Ep.89『100mgの誘惑』
キツィリト連邦は、零落の危機にあった。
独裁者同士の大戦で疲弊した国力を、全体主義で持ち直し、資本主義の帝王足るアメリクス合衆国と比肩するほどの国力を取り戻したあとで、そのツケが回ってきたのである。そして、そういう時機を、僕らのような人間は待っている。
キツィリト連邦の前身であるルーシ公国には、アメリクス大陸の魔薬市場や東都国の広域犯罪組織、あるいはシニカの黒社会と同じように、犯罪組織の系譜があった。彼らは闇に潜んでいた。
暗殺と窃盗、闇に紛れた物品や命までをも呑み干し続けた。それが犯罪組織、ひいては裏社会を形成するまでに、そう時間はかからなかった。
そして、全体主義国家にありがちな顛末に陥る。つまりは、実社会が裏の権力によって支えられるという構造である。それだけならブラウ連邦共和国と変わらないが、キツィリトはその規模が規格外だった。現在、地球上に存在する国家の中で、最も広大な国土面積を持つキツィリト連邦は、その人口も膨大で、それ故に埋没していた利権も膨大であった。
今の連邦政府の八割が、キツィリトの犯罪組織に影響を受けていると算出する統計もある。
国際社会で言えば、彼らはもちろん東側に属する。東西を分かつ世界情勢の中で、明確に東側───共産主義国家───に属する国はそう多くない。故に、秘密裏な結束を余儀なくされる。
シニカ、キツィリト連邦、そして、ノースオブコウライ民主主義人民共和国(DPNK)。
正式な国家として承認しないケースもあるヘゲモニー政党制国家で、コウライ民国と国境線を接し、軍事境界線を持つ。
キツィリトとの蜜月の関係性は、もはや公然の秘密であった。
キツィリト連邦の犯罪組織が流通させ始めたチープ・ヘイロー・ドラッグ『アリゲーター』は、デソモルヒネを合成した薬物で、材料にバッテリー液だとか灯油が入っていると聞いたときは耳を疑ったものだが、売れ行きは存外好調だ。もちろんブラウ側にあるカルテルでも取り扱いがあった。
そのルートを通じて、僕はDPNKにコンタクトを取った。DPNKには裏社会が存在しない。あるとすれば、それが実社会である。なにせ、半ば放置しているがリゼルキルト・カルテルのアンプヘルタ精製工場は、彼らの国営事業だ。
なにかに使えるかもしれないと思って利権を貸し付けていた甲斐があった。薄くなってきた酸素を誤魔化すために、ロキの歯を噛んだ。エリンには遠く及ばないエクィセイナ・アルカロイドが、血中酸素濃度を引き上げる。
「六月五日……あぁ、これ時差も考慮しないといけないのか面倒くさい。あっちの国の基準ならいつになるんだ?」
クソ狭い金属製タンクの中、皮膚を削りながら顔の前に持ってきた端末の画面には、座標情報と日時、弾着地点を示したメールが表示されていた。匿名性が高く、犯罪組織御用達の通信システムを使っていた。
がご、とくぐもった音がして、タンクが揺れた。鋼鉄の向こう側で、慌てたような男たちの声が二言、三言聞こえて、すぐに静かになる。当然か。僕らは今、大海原の中を、お粗末な潜水艇で移動しているのだから。
僕らというと語弊があるか。僕はあくまで積み荷。彼らが運ぶヘイローのタンクの中の一つに紛れ込んでいるだけなのだから。
航行は大体三日続き、一度シニカで陸揚げされる。もちろん、黒社会の中心地で。
奇を衒ったような策は、マツシマに予測されやすいという弱点があるが、目的の東都国に最も手っ取り早く近づけるという利点もある。
タンクはあくまで”荷物”として扱われる。船員も、このタンクに僕が潜んでいることは知らなかった。
窮屈な姿勢を動かすこともままならないような閉所、飲まず食わずで三日を過ごすというのはそこそこに堪える。だが、それよりも辛いのが排泄だった。タンクは限りなく密閉されていて、排泄の必要に駆られればそのまま垂れ流すしかない。
