Ep.71『其は供物にして姉』
「殺してあげる。お姉さん。」
取り上げた弓。矢のつがえられていないそれの銃口が、真っ直ぐにアザルベーダを向いていた。
───絶対死んだはずなのに……何故。
自身の拳に付着した血液と内臓の切れ端を眺めて、アザルベーダは内心の当惑を表には出さなかった。
アザルベーダは確かに、リンネの身体に人間を損壊させる威力の一撃を叩き込んだ。適合者とて例外ではない、人間としての強度。それが、目の前で丸々無視されていた。
「リンには、創造主様がついている。」
きらり、網膜で煌めいたとき、既に矢は放たれている。体細胞から合成繊維まで、全てを光に変貌させて、アザルベーダはただ走った。
秒速にして三十万キロメートルの疾駆は、傍目から見ればテレポートのように見えた。スピィルトヴォズのコックピットの上、アザルベーダは考える。
───貴方も、自分には神がついているとでも言うつもりでありますか?リンネ。
MISURANIAやラザロ教団におけるイデオロギー。そこには、或る思想の信仰、或る神の信仰がある。それを、アザルベーダは唾棄していた。故に、真実性のない偶像に、彼女はそうして冷ややかな視線を向ける。
「また、力を貸してくれる?」
アザルベーダは、眼下、スピィルトヴォズに問いかけた。誰も乗っていないコックピット。スピィルトヴォズは、エルロンとフラップ、エレベーターを、操縦桿をぐるりと回したように作動させた。
「ありがとう。」
アザルベーダは地面に降り立ち、少し距離をとって場所を空けた。その滑走路は、相棒である愛機が駆け抜ける。
スロットルがミリタリー推力に切り替わり、エンジン排気口からボッと炎が噴き出した。赤く爆ぜたそれが、やがて碧く、澄んだアフターバーナへと変わる。そのアフターバーナー推力は、スピィルトヴォズを離陸せしめる。
轟音が吹き荒れ、アザルベーダの金髪が靡いた。直線上、リンネはまだ弦を引いている。しかし、突貫する全長十七メートル全幅十一・八メートルの戦争兵器は、目前の少女に冷静を許さない。
甲高い排気音とエンジン駆動音を席巻させながら、スピィルトヴォズの主脚が地面を離れる。咄嗟に屈んだリンネの直上を、音速に至る巨体がスルーしていった。
戦闘機のジェットエンジンから解き放たれる爆音は、容易に人間の耳朶で暴れ、鼓膜を突き破る。片耳から引いた一筋の血液。指先で拭って、それを舐めとるのが見えた。
───左耳、ね。
遥か、夜空の彼方に消えていったスピィルトヴォズのアフターバーナの輝きを頼りに、アザルベーダはリンネの損傷を把握した。
踏み込む───(c=299,792,458m/s)───そこに、リンネがいる。
アザルベーダが省略したように見せた、二人のレンジを切除する離れ業。光速に追いつかないそれらが、やっとのことで動き出す。アザルベーダの軌跡を、空気が弾け、伝導し、不快な残響を落とす。
「偽物の神───。」
リンネの左耳、小さく呟いたアザルベーダの言葉は、耳朶から侵入して脳髄に直通する。そしてそれが、リンネという少女を激発させた。
「殺す、創造主様の名に懸けて。」
肩にかついだ弓の弦、もし矢に物理的な実体があれば成立しない射撃姿勢。界はなく、直ぐ様に矢が放たれる。既にボロボロだった教会の屋根を、風穴が穿った。眼前を駆け抜けた死を容易に躱し、アザルベーダは確信する。
───やっぱり治ってる。
リンネの鼓膜をぶち破った風圧。確かに彼女から聴覚を奪ったはずが、リンネはアザルベーダの誹謗を理解して見せた。
既に回復している。あるいは、
───回復させた。
くるりと上体を回転させて、淀みない動作で遠心力を溜める。
それは、リンネが撃ち放った次の矢の回避行動をも成立させ、やがて、アザルベーダの拳がリンネの顔面を殴打する。聞くに堪えない鈍い音がして、その双眸が一瞬焦点を失う。
