Ep.77『ソワレ』
地面に散らばっていた金属製のカトラリーが、銃弾のように射出された。壁に突き立てられて微かに欠ける甲高い音が連鎖する。
息も絶え絶えに身をすくめ、なんとかそれを避けきった私は、アリスに背を向けて走り出した。
「えん、たくと」
小さく、呟いたアリスの声に、何故か片足が硬直した。けれど、私は次の一歩を踏み出す。
ふらついた体がラックに激突し、そこに置いてあった調味料の小瓶やプラスチックの容器が落下する。鼻腔を刺激するスパイスの刺激臭。その上に振りかけられた液体状の洗剤や油が、更に異様な臭いを噴き出した。
リビングに転がり込んで、ゆっくりと歩いてくるアリスを肩越しに認識する。引き倒されて歪んだノイズを出す最新型のテレビを踏みつけて、中庭に飛び出す。
耳元を猛烈な速度で何かが通過し、くぐもった風切り音と共に、粘ついた感触を覚える。切り裂かれた耳から、血液が溢れ出していた。
自分の血液が引いたラインの先、地面に突き刺さったナイフが見えた。
じゅくじゅくと痛みだす耳朶を押さえ、勢いを失った走りがやがて身体を蹲らせる。
「あたしたちの神に向かって、偽物だと言った連中が、この力の前では無様に首を垂れる。この偽の神の力に、本物の神の力は及ばなかったってことさ。」
出会ったときからボロボロだった黒衣が、彼女の限界を示すように千切れ、ひとりでに地面に打ち棄てられた。
アリスはそれを、酷く無感動な瞳で見て、中庭に植わっていた鮮やかな色の花を愛でた。慈しむように、愛するように、貸し付けた。愛情の返済を迫られたその草花が、アリスの体に纏わりつき、黒衣の代わりを成す。
肩口に花を飾り、小枝で編み込まれ、柔らかな新緑に包まれたコート。煌びやかなステージで踊る踊り子のような、美しい衣装。その内側に持ち合わせている強さを、そこで体現するような。
アリスは、ロングスカートの裾を上げ、その美しい脚線美を晒した。
持ち上げられるスカートがそこを滑り、下着よりも先に、革製のベルトが露出して、両足を伝った。
じゃら、と解放されたベルトには、針やナイフ、注射器、鋭利な切っ先を持つ様々な道具が収められている。
だらりと垂れ下がり、彼女のふくらはぎのあたりまで達した武器庫の中、アリスの指先は、人体など容易く穿つだろう太さの針に触れた。
都合三本の針が、アリスの指先から愛を授けられ、それに報いるために、彼女の命令に従う。人体を穿て、と命じる。エンタクト・コンネクジェンの命の脈動を断絶せよ、と。
咄嗟に手をかざす。緩慢な現実しか見てこなかった私の目には、アリスの針の速さをはかり知ることはできなかった。寸分違わず、三本の針は私を穿つだろう。蹲ったままで咄嗟に握ったナイフ。地面に埋まっていたそれが、輝きを放つ。
「……同じ、力……?」
私は、自分が腕を振るったのに、その結果と自分の行動とを上手く結びつけることができなかった。
弾かれた針が回転しながら中庭に落ちて、その芝生に紛れ見えなくなる。私の手にしたナイフの刃は、上手く数えれば三つになるだろう刃こぼれがあって。私の腕のこの痺れは、上手く束ねれば三本の針を叩き落としたという手応えになる。
私にそんな芸当は不可能だった。だから、貴方がそうしてくれた。
「ありがとう。」
私は、手の中にあったナイフに口づけする。
中庭に植わっていた植物が戦ぎ、地面が隆起する。夜空に漂っていた暗雲が頭上を回遊し始め、アリスの背後にあったリビングの電化製品が不快なビープ音を鳴らす。
全部が、私を守るために行われた行動だった。
「撃て!『煌々星航』!」
はっとして立ち上がった。
アリスのホルスターに収まっていたいくつものナイフが、真っ直ぐに私へと飛び出してくる。
及び腰に差し向けた私の掌。そこにナイフが突き刺さるより前に、芝生が伸ばした手がナイフの柄を絡めとり、隆起した地面が方向を逸らせ、ぐわんと振るわれた巨木が切っ先をぺしゃんこにする。
あぁ、私の力は、本当に伝えてしまうんだ。
私の力は、きっと、アダムスの適合者の中で最高傑作だ。私こそが、愛情伝達子を司る異能を持つ。
貴方たちは、私に愛を与えられたわけでもないのに、そうして私を守ろうとしてくれる。正しくは、アリスを守ろうとしてくれる。