もう二日はこうして過ごしているから、タンクの足元には尿が溜まっている。異臭は割とすぐに慣れて、むしろ虫がたかったりしないのでこの密閉空間に感謝したいくらいだった。
シニカまで、あと一日。
意識的に感じ取れるのは、脱水症状による諸症状だった。頭痛は昨日から目を覚ます度に酷くなっているし、視界のフォーカスはぶっ壊れたのでさっきから顔をこれでもかとしかめながら端末を睨んでいる。思わず嘔吐したのはもう何度とも知れないが、タンクの中に吐瀉物が撒き散らされるのは避けたかったからなんとか飲み込んでいた。
空腹はあまりに過ぎると痛みを伴うらしく、脇腹のあたりにある内臓は、もう何時間もキリキリと痛んでいる。もしここに致死量のヘイローがあったら、皮下注射の誘惑に勝てただろうか。
脳裏、別れ際のエンタクトの言葉がフラッシュバックする。
胃液の混じった唾を吐き棄てる。
しおれた指先を画面に這わせる。
頭はずっと、考えている。
意識は限りなく無に近かった。
そうして考えているのだから、もちろん思考は自律しているのだが、どうにも白昼夢の気がある。ニュートラルな意識が狂気に片足を突っ込んでいる。眼球のISO感度がぶっ壊れてしまったみたいで、視界に映るタンクの全てが極限まで白飛びしていて、濃ゆい色彩の輪郭しか認識できなかった。
ゆっくりと、タンクが積み下ろされる。
意識が飛ぶ。舌を噛んだ。自分にも加減ができないのか、鋭い痛みが脳を覚醒させたが、思っていた以上に血が出て喉奥で奇妙な水音が鳴った。吐き出してみたら大した量じゃなかった。
あと少し、あと少しと意識を覚醒させ続け、発狂しそうになる精神を調律し続けた。
それから、体感で一日───所詮五時間程度だっただろうが───ブレードが高速で回転する音が聞こえた。
キュルキュルという風切り音がやがて鋼鉄を切り裂く硬質の音に変わり、その残響が遠く遠く延びていった。
タンクの上部が開けられ、おそらくは男が覗き込んでくる。目が合ったんだろうけど、僕はよく見えてなかった。
「うわ……ひでぇ有様ですな、旦那。」
鼻をつまんだままの間抜けな声で、男は僕を引っ張り上げた。
トラックに乗せられたコンテナの中。僕は久しぶりに身体を自分の好きなように動かせた。
血液と吐瀉物の汁と尿によってカピカピになったシャツをめくった。筋肉が目に見えて減っているのは想定内だったが、脇腹から下腹部にかけてぬけている青紫色の痣は、原因がなんなのかよくわからなかった。無理な姿勢を維持し続けられてしまった故の病状か、痛覚以外に支障はなかったから無視した。
「出発しますが、いいですか?旦那。」
「いや、ルートを変える。」
右耳は耳鳴りが酷かったから、頭を傾けて男の声を聞いた。
端末の画面を眼球から数センチのところで凝視して、暗号通貨を送金した。
「報酬はそのままやるから、あとは好きにしてくれ。」
「いや、俺ぁ、いいけどさぁ……」
「なんだ?」
振り向いた僕に、男は媚びへつらうような笑みを浮かべていた。
「新しい服と水、持ってきやしょうか」
二百CCの水を注意深く飲んで、服を全て脱いだ。プラスチックのタンクの中に入っていた残りの水は全部頭から被って、タオルで簡単に拭き取る。男が用意した服は、彼の使い古しだと言っていたが、僕がさっきまで着ていたものと比べたらクリーニング直後のようなものだ。
正直動けるような状態じゃなかったが、あまり弱みを見せればいつ正体が見破られるかわかったものじゃない。
山中の林の中に入り、トラックのエンジン音が去った後も、ずっと警戒し続けた。手近なところにあった岩に端末を叩きつける。手で分解できるくらいになったところで、基盤を引き剥がし、内部のチップだけを拾い上げた。
月や星は、木々に遮られて見られなかった。ただ、夜というやつが、林の中に充満していた。夜空が見えなくとも、それがわかった。
