Ep.68『親愛なる、コード』
リセンティア大司教は呟いた。
「適合者でない身で立ち向かってくる心意気……結構!では行こう───『浮遊林檎』。」
*
ベスティアリス大司教は、恍惚に頬を染めた。
「おいでよ、『煌々星航』。」
*
インクィタス大司教は、覚悟に歯根を噛み締める。
「墜ちろ『失楽園』。」
*
リンネは自身の腕を噛み、自傷の狭間で唱えた。
「───其は供物、其は奉納、其は象徴、霊魂を宿す。『其は御幣』。」
*
アイは姉であった。長女であった。故に、強大な敵に立ち向かう。
「青は、藍より出でて、藍より青く───『藍の疵痕』。」
*
ラザロ卿は、炎と共に蘇った。
「甦れ『追憶畢生』。」
*
エミリア・カテドラルの瞳が疼く。
「───『大聖廟』。」
*
エンタクト・コンネクジェンは、微か、彼女に接続した。
「そこにあったんだ『私の知らない自分史』。」
*
セスタ・クリスタルベリーは妖艶な吐息を漏らした。滲んだ視界の奥にある、あの朝焼けを思い出す。
「『涙で一晩を過ごせるか』。」
*
アザルベーダ・ヴェスタには、悲願があった。
「一身に貴方に尽くせたら───『こんな夜にこそ輝いて』。」
*
アステア・グルクロニドが命ずる。
「来て、『理想を司る女神』。」
*
さて、僕はこの力を使うことに決めた。僕には、その権利が、その力があった。
きっと、君は現れてくれるだろう。こうすれば、君に届くだろう。
舌先の紙片を吐き棄てて、僕は小さく呟いた。
「討て、『聖火の守護聖人』。」
*
グランナダラ船籍の小型貨物船L.H.L号は、コンテナを満載した状態で巨大な山を下っていた。
船首の壁を這い上がってきた飛沫が、船首甲板に叩きつけられ、いくつもの泥の溜まりを作っていた。高く盛り上がった傾斜を滑る船体は、船底や両舷からけたたましい音を鳴らしていた。
港は少し先の方に見える。
グランナダラ船籍の小型貨物船L.H.L号は、コンテナを満載した状態で巨大な山を下っていた。山を、下っていた。
隆起した岩塊によって跳ねあがった船体が、ごつごつとした山肌に叩きつけられてクレーターを作る。位置エネルギーは、巨大な船の運動エネルギーに次々と転化され、地面に突き刺さったバルバスバウは砕氷船のように土塊や地表を捲り上げた。
左右対称だった船体はアシンメトリーに歪んでおり、たなびくような錨は、片方が外れて船体に突き刺さっていた。その断裂は船首水倉に達しており、不快な風切り音がから回った。
細木の森林を圧倒的な質量で押し潰し、そして薙ぎ倒し、L.H.L号は、グランナダラの山波を駆け抜けた。
通常波間では受けない強い反作用によって攪拌されたボイラー室は、仕切り隔壁を突き破って機関室に燃料油を漏出させ、ついに噴きあがった爆轟が、船体の外殻から炎を噴きあがらせた。
黒々とした煙を吐く煙突の先。なびいた黒煙の軌跡が、航跡であった。
空転するボスキャップ付きのプロペラ翼が、薙ぎ倒された木々を切り刻み、噴きあがった土塊や削り取られた岩肌が、膨大な炎によって燃え尽きていく。
無人である船橋からは、もし操舵士がいれば、遥か街並みを見渡すことができただろう。駆け下りた山肌の先で、ぼろぼろになった貨物船がそこに突っ込む光景を見ることが叶っただろう。脱落したコンテナが甲板を滑り、鉄柵を突き破る。それによって跳ねたコンテナは、マストをへし折って転がり落ちていき、そのコンテナを、またいくつかのコンテナが追った。
少し向こうに見えた街はずれ。このコンテナ貨物船が最初に叩き潰すだろう住宅街に、先導したコンテナが着弾する。立ち上った土煙の発端には、原型もなくぺしゃんこにされたアパルトメントや木造住宅が瓦礫に分解されていた。転がったコンテナは、小さな通りを五、六回転ほどして停止し、そのコンテナに突っ込んだ大型トラックや、逆に突っ込まれた信号機などが不快な轟音を鳴らした。
人々は、その異常な光景にやっと気づき、正常性バイアスが突き破られるほどの間を置いて、我先にと逃げ出し始める。そして、その背中が見えたころ、船主が街に激突した。
第一撃目で吹き飛ばされた街並みの残骸が、さながら波のように空を泳ぎ、その破壊範囲を指数関数的に増大させた。雪崩のように薙ぎ倒された住宅街を横切り、船は墓場へと直進する。地面を抉り取り、もはや滑るという呈ではなく、引き摺る、や転がると言った方がいいような面舵を取る貨物船の終着地。そこに、巨大な敷地を有する邸宅があった。
まるで、神聖な神殿を模したような邸宅。その一角に、船首が突き刺さり、大理石のような石材がひび割れ、崩壊し、真っ白な粉を噴いた。遅れて、倒壊し始めた壁や柱が船首甲板と左舷を呑み込み、やっとのことで、その航路に終止符を打った。
半壊した大邸宅は、騒然とした雰囲気に呑まれた。
あと一歩を踏み込んでいれば、その崩落に巻き込まれていたであろう黒髪の女は、瓦礫で切った額から流れた血液越しに、その光景を眺めた。
「……ど、……どういうこと……」
黒髪の女───エスメルダの声を合図にしたように、敷地全体に鳴り響くよう設定された音量のサイレンが鳴り響く。
はっと我に返ったエスメルダは、すぐさまに反転し、廊下をまだ崩壊してない方に走り出した。幸いにも、執務室は真逆の場所にあった。窓の外、正門を爆炎が包むのが見えた。
───間違いない。こんなことをしでかすのは……!
