Ep.66『実用主義者は涙で一晩を過ごせるか?』
久しぶりに、バハラータまでの道程を一人で運転した。
僕らが魔薬ビジネスを始めたばかりのころ、好きでもないギャング・コリードを鳴らしながら走った道程。その間に考えた、これからのことと、これまでのこと。クラッチを踏むのはほとんど無意識的に行われて、大して車も走っていない州道は、思考には絶好の時間だった。
既に、攻撃は開始されている。
十分な練度を見せるアビレスとゼータの統合部隊によって、ロス・アンタニオスとの情報戦が開始。奴らの本拠地がメヒクトに確かに存在することを突き止めた。グランナダラ・カルテルとは一切の交流を断ち、判明していた奴らの農場のいくつかに火を放った。ラザロ教団がメヒクトのいたるところに作った教会に襲撃をかけ、聖堂は血に染まった。
依然として、適合者は一人も殺せていない。
当たり前の話だ。適合者に対抗できるのは、適合者だけ。
ラザロを、インクィタスを、ベスティアリスを、リセンティアを、エミリア・カテドラルを、アイを、リンネを、僕が一人で殺して回ればいい。そうすれば、彼女たちは傷つくことなくいられる。僕は、信用を失う。
なんとなく懐に入れた手が、そこに忍ばせてあったキュルケーのパケに触れた。それを舌先に浸すのも気が引けて、僕はゆるりとアクセルを踏んだ。速度が上がる。ゆっくりと眺めた道路標識が僕の視界の中で半円に回転し、やがてその背後の支柱を見せながら後方へと滑っていく。その看板のお陰で、数キロ先のバハラータが示される。
*
「久しぶり。何か月かぶりだな。」
「そうねぇ……!さ、行きましょう?」
僕を社長室で迎えたセスタは、驚くほどいつも通りだった。
そう、彼女は、どこまでもプラグマティズムを信仰し、そこに、人間のセンチメンタルなどを介在させないのだ。少しばかり前ならば、僕は、彼女のことをそう臆面もなく評することができた。
でも果たして実用主義者は、一晩を滂沱に費やすか。
セスタに先導されて、エレベータを下る。社長室と最上階のフロアを仕切る緩衝地帯、そこから直通のエレベータは、専用の駐車場に繋がっていた。僕らは、誰にも会わず、ふたりだけで沈黙を共有した。ふたりだけで用意された車に乗り込んだ。その運転席に座っていた運転手が、初めて、その沈黙を破った。
「行き先は、変わらずでいいですか?」
「えぇ。お願いするわぁ」
奇しくもその車は、僕がマフィアに潜入していたとき、偶然にも出会ったセスタに乗せられたものだった。リムジンというやつだが、隣に座るタイプの接待に丁度よさそうな座席が、両側についていた。適当な場所に腰を下ろすと、セスタはそこから対角の場所に座った。前に乗ったときは、彼女の座席は僕の膝の上だった。
「……遠くないか。」
「まだ、アタシ、キミに見せてない物があるの。だから、それまではフェアじゃない。」
セスタは端的にそう言った。彼女がそうして言葉を終えたのなら、彼女にとってそれ以上は語るべきではないということだった。だから、僕もその誘導に従った。彼女がそうだというのなら、きっとそうであることの方が多いのだ。
ゆっくりと車は走り出し、濃いスモークの車窓の奥が、駐車場から街並みへと変わっていく。
いたたまれないということはなかった。ただ、少しだけ彼女の体重が恋しいとは思った。
それでも、僕らは沈黙が苦になるような間柄ではなかったし、多少の諍いを見なかった振りでビジネスの話をしてきた。
だから、今回もそうなのだ。
車が自動車道に乗ったところで、視界の端のセスタが動いた。座席の一部を置換したテーブルを押し上げて、その下にあった収納スペースからセスタは小さな小箱を取り出した。黒い革であつらえて、白い刺繍がアクセントにある。一族秘伝の万年筆でも入っていそうなサイズのそれを、セスタは膝の上に置いた。そして、いつもつけている花飾りを外す。
おそらくは、かつてセスタが東都国を訪れたときに見た魔煩の花。それを模した花飾りだった。