言うことを聞かない足を殴りつけて、ただ歩き続けた。
突き当たった小道を歩いていると、道端に木造の小さな家があった。家というより小屋に見えたが、シニカ語で書かれた看板のお陰で辛うじて人間の息吹を感じ取った。そんなものが出ているということは、なにかしらの商店なのだろう。
今は既に夜。ともすれば日がまわっているかもしれない。引き戸の扉に鍵はかかっていなかった。後ろ手に拳銃型のMSCSを潜ませて、半身で立ち入った。
奥の居間で座っていた老婆が、人のよさそうな笑顔で言う。
「随分遅いお客さんだねぇ」
テーブルには、白身魚を揚げたフライと、穀物由来の厚い皮で合い挽き肉が包まれた蒸し料理。甘辛く煮込んだ肉が並んだ。
僕はシニカ語を聞くのには耐えたが、話すのがてんで駄目だった。何度かシニカの売人と話そうとしてみたが、セスタに言わせれば相性が悪かったらしい。文法については問題ないが、発音が壊滅的で、そしてそれは改善が期待できないとのことで、端的に言えば諦めろと言われたのだ。
老婆からの質問に首を振ったり頷いたりしていた僕がやりづらいと思ったのか、テーブルにはやけに大きな機械が持ち出されることになった。少し前にセールスに買わされた翻訳装置らしく、世界中の言語を網羅している、らしい。説明書を凝視して物理ボタンをたどたどしく押す老婆に代わり、僕が操作を請け負った。
どうやら、ここは子供向けの菓子を売る商店らしく、学校が終わるような時間には、丘を下ったところにある集落の子供たちがやってくるらしい。僕が入ってきた扉と居間の間には、布がかけられた棚がいくつか並んでいるが、それが商品棚なのだろう。
レジはなく、料理が並ぶ前はこのテーブルに大きな電卓が乗っていた。
椅子を引いて、老婆の寝室なのだろう奥の部屋を見やった。引き戸はあけられていて、彼女も隠すつもりはないようだった。
「あれは一体なんなんだ。」
老婆の寝室の壁には、金属の金具と鎖が繋がれた道具。その横に、絵画がかけられていた。
真っ白な羽衣を纏い、抽象的な雲の気色の中を舞う、やけに美人な女の絵画だった。
「あれはワン・ロン様。舞いを認められて、皇帝の后となったお方だよ。」
表情は動かさなかったが、あまり聞きたい名前ではなかった。
「ワン・ロンという犯罪組織があるだろう。黒社会だ。」
「あぁ、……あれはワン・ロン様から取った名前なんだよ。こっちが大元、私たちの女神だね。奴らはそれを自分たちのシンボルとしたのさ。罰当たりな連中さ。」
僕が聞き及んでいた由来とは少々の差異がある。しかし、彼女の言葉を一蹴する気は起きなかった。なんとなく、正しいのだろうと思った。ファミリアだって、聖剣というシンボルに呪いを仮託してきた。奴らにも、そういうシンボルが一つや二つ、あってもおかしくない。
「海岸で見つけたのさ。きっと、沈没した船が運んでいた積み荷だったんだろうね。海岸に打ち上げられていたのを、子供たちが持ってきた。女神さまに見えたよ。ワン・ロン様は人間でありながら、女神さまになった。あの舞を踊ることで、宿していた神様を解き放つのさ。」
「なにかの寓話か?」
「そうねぇ……あの方は、そんな御伽噺の登場人物だったねぇ。
あるとき体調を崩されたワン・ロン様に、ヤブ医者が薬を投与したんだ。まだMSCSなんてない時代の話だよ。そのせいで、ワン・ロン様は重度の薬物依存に陥った。あれは、魔を秘めていた薬だったんだよ。錯乱して死に向かっていくワン・ロン様は、最期に舞を踊られた。あれは、それを描いた絵なのさ。
魔を秘めていた薬に侵されながらも、あの方の中に眠っていたものは腐らなかった。人の中には、絶対にあるんだよ。そうやって、なににも介入を受け付けない、矜持ってのがさ。」
「性善説か?あんたもそういう風に見える。」
ふふふ、と老婆は穏やかに笑った。
