Ep.85『追憶トラフィコ』
東都国───首都『東都』。楽園の所以たるその街から、二百八十八キロメートル。
火山によって生まれた、綺麗な半円型をした島。
面積は七〇・一二平方キロメートル。温暖な気候、と紹介されてはいるものの、正直なところ夏は暑いし冬は寒い。特に冬の寒さは中々堪える。
四季、という概念は知っていたが、こうも両極端だと、安住の地としてもっと相応しいところがあったのではないかとさえ思ってしまう。
東都国には、随分と話の分かる人間がいて、しかもそいつは国の内側───表側ではない───にいる人間だった。
僕らは未来のマーケットであった東都に魔薬を流通させない代わりに、政府機関ですら関知しない完全なる治外法権の島を手に入れた。
五年に渡る交渉の成果、あるいは、五年しかかからなかった呆気のない成果。
さすがにヘリポートを作る費用まで出させようとしたのは断られたので、自費で滑走路を建築することになった。
担当者の男の呆れたような顔は、まだ当分忘れられそうにない。あんたたちが作ってくれなかったから自分で作ったというのに。
どうせならエミリアやエスメルダを祀ってやれるような大聖堂でも作ってやろうと思ったが、この国には台風だとか地震だとか、とにもかくにも災害が多い。
仕方がないので、メンテナンスが面倒くさそうな装飾は取っ払って、研究所よろしく機能性重視の鋼鉄のようなビルが二本建つことになった。
一人で眠るにはでかすぎるベッドで目を覚ますと、最初に目に飛び込んでくるのが冗談みたいな天蓋だ。
なんのおふざけなのか、僕の横で幸せそうに眠る少女が、我が儘だけで引っ付けたものだった。
「アステア。」
「もっと……寝てよぉよ……もう、やらなくちゃいけないことなんて、ないんだし……」
「しかし、やることはある。コーヒーを淹れてくれよ。僕が朝食を作るから。」
「どうせエンタクトがもうやってる……」
ベッドから出ようとする僕にスライムみたいに絡みついてくるアステアを押し戻した。ラックにひっかけていたワイシャツを羽織り、片手間にボタンを留めながら歩き出す。
扉を抜けて、書斎。グランナダラの火で落っことしてきたアゴニストは、セスタ───の個人的に雇っているシークレトサービス───が回収して、武器商社クリスタル・メスに保管してあるとのことだった。
残念ながら、僕はもう使うことがないだろうから、欲しがった奴に譲ってやれと言い残していた。
私物を飾っているケースには、焼け溶けたり切られたりした跡が目立つアンタゴニストが黒々と目を引き、ついぞ買い替えることのなかったシュバイツの技師が作った機械式腕時計が秒針を響かせ、木乃伊のような見た目の植物のサンプルが異彩を放っている。そんな混沌としたケースの雰囲気を一刀、引き締めるように。
そのナイフは、抜かれた鞘と共に飾ってあった。
「ファミリア、ナイフ。」
べったりとこびりついていたはずの血液は、その刀身を錆びさせることは愚か───陶器に近いMSCSの刀身が錆びるのかは果たして謎だが───吸い取られてしまって、手入れもしていないのに新品さながらの清潔さを保っている。
僕が感慨に耽ることは、きっと珍しかった。
その上で、自分の背後に立った人間に反射的に意識を向けなかったのも、それを認識すらしなかったのも、きっと珍しかった。
背中を気安く叩くような、甘ったれた衝撃。
「おはよう」
背中に押し付けられる女の肉体の感触は、戦争に明け暮れていたころに比べれば食指が伸びるようになっていた。 しかし、胸が大きすぎるとその感触に終始してしまって面白みがない。やはり、セスタくらいが望ましいか。
「なんか、嫌な目してるんだけど。」
「お前の胸が大きくてよかったと思ってな。」
無表情に近い端正な顔立ち。しかし無表情に届かないその余白が、彼女の培ってきた人間性だった。
「ふーん……なんか、もっと面倒くさそうなこと考えてると思った。」
お前が僕のことをわかるのか?エンタクト。愚問なのがわかりきっていたから言葉にすらしなかった。言葉にしなかったから、寸断された会話に空白が生まれて、エンタクトが言った言葉が嫌にはっきりと聞こえる。
「マツさんのことでしょ。」
自分がなにを考えているのか、自覚的でいることは難しい。なんだかんだと考えているうちに、その思考がどんな問いに対応したものだったのかを忘れてしまうから。
