Ep.83『始発点』
※本作は、植物や違法薬物にまつわる描写が含まれますが、麻薬・麻薬戦争をモデルとした架空の物語であり、実態とは異なる部分があります。また、著者は本作により、麻薬に対するいかなるスタンスも表明しません。
手の中のナイフを弄びながら、僕は訊いた。
「機関の活動は許容できる範囲を超えたと思うが、どうだ?マツシマ。
問題はもう東都国だけに収まらない。シニカは既に奴らの手に落ちた。エイジア全体が、危機に瀕している。」
ランプの中の炎はうざったいくらいに揺らめいていて、床に落ちた影が忙しなく蠢く。
マツシマは小さく唸り、言葉にならない苦悩をため息として吐いた。
「次に機関が狙うのはなんだと思う?妖精の力のパブリックドメイン化だ。武器をばら撒いて、エイジア中の金を機関に集める。僕が馬鹿だとでも思ったか?これくらい、すぐに気付く。」
「……えぇ、わかっていますよ。つまり、」
「つまり、奴が狙っているのは彼女だ。」
マツシマには言わせなかった。僕は、自分の指先で妖精を指した。
僕のベッドに寝そべり、この世のものではないような神秘的な光景を魅せる、銀髪の妖精。
「化学物質に眠る妖精───彼女のその真価を、機関が気付かないと思うか?」
ナイフを鞘から抜いた。
ゆっくりと、鋭く、輝きを放ち、しかし、それを嘲るような無感動な光沢をした刃が引き出される。
どん!と突き立てた切っ先は、テーブルクロスを容易に貫き、天板に半ばまでめり込んだ。
「あんたの息子が、気付かないと思うか?マツシマ。」
依然、マツシマの顔色は優れなかった。東洋人にしては高い鼻を、冷や汗が伝っていった。
「僕が彼女を眠りから目覚めさせた。僕が解き放ったんだ。彼女は、僕のものだろう。あんたのものですらない。僕のものだ。」
すぅ、すぅ、と寝息を立てる妖精。人間みたいな代謝をしているが、彼女は人間ではない。
そう考えれば、寝息に下腹を微かに膨らませるその所作すら、どこか不気味なものに思えた。
「あんたの息子にも、その孫にも。ファミリアの次のボスにも、絶対に、彼女は渡さない。」
「貴方は、」
「ぁ?」と応じた僕に、マツシマは一度言葉を切った。しかし、一呼吸置いて、続けた。
「貴方は、それほど感情を向ける相手の、その実存を。まだ、信じてあげないんですか。」
脳細胞がじゅくじゅくと奇妙な音を立てたが、回路はうまく機能しなかったようだった。怒りを司る脳内化学物質は、すぐに再吸収されて解けていった。
「確かに、彼女を目覚めさせたのは貴方だ。しかし、解き放ったというのは、虫が良すぎる。貴方はずっと、そうして、眠ることもなく彼女を監視し続けている。最後にベッドで眠ったのはいつですか?目覚めが億劫になるほど深く眠ったのはいつですか。
どうして、貴方は───貴方たちは、そんなにも窮屈そうにしているんですか。」
「あれが、一体なにから出来たのか、あんた忘れたわけじゃないよな。」
僕とマツシマは、確かにその実験に立ち会った。
塩基性の有機化合物から、地図を取り出す実験。それは、この世界という真偽不明の証明不可能な盤面を、解き明かすことができるかもしれない地図だった。
二次元世界に住んでいる生物が、立体を得るような実験。つまり、次元の壁───第四障壁を超えるための地図。
「それが、そこに眠っていたのは地図なんかじゃなかった。”人格”だ。なぁ、僕の幻覚なんだろう?あんたらは、僕の気が触れちまったから、見えてない女が見えているように振舞っているだけなんだろ?本当は、妖精なんていないんだろ?」
「私には見えてる。」
「どうやって証明する?」
「それは……」