反政府組織で何度も敵を殴りつけ、あるいは実の父から殴られ続けたアザルベーダに、もはや人間が備えて然るべき躊躇などなかった。
リンネの意識の一瞬の断絶に、ゆるり、自身の背後で回転したMSCSを叩きつける。あくまで決定打にはならず、アザルベーダが次に放った拳はリンネの細腕に受け流され、ガードされ、腕を巻き込まれて掴まれる。がぱ、と開いたリンネの口腔、鋭い犬歯がきらりと光った。
「お姉さん、いただきます。」
鋭い感触が柔らかな皮膚を突き破り、筋線維をぶちぶちと引き千切る音が体内を流動する。
リンネの舌っ足らずだった声音は、随分と流暢になっていた。
───殴り過ぎて逆に正常にしちゃったかな。
可笑しい頭をむしろ矯正してしまったのなら、アザルベーダにとっては本意ではない。
腕に噛み付いたリンネごと、アザルベーダは腕を構え、浮いた身体を教会の壁に叩きつけた。腕によって可動域を拡張された顎関節が断裂し、下顎が脱落する。失われた咬合力から腕をだらりと引き抜いて、傷跡の肉が消失しているのに気付く。
「ッ……!」
「其は───御幣。」
急速に咬合された歯根が噛み合い、がちんと音を鳴らした。すんでのところで回避したアザルベーダは、そこで或る理解を得る。
「貴方が消失させた物───捧げているのですね、その創造主とやらに。」
その回復が創造主の力によるものなのか、はたまた、彼女が正気を取り戻したように見えたことから、創造主というものに近づいているのか、アザルベーダには判断がつかなかった。しかし、事実がどうであれ、結果は同じだ。
彼女は、消失させたものを、得体の知れない神に捧げている。
リンネが溢す祝詞は、ずっと、それを示していた。
人から離れ、神に近づき、やがて、その霊魂を宿す。すなわちそれは、かつて神に捧げられた御幣、その原料となったある植物───麻がもたらす薬理作用。
「ヒュドラの適合者ッ!」
酷薄な表情とは裏腹に、情熱的な咀嚼がアザルベーダに牙を剥いた。五連鎖、六連鎖───甲高い音が空間を食み、それは、喰われたものを消失させる。
噛む、という行為には随分と無理な姿勢でリンネは縦横無尽に空間を噛み、対するアザルベーダも、その身体に格納された超高性能のジャイロセンサを酷使して全てを避け切った。中空を三次元的に飛び回ったアザルベーダは、嫌でもリンネから距離を取らされ、彼我の距離が弓の丈に到達したところで、口撃は射撃に切り替わる。
射撃の着弾音が連鎖して、消失する質量が増大していく。その最中で、アザルベーダは一撃を貰わなかったものの、後退を強いられた。
既に、アザルベーダが持つMSCSにも、アザルベーダの長い腕にも、接近戦を演じられるレンジではなかった。
「エーベルス。」
起動したMSCS───エーベルスが、アザルベーダの手中で回り、引いたトリガーが魔法を発動する。空間を穿った魔素偏光が亜音速に到達し、そうして、既に放たれていたリンネの矢と激突する。拡散した魔法が、いくつにも裁断されてリンネの周囲に疾風を巻き起こした。
その応酬が三度、いずれも、アザルベーダの魔法はリンネの矢に全て撃墜された。
四度目、アザルベーダのトリガーが、リンネの弦を少しばかり上回る。それでも、迎撃に不足はないはずだった。
彼我の距離をほぼ等速で引き合う魔法と異能。互いに不可視、互いに不可侵、されど、片方は不可避。まだ結実していない魔素偏光、魔法がやがて変貌する。それが、光になる。
亜音速の初速を遥か上回る、光速───秒速三十万キロメートルの威光。
「ぅ、え」
気道を突き抜け、血液によって溺れた嗚咽が漏れた。リンネの喉を穿った魔法は、断頭までは引き起こさなかった。文字通り、首の皮一枚を残し、リンネの首を通過していった。
忘れられていた弓の弦が、リンネが指先の力を喪失したことによって放たれ、あらぬ方向で結実して爆ぜた。
「これで死んでいなかったら、どうしましょうか。」
起動していたMSCSを油断なく構えて、アザルベーダはリンネの方を見た。