だから、僕はこうやって問いの方を他人に教えて貰って、まるでそれが答えだったかのように納得を得る。
「……あぁ、多分。そうだな。」
僕の背中に顔を埋めたエンタクトは、それから何を言うでもなく、強いて言えば深く呼吸した。
彼女が吐息するたびに、シャツ越しの温かな感触が背中をくすぐった。息を吸うたび、声色が飽和した空気の音がする。
「ごはん、出来てるから。所長も起きたら一緒に来て。」
くるりと翻り、静謐な雰囲気には不似合いな幼げを見せたエンタクト。最後、優しく抱き留められる。
「好きなんでしょ?おっきな胸。」
「あぁ……最高の目覚めになった。」
満足そうな微笑み───というには少しばかり口角を上げただけだったが───をしたエンタクトは、音もなく書斎を出て行った。元諜報員の歩法は伊達ではないようだ。
改めて見つめたファミリア・ナイフ。
さて、僕は一体、そこにまつわる物語をどのように受け止めただろうか。いや、その言い方は卑怯か。
正直僕はそれに、なんだそれだけのことか、とむしろ拍子抜けしていた。だから、僕が今になってもまだ思考に耽るのは。
「マツシマ・ハジメ。」
終着した僕の物語の、始発点にいた男。中間地点を共に潜り抜けた男。終着地点で、袂を分けた男。
互いの命を担保にした相互確証破壊の関係性で始まり、互いの利益のために頭を悩ませて、互いの領域に踏み込まないように細心の注意を払うような応酬をして、そうでありながら、一度も、仲間ではなかった男。
確信を持って言える。僕は、絶対に奴のことを仲間だとは思っていなかった。共犯者、あるいは共同事業者。友でもなかった。奴はやかましく無駄話をしないし、打算無しで食事に誘ってくることもない。人の皿からステーキを奪い取るような真似などもってのほかだ。
では、僕の中で奴は、一体なんだったのだろうか。
ベランダに出た。大きな円卓のテーブルセットは、いつ座ってもいいように清潔に掃除されていた。
ワイシャツの胸ポケットに入れたままだった煙草のボックスを取り出し、パッケージに張り付いていたオイルライターで火をつける。
精神を高揚させる生理活性を持つ脳内伝達物質が、波間に揺蕩うようだった寝ぼけ眼の脳を覚醒させる。口の端から漏れた紫煙は、独特の匂いがする潮風にさらわれて掻き消されていった。
「吸うなら誘って……寂しい。」
「アステア」
キュルケーを脳みそにぶちこまなくてよくなってから、僕は思考の余白をこのアルカロイドに仮託するようになった。アステアの影響がなかったとは言えなかった。
僕が一服に付き合う頻度が多くなっていくにつれて、アステアの機嫌がどんどん良くなっていったことを覚えている。
ふと見たときには、彼女はもう煙草に火をつけていて、ヘビースモーカーの一端が垣間見えた。
「それ、マツシマのと同じ匂いがする。」
「あぁ。……あいつが教えてくれた煙草だ。」
このベランダからは、東都国の海の絶景が一望できる。この灰色の住処の中で、僕はこの場所が好きだった。
言葉もなく紫煙を吐いて、どちらともなく肩をぶつけ、体重を預け合った。
やがて、僕は顔を上げていられなくなって、自分の腕に突っ伏する。僕を撫でる、優しい掌の感触がする。
「僕はあんたのことが、……これまで出会ってきたどんな狂人よりもわからない。わかれなかったよ。」
いつだって変わらなかった奴の革靴の音。
「大丈夫、大丈夫だから、ね?リゼルキルト。」
君に、なにがわかるっていうんだ。そんな軽口でも叩いてしまいたかった。けれど、わかってしまうんだ。
僕と君は同じ病に罹り、同じ特効薬を以て、同じ地獄を生み出した。そして、そこに運命共同体という名前がついた。
それは、僕が与えた「ビジネスパートナー」という仮初の肩書きとは全く違う蓋然性がある。
「君は毎回、自分が大事だと思うものを、自分で壊しちゃうんだ。」
「……僕は、毒物だからな。」
「うん。」
僕が大事だと思って、僕が壊さなかった少女は、尚もまだ、僕の頭を撫で続ける。吸うことを諦めた煙草の先から、灰がごろりともげた。
「わたしにとっては、薬。精神を高揚させて、抑制して、陶酔させ、幻覚を見せるような薬。」
手すりに身を投げ出すように、アステアも上体を倒して、煙草を持った綺麗な腕が、真っ直ぐに海に延びていた。
