Ep.80『青い』
大陸戦争中期、人の呼吸のプロセスに端を発した理論物理学研究は、その後大戦終結後の時代に加速したMSCS工学によって飛躍的な進化を迎えた。
不安定な物質を圧縮させることにより中性子を弾き出し、その連鎖反応によって、これまで人類が手にしたことのないエネルギーが世界にもたらされた。誰もがその原資に驚愕した。それは、我々が何をするにも感じる重さという概念───突き詰めて、質量から得られた。
失われた質量は、光速度、という常識から外れていながらこの宇宙の常識である莫大な数値に乗算されて、それに応じたエネルギーとなって顕現する。質量とエネルギーの等価性、その発見であった。
やがて、これら核分裂による技術は、核融合へとバトンを繋ぎ、人類は戦略核ミサイルという終焉の兵器を手に入れた。世界は核燃料の濃縮プラント製造に躍起になり、大義名分を一網打尽にした軍拡競争は、世界会議の採択の一票に核弾頭の数を採用した。
そこで、魔素偏光という粒子(あるいは波動)と邂逅する。
物質とは呼べない。けれど、確かにこの世界に存在し、一説では質量を持つ可能性がある。おそろしく儚くて、あまりにも不安定。恐るべきことに、彼らには質量が存在した。
核兵器開発は、瞬く間に、理論物理学から、現代魔法学の領分となった。
魔素偏向は、魔法の発動、情報の伝達、魔法の結実、それら全てを請け負うワーカホリックな存在だった。彼らは、天文学的な数のインターフェースの塊であった。物質よりもよほど操作しやすく、製造が容易だった。
キツィリト連邦の魔法学者は、管制MSCSの並列処理によって魔素偏向の爆縮・分裂・融合(それぞれ通常の核兵器に必要な物理的なプロセスは必要なく、MSCSによる操作のみで行われた)を成功させ、空間を核爆弾に変貌させることに成功した。
魔素偏向が満ち、溢れている空間、それそのものを照準することで、もはやミサイルすら必要なかった。
アメリクスのCIM当局は、この実験をプロジェクト・プロムテネスと名付け、その燦燦たる結末を見届けた。
現在、広大なキツィリト連邦北部に広がる湖は、プロジェクト・プロムテネスによって生み出されたクレーターだった。数十年が経過した今でも、その場所で生命は生きられない。あるいは、生命以外も。
研究所や理論研究、実験用MSCSの筐体を含めて蒸発したいくつもの都市と、死に絶えた人々。未だ当時のキツィリト連邦魔法核開発局の学者がどうやってその技術を確立したのかは解明されていないが、CIMは全世界に対して異例の諜報活動を開始した。
この世界の学問領域の中で、その不可侵の学問領域に踏み入れた者は、直ぐ様に転向するか、精神を病むか、そうでなければ、不自然な死を迎えるかだった。踏み入ってはならない領域、魔法学者たちはそれを、あの湖の名前になぞらえて呼ぶ。
───ダーティーアリス。
当時、ダーティーアリス周辺の都市でソーシャルネットワークに投稿されたある文章。何を指しているかもわからないただの形容詞を、魔法学研究者はスローガンのように記憶している。ただ、一言───
「青い」
思わず呟いたアザルベーダの形容詞に、アステアもセスタもぴくりと反応した。
「あんまり言うものじゃないわぁ、そんなこと。」
「同感。」
「あぁ……!申し訳ないのです!」
半目の二人に見つめられて、アザルベーダは律義にも慌てて頭を下げた。それになんの反応も返さなかった薄情者の叱責者二人は、既に思考に入っていた。
アステアの脳内で、これまでリンネが捕食し、創造主に捧げてきた質量が。
セスタの脳内で、その質量が対消滅と同じ原理でエネルギーに変換されたときのTNT換算トンが。
「一週間もかけて作ったのに、一秒もかからずに世界を滅ぼせてしまうなんて。傲慢だわぁ、神って。」
実用主義者たるセスタが、天地創造を揶揄するというユーモアを見せつつも、神という非実在性についてを論じたのに、アステアは多少なりとも驚いた。しかし、自身のたった今見つめている存在───ゆっくりと空へ昇っていくその存在を前にして、それは実在性を得たのだと気付いた。