喉元に風穴を空けられれば、神だって殺せるだろうか。アザルベーダは漠然とそう思った。
見上げた空に、夜天───立ち現れる、巨人。それは、アステア・グルクロニドが生み出した、彼女の片割れともいえる女神であった。
「あ、やばいのであります。」
アザルベーダは輝きに転化し、即座にその場を飛び退いた。行動で言えば飛び退いただけだったが、現象としては人間一人分の光速航行である。軌跡は街並みを吹き飛ばし、その痕跡として深々と抉られた地面がある。
しかし、そんな痕跡など問題にならないような圧倒的な破壊が、世界を割った。
モルヒネアの撃ち放った銃撃が、リンネの倒れる教会を呑み込んだ。響き渡る銃声の跡に、闇を湛えた渓谷が横たわっていた。
「いつ見ても驚異的でありますね……アステア殿。」
破壊圏内をま逃れたアザルベーダは、民家の瓦を踏みしめながら呟いた。
アステアが女神を解き放ったのなら、それは適合者との会敵を意味している。全面戦争は既に開始されていた。道理である。
喉を貫かれ、最凶の女神に一撃を放たれ、そこで命を保っている。そんな道理もないことを、アザルベーダは妄信した。確信した。それゆえに、垣間見えた一抹の不安が、妙な現実味を持った。
それ故に、その不安は、真実性を持った。
「神……」
下半身を喪失したリンネを見つけたのは、偶然だった。ゆっくりと這いずり、自身の腕を噛み千切り、土塊と鉄筋を咀嚼する。呑み下したそれが、彼女の神に捧げられ、彼女の身体に神の霊魂を宿す。その霊魂は、自分の宿主を生かすために世界の道理を逸脱して見せ、その結果として、ゆっくりと立ち上がったリンネの双眸がアザルベーダを見ている。
天を仰いだアザルベーダは小さく瞠目した。それは、決して諦観によるものではなかった。彼女はただ見ていたのだ。
「スピィルトヴォズ。」
スピィルトヴォズから放たれた熱赤外線照準システムの電磁波が、空中をたわんで泳いだ。
やがてアザルベーダの身体に纏わりつくように収束した電磁波は、彼女の支配下、管制下に置かれる。ゆっくりと持ち上がったアザルベーダの指先が、真っ直ぐにリンネを差す。ワイヤーのように射出された電磁波は、彼女の異能を用いずとも光速に近接した速度を持っている。その電磁波の矛先は、リンネの全身を滅多刺しにした。
「撃って」
初速ゼロ、亜音速から遷音速、秒速三百四十メートルの音速の壁を突破し、衝撃波を撒き散らしたいくつもの空対地ミサイルの弾頭は、最終的に超音速───マッハ四でリンネに激突し、そして爆撃した。鋼鉄を引き千切り、バラバラにするような破壊力。硝煙を夜空に突き上げた爆轟が、立て続けに響いた。
爆散したリンネは、平然とした顔で黒煙を抜け、そしてアザルベーダも平然とそれを見ていた。
屋根を滑り、三階相当の高さを平然と落下したアザルベーダは、着地もそつなく完了した。
ゆっくりと歩いてくるリンネは、その歩幅の中で片腕を振り、和弓を顕現させた。五体は完璧なまでに回復されていて、その無機質さは修復といった方が正確だった。
アザルベーダは、つい先ほど見た巨大な女神を思い出す。とある解決を思い立つ。
「代わってもらいましょうか。」
彼女であれば、光速の攻撃を自分の肉体の損壊を顧みずに叩き込み続けることで、リンネを殺しきることができただろう。しかし、全戦力を投じるこの戦争において、アザルベーダの継戦不能はどんな不順を引き起こすかわからなかった。故に、光は夜に救援を求める。
光は眩く、夜は深い。そして、光とは往々にして。
「こんな夜にこそ、輝いて。」
リンネの横っ腹に、何かが激突した。アザルベーダであっても、それが一体何だったのか視認はできなかった。単純に速すぎただけだった。それは音速を超えていて、しかし、それを成したのはアザルベーダ自身であった。だから、視認できずともそれがなんなのかわかった。
