Ep.91『アルカロイドに眠る妖精』
高速艇はその後、驚くほどあっさりと、僕を東都まで送り届けた。初めて踏んだ九州の地は、一体それが何県に属する土地なのかもわからないのにやけに感慨深かった。これまでの密航の苦労を想えば当然か。
さすがに港に乗りつけることができるわけもなかったから、泳いでいけるような適当な場所で船から飛び降りて、あとは泳いだ。波が叩きつける岸壁を上るのは容易ではなかった───藻や海水でとにかく手が滑った───が、十メートルほどの道程だったので強引に登り切った。
またしても服は水浸しだったが、今度は血液や内臓から分泌された液体も付着している。早急に新しい服を見繕わなければならないだろう。
振り向いた海原。遥か先、シニカさえも超えた場所に、僕が旅立った場所がある。見たか、マツシマ。
とうとう僕は、あんたの妨害をすり抜けて、あんたのいた場所まで辿り着いて見せたぞ。
そして、この時点で僕を止められていないということは。
ブレーキ音が連なり、扉がばたばたと開けられる。騒がしいスーツの連中が僕を取り囲み、各々が拳銃型MSCSの銃口を僕に向けた。
勿体ぶって降りてきた男に、僕もアンタゴニストの銃口を向けた。
「遅かったなぁ、リゼルキルト。」
その老躯は、ニヤついた笑みで言った。
松島巽───マツシマの父親にして、東都国の諜報機関『龍見機関』を率いる男。
そして───この世界に、魔法をもたらした男だった。
*
「僕もスーツじゃないと駄目か?」
「あぁ?やっぱギャングの親玉になると、もっと派手なやつがいいのか?」
差し出されたワイシャツと真っ黒のジャケット、ネクタイ、その他諸々。黒一色のそれは、むしろ人目を惹きそうで憚られれた。
そんな僕の機微についてを、タツミは全く感じ取らなかったようだ。ギャングではなくカルテルだ、と訂正を口にするのも馬鹿らしかった。
無言を抗議として、血まみれのシャツを脱いでワイシャツを着た。ボタンを留めて、襟を立てる。真っ黒だと思っていたネクタイは、微かにカーボン調の模様が差されていて、まさかと思って裏面のタグを見る。
「タリャーリナのブランドじゃないか」
「全員それだ。いいだろ?」
腐っても諜報機関なのだから、そこは地元のもので揃えてやれよ。もちろん、そう思ったことを口には出さなかった。
ため息を吐きながら作ったネクタイの輪に長剣を差し込み、長さを整えて襟を戻す。後部座席に座りながらではやりづらかったがズボンも履き替えて、ベルトを通す。クリーニングしたてなのかおろしたてなのか、やけに着心地がよかった。真ん前の運転席の下にショルダーホルスターが落ちていたから、タツミに断って装着する。拳銃型MSCSを差しておく。
ジャケットを羽織って具合を確認したが、専用のものではないからか、見る者が見れば膨らみで気取られるような出来だった。
「この国でわかるような奴なんざいないさ」
あっけからんと言ったタツミの言葉に、改めて突きつけられる。本当に、幸運な国だ。
「それにしても、やっぱ似合うな、リゼルキルト。人殺しそうな目がぴったりだ。」
「あぁ、それはどうも。あんたほど似合っちゃいないだろうけどな。」
僕とこいつが殺した量。多分とんとんなんじゃないだろうか。僕は加速度的に暴力を撒き散らしたが、こいつはコツコツと戦争屋をやってきたわけで、そんな奴に人を殺しそうだなんて評されるのは心外だった。もう七、八十に差し掛かるくらいのはずなのに、どこにそんな元気を隠し持っているのか、タツミは精力に富んだ瞳をしていた。
龍見機関───大陸戦争時、重火器類をシニカに売りつけ、それを戦費に軍拡を行った東都の極秘諜報機関。そして恐らく、そこで違法薬物の元祖ともなる薬も取り扱った。古の国営カルテルのボスだった男。
戦争が終結し、アメリクスからの統治時代も終わりを迎えたこの国で、しかし龍見機関は終わらなかった。一度は特級戦犯として洲模プリズンに囚われたタツミも、アメリクス統治が終わった段階で国からの恩赦を受けて釈放───リクルートされた。機関誌や組織図には決して載らない、白書も発行しない。合法的な領域には絶対に姿を現さない極秘諜報機関。