私がママのことを大事に想っているのが、彼女がママを愛しているのが、全部、言葉すら介さずに通じてしまうんだ。私が偽物だと称したそれが、適合者の異能では本物になってしまう。
貴方たちは、アリスが私を殺してしまわないように、そうして私を守ってくれるんだ。そうやって、私が愛すアリスを守ってくれるんだ。
「ごめんね」
私の前に立ちふさがる形になっていた巨木を跨ぎ、守ってくれたのにも関わらず私は芝生を踏みつけながら走ることになってしまった。それでも、彼らは機嫌を損ねることもなく、むしろ私が跨ぎやすいように少しだけかがんでくれたし、私の足裏を絶妙な加減で押し上げてくれたりした。
茫然とするアリスの隣を抜けて、リビングを駆け抜ける。
私は、愛情に見返りを求めない。彼らも、それを私に求めない。私たちは、本物でしか通じ合わない。
思い出させてあげる。気付かせてあげる。
ママが、どうしてほしかったのか。
「どうするつもりだい───エンタクト。」
私が立ち竦んだキッチンは、酷い有様だった。テーブルの上にも下にも違法薬物が散らばっているし、壁には血液がへばりついていた。地面には、元がなんだったのかもわからない調味料が、油や洗剤に攪拌されて泡立っている。
「言って。ママ。どうしてほしかったのか。」
「子供の我が儘に構ってられない。早く帰るよ。」
「ちゃんと言って。」
アリスは、自身の腿を垂れるホルスターに触れた。私はそれに、何も反応しなかった。それは、私の力と、感情を伝達された、このキッチンにあるあらゆる物質がそうだった。
アリスの指先で翻ったナイフが、その輝きの軌跡を躍らせた後、掻き消える。私に突き立てられるはずだったそのナイフは、私の頭の横を駆け抜けていった。
「できないよ、ママには。」
「ッ……あんたは……」
愛を司る神、愛を司る薬、愛を司る教団。その全部が偽物だ。
それらは全て、愛を司ると言っていながら、それとは正反対のものを象徴し、決して愛に真っ向から向き合おうとはしなかった。
だから私たちは、こんなにもどうしようもない状況で、親子喧嘩なんてしてるんだ。
「ママが言葉にできないなら、私が言ってあげる。ママは、どうすればいいか知らないんだ。どうやって気持ちを伝えればいいか、どうやってそれを証明すればいいか。」
私は、とある男を思い出していた。
自分は全てを俯瞰しているんだ、という顔をしながら、その実、誰よりも入り込み、雁字搦めになっている男。吐くのは実体を持った吐瀉物ばっかりで、それ以外は吐血とか喀血くらいだった。彼も、言葉にできなかったんだ。
言葉にするのが難しいのなら。
「私を愛してるって、ちゃんと証明してね?ママ。」
「なにするつもり……っ!?」
アリスの足元に広がっていた油が発火する。炎は、まるで生きているようにうねり、アメーバみたいに手足を渡していった。
炎の壁が、私を取り囲んでいる。
炎が怖かった。それは、復活を象徴する概念だった。それは、恐怖を象徴する概念だった。
炎に安心するようになったのは、いつからだろう。それがもたらす悲惨な現実を知りながら、そこから放たれる温かさに頬を緩めるようになったのはいつからだろう。炎が象徴していたとある男の姿が、全く別の男の顔に変わったのは、いつからだっただろう。
何も言わずに通じ合えるほど、私たちの愛情感知器官は鋭敏ではないし、愛情伝達子は万能ではない。だから、私たちは言葉を使い、相容れ、あるいは相容れなかったりする。けれど、人間の凝り固まった自意識も、それと同じくらい難しい。
ずっと閉ざしてきた口を、もう何も注ぎ込まれたくないと、固く閉ざした心を、自分でこじ開けることがどれだけ難しいか。
言葉で伝えられないなら、肉体を使って、体現して。アダムスでも、教義でもない。貴方が悪戯に支払い続けたその身体で、証明して。
「愛はね、強要されても、過剰過ぎても辛い。どっちも、苦しくて、楽しくないよ。」
炎を見た。
炎を見た。
それは、彼が生み出したあの炎に似ていた。
あの炎が、私に本物を思い出させた。私にとって、ただ恐怖の対象でしかなかった熱を、貴方はどこからか奪い取ってきて、私に授けた。貴方は、神を裏切ったプロムテネス。
