Ep.76『McTwisp Scut』
誰かに、怒られている夢を見る。
多分、私が悪かったんだろうな。その人はとても怒っていて、私は泣きながら謝った。部屋の中に当たり前のように存在する椅子や本棚、デスクライトが、どうしてそうも当然のようにそこに存在するのか、不思議になった。
自分のアイデンティティを強く揺さぶられたことで、実在性について考えてみたくなったんだろう。あるいはそれは、現実逃避という言葉でまとめてしまってもよかったかもしれない。
私はその人の手を取って、精一杯の謝意を示した。できるならば、その手で頭を撫でて、抱きしめて欲しかった。でも、毎回結末は変わらない。
その人は私を蔑むように見て、すぐに離れて行ってしまう。
カッターで神経質そうに錠剤を分割して、長くて綺麗な髪を掻きむしりながらそれを服用する。やがて彼女は「夜会に行ってくる」と言い残して出ていく。
派手なドレスを地味なコートで隠して、足早に夜の街に歩いていくその背中を、酷く凍えた手で追ってみる。
*
自分がどうしてここにいるのか、正直なところあまりわかっていなかった。
私が消極的に死にたがっているというのに、彼は気付いていただろう。
これは、私に用意された死に場所なのだろうか。だから彼は、なんの逡巡もなく、私をこの戦場に誘ったのだろうか。
きっとそうではない。私はそれを知っている。
彼がどうしてこの戦場を生み出すに至ったのか、そして、私を連れてくるという選択肢に躊躇わなかったのか。彼の選択に関わる作用機序の細部についてを、私は知っていた。あるいは、彼と共有していた。
私は彼に、許されたのだ。
この場所に連れてくることを許された。カルテルのために戦うことを許された。
私を、本物にすることを許された。
「やっと見つけた、エンタクト。」
その人は、私にとってなくてはならない人だった。
きっと私は、その人にとってなくてはならない人だった。
「久しぶり……アリス。」
ラザロ教団、教団会議ベスティアリス大司教。そして、教会で常に私に愛を注ぎ続け、私を世話してくれた人。
偽物の私を、本物のように扱い続けた人。
ゆっくりと歩いてくるアリスは、尋常じゃないくらい汗を掻いていて、それと同じくらい血も吐いていた。ずるずると足を引き摺る動作が痛ましくて、思わず私の方から駆け寄った。私はこの人を、どうしてあげたいんだろう。
焦点の合わないぼやけた瞳。流れ出る汗は、肉体の限界を精神力が超越したことによる肉の落涙だ。既にアリスは行動が許される体ではなくなっていて、そんな身体を行動に駆り立てるのはアダムスの力だった。
「あぁ……!愛しているよ!エンタクト!よかった、さぁ、踊ろうじゃないか!」
「アリス……でも、身体が」
「ほら、あたしが教えた通りに踊るんだよ!」
アリスは私の手を取って、こんなにも愉快なことはないとステップを踏んだ。彼女に握られた掌から、冷たすぎる体温が感じ取れる。
アリスに教えて貰ったダンスの記憶。誰もいない教会、ふたりでテーブルを片付け、長椅子を端に寄せた。月光が差し込む教会の真ん中、私は彼女と踊った。
過去の記憶を無意識に思い出したのは、久しぶりだった。まだ五年もないこの畢生の中、想起とは、自分でも驚くほど不可解な行為だった。私には、思い出すというほどの過去がないし、仮に思い出したとしても、それは偽りの畢生で。
私ではない彼女の畢生を、私は知るのが怖かった。
「帰ろう?エンタクト……こんな教団なんて捨てて、このクソみたいな現実からも逃げ出す。あたしたちはまた、ふたりで愛を分け合おう。こんな偽物、必要ない───!」
くるくると回転して、私たちは死体と硝煙に塗れたラテンアメリクスの戦場に、不格好なボールルームを呼び出した。
