Ep.84『空席の王位』
*
もう五年は固く閉ざされた扉。マツシマは背を預け、通じるはずもない思慮を巡らせた。
その巨大な棺の中、今日も、そして明日も、ともすれば何十年も、斯の妖精は独りきり、盲目に閉じ込められている。
彼は一体、なにに捕らわれているのだろうか。淀んだ目をした、自らの雇い主を思い浮かべた。
”本物”に固執する彼は、翻って”本物”にどこまでも懐疑的だ。そのために、学会に分け入ることも出来なかった異端の物理学者を、極東の楽園から札束で引き抜いた。
ゆっくりと振り返り、ひんやりと冷たい棺の扉に手を添えた。
「本物じゃないか……」
彼女にとっては、恐ろしき闇の中。拠り所である触覚は、少なくとも五年間、彼女に人肌の温かさを伝達していない。
それでも、彼女は待っているのだ。照準器から信号が届くたびに、それを、情熱的にしたためられた恋文のように受け止め、全霊で返す言葉をしたためる。
そしてそれが、一つの都市を灼き尽くす。
こんなにも健気に想い続ける彼女の、一体何が偽物に見えるのか。
便宜的に塩基性の有機化合物と呼んでいる化学物質から単離された”人格”。それが、人間の形をもってこの世界に生まれたとき、その瞳を最初に覗き込んだのはマツシマだった。
彼女はそこで、盲目であることを明かした。暗闇の中にいることを明かした。
それが、どうしてあんなにも眩しい目をするのだろう。
あの儚げな容姿に、妙な感傷を誘われていることは分かっていた。それでも、マツシマは思わずにはいられなかった。
彼女の瞳は、どうしようもないこの世界の闇の中にあって尚輝く、希望の象徴なのではないか。
ずっと、マツシマはその瞳に捕らわれてきた。この世界で本物ですという顔をしているどの人間よりも、彼女は本物に近かった。それは、その生き様すらそうだった。
彼は、あの実験を以て、自分たちの意識が本物であるかを確かめようとした。自分たちがシミュレートされたノンプレイヤーキャラクターではないと証明したがった。
その実験は、成功したではないか。彼が言う通り、それをマツシマが証明することはできないけれど、マツシマには、彼女こそが本物であると、胸を張って言えた。
彼は、あの実験で本物を手に入れたのだ。それなのに、彼はそれを埋葬し、あろうことか棺に閉じ込めた。
解き放つべきだ。
妖精は、眠りから覚めたのだ。それならば、ふわふわと揺蕩い、ささやかな我が儘を咎められ、それでも愛らしく笑って見せて、憂うような瞳で夕景を眺めるのだ。そうあるべきなのだ。
マツシマは、妖精が眠るこの棺に、ある名前をつけた。それは、同時、彼女の住処であった場所に、名前をつけることでもあった。
「他人に仮託してきたのは、貴方だけじゃない。」
私は彼に、あのナイフを仮託した。呪いを植え付けた。
今となって、マツシマはその考えに決定的な確信を得た。
彼はナイフに、暴力の咎を仮託し続けるだろう。彼はそれを依り代にするだろう。それは、あの可憐な妖精に通じている、最後のパスなのだから。
そして、そこにため込まれた呪いが、いつか、恐ろしいものを呼び寄せる。そして、その責任はマツシマという一族に仮託される。
あのナイフを作り出した最初の一族として、脈々と。
ファミリアの血統には、暴力の呪いが。
松島家の血統には、簒奪者の呪いが。
互いに咎を押し付け合い、利益だけをかすめ取ってきた。貴方と、私。それぞれの中で澱のように積み重なった罪過が、いずれ呪いとなって発芽する。
二つの呪いはいずれ、なにかしらの方法で絡まり合い、ファミリアのボスと松島家の直系の間を接続するだろう。私たちは既に、その一例を知っている。
マツシマは、空の手を握りしめた。そこに幻視する、ナイフの姿。
呪いの発端たる二人が、そのナイフを通じて接続している。
ファミリアの呪いを鬱積させたナイフが、次は、別の触媒を通して”マツシマ”と接続する。それは、果たして何世代先のことなのか、あるいは自分に成し遂げられることなのか。
もし、今回で駄目だったのなら。
「私の次の世代が、その次の世代が、必ず気付く。」
彼は、そういう風にナイフをデザインした。
呪いとは、毒だ。これから川下に流されていく二種類の毒。それが混ざり合ったところで、出来上がるのは毒それ以外にない。しかし、マツシマはある事実を知ってもいた。
