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アルカロイドに眠る妖精-Alkaloids of the gods-  作者: 可燃性少女
第四部【空席の王位】

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Ep.88『そうですか』

『アンタニオスさん、コンドル氏と合流しました。』

「助かった。そのまま護衛を続けてくれ。彼は僕らの生命線だ。できれば、今の仕事を切り上げて大農場(プランテーション)に戻ってほしいんだが」

『えぇ、はい……大丈夫だそうです。ルートについては』

「航空券と中継地のホテルは取ってある。コンドルのアカウントに全部入れてるから、航空券を確認して自分の名前を覚えてくれ。それと、足のつきにくい暗号通貨を送金してる。Veeri,incという会社のオフィスに寄ってくれ。電子マネーに換えてくれるはずだ。

 あとは護衛だけ、あんたに頼めるか、ゼリタ。」

『わかりました。』

 セスタから送信されてきた暗闇の中のコンテナの写真。よく見なければ気付けないが、その暗闇には、首にタグを付けられた少女の姿が埋没している。どうやらやり切ってくれたらしい。正午まであと三十分。上出来すぎるほどだ。

 ステアリングを繰り、車はアイスクリーム屋の前に乗りつける。

 簡単にクリアリングを済ませて扉を開けると、ドタドタとやかましく出てきた姉が後部座席に収まる。

「り、リゼルキルト……!」

「大丈夫だ。絶対に死なせない。」

「早く出して」

 ルムは平常運転で、その長物のMSCSを持ったまま助手席に移動しようと、ひじ掛けを跨ぐところだった。

「後ろにいればいいだろ、なんでわざわざ出てくるんだ」

「定位置でしょ……気にしないで」

 急発進すると彼女のMSCSの銃床が僕の側頭を打った。

「ぁ、ごめん」

「だから言っただろうが」

 全く緊張感のない奴らである。

「でも、貴方だけで大丈夫なの?その、私もルムも、頑張るけど……」

「守ってもらうために乗せたんじゃない。それに、どう足掻こうがマツシマの目的は僕だ。僕の死体がなきゃ意味がない。逆に考えれば、僕以外の連中は、生きててもいいんだよ。僕に近すぎる人間じゃなければな。

 カルテルの今後のためにも、無用な被害は出したくない。ここは単独行動が最善だ。」

 僕が死にさえすれば、マツシマがカルテルの製造工場に手を出す必要はない。

 もちろん、リゼルキルトは死んだことになっていて、リゼルキルト・カルテルの凋落について論じる書籍は既にアメリクスの本屋で平積みされているが、実質的な活動は限りなく僕の存在を必要としないように継続中だ。ゴールデン・トライアングル───質のいいカラシナの産地として知られるブラウ周辺三国の国境地帯を示した名称───を失うのは面白くない。

「あぁ……と、中央通りってどっちだ?」

「左」

「そこ、そこ曲がったとこよ!あ、あそこのパン屋さん美味しいのよ!」

 僕はルムに聞いたんだ。お姫様は頼むから静かに後部座席で寝息を立てておいてくれ。流石のルムも、姉のその発言に微妙そうな顔を向けていた。

「アステアを迎えに行くの……?」

「いいや。あいつは下手したら僕より上手くやる。それに、マツシマの殺害対象じゃない。」

 自分でも酷いと思うハンドリングで中央通りに突撃し、まばらな人ごみを蹴散らしていく。タイヤが巻き上げる白煙は、民衆に十分な危機感を喧伝したようだった。

「アステアこそ、貴方に最も近しい人じゃない……?人質としての価値なら、彼女の方が。」

「あぁ。だが、あいつに勝てるやつがいない。マツシマが一番狙わないのがあいつだ。女神は怒らせると怖い。」

 「あぁ、って言ったわよ、ルム。認めたわよ、ルム。」と愚痴を吐いてくるメルは無視して、用意したのも忘れていた自分のヤサを探す。あの場所は、僕が忘れているくらいだったから、もちろんマツシマとの集会場所にしたことはない。最近はもっぱら、僕の家に居座りたがるとある女に貸し与える場所として機能していた。