魔を宿した薬。きっと魔薬と同じロジックで作用した。地理的に考えるに、東都国の龍見機関が関わっている可能性が高い。アステアが持っていた資料には、それに類する記述がある。戦争の最中で使用された、全ての苦痛を取り去る薬。カラシナを起源植物とする何かしらのアルカロイド。
薬に、魔が秘められている。老婆の話したことは、笑い飛ばしたくなる程お気楽なものだった。
薬が悪魔を宿しているのではない。人間が、悪魔を宿しているのだ。
魔薬は、それを暴き出しているに過ぎない。人類史上最大の疾患である資本主義は、魔薬がなくたって生み出されたじゃないか。あれは、魔を宿した人間が生み出した病状だ。だから魔薬は、それに牙を剥く特効薬として生み出された。
人間の性まで魔薬に仮託されては、妖精たちが救われない。
「僕をこうしてもてなすのも、僕の中に何かを見たからか?」
「あぁ、そうさ。あんただけじゃないよ。人間みんなに、ここでは門戸を開いているのさ。」
まさか相対しているのが、中央アメリクスを支配する魔薬カルテルのボスだと、彼女は思わないだろう。そして、彼女のその眼は、僕の正体を見透かしはしないだろう。アザルベーダやベートならいざ知らず、僕の中に、血と暴力以外のなにかがある?笑わせるな。
魔薬が暴き出した僕の本性。それは、地獄を生み出す最悪の死刑執行人だ。僕はその咎も、呪いも、魔薬に仮託するつもりはない。魔薬の───アルカロイドの中に眠っている彼女に、仮託するつもりはない。
僕が、見せてやる。人間の中に眠っている、救いようのない悪魔を。
空になった皿を取り上げて、台所に歩いていく老婆。その背中に、MSCSの銃口を向けた。
靴裏にこびりついた血液をベッドのシーツで拭って、僕はその、ワン・ロンの絵画と向かい合っていた。
そうして舞い踊ることで、女神を解き放ったという女。確かに、人間は神を宿しているだろう。ロス・アンタニオスのリンネのような、あんなおぞましいものではなく、もっと普遍的で、もっと神聖で、もっと残酷な神。資本主義の神。
しかしそれが解き放たれたときに描かれるのは、こんな楽園のような風景ではない。それは、僕が今まで見てきた世界の話だ。あの光景こそが、描かれるにふさわしい。
魔薬というものから解き放たれた妖精が、あんなにも美しいのなら。もしかしたらワン・ロンは、魔の薬に眠っていた妖精をその身に宿したのかもしれない。そうでなければ、こんなにも、こんなにも。僕がこの絵に、心奪われることはなかっただろうから。
*
老婆の店で一夜を明かし、まだ日が昇らないような薄闇の中を歩いた。
目的は、丘の下の集落にある港だった。海岸に打ち上げられたという絵画。その隣に飾ってあったもの。最初は鎖鎌のような武器の類かと思ったが、よくよく観察してみて気付いた。
あれは、海賊が使うフックだ。重量のある鎖が使われているところを見るに、タンカーや貨物船を狙うような骨のある奴らの獲物ではない。耐久性は担保したいが、魔力・炭素複合繊維のワイヤーロープを手に入れる財力はないというところ。
つまるところ、港には海賊の類が現れたことがあるのだろう。
もし、そんな連中がまだいるのだとしたら。マツシマの予測していない経路を取れるかもしれない。上手く行かなければ次だ。まずは試してみる。
小さな港。堤防からは、煤色の煙を上らせて戻ってくる漁船が見えた。
僕の目的はといえば、海賊を生業としている連中に少しばかり知恵を授けてやって、貨物船に憑りついて密航しようというものだったのだが、ここで思わぬ話を聞いて拍子抜けすることになる。
抱えるほどの翻訳機械を持って現れた僕に、港の連中は驚くほどすぐ順応した。
国際海事監督局の者で、VHFチャンネル16で奇妙な通信があった経緯についてを調査に来た、というカバーストーリーがうまく機能したようだった。彼らはむしろ不自然なほど流暢に詳細を話してくれ、方言なのか僕が聞き取れなかった部分については翻訳機を使ってまで説明してくれた。