この国がこんな有様なのも納得だった。世界の中で、あのアメリクスをも差し置いて魔法の全権を握っているのは、この国なのだ。
この国が、龍見機関が、松島巽が、全ての妖精を、あの宇宙の牢獄に閉じ込めた。
「あんたの息子は、あそこに閉じ込められている奴にお熱だそうだ。」
「それはお前も同じだろ?」
「あぁ、だが僕の目的はフラクタルだけだ。あのエンケファリンとかいう妖精まで解き放ってやろうとは思ってない。魔法がこの世界から消えるのは、僕だって困る。」
「おぉ、そりゃあそうだ。まぁ、身内のことは身内が、ってことで」
身内───親縁、つまりはマツシマとの親子関係についてを、こいつは言っているのだろうか。
「違うだろう。あんたは、あの繋がりから弾き出された。」
「……言うねぇ、死刑執行人風情が。」
松島四郎、松島巽、松島甫。
一代目のファミリアのボス、オース、バルデリーニ。
しかし、松島巽だけは、その継承の中から弾き出された。いや、そこに組み込まれようとしなかった。これは、松島四郎が松島甫に繋ぎ、そしてファミリアが僕を生み出したという物語だ。そこに、松島巽は介入の余地がない。物語のラストボス以外の役割は。
「甫が、んな大物になるなんて、俺は思ってなかったよ。面白れぇじゃねぇか。けどよ、やろうとしてることは看過できない。機関としても、俺としてもな。」
「まぁ、協力してくれるならなんでもいいさ。僕はフラクタルを解放する。あんたが単離したんだろ?」
「あー、っと……麦角アルカロイドから出てきたやつだったか?熱量操作系の魔法の原典だ。そんな名前だったか?」
「さぁな、彼女をそう呼んだら応答があるから、そう呼んでいただけだ。」
かつて行われた、アルカロイドからの人格の単離。ファミリアは、全ての魔法の管制機足るエンケファリンを生み出した。しかし、それ以外の妖精を単離したのは龍見機関だった。
そして、彼らはそれを、全てまとめて宇宙の彼方に置き去りにしてきた。地球から放たれた光振動波だけが、そこにいるエンケファリンと交信し、エンケファリンと接続したそれぞれの妖精が、魔法効果を持った魔素偏光を地球に返す。MSCSに照準が必要な理由だった。
エンケファリンは、MSCSに欠けてはならない中央処理装置。しかし、フラクタルはそこまでの中枢部品ではない。所詮末端として彼女を使っている時点で、ナンセンスなシステムだ。そんな奴らに彼女を所有させてやる気は毛頭ない。今後、世界から熱量操作系とかいう魔法が消えたとしても、他の妖精が代替するだろう。しなかったとしても僕には関係ない。
「どうして、彼女は僕のところに顕れたんだと思う?」
「意外とセンチメンタルなんだな。」
無視して窓の外を眺めていると、ため息を吐いてタツミは大人しく話し始めた。
「適合者にならずとも、適合者になり得る奴は、あれが見えるようになることが多い。基原植物に触れていた覚えがないか?」
脳裏、過る、麦畑。
なるほど、そうじゃないかとは思っていたが、僕はやはり麦角アルカロイドを幼い頃から摂取していたわけか。
陥没し、切断され、生きたまま解体された両親の、断末魔の声を思い出した。
「妖精は、あの場所に閉じ込められているからか、自分の仮想体を地球に飛ばすようになった。適合者が連れている妖精は、現時点で全てオリジナルではない。」
「オリジナルはずっと、あの空の彼方にいる。」
「そうだぜ、もう何十年とな。」
僕が大した屈託を見せなかったから、タツミはつまらなそうに脚を組んだ。
トレスが僕に語った、カルテルの継承秘話。マツシマの血脈についても触れるそれは、きっと言葉足らずだった。しかし、僕はそのピースを自分で埋められないほど無能じゃなかった。
魔法の原理、妖精の在処、それが、どこに眠っているのか。僕はもう大方理解してしまっていた。オースが二代目のボスだったというのは、完全に盲点を突かれたという所だったが。ロス・アンタニオスをああも御している手腕は、ファミリア由来の物だったわけだ。
「甫は、もうわかっていると思うぜ。」
タツミは、脈絡もなくそう言った。僕とそう変わらない目線が、僕ではなく、僕を通して何かを見ていた。