「いくら神でも、あんなのが相手じゃ厳しいと思う。」
モルヒネアは、ダーティーアリスを再現しようとした砲撃の餌食にはならなかったものの、追撃に踏み出せないでいる。次、あの一撃が放たれれば、確実に止められる保証はない。
セスタが空を見上げた。ため息も一緒だった。
「彼女、お友達の神様とかはいないの?」
「まだふざけるつもり……?」
アステアがふきかけた煙草の煙に、セスタは驚くほどの俊敏さを発揮して飛び退いた。
「いないなら仕方ないわぁ……もう一人───いえ、一柱、神に祈りましょうか。」
懐から取り出した端末。その表面を撫ぜて、セスタははぁ、とまたため息をついた。
「これで六十億アメリクスダラの損失だわぁ……リゼルキルトくんには、相応の方法で払ってもらわないと。」
女マフィア然とした風貌の細身の女は、たった今指先で数十億という金を動かしたという感慨もなく、冗談めかして男の名前を呼んだ。
その指先が、彼女の投資した人工衛星一つを灰燼に帰した。
立ち上がったセスタに倣って、アステアも腰を浮かす。立ち上った紫煙が鼻先を掠めて、セスタは端正な顔立ちの目許を歪ませる。
「撃ち上げられる?」
「威力が足りない。」
少し思案したセスタは、怒られるくらいなら一度黙っておこうと賢明で健気な気を利かせていたアザルベーダに水を向けた。
「貴方の力、彼女の弾丸にも適応できるかしら。」
彼女、との二人称は、セスタが指さした通り、アステアではなくモルヒネアを指す。アザルベーダもそれを了解して頷いた。
「可能であります。」
「それでいきましょう。」
話は終わり、というわけでもなかったが、自分の采配は決まったのだからと、アステアは一足先に屋根から飛び降りた。一拍遅れて、グランナダラシティに張り巡らされていた緑がアステアを攫う。
それを見届け、セスタは注射器───オーダーメイドMSCS『アーヴィング』───を取り出した。
「物質を疑似的に光速度に加速するとき、その物質に質量はあるの?」
「いいえ。完全に、光子に変質させますから。ただ、運動量そのままに、戻すことはできます。」
「高速度に近い慣性力ね。充分だわぁ。」
満足そうなセスタに、しかしアザルベーダは不思議そうだった。
「セスタ殿は、一体、どんな神の知り合いが居られるのですか?」
この娘、レトリックを本気で信じているんじゃなかろうか、と邪推したセスタは、キツイ視線と共に言葉を返した。
「アタシがこの世で最も信奉している神よ。」
それでもまだわからなそうな表情をしているアザルベーダ。さすがは元革命家・活動家である、とはセスタの思考の一端だった。
そういった連中は、悪い意味で真っ直ぐすぎるせいで、こうした穿った比喩表現への理解力が低い。平時ならば口から淀みなく流れた誹謗も、今ばかりは飲み込んだ。
「はぁ、」
飲み込めなかったため息だけ吐いて、セスタは頭上、夜空を指さした。
しかし、彼女が指した指は中指だったので、アザルベーダには突然の侮蔑だとしか受け取れなかっただろう。
真顔でピースを返したアザルベーダに、セスタの蹴りが飛ぶ。
もう一度、ため息を吐いて、屋根から飛び降りる。
「この地球で生まれた、世界最恐の神よ。」
*
どうして彼がこの日を選んだのか、やっとわかった。
セスタ・クリスタルベリーは、そんな思考に思わずほくそ笑んだ。
必要ならば伝える、そうでないなら伝えない。それは、自分と同じ素振りだと思い当たったからだった。
リゼルキルトという男は、人を薄情者の現実主義者と揶揄する癖に、自分にもその気があることに無自覚だ。
表情を装い直し、敵を見据える。
チャンスは一度、短期決戦になるだろう。事態は数秒で決する。その秒間に、セスタの一撃が滑り込めなければ───。
発砲が始まる。モルヒネアの姿が、地面を駆けるセスタには見えなかった。ボロボロの街並みに阻まれて、ということではなく、単純にモルヒネアの姿勢が低かったからだった。地面に仰向けに寝そべり、直上のリンネにフルオート射撃の戦端を開いたモルヒネアの姿を、見ることができるはずもなかった。
