Ep.73『そうして僕は今日、君の肌に触れる。』
セスタの書類に記されたいくつもの自分の名前に、僕はキャパオーバーを引き起こしたんだと思う。
セスタに何度も「愛してる」と言わされて、自分のこともわからなくなっている間に、僕は彼女に車に乗せられて、彼女の社長室まで連れていかれて、気が付いたら、同じベッドに入っていた。
彼女の腕の中は心地よくて、僕は、本当にいつぶりなのかもわからない深い睡眠の中に落ちていった。それでも、ずっと、彼女が僕を撫で続けていたことを、強く、強く抱きしめてくれていたことを、ちゃんと憶えていた。
目が覚めたときに、僕を見て微笑んだセスタのその表情。僕はきっと、それがどんな感情を含有した顔で、それを僕に向けた女が彼女だけではなくて、そこに、或る答えが見えることを、分かったんだと思う。
実用主義者のセスタ・クリスタルベリーは、ただ、僕にそれを伝えるためだけに、一晩を費やしたのだ。果たして、その時間があれば、彼女はどれほどの金を動かしただろうか。それでも、彼女は優先順位に則って、僕に一夜をくれた。
だから、その選択肢を選ぶことにする。コップ一杯の水を分け合い、誰かの一番になり、分不相応な憧憬と決別する。君たちを遠ざけるのをやめて、君たちを、なんの根拠もなく妄信して、信じてみることにする。
君の肌に、触れてみる。
*
「き、来たんだ……リゼルキルト。」
閉店した後のアイスクリーム屋を訪ねた僕を出迎えたのは、どういうわけか目を合わせてくれない妹の方、ルムだった。
「都合が悪かったか?」
「別に……いい、けど。」
くるりと背を向けたルムは、最低限の身振りで僕を迎え入れ、しかし、それ以上はなく自分の部屋に引っ込もうとした。言葉で制するのが面倒くさかったから、手を引いて歩みを止めさせた。振り払われるかと思った手は、存外華奢な力で握られて、ゆっくりと解かれた。お前の怪力はそんなものではないだろう、とは、流石に口に出さなかった。
「な……なに……?」
僕に掴まれた手をきゅっと抱きしめて、ルムは振り返った。少し紅潮した頬と、ふわふわした声色。
どうやら、自分の立ち位置というものは、ちゃんと理解してもらえたようだった。
僕は今度こそ、彼女に礼を言わなければならない。あれだけ言葉を尽くしてもらって、それでも分かり合えなくて、しかし、そんな情けない男に、最後まで微笑んでくれたルムに。
「傷つくことを恐れない。結構、難しいもんだな。」
「……!そう、ね……でも」
「……あぁ。」
「私は、それがいい。」
私たちが傷つくことを、恐れないで。ルムはそう言った。自分よりも大事な姉のことを傷つけられて、その遠因である僕を前にしても、そんなことを宣った。今わの際、残り少ない言葉の残弾を僕に割いたメルと、少しだけ似ていた。
「お前らを傷つける。僕の地獄に巻き込まれてもらう。でも───それでもよかったと思うほど、僕に救われてよかったと思えるほど、幸せにしてやる。」
ルムの瞳が揺れていた。他になにも見えていないんじゃないかというくらいに僕を見つめて、微動だにしない。引き結んだ口許は、何を表しているんだろう。緊張、不安、あるいは拒絶。でも、もうその手を放してやるつもりはない。
ゆっくりと取った手。細く、しなやかで、それでいて、精密に造形されている。真っ白な指は完璧なバランスで先細り、その先に、綺麗な爪が乗っている。柔らかな感触は、少しだけ強張って、僕の手を握った。
「先に、お姉さまに伝える……貴方には、その義務がある。」
「そうか。」
「うん。絶対に、そう。……お姉さまは最初から、ずっと……貴方を想ってきたんだから。」
*
ルムは、姉の部屋を案内はしたが、ついては来なかった。それでいて、もう寝ると言い残した。
メルの部屋の扉を前にして、僕はこの程度の扉くらいなら突き破れるし、無遠慮に入ることも出来るだろうと思った。けれど、なんとなくノックした。すぐに返ってきた明るい声を聞いて、思い当たる。僕は自分の行動と感情に、応じられたかったんだ。ただのノックへの応答、それだけのために、僕は自分の女々しさを肯定したのだ。
扉が開く。僕の顔を見たメルは、おそらくどんな言語にも当て嵌まらないだろう感嘆符、というより鳴き声を発して飛びついてきた。行動に反して大人びた外見。回した腕が彼女を抱き、その細さが少し不安にもなった。
「どうしたの?」
「今から、時間あるか?」
「えぇ、もちろん!どこへ行くの?私、君となら……」
抱擁を解いたメルは、僕の瞳を見て何かを悟っただろうか。声を絶やし、その視線に徐々に熱がこもる。