蹴破るようにエミリアの部屋の扉を開けた。もはや、入室の許可を取ることもなかった。
エスメルダが警告を発するより前に、既にエミリアは立ち上がっていた。
対MSCS骨格を仕込んだコート、ベルトにはカートリッジをいくつか差している。背にした巨大な箱のようなMSCSは、エミリア・カテドラルが決戦の際に用いるものだった。
「来たなァ……!ラザロ教団とロス・アンタニオスの奴らにィ、知らせてやれぇ」
「はい……!かしこまりました。」
緊急用に整備した緊急回線に警告用の信号を流す。
ちくり、と痛んだうなじから、一筋血液のラインが引いた。エスメルダは、それを自覚して、エミリアに微笑んだ。一般の構成員が見れば、目を疑うような表情だった。それほどまでに彼女は、表情が希薄だった。
窓の外、エミリアが肩越しに見つめた景色の中に、あるはずのないものを認める。
麦が揺れていた。
柔らかに風に撫でられ、幸せそうに揺蕩う麦畑。その向こう側に、立ち上る炎の壁。
エミリアはその褐色の掌を壁に差し向けた。触れた瞬間、染色された葉脈のように透き通っていく赤黒い脈動が、窓枠や壁を途端に消し去った。そこに彼女専用の通用口を設けた。
「あァ……っ!アンタニオスぅ」
エミリア・カテドラルの視線の先に、聖火を司る男が、妖精を伴って立っていた。
*
防弾・対魔法装甲に対応した特殊合金で形成されたボディは、グランナダラの強い日差しを反射してキラキラと輝いた。
舗装された道路を猛スピードで走り、赤信号を問答無用で突っ切った。六つのタイヤ全てで駆動する装甲車は、激突した普通自動車を真っ二つに引き千切り、その爆炎の中を駆け抜けていった。
「よかったんですか、ゼリタさん。」
「えぇ。」
乗り心地も何もない出来の装甲車の中で、ゼリタは整備モードのMSCSから視線も離さずに返した。
「彼女を連れてきて、なにになる。」
グランナダラへのアビレス派兵において、アビレス・ゼータの統合部隊は、リゼルキルトから直々に分離が命じられた。リゼルキルトの決戦に同行を許されたのは、アビレスの面々だけであった。もちろん、ゼータの隊長であるベートは、この戦場に来ていなかった。
ゼリタの脳裏に、ある日の少女の慟哭が蘇る。
───そのゼータってのは誰なんだよ!いるんならここに連れてこい!そいつがそんなに偉いのかッ……!?戦場に出張ってこられないような奴に、ベートの何もかもをとやかく言われる筋合いなんかない!