毒と薬を分けるカテゴライズは、人間が生み出したまやかしの分類に過ぎないと。
混ざり合った毒は、呪いは、きっとファミリアにとっての劇薬となる。
しかし、あるいは。
数十年後の世界を救済する、特効薬となるだろう。
少なくとも。松島という一族を救済する、いいや、松島四郎を救済する特効薬にはなるだろう。そしてそれは、この世界に、”本物”を復権させる。
もう誰も、彼女を偽物だと疑わない。
彼女を、疑わない。
妖精が棺に閉じ込められてから二十年が過ぎた。
老いぼれてきた鏡の中の自分を、マツシマはやけに俯瞰的に見ていた。
ひび割れた唇からブラシを引き抜いて、唾液を吐き棄てる。
ファミリアは成長した。今となっては、あれほど脅威に思っていた龍見機関とも互角に渡り合うようになっていた。
それもこれも、あのナイフのお陰だった。
バハラータ共和国で行った実験で、人間の精神に干渉する化学物質の単離にも成功していた。
ファミリアが限定的に市場に撒いたそれを、龍見機関は戦争のための強壮剤として買い集めたから、表立ってファミリアに対抗できなくなった、というのが実際のところだった。
しかし、あんなものを使っていては、人間はおかしくなる。マツシマは、陶酔をもたらすというその薬を、決して自分の身体には入れなかった。
その薬の正体を知っているのが、ファミリアのボスと自分の二人だけだったのにも拘らず。
身支度を整えて、ベルが鳴ったので扉を開ける。
「久しぶりだな、親父。」
マツシマ・タツミ───松島巽───それは、彼の息子であり、東都国の諜報機関、龍見機関の創設者。
そして、ファミリアが敵対する組織の、そのボスであった。
*
「どういう風の吹き回しだよ、親父。俺ぁ、あんたのヤバすぎるところを尊敬してこんな仕事してんだ。まさか、肉親の情に絆されたなんて言わないよな。」
「えぇ、もちろんですよ。」
四郎は、実の息子を前にしても、装った人格を揺らがせることはなかった。
「あの妖精の作り方を教えろよ、そんなら、俺らにあれを欲しがる理由は無ぇ。」
「塩基性の有機化合物が必要です。」
「ならそれを」
「しかし、彼女の基になった物質は、偶然の産物。再現することはできないでしょう。」
舌打ちした巽は、出されたコーヒーを下品に啜った。四郎はそれに目くじらを立てることはなかった。
自分の威厳が息子の障壁をすり抜けることはないと、互いの立場がなによりも証明している。
「別の化合物を無理くり作ってやりゃあ、あれとは違う妖精を生み出せるはずだ。」
「えぇ。だから、貴方達にはその方向でやってもらう。しかし、銀髪の妖精───エンケファリンは、必ず奪取しなければならない。」
訝し気な巽は、しかし父の言葉を阻むことはなかった。
「エンケファリンの───便宜的に、脳と呼びましょう───脳は、ある特殊な波動を鋭敏に知覚する。それが、彼女の力の本質です。だからこそ、システムを構築することができる。」
「あぁ、なるほどな。やっぱあんたさ、おかしいぜ。」
「妖精一人を戦場に派遣すれば、凄まじい戦争兵器になる。しかし、信号に応じて力を行使できる彼女は、システムの核となり得る。信号を発するデバイスさえあれば、全員が妖精の力を得るわけですからね。」
デバイス───武器といっていいだろう。それは、妖精の力を制式化させる。妖精という単一戦力が持っていた力を、エンケファリンという媒介を通すことで幾重にも分割し、分布させることができる。それは、これまでの武装を古典の彼方へと置き去りにする。
「まさしく、魔法だ。」
「あぁ、いいぜ。じゃあ、俺らが作った他の妖精はどうする。」
「エンケファリンを媒介すれば、彼女たちの力も武装化できるでしょう。だからこそ、彼女が必要だ。」
凶悪に嗤った巽は、別れの挨拶もなく立ち上がった。しかし、ふと四郎に尋ねた。
「そういえば、その妖精が知覚する波動ってのはなんなんだ。」
それは、四郎が見つけ出し、ある蓋然性を持っている概念だった。彼女はそれを知覚する器官を喪失していた。だからこそ、代わりにそれを知覚できるようになった。
「光、ですよ。」
「……はん、結構だな、物理学者。」
正確には、可視光線ではなく、もっと微小で特殊な光線だったのだが、巽はそこに興味を持たなかった。忙しなく扉を抜け、階段を駆け下りていった。