「あぁ、そうだよな。それは、世界の実存を証明するのと同じだ。そして、それは不解決問題。解答がない空疎な証明だ。でも今、ある答えを導いた。あの妖精の実存を、」
掴んだ胸倉。引き摺り上げたマツシマの喉から、くぐもった嗚咽を聞いた。
「誰も、証明することなんてできない。いつ、僕の目の前から、忽然と姿を消してもおかしくない。」
拳に込めていた力を弱めると、マツシマはそのままどっかりと椅子に倒れ込んだ。眠っている妖精が、少し、身じろぎした。
「だから、閉じ込めている。悪かったよ、もう解き放ったなんて大口叩かないさ。でも同じように、」
マツシマの瞳の中に、昏い瞳をした男がいる。
「絶対に、解き放ってやらない。」
*
コーヒーを飲み、新聞を読んだ。
軍事政権真っ只中のこの国だが、ああいう軍拡主義の連中と僕らみたいな組織は相性がいい。互いに協力し合って、どちらかがどちらかを切り捨てるのが常だが、その趨勢については歴史上、僕らみたいな連中が生き残った例の方が多い。
「よかったな、マツシマ。あんたらの祖国は勝利した。」
苦々し気に僕を一瞥したマツシマは、ため息をついて僕にナイフを返した。
定期点検は毎回十分ほどで終わった。今回二十分近くかかったのは、奴が作業に集中できなかったからだろう。
「あんなもの、勝ちとは言えません。」
「あぁ、そうか。奴らがあの莫大な軍事費を調達しえた理由は、タツミ機関の暗躍のお陰だったな。誇らしいじゃないか。」
言った通りになっただろう?僕が含有させたその意思についてを、マツシマは正しく受け取ってくれたらしい。
部屋の隅、不思議そうな顔でこちらを視る妖精。いや、見えてはいないから、聞いていると言った方が正しいか。
視覚がないからこそ過敏になったのか、はたまた何かしらの第六感なのか、彼女は跳ねるように僕の背後に回り、
「愛してる。」
小さく、首筋にキスをした。
その頬を撫でて応える。
「さて、マツシマ。遠征をしようか。」
特徴的な泣きぼくろが、ぴく、と反応した。
「お前の故郷を灼く。」
「っ、それは……」
「あぁ、悪いと思ったさ。だから、東都を灼く。タツミ機関の本部の場所は、情報局でもわからなかったそうだから、可能性が最も高いところをやる。彼女を使えば造作もない。」
「全世界に知れますよ、妖精の存在が。」
舌を鳴らして、僕はコーヒーを飲み干した。
別にこれは、承認を得るための問答ではなく、ただの共有事項だったから、説得などという徒労は厭われたのだ。
別に僕は、事後報告だってよかったのに。やはり情報局の堅物にこういった機微はわからないか。
「僕はやるぞ、マツシマ。たとえ、あと何十年経ったとしても。」
「ずっと、眠らないつもりですか。彼女を守りながら、監視し続けながら、タツミと渡り合うつもりですか。」
蒸気が噴出して、巨大な箱の扉が開く。
スーツにヘルメットをかぶったマツシマは、これまでに見たどの姿よりも東都人らしかった。
「タリャーリナとアメリクス、ジュタ人も呼びつけた。観測装置は完璧だ。あぁ、明日からはやっとぐっすりと眠れそうだ。」
「……これは。」
「彼女の住居だ。誰にも奪われないように、誰にも従わないように、僕から、絶対に離れないように、全てが大丈夫な世界になるまでの間、彼女が眠る箱だ。」
「棺の間違いでしょう……おぞましい。私に、こんなものの設計図を書かせていたんですか。」
マツシマは、嫌悪感たっぷりの視線を向けてきた。
お前が聞いてきたんだろう。これから彼女を、どうするのか。
「彼女が盲目だったから、仕方なくこんな照準器を作ったが、」
ナイフをぶらぶらと振った。鞘から抜いていたから、マツシマはその軌跡から半歩距離を取る。