なぁ、マツシマ。僕は、”王”になったよ。
*
「ゲストを呼んでくる。」と言い残した僕に、手を振りながらエンタクトとアステアはまだ温かい朝食を食べた。
ファミリアの連中が作っていたような食堂は、広いくせに窮屈だったから、僕らは平均的なダイニングで食事を取るようにしていた。
セスタ曰く充分広いとのことだったが、僕はその程よい中間を知らずに生きてきてた。
ゲストハウスは隣のビル。連絡通路を渡れば外に出なくて済んだが、昼に少しだけ近づいたこの島の日差しは気持ちがいい。少しだけ外を歩いて、エントランスに入った。
「おはよう……リゼルキルト。」
「あぁ。久しぶりだな。」
グランナダラで大暴れしたくらいの時期から、ルムは僕とあまり目を合わせてくれなくなった。理由を知らなければ寂しいことだったが、ぷりぷりと怒りながら「初恋なんだからね!?」と暴露した姉のせいで、微笑ましくしか見れなくなってしまった。
手を差し出してみたら、小動物みたいにちょこんと手を乗せてきたので、ゆるく手を繋いでメルを迎えに行った。
ちょこちょこと着いてくる様は愛玩動物さながらだったが、怒らせれば狼に変貌するので注意が必要だった。
「……元気、ない?」
「わかるか?」
努めて明るく返そうとして笑みを浮かべたが、かえってそれが空元気に見えたらしい。笑い声を混ぜようとした声音が、痛ましく震えているように聞こえたらしい。
腹の探り合いを久しくしていなかったから、精神がそれ用にチューニングされていなかった。
「麻酔が切れたんだよ……多分。」
僕の精神の調律は、狂ってしまったのではなく、正常に戻ったのか。それなのに、僕は自分の心臓の鼓動を、なにか物足りなく感じている。
ぎゅっと握ってくれた手が、少しだけ汗ばんでいる。
「リゼルキルト!」
黄色の原色を連想させるようなはっきりとした声。がばっと抱き着いてきたメルを受け止めるために、せっかくルムと繋いでいた手を解くことになった。
「久しぶりね……!こんなに素敵なところだと思ってなかったの、すごく楽しいわ……!」
メルとルムを乗せたプライベードジェットは、この場所の秘匿性を担保するために、僕らが寝静まったような時間にこの島に到着したらしい。
僕ですら到着時刻を予測できなかったので、彼女たちにはゲストハウスの説明だけして出迎えをしていなかったのだ。
「ねぇ、このまま運んで?リゼルキルト」
「……仕方ないな……ルム、いいか?」
「なっ……なんで……私に聞くの」
解いてしまった手を名残惜しそうに見ていた気がしたから、と正直に話すのは、なんだか自意識過剰な気がして、でも別にいいかと面倒臭くなって聞いたのだが、ルムは不機嫌そうにさっさと歩きだしてしまった。
「貴方なら二人くらい抱えられるでしょ?」
不思議そうな顔をするお姫様に、僕は返す言葉を持たなかった。
「私、こないだ重いからって断られたけど。」
「……やっぱり、その娘たちに甘い。」
ゲストを連れてきた僕の労に投げかけられたのは、それぞれエンタクトとアステアからの不満であった。
ふふん、と余裕そうなメルは右腕に、恥ずかしそうに顔を覆ったルムは左腕に抱えていた。
「実際お前は重いんだよ。」
「……っ、もう、膝枕したげないから。」
姉妹をそれぞれテーブルに放り投げて、朝食の準備は整った。
エンタクトの料理は別に上手いということはないが、平凡な腕前で安心する。ここに来た頃は酷かったから、飛躍的に腕を上げたと言えるだろう。それにちゃんと旨い。
テーブルでは、それぞれの近況報告がなされた。
メルとルムは今もブラウでアイスクリーム屋の看板娘をしていた。彼女たちが幹部だった頃を知る構成員は、前の抗争で大体が死んだか船を降りた。
生き残っている連中の忠誠と、僕が起こした大火が、アイスクリーム屋の美人姉妹を継続させ得た。
この島の連中は結構自由に出入りするので、継続的に居住しているのは僕とアステアとエンタクトだったわけだが、準レギュラー的な立ち位置でセスタ、アザルベーダがいた。
メル・ルム姉妹の護衛を任せているゼリタやベートもたまに遊びに来るが、互いの立場の微妙さのお陰でその頻度は少々落ちる。
少女たちの歓談が騒がしくなってきたところで、僕は作法などクソ喰らえという感じでラップトップをテーブルに置き、送信されてきたメールの確認を始めた。