確か、貴方が私にダンスを教えてくれた夜。疲れ果てて寝そべった私の前で、貴方は一人だけの踊りを演じた。それは、この無感動な精神に微かに作用して、私はそれを、数少ない記憶の中で鮮明に憶えている。
黒衣は華麗なパーティードレスに見え、月は地球を周回するミラーボールだった。
私は、踊り狂うアリスと一緒に、へたくそなステップを踏み続けた。
貴方に一体なにがあって、なにが貴方を駆り立てるのか。アリスの中に埋没している受容体が、どんな感情を湧き上がらせるのか。それを勝手に書き記すのも、覗き見るのも失礼な気がした。やってはならないことだと思った。
私の中には、もう一人の私がいる。
自分のことを私というエンタクト・コンネクジェンと、私に彼女と呼ばれるエンタクト・コンネクジェン。私は彼女のことを覗き見る資格がない。私ではない私がいるから、私ではない誰かにそう思う。
アリスのステップは熱を持ち、翻る黒衣に、あの日見たコートを追憶する。私が伸ばした届かなかった手のその向こう側、翻るコートの姿を見る。
軽やかな身のこなしで最後のステップを終えて、アリスは小さく一礼した。観客は死体くらいしかいない死者の舞台。喝采もカーテンコールもない小さな舞台。破壊し尽くされた街の中、晴れやかな顔のアリスが云った。
「水が飲みたい」
*
どうして今、夢のことを思い出す?
コーヒーを飲んだ。紅茶を飲んだ。ワインを飲んだ。ビールを飲んだ。シャンパンを飲んだ。美味しいと思った。でも、満たされなかった。私の目の前で、綺麗な女の人がコップにミネラルウォーターを注ぐ。蒸し暑い夜。
喉が渇いて目が覚めた私に、その人はグラス一杯の水を注いでくれた。
夢の中で得た味覚なのに、夢の外で得たどんな味よりも私を満たしてみせた。
この夢はなんなんだろう。
どうしてここに来てから、こんなにも思い出すんだろう。
私は、この夢でどうしたいんだろう。
こんなにも繰り返すなら、こんなにも思い出すなら、きっと私はこの夢に何かを求めている。夢の向こう側にある何かを希求し、それを現実の世界へと持ち帰ろうとしている。
私は一体、どうしたい?
コップに残された水を飲み込んだ。
言葉が、出てきそうな気がする。私のこのちっぽけな脳みそが、幼げな小さい身体を震わせて、言葉を放とうとしている。
その衝動に任せてみればいい。今の私にはできないこと。夢の中なら、できるかも。
私は言う。
「抱きしめて」
貴方は、驚いたような顔をする。
私はそこで気付く。
これは、私なんだ。私が知らない、私の話。
私はこの夢の世界から、彼女を連れ出してあげたいんだ。
*
アリスは手近な家のキッチンに侵入して、ひびの入ったグラスで水を飲んだ。
瓦礫が直撃したのかはたまた魔法か、その家には壁と呼ばれるようなものがほとんど残っていなかった。柱だけで辛うじて立っているだけの荒ら屋は、いつ崩落してもおかしくない。それなのに、アリスは水を飲んでキッチンのテーブルに突っ伏して、うとうとと微睡み始めた。
「壊れたら、潰れて死んじゃう。」
「あぁ……そうねぇ……でも、疲れて、喉が渇いたんだよ。」
私が差し出した手を取ろうとして、アリスの手がグラスを弾く。ぐらぐらと傾いたグラスは、テーブルの上で半円を描き、ついには地面に落下して砕けた。グラスを粉砕する甲高い音が、静かな廃墟を残響する。
「アリス……」
どうにかして、彼女を立たせてあげないと。
こんな危険な場所を脱して、全てから逃げ出して、逃げ出して、逃げ出した果て、どうするのだろう。
私には、本物がない。
偽物から沁みだした出涸らしみたいな選択肢に、本物の正解が含まれている筈もない。そんな風に思った。