「……あの……ここじゃなんだし……一旦、入る……?」
「あぁ。」
ナイトウェア姿のメルは、可愛らしさと色気を同居させた、奇跡的な美貌をしていた。もう何度目かもわからないメルという少女への賛美。僕の称賛の残弾は、まだ少しばかりは弾切れになることはなさそうだった。
僕に背を向けたメルは、レースカーテン越しに夜を眺めて、小さく身体を上下させた。それは、呼吸による代謝で、それも、深い呼吸だったんじゃないだろうか。背中から彼女を抱きしめたから、そう思った。
「ぴ……!なに……?」
僕の行動は彼女の何かしらの機能をオンにしただろうか。ピ、と起動音を漏らしたメルは、きゅっと身体を縮こまらせた。
彼女にプロポーズされてから、どれくらい経ったのか、少しだけ考えた。
「まだ……僕のことを好きでいてくれてるか?」
「……!そ、その……ね……もし、まだ、大好きって言ったら……どうなるの……?」
僕に叩き込まれた人間の筋肉の可動域と、重心の傾き方の知識は、決して敵を張り倒すためだけに使われるだけではなかった。
メルという華奢な少女を、絶対に抵抗はできないように、かといって、怪我をさせないようにベッドに押し倒すくらいは、造作もなかったのだ。
僕の影が、メルの顔に落ちた。鼻血でも出そうなほどに顔を真っ赤にしたメルは、僕の瞳を一心に見つめていた。その挙動は、さっき妹で予習済みだった。
「僕を、一番にしてくれるか?メル。」
「い、いちばん……最初からっ、最初から、一番だったから!」
はっと我を取り戻したメルは、僕から視線を逸らしてジタバタと暴れた。戦闘の心得のない華奢な少女に振り払われるほど、僕の拘束は易しくはなかった。
「もう、お前を綺麗なものにしたままなのはやめる。お前を傷つける。僕に救われたお姫様じゃない。お前を、僕と対等の場所に座らせる。」
「っ、……それじゃあ、……キミは、」
許可も取らなかった。唇が触れた。何かを言おうとしていたメルは、すぐに僕の唇を受け入れて、瞠目して黙った。少しだけ顔を離すと、不満そうな半眼が僕を睨んだ。
「急にされたら……びっくりする。」
「そうか。」
「そうかって……もっと、興味持ちなさいよ!……ちゃんと、……もういっかいして。」
「あぁ。」
僕らは、ただ互いを確かめるようにキスをして、互いの吐息を交換した。
「なんか……慣れてる……」
「駄目か?」
「キミが、私以外にこうやってするのは、……絶対いや。」
「……ごめん。」
「っ、嘘でも!……嘘でも、きみだけだよって、……言ってくれてもいいのに……」
そっぽを向いたメルの表情。熱を持った頬と、少し潤んだ瞳。口を尖らせる不満げな表情。
貧相な防御力のナイトウェア、留められたボタンに手をかける。
「な、なんで!?なんでいきなりっ……!待って、せめてちょっと時間、時間ちょうだい!……ぁ」
下着すらつけていなかったのか。開けたナイトウェアから、何にも遮られないメルの素肌がある。
片手で締められてしまいそうな細い首、一筋、汗が舐った首筋、鎖骨は艶めかしく汗ばんでいて、柔らかにたわんだ胸の膨らみと、対照的にくびれたウェスト。真っ白なきめ細かな肌。どうすれば、こんなに綺麗になるんだろうか。漠然とそう思った。
思わずその肌に触れる。鳥肌が走って、メルは辛そうな顔をする。思わず、手を放しそうになる。このまま、出て行って、死んでしまいたくなる。でも、それでも、僕は決めたんじゃないか。
少し緩めた腕の拘束。なにを思ったのか、きゅっと目を閉じていたメルは、ぽつりと呟いた。
「今日、……するんでしょ……?」
「あ、ぁ……。」
「いいよ、……私は、別に。ずっと……待ってたもん。」
僕は、そこでやめようとはしていなかった。彼女は、僕がまた、尻尾を巻いて逃げると思ったのかもしれない。
思わず、その表情を窺う。小さく息を切らして、どこか惚けた表情。呂律は上手く回っていなくて、甘やかな吐息交じりの声が、僕に釘を刺す。
「だから、絶対……途中でやめないで……?」
あの日、僕は君を殺し損ねた。そこに、一体どんな意味があったのか、ずっと考え続けている。
僕にも、メルにも、過去がある。その過去は一体、どう作用して、今を作り出したのだろう。それは運命という名の既定路線で、全て最初から定められていたのかもしれない。
でも僕は、妄信している。
僕は、この決断のために、彼女たち姉妹の過去を作った。彼女たちの未来を担った。
君たちの未来のために、トリガーを躊躇った。
こくり、小さく頷いたメル。
そうして、僕は今日。
───君の肌に触れる。