ばしゃり、と音がして、私の身体を冷たい感触が舐る。アリスが振るったバケツの水が、私に降りかかった。そうして、炎の壁を突き抜けたアリスが、私を抱きしめる。
教えてあげる。彼女がしてほしかったこと。私がしてあげたかったこと。ママがしてほしかったこと。
抱きしめて、欲しかったんだ。
愛情は一方通行じゃ辛くて、愛情は偽物だと興が冷めて、それでいて、簡単に通じ合う方法がある。
そうやって体に腕を回して、強く抱きしめて、温もりを与えて、心を通わせて。そうすれば、必然、私を抱きしめる力も、その体温も、流れ込んでくる。
私は、満足できただろうか。
あの夢の世界から、私の願望を持ち出してこられただろうか。
「ずっと、抱きしめてあげられなくてごめんね、エンタクト。」
でも、きっと大丈夫。私はあの夢の世界から、貴方を連れ出してあげられた。
ママは、炎と共に甦った。
あの夢と、この現実を隔てていた炎の壁を突き抜けて、アリスは私を抱きしめてくれた。
くぐもった音がした。何か、重量のあるものが落下した音だった。見れば、アリスの肩越し、キッチンの向こう側。リビングの天井が崩落して既に壊れていたテレビを粉砕していた。
「あたしは、多分もう、助からないな」
ママは、疲れ切った笑い声を出した。諦めたようだとも思った。
「このまま……一緒に死んでもいいよ。」
私に回されていた腕が、ぴくりと硬直した。
本当に、いいんだよ。私は、ママと一緒に、このまま、愛情の中で死んでも。
キッチンの柱に亀裂が走り、タイルがひしゃげて破裂した。どこからともなく土埃が立ち込めて、不穏な落下音が相次ぐ。
「あんたは駄目だ。あんたはこれから、娘を自分好みに改造した最悪の母親と決別して、憎みながら、自分の人生を生きていく。」
ふるふると首を振った私を、ママは見なかった。
「こんなところで死んじゃいけない。こんな奴と死んじゃ、駄目だ。」
「私は……」
私は、ここが最期。炎と共に始まって、炎と共に終わる。それでいい。だって、この熱はとても、心地がいいから。
「その炎に、賭けてみろエンタクト。」
ソワレ、ママがそう呟いたのが聞こえた。
これまで教会で過ごした日々の中で、私がアリスに貰った全ての愛情。貸し付けられたその全てが、ここで死のうとする私の行動を縛り付けた。
「これで、全部返してもらった。あんたはもう、あたしになんにも返さなくていい。だから、───」
ぐい、と引っ張られた。私をママから引き剥がす力は、衣服を引っ張るだけで飽き足らず、やがて私の身体すらも引き摺って、そして私は射出された。私はそうやって、アリスから貰った愛情を返済させられた。炎を突き抜けて、家の外に放り出される。
地面をごろごろと転がり、やっと見上げた場所。アリスがいる家の二階が、とうとう崩落した。柱を含めた壁がぺしゃんこに潰されて、その莫大な力が、柱だけになった一階を容易に押しつぶす。
瓦礫に呑まれる寸前、私の勘違いじゃなかったら。
「愛してる。」
彼女は、そう言っていた気がした。
ラザロ教団、教団会議ベスティアリス大司教の身体はそうして、何トンもの石材に押し潰されてぐちゃぐちゃになった。
*
「ママって、なんのお仕事してるの?」
今日は珍しくママがおやすみだったから、ふたりでテーブルに向って絵を描いた。
ママが描く絵は全部上手で、特に、フリフリのドレスとか、綺麗なお洋服は本物みたいに見えた。そのうちのいくつかが、ママがコートの下に着ていく服によく似ていたから、私はママにそんなことを聞いた。
「あたしはねぇ、夜会に行ってるのさ。」
「やかい……?」
ママは、面白くないからという理由で私が使わなかった黒の鉛筆で、見たこともない言葉を描いた。
スパー語とも、タリャーリナ語とも違う、不思議な文字だった。
「ソワレ、って読むのさ。」
「そわれ、……綺麗。」
「っ……ふふ、そうかい?なら、あんたは素敵な夜会に行かなくちゃね。」
私を撫でまわしたママの手。心地よいそれに身を任せているうちに、ママの夜会は素敵ではないの?という質問は、タイミングを逃してしまった。それでも、わざわざこの心地よさを手放して好奇心を満たそうとは思わなかった。