取り敢えず、アリスをこの場所から遠ざける。それだけに精神も身体も費やそうと決める。けれど、しなやかな彼女の身体は、女性性の皮下に逞しい筋肉を蓄えている。私の細腕で力ずくの選択肢が取れるとは思わなかった。
思わず貴方が立ち上がり、貴方を昂揚させ、その血圧を高める薬理作用を持つ言葉。夢の世界から借りてくる、私ではない私の言葉。
「夜会になんて、行かないで。」
ばっと顔を上げたアリスは、信じられないようなものを見る目で私を見た。そして、すぐに発奮した。
振り回した腕が、テーブルに置いてあったケースを薙ぎ払い、不快な音を立ててカトラリーが地面に散らばった。まるで手品のように、その中からナイフがひとりでに立ち上がり、アリスの掌に握り込まれた。
切っ先が、寸分たがわす私を向いている。その煌めきの向こう側、揺らぐ貴方の瞳が、恐怖で揺れている。
「思い出した……?あり得ないッ……あんた、何を吹き込まれたんだい!?」
震える手でプラスチックのピルケースを取り出して、アリスはその中身をテーブルにばら撒いた。様々なデザインのアダムス。私と、アダムス。視線を何度も往復させて、アリスはやっとのことで二粒ほどのアダムスを摂取するに至る。
それは、彼女に異能の力を授け、その恐怖心を鎮める特効薬。アリスの手の中からナイフが消える。
次の瞬間に、肩口に鋭い痛みを感じる。思わず苦悶の声を漏らす。裂けた肉から、血が零れていた。石造りの柱に、尋常ではない力でナイフが突き刺されていた。
「愛を……あたしの愛を!誰に穢されたッ!?」
アリスの腕が私の首を掴み、締め上げられた気道が奇妙な空気の音を出す。かっと顔が熱くなり、一瞬だけ腕の痛みを忘れる。
白熱する視界。理性を忘れたように発狂するアリス。毒キノコでも食べてしまったのか、出されたケーキに盛られていたのか、あるいは、アダムスが彼女をそうさせたのかもしれない。
アリスは、掴むことも出来ない何かの尻尾を、必死に追いかけている。
「そんな偽物の愛を!誰に!」
彼女が偽物と言った瞬間、その瞳に浮かんだ微かな動揺。私の首を締め上げる握力も、そのときに少しばかり緩んだ。
白み始める意識の中で必死に腕を振りほどき、幸運にも、私の腕から弾けた血液が、彼女の眼球を舐る。
アリスが怯んだ拍子に扼死の危機から逃れ、テーブルにぶちまけられていたアダムスを口に放る。
「ッ!エンタクト……!」
アリスは、絶対に私にアダムスを摂取させなかった。
愛情伝達子。言葉にせずとも愛情を伝達し、心を通わせる。私たちの会話に内在した摩擦力と、それが生み出す痛みを取り去ってくれる、そんな薬。愛を司る、薬。
貴方自身が、それを偽物だと結論付けていたからじゃないの?
だから貴方は、愛を司る薬で、私と通じ合わなかった。
アダムスに内包された生理活性がぱっと弾けて、脳の受容体から脳内魔薬がどろりと溢れ出す。頭蓋の中を満たしていく多幸感の塊。ねばついて、喉元までどろどろの愛の言葉がせり出してくる。やがて、私に適合する。
きっと私はとびきり甘えた声を出した。それは、アダムスの中に眠っていた、愛を司る因子がそうさせたのかもしれない。しかし、これだけは言えた。きっとその言葉は───彼女が言った。
「ママ。」
エンタクトとエンタクトを接続し、伝達する。心を通わせる伝達子。
誰かの自分史を覗き込むこと、誰かに埋没した作用機序を読み解こうとする試み。私はそれを許せない。でも、きっと貴方なら許してくれるよね。だってエンタクト・コンネクジェンは、私なんだから。
愛が欲しくてたまらなくて、愛を与えられすぎて無際限に乾いてしまう女の子。そんな私たちを繋ぐ、愛情伝達子。私の望みを教えるから、貴方の望みを教えて?