最初の一、二発は通常通りの銃撃だった。しかし威力は通常の銃弾のそれではない。巨大かつ異能の力を乗せられた、大砲やミサイルにも劣らない破壊力。爆ぜた腕の感触に、リンネが砲身を形成していくのが見えた。多腕が、ゆっくりと編まれていく。
アザルベーダ・ヴェスタは、瞠目して唱えた。
撃ち出された銃弾、二発を捉え損ねる。三発目は、決して放さなかった。
輝きが席巻する。光に成った少女は、次には、光の導き手となる。誰も、彼女を先導しない。彼女だけが、先導する。お行儀の良い少女───経歴ではなく所作が───だったアザルベーダが、珍しく凶悪な笑みを浮かべた。それはあるいは、天敵を威嚇するとき、本能が闘争に駆けあがっていく感覚に近かったかもしれない。
世界を救う、そんなお題目に、興味はなかった。
ただ、一心に。リゼルキルトという男に尽くしてみたかった。今、この状況が、まさしくそうではないか。
光に成った少女は、世界を救う弾丸を照準した。
光に成った少女は、ただ、自分の希望を、光に変えた。
奇妙な現象が起こった。
モルヒネアの撃ち出した銃弾。最初の何発かはいつも通りだった。しかし、明確に、ある一発から、射線が消えた。あれほどやかましく轟音を振りまいていた破壊力が、まるで消え去ってしまったような妙な焦燥感。その後に、閃光が瞬き、連鎖し、やがて、初めての音がやってくる。大地を揺るがすような、巨大な衝撃。
「死ぬときは、一緒だからね。」
モルヒネアの肩に寄り添いながら、アステアは呟いた。稲妻のように轟く強烈な重低音のせいで、囁きはビリビリに引き裂かれてしまった。けれど、言葉は音として存在する必要がなかった。ただ、唱えればいい。それだけで、モルヒネアとは通じ合う。
映像と音声が致命的に乖離してしまっている。五感という入力装置から入ってくる情報のなにもかもに、辻褄が合わない。古典物理学の世界を生きる人間にとっては当然の齟齬。
そんな不可解な一場面が、不可解な存在にめり込んで、撃ち抜かれた衝撃が、それを空の彼方へと吹き飛ばしていく。
様々な重火器の集中砲火に晒され、わざとらしく全身を震わせながら銃創を増やしていくスタントマン。アステアが頭上のリンネに連想したのはそれだった。案外リアルな描写だったのだな、という感傷はもう幾度となく思ったことがあった。
リンネから弾かれた弾丸が、条件を著しく間違えたグラフのようにねじ曲がった軌道を描く。方々に着弾するそれが、いくつもの噴煙を巻き上げた。リンネの身体は、順調に打ち上げられいく。
頭上、アステアは、ただでさえ乏しい表情を、更に真っ新にした。
砲身が組みあがっていた。
銃口と、目が合った。
雲を貫いたリンネの肢体。何千メートルと離れていても、分かるものなのだな。網膜が青く光る準備を始める。
リンネがこれまで完全に消滅させ、質量を消失させた莫大なエネルギー。今、この瞬間も、あらゆる質量をかき集め、己の姉の体重さえも費やして、数多の魔素偏向を喰らい、それを解き放とうとしている。指数関数的に膨張していく熱。
彼女は、たった一度にまとめて、ため込んだエネルギーを解き放つだけで良い。それだけで、熱量は伝播し、魔素偏向の質量から変換されたエネルギーが、ダーティーアリスを再現する。
視界の端で、アステアは流線を捉えた。恐ろしくまっすぐで、曲率などものともしない。
雪のように澄んでいて、氷結したようにキラキラと輝いていた。
「セスタ。」
リンネの砲身に、突き刺さる───凍結する───冷却する───炉心凍結。
撃ち出される熱エネルギーが、急速に奪われていく。
原子力という人知を超えた力に、所詮意図的である異能の冷却が拮抗しうる道理はない。そう長くは持たない。
「モルヒネア───!」
そのほんの少しの猶予に。
モルヒネアが、空いていた片腕を上げ、もう一つの自動小銃を構える。トリガーは軽い。弾速は速い。目標は遠い。どこまで───?