「おんなたらし」

「そうだな。垂らし込まれた奴三号、四号のお前らが言うと説得力が違う。」

 メルはうぐ、と黙って、ルムは抗議するみたいに僕の腿をつねってきた。真っ赤なふくれっ面になっているのはご愛嬌と言ったところか。

「じゃ、じゃあ、誰を迎えに行くの?」

 聞かれたのと同時にブレーキを踏み込んだ。ガラスをひっかくような甲高い不快な音。少しだけ横滑りした車の後部座席の扉を、優雅かつ緩慢な動作で開けた女。その傍らには、まだ十にも満たないだろう子供を連れている。

「お前、何号だったっけな」

 エンタクト・コンネクジェンは、酷く緊張感のない様子で小首を傾げた。

「ドライブでも行くの?」

「どらいぶ!」

 失敗したかもしれない。


「ほら、挨拶して?」

「ぺとら!きゅうさい!」

 エンタクトが連れているガキ───ペトラを、メルは自分が身に着けていた宝石すら使ってあやしてみせた。いい母親になりそうだとは思っていたが、そもそもが子供好きなのかもしれない。あるいはシンパシーか。

 居心地悪そうに僕を見たルムとは、いい家庭を築けそうだ。父親が虐げられるタイプの。

「ペトラちゃんって言うのね!私はメル、前にいる怖そうな人がリゼルキルト、その隣が妹のルムよ?」

 僕との初対面の挨拶とは随分違うメルの言い草を聞いているうち、目的のガレージが近づいてくる。

「……これから、どうするつもり……?」

「単純化すれば、これは僕が逃げ切れば勝ちのゲームだ。僕が身軽に逃げ切るには、僕が愛する人質候補を安全な場所まで送り届ける必要がある。流石に僕も、人質を取られるかもしれない状況で、ファミリアを単身壊滅させることはできないからな。」

 こいつらを逃がして僕一人でファミリアに立ち向かったところで結果はたかがしている。

 僕を殺す方に舵を切ったところを見るに、マツシマはまだ王位への道を作り上げられてはいない。つまり、僕が逃げ切って王位を手にすることができれば、勝負は決する。活路はある。

 僕の操る車は、仄暗いディーラーのガレージに乗り入れた。


 メルに障壁デバイスのトリガーを持たせて、僕だけが車を降りた。そんな僕を迎えるように、専売公社の煙草を吸っていた小太りの男が、こちらを振り向く。

「やぁ、アンタニオス。」

「久しぶりだな。ヴィオレタ・ホワイト。」

 ファミリア幹部会の一人。ファミリア内部の人事や人員配置───マフィアの公共事業不正入札事業は健在である───を請け負う幹部ヴィオレタ・ホワイト。今のファミリアに現存する幹部の中で、数少ないバルデリーニ・ファミリー時代を知る幹部である。

 トランクから取り出していた大ぶりのジュラルミンケースを三つ、彼の足元に放った。連鎖する不快な金属音が、ガレージの薄闇の中を何重にも反響していった。

「手付金の三億ダラだ。彼女たちの逃亡が成功したら暗号通貨を転送する。」

「密輸ルートもだ。」

「あぁ。マツシマに明かしていないルート、分割すれば二十四本の監督権も移譲する。」

「ルートが先だ。俺が確認してからじゃないと、情報価値がない。」

 ヴィオレタが掲げた手。ガレージの照明が点灯し、点検用通路(キャットウォーク)にずらりと並んだMSCSの銃口と目が合う。

「どうだ?アンタニオス、お前がやってきたことだ。ここでは、俺が上だ。さぁ、ルートの情報を送信しろ。そして、ここで俺に頭を下げろ。地面にごりごりと額を擦り付けて、ヴィオレタさまと」

「全部自分に返ってくる。わかってるだろ?」

 確かにヴィオレタと眼が合った。しかし、彼はすぐに僕の眼差しから目を逸らした。

 指が震えている。大丈夫か?ヘイローでよければ、僕が処方してやるよ。

「自分に返ってくる全てを、耐え忍ぶだけの強さが必要だ。」

 第一射、魔素偏光が煌めくより前に、第二射のプロセスが始まっている。連鎖するトリガー、一人目が血を吐いて通路から転落する頃には、僕が後ろ手に放った最後の一発が終わっている。

 工場の通路と天窓を真っ赤に染めて、ボトボトと落下してくる死体を背に、僕はヴィオレタに銃口を向けた。

「さて、お前がやったことだ、ヴィオレタ。先に彼女たちの逃走ルートと段取りを貰おうか。あぁ、あんたらのDXに期待はしていないから、別に紙媒体だって構わないぞ。そして、さっさと全裸になってそこに這いつくばってくれ。できるだろ?」