遡行する、エンタクト・コンネクジェンの人生。切り拓く、『私の知らない自分史』。
*
「お前も、自分が信じたいものを信じてみたらどうだ。この仕草は、数年しかないエンタクトという人間の、こういう性質から生まれ出でたものであると。今、こう思った感情は、確かに自分が獲得したものだと。」
リゼルキルトは、他人事みたいにそんなことを語った。実際他人事だった。
彼は、自分の本物を信奉している。正確には、彼が本物だとしたものを、信奉している。彼は、脳内化学物質の仮初の快楽を、妄信しているんだ。そして彼が言った通り、自分が或る根拠を持ってそうだと信じたものは、他の誰にも否定できないし、肯定できない。このまま、フラットアーサーになってしまおうか。それもいい。
だから、その一歩として、彼のその言葉に倣ってみよう。
「私は、私として生きていける。だって貴方は私だから。貴方を塗りつぶした偽物じゃない。貴方と混ざり合った、本物だから。」
私に根付いた幼気な仕草は、私が記し始めたこの自分史は、私が感じた、あの微かな安らぎは。
全部、私という人間が生み出した本物で。彼女が持っていた本物だ。そしてあるいは、遺伝という伝達子によって、ママから受け継いだ本物。私は今、初めて、あの炎を抜けた。
彼女の人生の最期と、私の人生の最初。そこに横たわった、熱く、猛る炎の壁。愛情伝達子は、その壁を抜ける。言葉を交わせない私たちが、本物の共感を得られる、唯一の手段。
話せる相手がいるのなら、伝えたい感情があるのなら、本物だと信じられる何かがあるのなら、それを教えてアリス。
貴方と私はまだ、アダムスがなくても通じ合える。
「そこにあったんだ、『私の知らない自分史』。」
アリスは血まみれの腕で頭を押さえた。苦悶に歪んだ表情が、煮え切らない瞳で私を見る。
「我が儘だったんだ、私。ママが夜会に言っちゃうのが嫌で、我が儘言った。自分勝手に愛を求めて、ママに愛を与えようなんて思わなかった。」
「うるさい」
「自分だけ!……愛されてれば、それでいいって。」
「うるさい!!あたしは、あたしはねぇ……!」
言葉を吐こうとした。けど、ママは私に何も言えない。
実の娘の人格を漂白して、自分の望むままに作り替えた。私はそれを、どう思ったんだろう。
「喉奥を擦られるだけじゃ、気持ち良くないよ。自己満足じゃ、多分、駄目なんだ、ママ。水を差しだして、それを分け合って───愛情の返報性なんて、馬鹿みたい。」
細い指先が、テーブルを這った。アダムスを摘まんで、アリスはそれを飲み干した。
「煌々……星航……」
小さく、詠唱する。
貴方には、まだそれが必要なんだ。
強引に愛を貸し付けて、それを取り立てる返報性の力。愛が欲しくてたまらない貴方が、健気に実践し続けてきた愛情の性質。
その一方通行の愛に、私はえずいてしまった。きっと貴方もそうだった。貴方が毎日出かけていく夜会で、貴方は一方的な愛を注がれて、その身体で返報性に殉じることを求められた。
獣欲は資本主義という神の権能によって金に変わり、それが愛情という言葉でコーティングされて、貴方の喉元を往復した。貴方はそうやって、愛を支払ってきた。取り立てられてきた。
あの子の望みを教えてあげる。私の望みを教えてあげる。ママの望みを教えてあげる。
ベスティアリス大司教は、不敵に笑って呟いた。
「おいでよ、『煌々星航』。」