確か、少し前に全ての船舶は、遠洋・近海に関係なく、全世界遭難救助システムの装備が義務付けられていたはずだ。果たして僕がどこでそれを聞き及んだのかは覚えていなかったが、彼らがそうやって話してくれるということは、彼らの中でも常識となっているはず。
少し、カマをかけてみるか。
僕は、努めてゆっくりと、誤訳のないように翻訳機に語り掛けた。二度ほどの試行を経て、ようやっと正しい結果が表示される。ボタンを押して、再生した。
「海岸線で座礁する船が、多くなってはいませんか?」
漁師たちの凍り付いた顔を見て、僕は大方、全てを悟ってしまったのだった。
*
協力的だった先ほどより更に協力的になった漁師たちに携帯端末を借り、マリン・トラフィック・セーフティーにアクセスした。
これは一般人でも閲覧可能なパブリックなウェブサイトで、位置情報を発する全世界の船舶の船籍・航行経路・発着地・航海速度・船名を閲覧できるものだった。
さすがは違法薬物のスイッチングハブと呼ばれているシニカである。違法薬物に関わらない様々な船舶が、様々な場所に航行していた。
僕が辿り着いた小さな集落からの移動は骨が折れるだろうし、マツシマが講じている様々な情報網に引っかかってしまう可能性がある。漁師に借りた端末のニュースサイトでは、とあるトラックが黒社会的性質を持つ組織に爆破されたというニュースが流れていた。僕が乗ろうとしていたあのトラックだったのかはわからないが、黒社会は本気だ。ここは、同じ名前を持つ女神ワン・ロンの加護に期待するべきところか。
ということで、僕は協力的な漁師の船の一隻に乗せて貰って、目的の海域まで運んでもらうことになった。これは僕たちがthrow and awayと呼んでいた取引方法に似ている。受け渡し側の船が指定された海域にエリンやヒュドラなどの違法薬物をパッケージングしたタンクを投棄して、引き受け側の船がそれを拾い上げて取引が完了する。
この話で言う違法薬物が僕なのだ。僕はそこで自分を”貨物”として扱うことに本当に躊躇がなくなってきたと気付いた。喜ばしいことなのだろうか、カルテル事業の終盤である今そんな特性を会得しても、増えるのは精神性外傷くらいなものだと思うのだが。
「出発はあと二時間後だ。僕は一度離れる。時間になったらまた戻ってくるよ。」
僕を送ってくれるという漁師に別れを告げて、港を出た。
もはや僕をIMBの人間だと勘違いしてくれているお気楽な連中はいないようで、僕の粗暴な物言いにもひきつった笑みを浮かべるだけだった。
辿り着いたのは海岸線。ビーチのように砂浜にはなっておらず、切り崩された断崖が海に突き出しているような場所だった。
「あぁ、あったあった。」
不法投棄された荷物に偽装されたコンテナを力ずくでこじ開けてみると、予想通り。中には、鉤爪のついた鎖とオイルランプが入っていた。周囲を見渡して人がいないことを確認し、MSCSで鉤爪と鎖を繋ぐ金具を照準する。トリガーを引くと、金具がゆっくりと溶解してどろりと地面に落ちた。すぐに固まってしまったそれと鉤爪を拝借し、港に戻る。
手近なところにいた男に魔力繊維のワイヤーを貸してもらうように頼み、一度あの商店に戻った。
ワイヤーを少しずつ解していき、大体三つほどの束に分解する。金具の残骸を魔法で溶解させ、その束にコーティングしていく。前より太くなってしまったフルメタルジャケットのワイヤーを照準し、ロングレンジミリタリープロッダーを超ショートレンジから射撃した。
魔力繊維は魔素偏光を蓄えやすい材質で、魔法に対する感応性が高い。近距離で遠距離用の魔法を受けた魔力繊維は、切り裂くという作用を持った魔法を、ねじるという形で結実させようとする。
