ向きの形だな、とだけ思った。
部屋に荷物を置いて身軽になり、男はまだ明るい神崎を歩いた。
昼下がりの神崎は、夜のそれに比べて完成されている。整然と並べられた高層ビルと、その間を縫うように通されている片側三車線道路。歩道橋の柱に施されているグラフィティーアートも、愛嬌に見えるほどだった。
十分ほど歩いた男が辿り着いたのは、とあるストリップクラブだった。
店の前の道路に灰皿を据え付けていた初老の男が腰を折る。
二人はそこで一本分の会話を費やし、それで、火種を消したところで奥の部屋に招かれる。ホールではなく、控室だった。
今日演目を行う嬢の名前は、入り口の横にある反転フラップ式案内表示機に示してあった。といっても、反転フラップ式なのは見た目だけで、毎朝従業員がフラップを差し替えていた。
名前が書かれていた嬢のうち、もう三人が控室に揃っていた。男が控室に入るなり、衣装や小道具の準備をしていた嬢がめいめいに挨拶する。畏まった様子ではなく、どこか気安い様子だった。「どっか遊びいこーよー」と男の腕を引く嬢に無機質な微笑みを返し、差し入れのドーナツを渡してきた嬢に礼を言い、男が声をかけたのは、控室の奥でつまらなそうにLEDライト付きのメイクアップミラーを眺めていた嬢だった。
「いっつもありがとね、マツシマさん。」
「……いえ。いいんです。」
嬢の隣に腰かけ、男はただ、化粧をする嬢を眺めていた。
もう終わりかけだったのか、女は化粧道具を入れているのだろうポーチのジッパーを閉め、男に向けてにんまりと微笑んだ。
「どうですか?」
「……えぇ、綺麗です。」
その輝かしい笑顔に、男は眩しいものを見たように微笑んだ。光が照らし、故に、その表情には影が差した。
「次のシーズンは九州行くんです。よかったら、マツシマさんも見に来てね。あ、お金は要らないので……!」
「チップくらいは、払いに行きましょうかね。」
「ふふっ、言ったからね。マツシマさんにだけサービスしてあげる。だから、ちゃんと最前にいてくださいね。」
「えぇ。是非。そうだ」
男は思い出したように言った。
それは、親愛とも愛憎とも違い、性愛でもなく、友愛でもなかった。けれど、気安い調子で、なにか和やかな瞳で、男は言った。
「そのときは、私の知り合いも連れて行きますよ。」