セスタの指先は、金属製の綺麗な髪飾りを器用に分解して、ものの数秒で解体された金属片の形が、小さな鍵を模している。
静かな走行音の中で、君と、目が合った。
僕らが辿り着いたのは、とある貸金庫の、その地下フロアだった。
入ったこともないが刑務所を連想する狭い廊下。両側に、網目の細かい格子が嵌められていて、その奥の部屋に、壁をびっしりと埋め尽くす金庫のダイヤルが、いくつも見えた。
僕らを案内した支配人は、そのどれにも目を向けず、ただ、その廊下の突き当たりまで歩き続けた。黒く塗られた鉄扉がその足取りを阻むまで、僕らの誰もが口を開かなかった。
一礼した支配人が廊下を戻っていく。セスタは、その扉のすぐ隣に取り付けられたキーパッドをなにやら操作した。やけに長い、おそらくは十六桁のPINコードを入力し、その次には前髪を避けて片目をレンズに近づけ、その次には人差し指を機械の下から差し込んだ。最後に、彼女は小さな鍵を取り出して、鍵穴に差し込んだ。あの花飾りから出てきた鍵だった。
「入って。」
やけに呆気ない音で解錠した扉。セスタは、僕を促して、その扉を少々苦しそうに開けた。彼女の肩越しに触れたその扉の感触で、おそらくは対魔法装甲に似た素材を使っているのだろうことが分かった。僕が片手で押し開けた扉を、セスタは小さく礼を言ってくぐった。
その部屋は、金庫が壁一面───というか四面───を覆い隠していて、僕らが通ってきた廊下の風景と似ていた。中央には、椅子はなく、テーブルだけが置いてあった。指先で触れると、ポーカーのプレイマットに近い触り心地がした。形もポーカーテーブルに似ている。
僕の背後で閉じ始める扉だけが少しだけ気になったが、セスタが一緒にいるのだから大丈夫だろうと完全に扉が閉まるのを見届けた。
「リゼルキルトくん。」
呼ばれたから、応じた。
「アタシが一番大切にしてるもの、なんだかわかる?」
知っているよ。
セスタは、僕に小さな鍵を放り投げた。掴み損ねることはなかった。
テーブルに手をついて、そこへ微かに体重を預けたセスタは、僕の沈黙を答えだと見たようだった。
「金、だと思ってるでしょ。」
「というより、資産価値か?」
現金は、特にダラは、資産の中でも信用できる類のものだ。そう考えれば、金はそれよりも信用できるだろうし、彼女の運用の仕方ならば、有価証券、不動産や暗号通貨、所有する企業なども立派に信用できる資産だ。つまり、セスタが最も大切にしているものは、現金に限らない、資産価値を持つ全て、といっていいだろう。
僕は、臆面もなくそう言おうとして、結局、それ以上言葉を続けられなかった。論理は不明だった。
「リゼルキルトくん、今日、アタシは、キミに教えてあげるためにここに呼んだの。」
「一体、何を教えてくれるんだ。」
「アタシが、いちばん大切にしているものを、キミに教えてあげる。」
だから、こんなにも金庫に埋め尽くされた悪趣味な部屋に案内されたのか。
ゆっくりとテーブルを周り込んで、セスタは僕のそばまで歩いた。僕の両肩を掴んで、彼女にされるがままにセスタと向かい合った。一瞬、僕の内側で起動した戦闘基幹システムが、彼女への攻撃を始める。それを、同じシステムでキャンセルした。そのエラーの狭間、セスタの拳が僕の腹にめり込んだ。
華奢な資産家にしては、腰の入ったいいパンチだったと思う。ただ、僕の内臓に響かせるには少々技術が足りない。
「ったぁ~~~っ!!なんでそんなに硬いのよぉ……!」
人間の筋肉というのはそんなにも万能ではないから、彼女が僕の腹を殴ろうとしたことを予感できなければ、僕はそれなりに痛がったはずだ。わざわざ固めた腹筋が、むしろセスタの拳を痛がらせる結果となっただけで。
「突然殴りつけてきたやつの言い草とは思えないな。」
「ふんっ……!どうだった、幼馴染の女の子を泣かせてしまったのを、みんなに知られる気持ちは。」
「誰にどんなことを知られようとどうとも思わない。」