お世辞にも綺麗とは言えないが、これで満足のいく耐久度のワイヤーができただろう。ワイヤーと鉤爪を固定する作業は、下手に悪知恵を働かせたりせずに手作業で行った。そのお陰で二時間という約束は守れなかったが、僕は無事漁師の船に乗り込むことができた。
三十分ほど航行しただろうか。周辺を哨戒していた僕に、漁師の男が茶を運んできた。船の上だというのに西洋式のティーカップを持ってきたのには少々面食らったが、味はしっかりとシニカの味だった。
雑味と勘違いされることもある苦みと、その基礎に丹念に積み重ねられた旨味。
水が貴重な船の上では、利尿作用の生理活性を持つカフェインは大量摂取厳禁である。鉱山労働者よろしくがぶがぶと飲むことはないだろうが、たまの休息に嗜んだりはするのだろう。カップの中、一般的な毒物十三種類に反応する試験紙を沈ませていた。カップを返すついでにそれを海の藻屑にしてしまう。
「少し、聞いてもいいか?」
漁師の男は、ついに、という顔で表情を強張らせた。
「そうか。……海賊は、あんたたちのほうだったわけだ。」
「最初に言い出したのは丘の上のばぁさんだよ。おれたちで始めたんじゃない。」
ワン・ロンに魅せられた女。彼女の寝室に飾ってあった、鎖と鉤爪。
「海岸線のコンテナの中にあったランプと鎖は、あんたたちの物だな。」
「えぇ。……嵐で先が見渡せないときとか、そういう嫌な夜に、VHFチャンネルでメーデーを流すんです。そして、あの海岸線で棒の先に取り付けたランプを振る。そしたら、経験の浅い船は海岸線に近づいてきたりする。」
「そこを、あの鉤爪で引き寄せて座礁させるわけだ。」
「……そこまでわかってて、何故聞くんです。」
「いや、あくまで確認だ。」
マツシマに昔、似たような話を聞いた覚えがあった。否応なく発生した何かの空き時間、ただの雑談として話したものだった。空港のラウンジか、いや、どこかのショットバーだった気もする。ともかく、この集落には、彼らを襲うことを生業とする海賊などはおらず、むしろ彼らこそが船を襲うことを生業とする海賊───というよりは地賊だったわけだ。
座礁した船舶が貨物船ならば物資が。そうでなければ船員の金品が手に入る。集落ぐるみの犯行というのなら、前者の割合の方が高いのだろう。
目的の海域、漁師の男が、膨らませたゴムボートを浮かべる。それがどこかに行ってしまう前に飛び乗って、懐に忍ばせておいたダラ札を丸めた束を放り投げた。村のATMで換金していたものだった。
自分から一番自然に出てくる言語で吐き棄てる。翻訳機械は船に置いたままだった。
「上手く換金してくれ。助かったよ。それじゃあな」
そこからは、夜になるまでボートの上で暇を潰していた。
目的の貨物船が来たので、沈み込んだ乾舷に感謝しつつ鉤爪を放った。
たしか、船尾の鎖には警報装置を設置している場合があると聞いたことがあったが、今回の船はそうではなかったらしい。
船尾の柵に上手く引っかかったワイヤーロープは、固定されたゴムボートとの間で、ぴん、と張り詰められた。魔法で成形したとはいえ、その強度も長くは持たないだろう。そこをよじのぼるような無様な真似はせず、ワイヤーの上を駆け抜けた。半分まで来たところで魔法を放ち、ワイヤーを半ばで切断する。
遠心力で加速した僕は、半円を描きながら船尾の壁に吸い寄せられ、ラペリングの要領で両足を踏みしめる。だん、と力強い音がして、鋼鉄の感触が足先から流れてくる。
片手でロープを握りながら、あの集落があった方を眺めた。船からすれば後方にあたる方角だった。
「あんただって、大したもんは隠し持ってなかったな。」
ワン・ロンを崇拝していた老婆に、僕は思わず呟いていた。
僕らはみんな、病に侵されている。
やはり僕たち人間は、あの妖精たちの美しさに、敵わないだろうか。