「MSCSは、全てあのナイフの贋作だ。エンケファリンのお嬢様は、んなもんに執着しねぇ。あいつが全ての処理能力を注ぎ込むのは、あのナイフからの信号だけだ。」
「……あぁ。」
「あの棺は、エンケファリンの庭だ。そこに飼われてる妖精たちもな。そして、MSCSは必ず、エンケファリンを中継する。意味、わかるか?」
「わかるさ。だから僕は、それを王位と呼んだ。」
ファミリア・ナイフは、全地球の全ての魔法を管制する。
MSCSを用いて行われる攻撃の所有権は、ファミリア・ナイフの持ち主のものだ。その魔法を発動させた演算機械は、ファミリア・ナイフに宿っているといって過言ではないのだから。
全ての魔法を管制するシステム。それは、もう誰も、ファミリア・ナイフに魔法を命中させないということだ。それは、ファミリア・ナイフを介して、全ての魔法を放つことができるということだ。
カートリッジの換装ができない。マツシマは、ファミリア・ナイフのその仕様を、さも欠陥であるかのように言った。冗談じゃない。換装できないのではない。換装する必要がないのだ。
恐ろしい力だ。誰かが個人で得ていい力じゃない。だから、
「僕が手にするべきだ。」
この世界の王となり、彼女を連れ戻す。そのための、圧倒的な力。
そのナイフの持ち主は、空席の王位に座るつもりがない。そのナイフを持っていながら、その冠を手にしていながら、その玉座に触れていながら、それを、なにもかもぶち壊そうとしている。その玉座は、僕が占めるべきだ。
「お前ほど傲慢な男を、俺ぁ一人しか知らねぇぜ。」
「他人の空似だろうな。」
「あぁ、俺の父親ん話だ。」
「ぞっとする。」
タツミは、深い、深い、淀んだ瞳をしていた。けれどそれが、恐ろしく鮮明にその眼を浮かび上がらせた。
彼は僕に、一体、どんなものを仮託した?
「二日後の繰芽、麦畑に棺を下ろす。そこで決着をつけろ。甫を殺して、お姫様を助け出してやれ。そして、ファミリア・ナイフを奪還しろ。俺たちが管理する。」
「マツシマは来ると思うか?」
「来る。絶対に。こんなチャンスは無ぇからな。お前を急に裏切ったのも、自分がまだ辿り着けねぇって悟っちまったからだろ。」
車窓の景色が黒に切り替わる。規則的なオレンジ色の灯火が視界の端を駆け抜けていく。
静かだった。エンジン音はほとんど聞こえない。
「お前にピッタリな名前を思いついた。」
「言ってみろ。アメリクス中央情報局に、今後僕をそう呼ぶように申し入れる。」
僕が気を遣って冗談を言ってやったのに、タツミは失笑すら漏らさなかった。ただ、間髪入れずにこう言った。
「魔薬王。」
*
「この先がフクオカか?」
「あ?もう県境は通り過ぎたよ。」
最後は何とも楽なものだったが、僕はようやっと、フクオカに辿り着いていた。
「どうしてここだったんだ?やっぱ密入国の都合か?」
タツミが言ったのは、なぜフクオカだったのか、という話だ。確かに、シニカを経由して密航するのに、九州という土地は格好の場所だった。北九州のあたりのルートだったら、SSTと一戦交えなくてもよかったかもしれない。
しかし、それだけでは理由が足りない。
「マツシマのことを、僕は結構評価してるんだよ。あぁ、ハジメの方を。」
姓が同じ奴を相手にするというのは中々面倒くさい。僕の目の前にいるタツミもマツシマだし、僕が今まで呼んできたマツシマもマツシマなのだ。そのファーストネームは、ついこの間初めて知ったものだが。
「最初から、奴と真っ向勝負するつもりはない。」
「ほぉ?グランナダラ・カルテルと一騎打ちをやったお前でも、か?」
「よく知ってるな。同じくらいの熱量で、息子のことも見てやったらいい。食えない男だ、マツシマ・ハジメという男は。」
「ありがとな、父親として感謝するぜ。」
僕の皮肉は簡単に弾かれてしまった。今更こいつに何かが通じるとは思っていなかったが。
「んで、俺の息子に、どんな汚い手を使うつもりだ?」
「奴が僕にやろうとしたことだよ。そのための要素が、どうやらフクオカに移動していたから、僕らもそこに追従したまでだ。」
タツミはわかっているのかいないのか、ニヤニヤと僕を見つめてきた。