「今考えれば、素晴らしい采配だったな。」
僕がこんな簡単なナイフの扱いを誤ると思ったのだろうか。心外ではあったが見逃してやる。
「彼女は、この箱の中にいながら、僕の信号を受信し、僕に力を返す。」
「私は反対です。」
「なら本人に聞いてみるさ。」
不思議そうな顔で風を浴びていた妖精が、僕の視線を察して近づいてくる。
「これから、お前はここで生活する。僕とは少し離れることになるが、そのうち、大丈夫になったら迎えに来る。ちゃんとずっと見てるから。君なら僕の視線をわかるだろう?」
「……うん。私、ここで待ってる。」
何も映してはいない瞳は、普通の人間のそれよりも澄んでいるように見えた。背中に投げつけられたマツシマの舌打ちは無視して、ブリッジを操作する。
僕らが乗ったブリッジが、巨大な箱の搭乗口に接続する。
「僕が生きている証だ。」
ナイフを引き抜いて、トリガーを引いた。ゆっくりと最奥まで沈み込んだ。妖精を照準したナイフは、その座標情報を彼女の脳に直送した。
そうして、彼女は疑似的な視覚を得る。
そうして、自分の姿を脳裏で見つめる。
僕が見ている君の姿を、盲目の中で認識する。
「この信号を忘れるな。これは、僕が君に呼び掛けている証だから。」
「うん。絶対、忘れない。貴方のこと、忘れない。ずっと、待ってるから。」
撫でつけた銀髪の艶やかさ。指の隙間を通り抜けていく絹のような感触が、手放す寸前で酷く恋しくなる。それでも───
「おい!施錠しろ!」
名残惜しそうに絡めた指先を解いた妖精が、箱の中に後ずさる。ブリッジが駆動して、僕とマツシマが箱から離れていく。
不安げな瞳は、何も見てはいない。けれど、僕が彼女を見ているということはわかるはずだ。
棺だと?笑わせるな。僕と彼女は、この巨大な箱に隔てられていながらも通じ合うのだ。それが、棺?
これは鎧だ。もう誰も、彼女に触れないように。
東都国の首都、東都は、壊滅的な被害を被った。
どろりとした黒煙と、それに埋没した街並みの残骸。銀塩写真のモノクロームでもわかる、凄惨な有様だった。
やはり、妖精の力を奴らに易々と渡してやるのは惜しい。この力は、彼女は、僕だけが独占しているべきだ。
これが全世界の共有財産になれば、そこに需要が生まれ、供給が起こり、莫大な金が動くことになる。タツミ機関が狙っているのはそれだ。
だが、僕はこの所有権を決して放棄しない。
「いつまで被害者面してるんだよ、マツシマ。」
「は、ぁ……?」
僕が新聞記事を見せてやった途端ゲロを吐きやがったマツシマは、荒い呼吸のまま僕の方を向いた。口の端で粟立った唾液と吐瀉物が滑り落ちていった。
「僕と、あんたが生み出した力だ。僕らが始まり。始発点だ。これがどんな道を辿って、どこに終着するとしても。遡った先には僕らがいる。それは、絶対に変わらない。そして、遡る道の道幅は、綺麗に等分されている。」
「なに、言ってんですか、あんた」
「片方は僕に、もう一方は、……あんたに繋がってる。」
僕が考え出した。マツシマが実用化した。そして、今がある。
この現実の責任を、僕だけに仮託するなんて、それこそ虫が良すぎるだろう?マツシマ。これは、僕らが等分に背負うべき十字架だ。
僕とあんたは、運命共同体じゃないか。
「逃げるなよ、マツシマ。あんたが故郷を灼いたんだ。お前のせいだ。僕と、お前の所為だ。」
この現実を、僕がデザインして、あんたが顕現させた。それは、このナイフだって同じだ。作り出したのはあんただった。
僕が軽々しく引くこの引き金。その半分は、あんたが引いているも同じなんだよ。