四郎は、開け放たれたままだった扉を閉じて、鍵をかけた。
「さぁ、上手くやってくださいよ、巽。彼を殺せたら、次は───」
自らの息子を手にかける。
四郎には悲願があった。そしてそれは、彼を殺し、あの棺を自分のものにしなければ果たされない。
そして、自分が果たせなかった宿願は、自分の息子には受け継がれない。あの気性である。四郎は巽を、もはや継承先とは思っていなかった。
「甫、パパが帰りましたよ。」
奥の部屋に向かって、四郎は呼びかけた。すれば、少しの時間を置いて、気弱そうな男児が扉を開けて出てきた。窺うように少しだけ顔を出し、四郎しかいないと確信したところで、やっと全身を露にする。
「おじい、ちゃん……」
「……ごめんよ、甫。私は、貴方に託すしかない。」
四郎は、その幼子に託すことに決めた。
───松島 甫。
それが、松島巽の息子。松島四郎の孫であった。
一年後───ファミリア本部 情報局
四郎は、情報局幹部カペラ・エテカレアと相対していた。
といっても、応接間は密談といった趣ではなく、戯れる二人の子供のお陰で些か騒がしかった。
「娘、にしては大きいですね、エテカレア。」
「いやいや!養子ですよ!……貧民街でなんか懐かれちゃって……仕方ないから育ててるんです。こんな子供だから、諜報員とか殺し屋じゃないでしょうし」
気が強いのか、カペラの養子だという女児は、随分と舌ったらずに言葉を捲し立てた。そして、それをぶつけられている男児の方は、まるで虫の羽音を煩わしがるように顔をしかめている。
どうやら正面から相手をしてやるつもりはないらしい。
「お孫さん、なんて名前なんですか?」
「ハジメ、といいます。」
四郎がカペラに持ち掛けたのは、所謂二重スパイであった。
彼の息子、巽は、既に妖精の作り方を探し当てた。しかし、エンケファリンがいなければ魔法の制式化は不可能。襲撃のときは必ずやってくる。そのために、自分が彼の動向を諜報する。
四郎が仕立て上げたシナリオはそんなところだった。
承認欲求が強く、自己肯定感が低い。なにかの功績を上げなければ、偶然回ってきた情報局幹部という肩書きを維持する自尊心すら練ることができない。
四郎が分析したカペラの性根であり、それはおおよそ当たっていた。
だからこそ、カペラは四郎の持ち掛けた諜報作戦を、ボスに秘匿しながら進めることに同意した。その方が、彼女が引き受ける功績の比重が高い。
四郎にとってそれは、息子がファミリアのボスを殺したあと、息子を殺すために必要になる大義名分の偽装工作であった。
ボスを失ったファミリアの指揮系統は混線するだろう。なにせ、リーダーシップのワンマンプレイで自転車操業を続けてきた犯罪組織なのだから。
そこに、確固たる大義名分───仇討ちの栄誉を与えてやる。
情報局は、目的を達することはできなかったものの、十分な働きをした四郎を祭り上げ、空席の王位は同時、棺の所有権を曖昧にする。
宙ぶらりんのナイフを取り戻し、四郎があの扉を開く。
ボスが持つあのナイフにしか開けることのできない、棺の錠前。
*
「ど、どういう、こと、ですか……マツシマさん、おか、おかしい、じゃないですか」
震えた声音が、少し笑っているように聞こえたのは、恐怖で横隔膜が痙攣しているせいだろう。放っておけば嘔吐するかもしれなかった。
しかし、四郎はそれに、なにか有効な対策を講じようという気にはなれなかった。
「そうですか。」
小さく、四郎は呟き。
空っぽになった格納庫を見た。そこにあるべきはずの棺が、消失している。
地面のコンクリートが穿たれていて、棺があった空間を伝って屋根の波形スレートが無残に引きちぎられていた。
まるで、地中から這い出てきた何かが、棺を大空へと奪い去っていったかのような足跡。あるいはそれが真実だったかもしれない。
四郎は、情報局の人間を欺く緻密な調整と、ボスからの懐疑の視線を掻い潜りながら、同時龍見機関との腹の探り合いもこなしてきた。
彼は、その三勢力全てからある程度の信頼を得ていたし、巽からは、襲撃の日程は必ず事前通告するから、どうか力を貸してくれとまで頼まれていた。
いつのまにかいなくなっていたカペラを探す気にもなれず、四郎は足元で座り込んでいた甫を抱きかかえた。
「えぇ、わかりましたよ。」