その老獪に、僕は精一杯の悪い顔を作って応えてやった。
「人質だよ。」
*
『リゼルキルトくん、計画していた東都国の島を買い上げる話なんだけれど、……』
「あぁ、どうした。」
人の波の中、国際電話でも通話の音質は快適だった。機関は駅に近いホテルを用意してくれていたから、チェックアウトして市場調査がてら出てきていたのであった。今後この国に魔薬を流通させることはリゼルキルト・カルテルとしてはできない契約だ。
しかし、異憲章をもってすればアメリクス大陸のカルテルは僕に隷属も同然だ。やり方はいくらでもある。
駅の中にあった土産屋に入る。東都語は話せるが、文字は読めなかった。こんな奇怪な形の文字を千文字以上常用しているとは、こいつらは薬物を際限なく求める薬物中毒者と同じで、複雑な文字情報を求めるジャンキーなのだろう。
『あんまりにもあっさりと手配がすんじゃった挙句、あっちが』
「龍見機関か。」
『えっ、なんで知ってるの?』
「すまん。君と共有しているストレージを漁った。僕と龍見機関の間で、随分前から取引は成立している。この街でも、この作戦でも、彼らのバックアップがある。あくまで奴らは東都の機関だから、君たちは油断しないでくれよ。」
『え、えぇ……』
黄色の暖色がなにか魅力的に見えて、精々異文化交流に勤しんでおこうと土産物の一つを手に取った。昼間っから盛況な駅の中でも、レジは空いていた。僕の容姿を見て何も話しかけてこなかった店員は、そそくさと商品をスキャンして金額を出した。
「それで、人質の方はどうだ。」
『アタシの部下が上手くやったわぁ……!ちゃんとフクオカに届くように手配済みよ。待ち合わせ場所、送っておくわぁ』
駅の地下にあるコインロッカーに用意させた財布やマネークリップ、端末の類は、先ほど回収済みだった。財布の中に入っていた紙幣を片手で取り出すのが億劫で、マネークリップからクレジットカードを引き抜いた。セスタの妄執ともいえる小細工により、僕の名前が完全に匿名化されたものだった。
「近いな。」
『……あっちからの指示よ、行ったら理由がわかるわ……』
何故かげっそりとし始めたセスタの含むところがよくわからない。決済を済ませ、賞味期限の案内を半ばで切り上げて紙袋を掴んだ。
民生品の地図アプリを使ったが、僕がいる側の出口から出て二分ほど歩けば辿りつける公園が待ち合わせ場所だった。そういえば、人質はキャリーケースやコンテナで昏倒した状態で送られてくるのではなかったか。白昼堂々人身売買の真似事を公園でやれというのは、東都国のスタンダードからすれば随分乱暴なように思える。
まさか、セスタも僕のようにくだらない常識を気にしなくなったのだろうか。
『それと、リゼルキルトくん。そっちで換金はできそう?』
「まぁ、機関に言えば多少は融通してくれそうなものだが、やつらも裏とはいえ政府機関だからな」
そういった機関の予算が足りないのはDEA、CIM、IMFT等々実例に事欠かない。
「メルに悪知恵を吹き込まれたんでな。それでなんとかするよ。」
『宝石?』
「あぁ。拳銃型の内部のデッドスペースにダイヤを隠してくれた。奴らがやってた密輸方法らしい。まさか、MSCSを分解できるような奴が、検問にいるはずもないからな。まぁ、銃規制についてはご愛嬌という感じだが。」
『……血塗られたダイヤモンドじゃないでしょうね』
「大正解だ。」
『保証書がないなら、どこも換金してくれないわよ』
「そこまで織り込み済みで、倫理観の緩い裏社会産業をレクチャーしてくれたよ。」
『……仲良しなのねっ、じゃあ、頑張ってっ!』
何か一つオチをつけないと電話を切ることができないのだろうか。彼女は端末で通話するから、受話器を叩きつける音が響かなかったことには感謝しておいた。それに、退屈な道中を彩ってくれたことにも。
───オトハ公園。
金券ショップの前の横断歩道を渡ると、ビル群に埋没した公園があった。アメリクス大陸のものからすれば小ぶりだが、この国の中で、それも都市の中に在るものとしては中々立派だったかもしれない。わけのわからないオブジェクトを抜けて歩いた先、僕は小さく息を呑んだ。