「あるとき、夜会で出会った男がいてねぇ。そいつは、初めて夜会に来て、緊張でカチコチだったよ。それが、なんだか可愛く見えちまってね。気づいたら、昼も会うようになった。」
ママが見たことのない顔をしたから、私はそれを珍しがって眺めた。
嬉しい、とも、悲しいとも違う、まだ、私が知らない言葉でしか表せない顔。
「大したことない男だったけど、あたしに釣り合うようにって、仕事を頑張ったり、慣れないエスコートをしたり……それで、充分立派な金を作ってきた。正真正銘、自分の力で稼いで、全部が綺麗な金。あたしを夜会から連れ出して、ふたりだけの夜会を開いて、幸せに暮らすのに十分な金。」
「ママは、どうしたの?」
「抜け出した。そいつと二人だけの夜会をして、あたしは、もう夜会には行かなくなった。その代わりに、踊りをするようになった。ステージに立って、みんなを楽しませる。幸せだった。」
その人は、どこに行ったの?私の目は、言わなくてもわかってしまうくらいにそう聞いていたのだろう。ママは呆れたように笑いながら、私の頬を突いた。
「死んじまったよ。昔っからの病気でね。でも、心底幸せそうに死んでいきやがったよ。あたしと、あんたを置いてね。」
私はそこで、その人、というのが自分のパパだというのに気付いた。はっとした私に、ママはけらけらと笑った。
「いつか、あんたも出会うときがくる。こいつにだったら、人生めちゃくちゃにされて、先立たれたっていいかもな、って思うような人が。」
ママが可愛い顔をしたから、私は思わず、その頬にキスをした。
ママはそれに少しだけ驚いて、私を抱き上げた。ぐるぐると回って、小さい部屋の中、ふたりの笑い声が回転する。
枕元に置いていた携帯端末が振動した。
胸の奥の方にじっとりと残っているエチル・クフールの気配。昨日寝る前に吐いたのに、酒は充分に抜けていなかったみたいだった。不快な頭痛に顔をしかめて、少しだけ違和感のある視界で端末の画面を見る。
送信者はマツさんで、文面はパーティーへの招待状だった。
今度開催されるカルテルの夜会。コンパニオンの数が足りないから、少しだけそこを手伝わないか。
酒も飲まなくていいし、好きなように振舞っていい。そんな風に書いてあったから、すぐに了承の返事を送る。マツさんは東の方のどっかの国の出身で、その国のイメージに違わず仕事熱心だ。すぐに返事が返ってきた。
私の目は、ある二文字を追っていた。何度も、その単語を往復する。
夜会───どうしてそんなにもその言葉に惹かれるのか、よくわからなかった。
私は、なにを求めてそこに行くんだろう。ただ、アンタニオスを騙った男を諜報するという任務しか持っていない私が、これ以上何を求めるのか、それがわからなかった。
夜会の日、私は自分の車で巨大なビルに乗り入れて、案内されるまま控室に入った。時間になると高そうなスーツを着た粗野な男が迎えに来て、女たちを会場まで案内した。定刻になると音楽と共に夜会が始まり、少し遅れて鼻につく外人が入ってきた。
多分、その外人のために催されたものだったんだろう。
私は、アンタニオス、と呼ばれた男を見つけたから、彼を連れたってベランダに出た。
私が夜会に期待していたものは、どうやら得られないと、見切りをつけていた。
何も考えずに彼に連絡先を聞いて、貴重な情報は得られたから、帰ろうとした。
「肝が据わった女だな、あんた。」
彼は、呆れたように私に言った。そのまま背を向けて、さっさと帰ろうと思っていたのに、自分が何か間違えてしまったような気になって立ち止まる。彼は、どうにも掴みどころがなかった。
達観しているように見えるのに、少しだけ笑った表情には、妙なあどけなさを感じる。
「……なにが」
私は、何を間違ったのか。彼に、そう問いかけたつもりだった。
そうして、彼は私に言ったのだ。お前はそのままでいい、そのままが魅力的だ。死ぬまで一緒にいよう、みたいなことを。嘘。本当は、もっと適当だった。でも、私はそれが、なんだか嬉しくて。そして、それが、私の期待していたものだったんだって、そう思った。
そう、確か。彼はこう言った。
「わからないならいいさ。死ぬまではそれでいけ。」