宇宙まで。正確には、大気圏をぶち抜いて、地球低軌道まで。
突如、リンネから噴き出した白煙が空に広がった。急上昇する高度と、圧倒的な熱エネルギー、セスタが放つ凍結の光線。それらが、ある終端速度を迎えつつある兆候だった。氷は融かされ、トリガーが押し込まれる、その。
小さくなったリンネの影、そこから広がる白煙の傘は、異常に大きい。遅れて、火薬や爆薬によって引き起こされたものとは全く違う爆発音が地表に届いた。噴火に近い音。成層圏で引き起こされた水蒸気爆発の音が、やっと届いたのだった。
セスタは、彼女らしくないほど必死で、余裕ぶった表情に脂汗を浮かべた。
人間の肉体が行えば簡単にキャパシティを超える異能の行使。MSCSの処理能力を借りていても、その出力の光線を放ち続けるのは至難の技だった。
ぴし、とアーヴィングの表面に亀裂が入る。既に、そのMSCSが耐えうる定格魔素偏向は超過している。それがまだ動いていたのは一重に、彼女の力が機関部の発熱と同時に冷却をも完結させていたからだった。ただ、その騙し騙しの運用にも限界が来る。
リンネの姿が掻き消える。大気圏の外側、その際まで近づいている。あの場所からは、魔素偏向がほとんど届かない。魔法的な物質であろうリンネの姿が見えなくなるのは道理。
「アザルベーダ!」
十分、高高度だ。
持ち込んだ電子機器やMSCSのほぼ全てが、回路を焼き切られて破壊されるのは惜しい、が決行する。
光が、瞬いた。
熱圏を飛び出し、外気圏の入り口で揺蕩ったリンネは、自身の凍らされた腕が、その凍結ごと打ち砕かれる感覚を得た。背後で、光が瞬いていた。既に臨界に達していた熱エネルギーが膨張する。突然に消し飛ばされたストッパーによって、炉心が過熱する───崩壊する───炉心融解。
青い。
青い閃光だった。
音は存在しなかった。熱エネルギーと光エネルギーが、宇宙をほんの一瞬染め上げて、その矮小さを、太陽が嗤っていた。
ゆっくりと開けた瞼が、昼下がりの陽光に眩まされるように、真っ白な世界は、すぐに真っ暗な世界に回帰した。
空気はほとんど存在しなかった。故、エネルギーの大半は光ばかりにフォーカスされ、地上であれば一国を薙ぎ倒しただろう爆風も、発生していないと言えるほどささやかなものだった。
人間が定義するのにも苦労するオーダーの秒間で、高エネルギーのガンマ線が解き放たれ、空気分子と魔素偏向の緩慢な波動に激突する。広範囲に散らばり、地上を焼き尽くした高エネルギー魔素放射線・電磁パルスは、ほぼ全ての電子機器と、魔殻コートを持たないMSCSを再起不能なほどに破壊しつくしただろう。
しかしそれも、地上約千八百キロメートルの地球低軌道上では、意味のないことだった。
リンネは直ぐに、逆噴射による地球への帰還を試みた。核爆発によって、リンネの身体は慣性を得ている。このままでは、宇宙空間へと追いやられてしまう。
まだ彼女は、自分が、地球にはないダーティーアリスに踏み入ったことに気付かなかった。
セスタはがくりと膝をつき、一体何が原因で起こったのかもわからない出血を、乱暴に吐き棄てた。その身体がふらり、倒れる直前。
いつの間にかそこにいたアザルベーダが肩を抱く。その脇には、気持ち悪そうにえずくアステアがおり、その表情は、信じられないようなものを見る目でアザルベーダを見ている。光速度での移動は、光ではないものにとっては全く健全な体験ではなかった。
アザルベーダの肩を振り払い、セスタは一人で立ちあがった。
「もうすぐ、届く。」
「……神々の魔法工学、迎撃階層。」
アステアも、セスタが眺めた空を眺めた。
ゆっくりと、夜が晴れる。沁みだすように、晴天が現れた。モルヒネアの姿が、ゆっくりと地面に埋没した。
「神、……」
アザルベーダは、やっと合点が行ったようだった。
資本主義が辿り着く、終着地。往々にそれは、航空宇宙事業。あるいはセンチメンタルな言い方をすれば、あの空の向こう側。
そしてそこには、それを裏付けるような、圧倒的な資本主義の結晶がある。それは、神の名を与えられていて、神の力を行使して、そして、実在している。
「資本主義、地球で生まれた最も恐ろしい神───実在の、神。」
セスタ・クリスタルベリーの背後、彼女が背負った青空に、神殺しの爆炎が咲いた。音はなく、通信端末の不快なノイズだけがあった。
故にそれを、神殺しの罰だと思うことにした。