「は、……ぁ……?」

 そうか、こいつは、僕がゼータに師事していたことも、友殺しをしたことも、きっと知らなかったんだろうな。じゃなきゃ、僕にこんな半端な戦力で仕掛けてくるはずがない。僕がフラクタルを呼び出していたら、こんなものでは済まなかった。

 まさか小便でも漏らすんじゃないだろうな。そんな言葉を呑み込むほど、ヴィオレタは狂的な震え方をしていた。あんたより華奢で細腕の女幹部二人は、もっと肝が据わっていたんだがな。

 そして、そんなことを考えたところで思い当たる。

「あんた、まさか……用意してなかったのか?冗談だろう?少なくとも犯罪組織の幹部が、僕に反撃されることも考えず、手ぶらでここまで来たのか?」

 思わず漏れた哄笑が、努めて引き結んでいた口から漏れた。

「くふっ、くはっ……おい、おいおいおいおい、本当に?はははっ、なんて……」

 こんなに嗤ってしまっては、僕が残酷な死刑執行人を演じようとしていた努力も無に帰してしまう。恐怖心を感じていてもらった方が扱いやすかったというのに、あまりにも可笑しくて止まらなくなってしまった。

「はぁ……あぁ、じゃあもういいよ。最初っからこっちを使えばよかった。あんたが次のボスになりたいっていうから、協力しようと思ったのにな。って、あぁ、そうか。マツシマが言ったんだな?僕を殺せたら次のボスにしてやると……なんだ、これも読まれてるのか。もう何年も根回ししてたのに水の泡だ。」

「な、なんで、知って……」

「図星なら正解か不正解かだけ言ってくれればいいんだよ。ステレオタイプのリアクションはもう聞き飽きた。」

 ぐ、と押し黙ったヴィオレタにもう用はなかった。

 太陽光に蒸し焼きにされるとか、一か八か封鎖海域を渡るとか、越境ビジネスに手を出すとか、そういった命の危険を伴う逃亡ルートは、メルやエンタクトには荷が重い。そういったリスクのないルートを探しておけ、もしくは自分で開拓してくれ。ただし、マツシマにバレないように。ヴィオレタにそんな取引を持ち掛けたのは、もう何年前のことだったか。

 マツシマも僕も、こいつを高く買い過ぎていたらしい。

 トリガーに力を込めたとき、耳触りのいい靴音が聞こえた。

 その男は、ゆっくりと歩きながらジャケットを脱ぎ捨てた。隆起した筋肉が、オーダーシャツを奇妙にたまわせていた。

 歴戦のボクサーのような風格。ネクタイを解き、指の隙間からこぼれたそれが地面に垂らされていった。MSCSが収納されたショルダーホルスターを地面に放り投げたところを見るに、やる気は充分なようだった。

「す、スウィフト、なんでここにいる!?」

 相変わらずステレオタイプな男だが、ヴィオレタのお陰で彼の正体に思い当たる。

「わざわざ呼ばなくて済んでよかったよ、スウィフト。見せてもらおうか、ファミリアの連中がすぐに引き合いに出す、あんたのステゴ─ろ──」

 振りかぶられた拳が、ガードの上から一撃を打った。咄嗟に庇った腕がビリビリと痺れた。確かに、素晴らしい腕だった。しかし、あまり美しくはない手際だ。一撃に集中しすぎた顎ががら空きだった。鞭のようにしなやかにしなった腕が、奴の顔面に辿り着くころにぶくぶくと膨れ上がり、僕の拳骨は最高の威力でスウィフトの顔面に入る。

 そのときに、視界の端によぎった黒───認識できなかった故の、意識の風穴。

 二発。ばきゃ、と重苦しい音を立てた、拳撃の音。視界が白熱し、光景が鮮明さを欠く。ねばついた感触が喉奥で絡まって、咳き込むより前に吐き出した。血と淡に混じって、へし折れた歯が生々しい断面を晒していた。