もうそれは火事なんじゃないかというくらいに煙を立ち上らせる喫煙所の灰皿の横、真っ黒のスーツを着た女が立っている。
「遅かったね、リゼルキルト。」
アステア・グルクロニドが、そこに居る。
*
久しぶりの再会を噛み締めるように、僕の隣に座って頬を預けてきたアステアは、ゆっくりと紫煙を立ち上らせた。セスタの言っていたことの意味がよくわかった。喫煙所のある場所を指定したのだ。まさか彼女が喫煙場所に配慮というものができるとは思ってはいなかったが、その疑問については人質が説明してくれた。
「普通にうちの国、もう喫煙者少数派ですからね。こっちで歩き煙草なんてしたら職質されちゃうし。アステアさん、ID見せられないから危ないじゃないですか。」
光を灯したディスプレイが装着された棒、そこから飛び出したフィルターを吸って、女は煙と一緒にそう吐き出した。
「それ、一体なんなんだ。」
アステアとこいつの喫煙タイムを待っているのが億劫だったので、僕もアステアから一本拝借して火をつけた。アステアのオイルライターは手入れが行き届いているのか、やけに火がつけやすい。
「電子タバコですけど……最近こっちに乗り換える人、多いんですよ。」
「そうか……メヒクトでも流行るなら、使えるかもしれないな。」
煙草だとか酒だとか違法薬物だとか、アルカロイドが関わった途端にそれが商機に見えてしまうのは、職業柄仕方がないだろうか。どうにも、セスタに触発されている気がしてならない。
ふぅ……、と煙を吐く。貰っておいて悪いが、マツシマに勧められた銘柄の方が旨かった。
「それで、あんたは人質だってのに随分堂々としてるんだな、ハナブサ・スズ。」
肩のあたりでばっさりと切った白髪。何色ともいえないような色味が見えるのはセスタの髪色に似ているが、彼女ほど綺麗ではなかった。脱色されたことによる不自然さを消すには至らない。が、美しい女だと思った。
「まぁ……別に、私はここに着ければなんでもよかったので。」
マツシマが魅了されるのもわかる、と評するのが、この女を最も端的に表すだろう。
───上那川県神崎市、マツシマと訪れたストリップクラブが、彼女との初めての遭遇だった。
以降、マツシマの金は、あのストリップクラブに流れている。最前線ではあるが、前哨基地ではない。マツシマの言葉がフラッシュバックする。
しかし、マツシマはもうエンケファリンに熱を上げている。それ以外に女の気配を見せたこともない彼が、同種とはいえ一度見ただけの女に惚れこむとは思わなかった。その美貌をもってしても。
ただ、その金の流れは彼女の属性と強く絡み合って、そしてその結束が、マツシマの急所に接続する。
このエリンの適合者は、マツシマの弱点になる。
だというのに。
「それに、アステアさんと一週間も旅行できたし。ですよねっ」
「ん。おんせん、また行きたい。」
アステアも、拙いながら東都語を習得している。前に会った時からすれば飛躍的な進歩だ。ハナブサとの同行が効いたのだろうか。
人質の女にやけに懐かれてしまったアステアは、満更でもなさそうに端末の画面を向けてくる。やかましい解説はハナブサからだった。
「最初は、東都から上って温泉入りに行ったんですよ。あそこの大浴場、めっちゃよかったですよね。」
「うん。天井の木組みが綺麗だった。今度、一緒に行こ?」
見せつけられたのは浴衣を着た目麗しい少女二人が、餃子を食べながらピースサインを掲げている写真だった。もちろん、アステアの前のテーブルには灰皿が置かれていた。
きゃっきゃと姦しく思い出を語るこいつらの凄まじいところは、密入国のアステアが飛行機を使えないので新幹線や鉄道を使ってフクオカに向かう道程であることを承知したうえで、その第一日目に九州から真逆の方向に行脚したことだ。これは下る旅程なんだ。何故上って、なんて言葉が出てくるのか。
「でぇ、一旦神崎に帰ったんですよ。アステアさんとうちでお泊まりして、ハンバーグ食べに行ったんですよね。」
「あなたも食べるべき。今度、一緒に行こうね。」
僕はもう投げかける言葉を失っていて、遠い目で煙草を吸うだけだった。
ハンバーグを口に含んで目を輝かせているアステアの写真は中々に見ものだったが、僕はステーキの方が好みだった。