ゼータという亡霊を持たない少女。そんな少女が口にするのなら、当然の言葉だった。
しかし皮肉なことに、戦場に出張ってこられないのは彼女も同じだった。ベートは、その強い執念とも呼ぶべき信条により、その地位を得、この戦場を喪った。
ゼリタは、そんな思考の最中でも、最後のチェンバーチェックを淀みない動作で完了し、ふと凄まじい速度で流れていく窓の外の景色に目を向けた。
「来るぞ───」
ゼリタが叫ぶ、ほんの数秒前だった。
彼らの装甲車の前に立ちはだかった一人の男の体躯。小さく何かを飲み干して、その男は呟いた。
「では行こう───『浮遊林檎』。」
彼の異能器官が、アダムスの生み出す生理活性によって駆動する。
それは、空間に接続し、この世の全てに、愛という名前の相互作用を強制する。
「エアラム。」
装甲車の側面が爆ぜた。爆発物による衝撃波や質量の衝突ではない。それは言うなれば、物質という触媒を介さない、最も純粋で、なんの不純物もない、エネルギーだと言えた。ひしゃげた装甲車は、ため込んだ衝撃をやがて発散させ、後部座席がいくつかのタイヤと共に吹き飛んだ。
「相手は適合者、しかし、我々に不足はない。」
「なに!素晴らしいな!きみたちはッ!」
粉塵の中、ぺしゃんこにされた装甲車。四車線道路を挟んだ民家まで吹っ飛んで、その民家を全壊させたそこに、死したアビレスの隊員は一人たりともいなかった。
「後ろは振り向くな。残念ながら、逃げようと振り返った俺たちを撃ってくれるボスはいない。」
リセンティア大司教。ゼリタは、粉塵の向こう側に見えた敵の特徴から、その名前を連想した。
「俺たちのボスは、俺たちよりも最前線に居られる。」
事実であった。彼らのボスであるリゼルキルトは、単身、グランナダラ・カルテルの本拠地『聖廟』へと乗り込んでいた。そんなボスに頼まれれば、彼らはやるしかない。適合者でない身で、適合者を殺す。
「ボスは首をご所望だ。」
ゼータは、強さを信じている。
「撃て、アビレス。」
呟いたゼリタのそのすぐ眼前を、銃声が駆け抜けていった。
それは、火薬によってもたらされる発破の音ではなく、微かに質量を持った魔法情報の伝達子が、音速を超えたことによって生み出される衝撃波だった。
亜音速の世界を突き抜け、遷音速の世界を突き破り、音速の世界を駆け抜け、やがて、そこからも飛び出す。その偉業に向けて、空間は礼賛する。その喝采の音が、今弾けた銃声の正体だった。
リゼルキルトによって開発されていた、対適合者を想定した魔法。それは、軍用魔法の弾速を微かに上回り、軍用魔法の威力を遥かに上回る。焼け溶けた鉄が流されたように、魔法が着弾した地面が発光した。
「む!」
リセンティアが感嘆符を言い終わらないうち、地面を組成していたあらゆる物質が、エネルギーの許容量を超える。効率的に物質同士の結束を断裂させる魔法効果は、つまるところ彼らに、解放の口実を差し出した。故に、定められた物理的結束から、リベレーションが始まる。四散する微粒子が、その熱量を破壊力へと昇華する。
「う、ぉっ!?」
地響きが硝煙をぼかし、ゼリタの視線が地面を這う。突き抜けていった魔法効果が、その視線の先で爆轟と共に立ち上がる。あるいは墓標のようにも見えた爆発の飛散物や黒煙が、盛大に打ち立てられる。
黒煙の中を睨み、ゼリタは聞いた。
「ラチェト:バーティカル→ラテラル」
「ッ、かまえ、」
ゼリタの斜め後方に位置していたアビレスの隊員。その見慣れた顔が、高速で跳んでいった。振り返り、銃口を向けたゼリタの視界の中で、上半身のほとんどを喪失した死体と、その血糊に塗れたリセンティアがいた。
───どこから出てきやがった、クソ聖職者。
「さぁ!どんどんやろう!人の子よ!」
既に一名の殉職を、死者を出した。戦争中でも中々なかった、アビレスの欠員。
脳内で装填された弾丸。しかし、撃鉄は怒りを割らなかった。引き金は軽く。しかし、撃つ瞬間は心得ている。冴え渡るほどに冷たいゼリタの心根。冷静に、一歩を踏み込み。
「ラチェト:バーティカルッ!!」
目を見張ったリセンティアの身体が、その瞳ごと掻き消える。
刹那のあと、その残像にゼロ距離の銃口が火を噴いた。破裂した地面の瓦礫が、魔法を撃ち放った本人であるゼリタを直撃し、しかし、彼はそれを腕で振り払って前進した。飛び込んだ重心の傾きを、じめんでくるりと転がって跳躍力に転化し、飛び出した身体は張り付くようにすぐそばの雑居ビルの壁面に突き立てられる。
微かな窓枠の窪みにつま先をかけ、規格外のバランス感覚と筋力が、その無理な跳躍を完成させる。ちらりと見た先───
「ディセンド。」
リセンティアは、空中に留まっていた。