「ノーガードかよ、狂人が。」

 ずるりと倒れたスウィフトに、小さく吐き棄てた。

「お、俺だけじゃ、なかったのか……まさか、スウィフトも」

「あんたって、マツシマの手下な割に、全然あいつに似てないんだな。いいか?作戦ってのは大体失敗するんだよ。全ては上手く行かないんだ。」

 顔面から倒れ込んだスウィフトの鼻から、ぶぴ、と血の泡が弾けた。身体を転がしてやって、仰向けにする。中々男前だと思っていたが、僕のせいでその造形が崩れてしまうようなことにはなっていなかった。

「やろうと思ったことは全部失敗する。状況は全部悪くなっていく。最悪の時期に、最悪の事件がやってくる。そして、僕らは呟くんだ。」

「っ、」

「そうですか、ってな。

 だから、第二、第三の策がある。だから、倫理や常識なんてものを唾棄してる。だから、もしかしたらどうにかなるかもしれない、なんて楽観視を憎んでいる。知らなかったか?あんたらが教えてくれたことだよ。」

 スウィフトが地面に落っことしたままだったジャケットを漁る。懐に、チップと小さな紙の束が入ったケースが仕舞ってあった。

 ヴィオレタには”ボスになりたい”と願う、付け入る隙があった。同じように、彼にも、弱点があった。スウィフトの弱点。それが、まだ車内ではしゃいでいるガキ、ペトラであった。スウィフトの、実の娘であった。

「うちには、生まれた瞬間から諜報員やってましたって奴がいるからさ。身辺調査なんてお手の物なんだよ。一時期の僕は、父親であるこいつよりもたくさん、こいつの娘の写真を持っていたよ。脅迫だ。あんたらがやってきたことだ。」

「……そ、れが……逃亡ルート、……です、……」

 小さく咳き込みながら、スウィフトが目を覚ます。まだ視界はグラグラと揺れているようで、その眼は僕を、正確には捉えていない。

 僕の一撃を真っ向から受けたのに、立てないまでも意識を取り戻すとは。

「娘を返せ、───クズめ。」

 焦点が合わぬ目で睨まれて、僕は言葉もなく車を見やった。すぐに察したルムが、はっとして後部座席の少女を見る。少ししてから、エンタクトがペトラを連れてくる。

「お、おとう、さん……?」

「大丈夫、大丈夫だから。」

 すぐに父親の目つきになったスウィフトは、娘をその胸に抱き、あるいは、娘の目と耳を、その抱擁で塞いで、訊いた。

「なぜ、わざわざ勝負に乗ったんですか。最初から、この娘を使わなかった。」

 別に、脅迫自体はしたのだが、確かに、この殴り合いは本来必要がないものだった。

 僕がやるべきだったのは、スウィフトの迎撃ではなく、車まで走って行ってペトラのこめかみに銃を突きつけることだった。もちろん、一度戦ってみたかったという思惑がなかったわけではない。が、しかし、それ以上に。

「そこの奴と違って、あんたからは、もっと面白いもんが解き放たれるかもしれないと思っただけだ。血と臓物しか隠してない奴を暴いても、楽しくない。」

 一度、舌打ちを残して、スウィフトは立ち上がった。僕は、自分が持っていたMSCSをスウィフトに投げてやり、彼はそれを掴み取った。くるりと回して正しい射撃姿勢に移行し、彼の細長い指がトリガーに添えられる。はっとしたエンタクトが、すぐにペトラの目を塞ぐ。ヴィオレタの身体が弾け飛んだのは、そのすぐ後だった。

 きっ、と睨みつけたエンタクトの視線から気まずげに目を逸らし、スウィフトは小さく、ありがとうございます、と言い残した。エンタクトに銃を返し、娘の目を覆いながら、スウィフトは歩いて行った。

「あんまり、気持ちがいいものじゃないね。」

「悪いな。」

「ううん。一緒に背負わせてくれて、ありがと。」

 エンタクトは、僕の胸に強めにMSCSを叩きつけて、一人で車に戻っていった。

 僕が少しばかり呆けていると、わざわざ戻ってきて僕の手を取る。

「はやく、行こ?」

「あぁ、そうだな。」

 女児一人分軽くなった車が、ガレージをゆっくりと抜けた。



「中々堅実なルートだな。」

 スウィフトが用意した逃亡ルート。ケースの中には、ある程度の道順を記したメモ書きと、符牒となる特殊インクのカード。

 そして、詳細な移動ルートと各ポイントに用意されているスウィフトの私兵のパーソナルデータが記されていた。奴の娘を狙っている殺し屋は、少なくともこのブラウ連邦共和国の中に居る限り常にトリガーに指をかけている。