「あ、このときめっちゃ待ったからアステアさんが煙草吸おうとして!」
「だって、一時間も待つと思わなかったから。」
「でも時間潰すために入ったカフェ、めっちゃよかったですよね。煙草吸えたし」
「西都もよかった。お酒、あんまり飲まないけど、あそこは楽しかった。」
「私もですっ、昼から飲んでもいい!って感じで……!どて焼き、久々に食べたなぁ」
「あと湖もすごかった。」
「わざわざ戻りましたもんねぇ……近江湖、東都で一番デカい湖なんですよ」
「最後に行ったお城もよかった。東都がやってた拠点防衛戦、興味ある。」
「で、移動したらめっちゃ雨降ったじゃないですかぁ……!ここまであとちょっとだったから、どうせなら市場でお寿司でも食べてから来たかったのに」
「でも、駅の小さなうどん屋さん、美味しかった。」
「あ!わかりますっ、普段あんなとこ入らないから……あ、アステアさんが麺啜れなかったのも可愛かったです」
「っ、あれは……初めてだったから」
僕はもうフィルターを半ばまで吸っていたから喉がいがらっぽくて仕方なかったが、誘拐犯と被害者の奇妙なタッグが繰り出してくる各地での記念撮影写真を見る係を仰せつかっていたので、さぁ行こうか、と言い出せなかった。
随分と東都を満喫したらしいアステアは、前から東都国に興味があるような素振りを見せていた。僕がやったような苛酷な密航を彼女がせずにすんだだけでなく、その好奇心すら満たせたのなら、ハナブサの生意気さにも愛嬌が見えてくるというものだった。
「それで、気になったんだが」
吸殻を棄てて靴裏で踏みつぶした僕に、ハナブサは少しばかり顔を顰めた。仕方なくそれを拾って続ける。
「なんでお前たちも黒スーツなんだ。」
「お洒落じゃないですか。漫才とかバンドとか、やっぱスーツだし。」
「セスタもマツシマも。あなたもスーツ、よく着てるし。会合に出てた人たちもみんな。」
東都のエンターテイナーを中央アメリクスの魔薬カルテル関係者と並べて語ることへの屈託は、努めて無視した。
「あなたが手配したんじゃないの?」
「いや、僕じゃない。なら、まぁタツミの奴か。」
服を脱ぐことにかけて天賦の才を持つ女は、服を着ることについても相応にポリシーがあるらしく、水を向けられたアステアのネクタイを神経質に直した。パンツスタイル、しかもレディースではないものにしたのはタツミの性癖だろうか。手放しで褒めてやるつもりはないが、中々いいセンスだった。
アステアのが終わったら次は自分だったようで、ハナブサは端末の画面に反射する自分の前髪を正し、緩んでいたネクタイをきゅっと絞った。ふわふわした印象の女だが、それを覆い隠す黒は、それをどこかミステリアスな揺らぎに昇華させている。
「好きなんです。いろんな服着るの。でも、こういうのは初めてだったから、結構新鮮。ちょっと窮屈ですけど、私も裏社会の大物!みたいに偽装できてるんじゃないですか?」
残念ながら全く持ってコスチュームにしか見えないが、しかし服とは元来そういう用途のためにあるのだろう。
内在したなにかを覆い隠し、絶望的な被写界深度しか持たない人間の視線を屈折させて、姿を偽る。そしてそうした作用が、やがて精神にまで伝播して、神秘性と共に本質は被覆され、埋葬される。
ふと、エンケファリンを被覆する棺についてを想った。或る魔薬ではなく、魔薬───アルカロイドという存在そのものの具象化とも言える彼女は、あの空の彼方、棺に埋葬された。そして、彼女が魔薬の具象化であるように、魔薬も彼女の具象化として振舞った。
ファミリアによって生み出された、解き放たれた魔薬は、MSCSの登場によって歴史の狭間に埋葬された。僕とマツシマは、それを再び解き放ったのだ。
魔薬は復権した。では、エンケファリンは───マツシマは、そう考えただろう。
次は、彼女を解き放つ、と。
「リゼルキルト」
ホテルにチェックインして、街並みを眺めていたときだった。
細い腕が僕を拘束して、いや抱擁して、背中で彼女の吐息の感触を覚えた。
「あの子が目を覚ましたときの話、」