超低空飛行で飛来したスピィルトヴォズが、リンネに激突した。ぱ、っと、血煙が咲く。
*
全身の骨を粉砕骨折したリンネは、肉付けされた筋肉もぐちゃぐちゃに攪拌されて、指先すら動かせずに意識だけを巡らせた。肉体の行動がそこに伴うのは、もう幾ばくか後だった。
たとえ神でも、その損傷を修復せしめるのには時間がかかった。やっとのことで動いた眼球は、晴れる粉塵の隙間からとある姉の姿を認める。
脇腹を抉られ、奇妙な形のシルエットを見せる姉、アイの姿を認める。
「───其は、」
アザルベーダは、立ち尽くす巨人を前に思考した。
思い出したのは、リゼルキルトから通達された、意味不明の符牒についてだった。アステアの襟に飾りがついていたら、安易に近づくな。もしくは、彼女を助けろ。
うんともすんとも言わないモルヒネアは、アステアの異能を思えば異常事態である。そして、つい今しがた敵の脇腹に、無手でもって風穴を空けたアステアの襟には、軍用シレットに見える針が刺さっている。つまり、それはリゼルキルトの言った符牒である。
「アステア殿!」
倒れたアイの奥、弓を引いたリンネの双眸。理性を失ったアステアに、その危機を察知する作用機序はなかった。
半ば飛びつくようにアステアを押し倒したアザルベーダ、その頭上を不可視の破壊力が突き抜けていった。
「って!アステア殿ぉ!」
問答無用でアザルベーダの顔面を掴みにかかったアステアに、アザルベーダは咄嗟に顔面を反らした。爆ぜた衝撃波の風圧が、アザルベーダの前髪を乱す。
「安易に近づくな……でありますか、なるほどですね。」
アステアを軽く抱き上げて、アザルベーダは跳んだ。一瞬後に、リンネの矢がその残像を撃ち抜く。それを避けて、戦場から飛び去ることは、距離という一面的な指標においてなんら意味を持たない。アザルベーダにとってその距離は、ないも同然だった。
「許してください、アステア殿。」
アザルベーダの手刀がアステアの首を打つ。がくりと項垂れたアステアを、アザルベーダはカラシナのベッドに横たわらせた。簡単なバイタルチェックを行い、異常がないことを確認する。無理矢理開けた片目には、真っ白の眼球があるのみで、瞳が存在しなかった。
「アステア殿で駄目ならば……」
夜が降る街。アザルベーダは視た。アザルベーダは問うた。
───誰が、神を殺せるのか。
姉を抱いたリンネが、その口元を赤く汚している。
*
「リン……ネ……」
掠れた吐息が、辛うじて声音を形作った。
妹に抱かれた姉は、幸せそうに手を伸ばした。アイの指先が、リンネの頬を撫でる。
リンネは、咀嚼し、噛み締め、呑み込むことで、万物を自身の神に捧げていた。彼女にかかれば、全てが供物となり、それを奉納し、自身を象徴へと祭り上げる。やがてそこには霊魂が宿り、リンネという存在は人間から乖離していく。
しかし彼女は、その力を持ち得ながら、何度も、その手段を行使しながら、何度も、その腕を噛み締めながら、姉の事だけは、供物にしたことはなかった。
「噛み、……な、さい」
リンネの前に、アイの腕が差し出される。
何度も歯を突き立てられた、傷だらけの腕だった。躊躇ったリンネは、ふるふると首を振った。姉を供物としなかったように、姉の前で、彼女は神ではなかった。
「最期くらい、……大人しく言うこと聞いてよ」
それは、モノローグをなぞるだけだった淡々とした口調ではなく、アイという人格それそのものから生まれ出でたものであるように思えた。
リンネはぽろぽろと涙を流しながら、小さく口を開けた。その瞳に、神が宿る。
「あいして、るぅ……アイ……!」
アイの片腕が消失する。接合部を無くした手首が、ぼとりと地面に落ちた。
「やっと、……噛み切れた、わね。」
リンネは、姉の身体を無駄にはしなかった。ただ、姉の身体を貪り、そして、その全てを喰らい尽くした。
骨の一本、滴る血の一滴に至るまでを、実の姉を、神に捧げた。