呟いた四郎の声を、甫だけが聞いていた。
「どうやら私では駄目だったらしい。」
驚くほど呆気なかった。四郎は、一端の悲観も、一言の怨み言も吐かなかった。ただ、了解を、二度、口にしただけだった。
それだけで、彼の人生を総括するには充分だった。
だから。
「貴方に託す、甫。」
甲高く、鳴り響く銃声。四郎の身体が跳ね、鉛の銃弾がその腕を抜けていった。
「あぁ、あいつっ、あいつがぁ!裏切ったんです!私は、情報を掴んでました!でも、でもでもっ、間に合わなくて……っ、だから!あいつが!」
四郎を撃ったのは、カペラだった。その背後には、マフィアの殺し屋部隊の面々。そして、それを統括するゼータ。数々の構成員と、
「マツシマ」
杖をつき、ナイフを手に持った男───ファミリアのボスがいた。
四郎の分析は完璧だった。高すぎる承認欲求を瓦解させないための自尊心は、自身の失態により自己肯定感を失墜させ、その空白を埋める場所に、四郎は綺麗に収まった。情報局幹部カペラの、美しき精神構造の美学であった。
「あんたを、仲間だと思ったことはなかったよ。」
「えぇ。私もです。」
「だが、いい共犯者だとは思ってたんだけどな。」
ナイフが鞘から抜かれて、切っ先が向けられた。トリガーが沈み込む直前。
「おい、わかってんのか?その意味をよ。」
ゼータの腕が、ナイフの柄を掴んでいた。
底の知れない、掴みどころのない男だった。四郎は、彼を最も警戒していた。
戦役で片足を失い、軍人年金すら満足に与えられなかった、戦場の亡霊。
「お前は、くそったれのサイコ野郎だ。」
ゼータの暴力が解き放たれる寸前、声が響いた。
「ここで、私たちは袂を分かつ。」
幕引きだ。四郎の声は、その老躯からは想像もできないほどの生気に満ち溢れていた。
腕を振りほどかれたゼータは、「好きにしろ」と言い残して人ごみの中に消えていった。ゼータの部下がボスに耳打ちし、彼がそれに頷く。
自動小銃を抱えた彼らは、四郎を素通りして甫を抱きかかえ、そしてゼータと同じ方向に消えていった。
「気を遣わせてしまいましたね。」
「いいさ、最期の手向けだ。」
気さくに言葉を交わしつつ、四郎は懐の武装に小さく触れた。それは、あのナイフを作り出した四郎にしか作れなかった、最新鋭の装備だった。
もし、まだエンケファリンが生きているのなら。彼女は応えてくれるはずだった。しかし、四郎はそれを使うつもりがなかった。もしエンケファリンが生きているのなら、それを許すはずがないとわかっていたからだった。
「地獄で会おう、マツシマ。」
「えぇ。きっと、また私たちは巡り合う。」
目を閉じた。
ナイフのトリガーは、なんの引っかかりもなく引き絞られたはずだ。それは、トリガー機構を設計し、造形した四郎だからこそわかったことだった。
独特な、かちり、という作動音がした。自身の存在情報が解析され、それが高ポテンシャルを意図的にすり抜ける光振動波に変換される。やがて、エンケファリンはそこに含まれた対象の姿形、座標についてを知覚し、力を行使する。
だって、彼女にはそれしかないのだから。彼女は、そうすることでしか、愛する男からの言葉を受け取れず、世界を識ることができないのだから。
「なぜ……なぜ、なぜなんだエンケファリン!私をっ、……なぜ私を!!」
激発した感情が、四郎を叫ばせた。魔法は、発動しなかった。
トリガーは正常に作動した。自分が設計した機構に限って、この土壇場で異常をきたすはずがない。それならば、松島四郎という人間を観測し、その姿を知覚したエンケファリンが、自身の力を行使しなかったということだ。
彼女は───幻聴する。
たすけて
どうして、もっと早く。
自分の生が輪廻の濁流に引き裂かれた時ですら、四郎はそうも感情を吐き出さなかった。彼にとっては、自分の人生を、自分の血脈の人生を捻じ曲げてでも、彼女を救わなければならなかった。
それが、彼女に負うべき責任を等分した、松島という血族の悲願だった。
懐の銃を抜いた。それは、火薬を発破させて弾丸を飛ばすような、古典的な武装ではなかった。
「エンケファリン、貴方を解き放つ。だから、頼む……頼みます。助けて見せるから、」
魔素走査型戦闘基幹システム───MSCS。
押し込んだトリガーが、眼前、ナイフをつきつける男を照準する。