大体は業務についてだが、そういうのは共同編集者のセスタが処理してくれる。僕個人に向けて宛てられたものだけを開封した。
───From 英 鈴
ハナブサ・スズ。
『私は松島さんに感謝してるだけです。』
挨拶もない、不躾な文面だった。それも仕方ない。暗号通信システムを組み込んだ端末は、おそらくマツシマが与えたもの。奴が一般人に軽率にパスを繋げることはない。様々な制約の中、ハナブサはそのメッセージを送った。
『でも、もうあの人には会えないから。貴方にも。
だから、ありがとうとだけ伝えてください。さよなら。』
返信するつもりもなかったが、したところで彼女は見ないだろう。
既に端末は叩き壊されているか、彼女の職場のすぐそばを流れているあの川に投げ捨てられているだろうから。
メールを削除して、ラップトップを閉じた。どうにも今日は、奴を思い出させる出来事が多い。
屋上には、落下防止用のフェンスがない。適合者なら転落してもなんとかする、という理由もあったが、そもそもこんな場所に来るのが僕くらいだから、という理由の方が強かった。
ただの灰色のコンクリートしかない場所。そこに安堵を覚えるのは、僕のように情緒的な感性を著しく喪失している人間くらいだ。
と、そんなことを考えたところで、その条件に当てはまるもう一人の人間に思い当たる。見つける。
「来てたのか……セスタ。」
「ついさっき、ね。ちょっと、思ってたわぁ、キミなら、ここに来るんじゃないか、って。」
煙草を吸おうと胸ポケットに伸ばしていた手は、何も掴まずに放り出した。わざわざ、彼女の前で吸うことはなかった。
テーブルも椅子もなにもない場所。セスタは、僕を手招きした。お望み通り彼女の隣に並び立ち、島を一望する風景を見渡す。
「王様になったのに王冠を持ち歩かないのは、勿体ないのではなぁい?」
「……嫌な奴だな、お前も。」
「ふふっ、だって、その方が君は、可愛い顔してくれるんだもの。」
人の傷口を無遠慮に触るセスタは、やけに楽しそうに笑った。
蠱惑的で悪魔的な女である。
セスタは、その表情にいつも浮かべている不敵な笑みをさっぱり漂白させて、ともすれば冷たく見える表情をした。それが、セスタ・クリスタルベリーという少女の、装わない姿なのだと、僕は知っていた。
「楽しかったわね。」
「もっと楽しくなる。」
「それはそうでしょうけど……!そうじゃなくて。」
「あぁ。」
追憶するように、綺麗な雪色の髪がなびいて、セスタは大海を臨んだ。
「みんなで悪だくみして、大きな事業をやって、命の危険とか……考えたこともなかったのに、ひやひやして。」
振り向いたセスタは、なにか感傷的な瞳をしていて、泣き出してしまうんじゃないかと心配になった。
「キミに呆れたり、コンドルと愚痴言い合ったり、アステアを嫌がったり、アザルベーダにイライラしたり───マツシマと、アタシと、キミで、作戦会議して……」
「セスタ……」
少し前。僕が君と知り合ったばかりのころ。自分が売った武器が殺した屍の山を前にして、つまらなそうな瞳をしていた女。
この世界の全てに絶望して、退屈だと思っているような、淡白な女。あのときの彼女は、全てを知っていながら、その全てがつまらないのだということも知っていた。だからこそ、あんな顔をしていた。
「この世界は多少、君を、面白がらせたか?」
不思議そうに、きょとんとした顔をしたセスタはすぐ、堪え切れなかった笑い声を空高らかに響かせた。文字通り腹を抱えて笑ったセスタは、眦の涙の雫を人差し指で拭った。その隣に、気色の悪い髪飾りがある。
「えぇ……!こんなにも楽しいものはないわぁ!」
いつか、彼女に髪飾りをプレゼントしよう。
その髪飾りは、ちょっとばかり趣味が悪いし、僕が贈ったものじゃないというのも何か気に喰わない。
「ね!リゼルキルトくん、……愛してるわ、キミのこと。」
「あぁ、ぼく」
「ちょっと待って!」
「な、なんだ……」
ぴ、と人差し指を突きつけてきたセスタに反駁する。お前、ビジネスシーンでもそんな規格外のマナーで通っているのか?
おずおずと、セスタは指先を背中で組んで、伏せた瞳のまま言った。
「今日は……行動で示してほしい、気分だわ……」
金を繰り、愛を司る、小さな女神。僕が顔を近づけると、反射のようにセスタは瞳を閉じ、不釣り合いな身長差を考慮して少しだけ顔を上げた。