 あそこまで憤慨したのだ。まさか奴に、自分の娘を捨て駒にするような選択肢はないだろう。

 助手席のルム、後部座席のエンタクト、メル。それぞれを順番に見て、ルムにケースを差し出した。

「お前が持っててくれるか?」

「今私のこと信用ならないって思ったでしょ!」

「他意はない。近くにいたからだ。」

 僕からケースを受け取ったルムは、姉のことを気まずそうに見てメモを検めた。

 流石は元幹部というべきか。ルムはそのルートや段取りに当惑も疑問も覚えなかったようだ。

「近くで車を止めるから、あとの運転を頼む。」

「ん。わかった。」

 メルやルムが車を運転できるのかわからなかったから、取り敢えずエンタクトに頼んでおく。彼女と初めて出会ったパーティーで調べたが、こいつの車は恐ろしく車高の低いハイクラスのスポーツカーだった。その辺のセダンの運転くらい造作もないだろう。

 ルームミラーで尾行の車がいないのを確かめた。

「ねぇ、リゼルキルト。」

 そのときに、エンタクトと目が合った。

「貴方の辿り着くところに、私はいる。貴方が、どんな選択をしても。だから、」

 作り物みたいに精巧な双眸が、完璧を揺らがせるような熱を持っている。

「絶対、死なないで。」



 エンタクトが運転する車が、危なげない動きで走り去っていく。心配そうに僕を見つめるメルと、ガラス越しに目が合った。

 きゅっと握りしめた手は、ネックレスの宝石を握っている。アンタニオスと彼女が、一緒に夜市を歩いたときに買ったものだった。僕が彼女を殺しかけたあの夜に、彼女が身に着けていたものだった。

 ぐっと伸びをして、汚い空を眺める。

「さ、て……どうしようか、こっから。」

 状況は依然八方塞がりだ。それなのに、彼女たちの逃走経路が決まっただけで、もう何もやる気が起きなくなってしまった。いや、もちろんやるんだけれど、逆にやらなくたっていいんだろうな、と思考が迷走をし始めてしまうような、そんな気分だった。

 やらなきゃいけない仕事をほっぽいて、アステアと二人で出かけたとき、似たような気持ちになったのを憶えている。

 当時既に薬理研の所長だったアステアは、その後三日ほどグロッキーだったが、彼女を慮ってやる余裕がないほど、僕も十分自分の放っておいた仕事に手痛くやられた。

 だから、やらなくちゃいけないんだけれど。

「さて、……どこに行こうか……あぁ……面倒くさい」

 アステアは上手くやっているだろうか。逃げ出せていたのなら上々。どこかの街が一つ消し飛ばされたりしていればおあいにく様。状況を判断して大人しく潜伏したままなら花丸をくれてやる。どうせなら、アメリクス大陸に置き去りにしてくればよかった。そうだったら、セスタに任せることができたのに。

「いや、無理か。」

 億単位の金をなんでもないように扱う大企業のCEOでも、貧民街の出のあの小娘には手も足も出ないのだ。

 マツシマがセスタを狙うことはないだろう。まず、ファミリアにはアメリクス大陸へのアクセス権がないし、そうでなかったとしても、セスタは個人で軍を雇っているようなものだ。彼女一人人質にとるのに、何人ファミリアの人間が死ぬかわからない。

 アザルベーダは一体どこで何をやっているんだろう。きっと、電話を一本入れれば助けに来てくれるんだろうけど、それじゃあ格好がつかないな。

 端末に表示させたのは、セスタから送信されてきていたメール。

「東都に行けば……、やれるか。」

 マツシマは、シニカを抑えた段階で僕の逃走ルートを封じたと思っているようだが、残念ながら甘い。まぁ、もちろんマツシマがそれだけで満足するはずもないのだが、今の段階では甘い。

 やっぱり、見せつけてやらなければならない。東南エイジアの生温い地方マフィアと、中南米魔薬カルテルの格の違いというやつを。

 端末には、高精度な地図アプリ───一般に公開されているものではなく、武器商社クリスタル・メスが極秘裏に開発している全地球走査システム───が開かれている。東都国の南西部に位置する巨大な島、九州。ピンは、その場所の名前を表示した。


───フクオカ。

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