頼む、頼む、頼む───心臓が鼓動を刻み、光信号がエンケファリンに届くのを待つ。その力が、還ってくるのを待つ。
待って、待って待って、待ち疲れて。
魔法は、発動しなかった。
「くそっ……くそ……どれだけ優しいんですか、貴方は。」
連鎖する銃声が、四郎の肉を穿った。飛沫ほどの血液が乱舞して、しかし、四郎を打ち倒すことはなかった。
ゆっくりと、四郎は歩いた。
ナイフの切っ先と、距離が詰められていく。
「オース、バルデリーニ、離れてろ。」
ボスの側近だった二人が、四郎の前に立ち塞がる。しかし、そのボス自身と、その片割れだった男が、吐き棄てるように言った。
「今、どこにいる。彼女は───わかるはずだ。その、ナイフなら。」
今、この世界に現存するMSCSの中で、エンケファリンと相互通信したのは、そのナイフだけだった。
最も彼女との繋がりが深いのが、そのナイフだった。最も彼女と通じ合ってきたのが、その男だった。感覚、それでも、茫洋と、空を見つめる。
「空の、彼方。」
あぁ、そういうことか、巽。
四郎は、笑い転げて、転がりまわって、そして、そのまま死んでしまいたい気分だった。
「他の妖精が、完成したのか。」
そして、巽はそれを、空の彼方───宇宙の牢獄に幽閉した。もはや、エンケファリンは、この地球にはいない。
そんな芸当ができるのは、人智を超えた力を持つ妖精だけだった。
松島巽はやり遂げた。龍見機関はやり遂げた。これからは、魔法の時代が始まる。
実現させるつもりなどなかった。絶対に、実現させないつもりだった。しかし四郎は、その武器に”システム”という名前をつけた。デバイスではない。それは、システムだ。
エンケファリンという中央演算処理装置を核とする、戦闘基幹システム。
闇はより濃くなり、いずれは地獄と見分けがつかなくなるだろう。
そんなときに、希望になり得る”本物”は、今は、もう。
「僕以外が、彼女に触れることは許さない。」
「では、貴方が死んだら、どうなる。」
「僕が彼女に触れられないのなら、誰も、触れられない。」
そのナイフだけが、あの扉を開くことができる。
そのナイフに認められた彼だけが、そのナイフを鞘から抜くことができる。
しかし貴方は、気付いていましたか?口の中だけで、四郎は呟いた。
「そのナイフの名前は、ファミリア・ナイフ。」
それは、彼だけで終わることのないナイフ。もっと巨大な呪いをため込み、何世代もの確執を呑み込まなければならない。
ここで、絶えていい筈がない。
だから、四郎はそのナイフに、彼の名前を組み込まなかった。そのナイフに、定期メンテナンスを義務付けた。
ある時期を境に、メンテナンスの時間が少しだけ長くなったのを、彼は気付いていただろうか。
「ぐ、、ぁ」
四郎の左胸に、ナイフの切っ先が差し込まれた。あまりにも呆気ないそれに、しかし、四郎は撃たれていなかった方の腕を吊り上げた。自身に突き立てられたナイフ。
そのトリガーの一段目を、彼の手に引かせた。
「いつか、……このナイフが、……私の手に戻ったとき……そのときには」
「もういい。マツシマ、喋るな。最期くらい、最期くらいは、休むんだ。」
引き抜いたナイフが一振りされ、血液が飛び散る。刀身を鞘に納めた感覚。その、鈍り。一拍の焦り。
そして、ナイフが抜けなくなっている。動揺、その狭間に、四郎はナイフを奪い取った。
「貴方の呪いと、私の血族の合流地点で、また会いましょう【 】。」
「まつ、しま」
喉元を掻き切る一閃。血液が、その軌跡を描く。
ファミリア・ナイフが、四郎の手に戻る。しかし、彼はもう、今生を終えている。そうではなかった。
次に、マツシマがそのナイフを握ったとき。そのときが───
ごぽごぽと血を吐き、マフィアのボスだった男が事切れる。どよめきが広がる。四郎は、手近なところにいた男にナイフを突き立て、トリガーを引いた。そして、それが鞘に戻るより先、自身の喉を掻き切る。
「最恐の呪いを連れてこい───私の孫が、それを呑み下す。」
皴の増えた指先が、次のボスを指さした。四郎が突き刺したナイフの傷を押さえた男。
松島四郎は直感する。
今、間違いなく、始発した。誰かがいつか、辿り着く。あの空の彼方の場所へ。
そしてそれは、彼の血族でなくてはならない。それまでは、あの場所は───
最終章 第四部 『空席の王位』