あの子、とはハナブサを指すのだろう。自然と、アステアと同室でないことを嘆いていた少女───隣室───の方を向いていた。
「いつか、あなたに聞かせるね。」
「どうして……」
「きっと。マツシマのことがわかるはず。あなたのことがわかるはず。」
僕は、自分のことがわからないような馬鹿じゃない、というのは、アステアや、セスタ達には絶対に口にできない言葉だった。
そうやって彼女たちを振り回してきた過去は、確かに今この瞬間に繋がっている。だから、遡行すれば、必ずそこに過去はある。
ゆっくりと彼女の腕を解き、向かい合った。
いつもより綻んだ表情。僕以外には滅多に感情を見せない彼女が、僕にはそうやって、安らいだような微笑みを向けてくれる。思わずその頬に触れたのを、思わず口づけしてしまったのを、きっと誰も責められはしないだろう。
「ふふっ……甘いやつだ。」
「あぁ、甘いやつだ。」
こんな昼間っから舌を絡ませ合っていては、色情魔だと思われかねない。
「似合ってるよ、黒。」
アステアのスーツは、僕のものと同質の色味を持ったものだった。用意した奴が同じなのだから当たり前だが、不思議なもので、彼女がそれを纏っていると何か違う記憶が喚起されるように思えた。そう、あれは───。
アステアのネクタイを解き、するりと地面に投げておいた。僕がブラウスのボタンを上から外したから、アステアは下から外した。互いの手がぶつかったところで、彼女の真っ白の裸身が、黒を裂くように現れる。あのときは下着を着けていなかったが、そう変わらなかった。
初めて、君の姿を見たとき。
真っ黒に淀み、死と瘴気が蔓延していた。誰もがその黒を纏い、絶望の淵、武器に呪いを仮託し続けていた。
しかし彼女だけは、自らでその咎を背負った。自らを魔法に変えた。あの深い黒を纏いながら、それが切り裂かれた場所に、この真っ白の肌があった。
僕はそれが、闇の中で輝いている希望に見えたんだ。
彼女をどんなものが被膜しても、僕は必ずそれを切り拓く。そこに、どれほど眩しいものが埋没しているのか、知っているから。知ってしまったから、求めたから、放したくないから、触れていたいから。それを、美しいと思ったから。
「メルが、美しいものには、超越性があると言ったことがあった。」
「……キスした女の前で、別の女の話……?」
じと、と淀んだ瞳が僕を視る。マゾヒストではなかったから、そこに光は見出せなかった。
「君が全くそれだと思っただけだ。別に、嫉妬させようとしたわけじゃない。」
君は、眩しいものをその身体の中にたくさん詰め込んでいて、それは、死と憎悪の病に侵されることがなかった。彼女を被膜していた何もかもが黒く淀んだとしても、その中身だけは腐らなかった。
君たちは、アルカロイドに眠る妖精に、よく似ている。
アルカロイドという被膜から解き放たれた彼女たちは、純真無垢な輝きを持っていて、それは僕を眩ませる。しかし、君たちはアルカロイドから生まれたわけではない。フラクタルを美しいと思う僕の感性と、君たちを美しいと思う僕の感性。それは、不可分でありながら、決定的に違う作動機序を辿っている。
「やっぱり、今からシちゃおうよ……」
頬を紅潮させたアステアは、僕がシリアスな話をしたというのに色気もなにもない誘い文句を放った。
甘く、蕩けるような声音だった。じんわりと滲んだ欲望が、言葉の輪郭をぼやけさせる。呼吸の間隙を埋める。でも、僕はそれが逆にどこまでも尊く見えて、欲求は超越されてしまった。
「もっと落ち着いてからな。それに、まだ昼間だ。さぁ、煙草でも吸おう。さっき買ったお菓子もある。コーヒーも淹れる。」
不服そうなアステアは、頬を膨らませながら僕の肩を叩いた。ぽす、と音がつくような、甘やかな感触だった。
なんの当てつけか、アステアは存外大きな胸を僕に突き出して、ボタンを留めろと要求した。さっきの逆回しで二人でボタンを留めて、ネクタイを締めるのは僕の役割だった。彼女は自分で結べないらしい。
だだっ広いテーブルを囲み、僕らはコーヒーメーカーから抽出したコーヒーを飲んだ。二人で煙草を吸い、何気ない話をした。
沈黙が落ちて、なんとなくアステアの方を見る。首を傾けたアステアが、瞳だけで応じる。