神にでもなったつもりか?頭の中で笑い飛ばし、されど、彼の跳躍は容易く四階建てのビルの壁面を踏破した。直上に見ていたリセンティアと、同じ視線の高さに達し、最後のひと蹴り───飛ぶ。
弾丸のように射出されたゼリタの身体は、緩慢に立ち込めていた粉塵に風穴を空け、微か、亜音速に指先をかけた。空中で交錯した二人の男の接触は、きっと一秒にも満たなかった。アビレスの隊員にすら見えなかった居合の一太刀。
結果は、膝先を擦るような低姿勢で対面のビルに接地したゼリタが、そのときに見た。抉り取られた肉片が、リセンティアのすぐそばを翻る光景。
「すごい!すごいですよ!おれに、一撃を入れるなんて!」
その損傷の具合からして、ゼロ距離で叩きこんだ魔法は、リセンティアを捉えることはなく、その余波が、辛うじて掠ったくらいだった。やけに楽しそうに嗤った聖職者の身体は、宙に投げ出され、ふらりと落ちた。
リセンティアは歓喜した。
敵は、適合者ですらないただの人間だった。しかし、彼にとっては、目の前にあるものの方が大事だった。不満がなかったとは言わない。けれど、それは闘争の高揚の前にはあまりにも矮小で、取るに足らない。下らない自意識が、解けていく予感。
「エアバグ。」
音も骨折もなく、上品に着地したリセンティアは、懐に指先を差し込んだ。
取り出されたのは、人の眼球ほどの鉄球だった。彼はそれを、無造作に地面に落としていき、その数が五つにもなろうかという頃、アビレスからの魔法が届く。つい先ほどの再現のように、一つ、二つと火柱が上がる。その業火に包まれるすんでのところを、彼の滑走が駆け抜けていった。
「バーティカル!」
水平方向へと滑るように移動したリセンティアは、地面を踏んでいなかった。それはまさしく滑空で、あるいは滑走、氷上を連想させた。優雅なストロークで滑ったリセンティアの身体が、突如ぐにゃりと折れ、水平方向に向けられていた慣性が方向を捻じ曲げられる。美しい弧を描き、彼の水平線上の世界が、三次元へと拡張される。強制される凄まじい遠心力の中、リセンティアが振るった腕。
追従するように、断続的な破砕音が響いた。
飛び上がったリセンティアの指が指した、とある雑居ビルのそのフロアに、アビレスの隊員はトリガーに指をかけて潜んでいた。
スコープの中に敵を捉えて、トリガーは沈み始めていた。しかし、そのスコープの中で、リセンティアの興味は既にそこになかった。敵は、自分を発見したはずだった。それなのに、なぜ、そうも無関心なのか。一拍の思考の断裂に、物理的なブレイクスルーが訪れる。
最期の一発を放てなかったアビレスの隊員の頭は、ついに、五つの鉄球に貫かれて破裂した。一発目のそれによって、既に脳漿は原型を留めてはいなかったが、しかし、その液体状になった脳のカーテンを、鉄球は無慈悲にあと四度も通過したのだ。
それはまさしく、弾丸と呼ぶに相応しかった。
鉄球は、次々とアビレスの部隊員たちの頭を砕き、貫き、潰した。
リセンティアの身体をああも自由に解き放つ力。それが、あの鉄球にも与えられていた。
ゼリタの脳裏、あるフラッシュバックがあった。
───俺の後にぁ、誰もいねぇ。俺で終わりだ。
片足の老兵が寂しそうに放った言葉だった。
───お前らが!誰の背中を見てたってどうでもいい……!くだらない
出来損ないの隊長が、慟哭した言葉だった。
そのあと、彼女は一体、なんと言っただろうか。ゼリタは思考する。
───ベートは、ただ、一言言って欲しい、だけなのに……
あぁ、そうだった。ゼリタは、一言一句違わずに、その言葉を思い出すことができた。
彼が捕らわれているアルファベットの序列の中に、彼女の姿はなかった。彼女は、リゼルキルトの背中を見ていた。そして、リゼルキルトもベートも、なんのコードも受け継いでいなかった。
Zの後には、何もなかった。
でももし、あのとき、ゼータに信じていると言われていれば。もし、お前は次のコードを持ちえると言ってくれたのなら。もし、そうだったらなら、自分は、自分以外の名前を手に入れたかもしれない。
ゼリタは、ある気づきを得た。
「アンタニオスさん、コードは、流転する。」
連鎖する鉄球の足音が、ついにゼリタの頭を標的に決めた。管制MSCSによって届けられる超高周波数の音声データが、人間の可聴域にチューニングされ、仲間の声を知らせる。
「どうか、信じてくれませんか、俺を───」
ゼリタの後頭部に迫った鉄球、そこに。
「俺たちを。」
甲高い音を立てて、鉄球が弾かれる。
大振りなコンバットナイフによって真っ二つに砕かれた鉄球の破片が、パラパラと地面に落ちた。
子犬のような愛嬌を見せ、ときに、狂犬のような凄みを見せる女。
「ベートは貴方のコードを継ぎます。リゼルキルトさん。」
その酷薄な瞳に、聖人の亡霊が宿っている。