「そ。」
「でも、」
「でも?」
一晩中泣いていた瞳。僕に背を向けたセスタ・クリスタルベリー。
「まだ、僕を見捨てないでいてくれるんだな。それが……嬉しかったんだ。」
「っ……まぁ……そう、ね……」
セスタは、ふぅ~と長く息を吐いて、しなやかな指先で壁一面を埋め尽くす金庫を示して見せた。
「アタシが大切にしてるもの、見せる。だから、アタシを信じてほしい。」
「それは……」
僕らが一度は果たした問答。彼女の優先順位のその頂点。そこにあるものがなんなのか、僕は君と、言葉を交わし、そしてわかりあえずに何か月も過ぎた。その結果、僕の腹に、彼女の柔らかい拳がめり込むことになり、その一撃の重みに、僕は、彼女が過ごしたとある涙の一晩のことを考えざるをえなくなる。
セスタは、僕に投げ渡した鍵を視線で示した。僕がそれを掌に乗せると、セスタは言う。
「どこでも、好きなところ開けていいわ。どうせ、どれを見られても同じだし。」
「全部、この鍵で開くのか。」
「そうよぉ。どこにする?」
この金庫に入るためには、まずこの貸金庫の管理法人にセスタ・クリスタルベリーであるということを証明しなければならず、それを突破したとしても、彼女の本物の瞳と、本物の指紋と、一桁も違わないパスコードを入力する必要があり、その上、彼女の髪飾りの中に隠された鍵が必要になる。
それは、生きたセスタ・クリスタルベリーを連れたって、今日の僕のようにこの場所まで訪れなければ、誰もこの金庫の中身の存在に辿り着くことはできないということになる。そこまで強固なセキュリティーの奥に、彼女は、どんな秘密を隠しているのだろうか。彼女は、それに、どんなロジックでもって、一番大切なのだという証明をするのだろうか。
試しに、一番手近なところにあった金庫に鍵を差し込んでみる。立ち上がったパスワード端末が、軽やかな電子音を奏でる。セスタは、隠すこともなくパスワードを入力し、僕が、その鍵を回した。
ゆっくりとひとりでに開いた扉の奥に、一冊の冊子と、その上に置かれたクリアファイルがあった。
「セスタ・クリスタルベリー個人が所有する宝石と、その管理を一任する法人との契約書。それと、全ての宝石の保証書。」
僕らは、その作業を繰り返した。
「総合商社クリスタルベリーから振り込まれる役員報酬、毎月手元に残しておく金額の全部を貯蓄してる口座と、その口座開設書類。」
「武器商社クリスタルメスのシェルカンパニーの法人口座とキャッシュカード。口座開設書類。マネーロンダリング済みの資金を入金してある。」
「アタシが手を入れてるカジノのチップと、その登録名義人証明書類。合法的に換金できて、総額は十二億ダラ。」
「談合した企業計十三社の下方修正条項付転換社債。」
「ケニーマン諸島の小切手付き当座預金口座。それと受命人じゃなく、ベネフィシャリー・オーナーを指定する秘匿書類と、その口座開設書類。」
「源泉課税後の、完全匿名化された割引債。」
七つ目の金庫の扉、その中にあったもの。テーブルに並べていく七枚の書類。
彼女はその書類のことを、ひいては、その先にある金のことを、一番大切なものだと言った。きっと、そうだった。
彼女は、自分の一番大切なものが、その金庫の扉の奥にあると言った。そして、その扉の奥からは、テーブルの上に置かれた書類が出てきた。
君の優先順位の最も上にあるもの。それこそが、このいくつあるのかもわからない金庫の中に封じ込められている、金なんだ。
「こんなことを伝えたかったのなら、別に、言葉で言ってくれれば通じた。こんなところまで……こなく、ても……」
セスタは、何も言わなかった。
僕は言葉を紡げなくなり、目の前の現実が、果たして現実なのかわからなくなった。そこに広げられた書類の数々を、穴が空くほどに見つめて、次の書類に飛び移り、そして往復する。
「なんで……なんで……っ」
僕は、思わず疑問を呈した。
わからない。そこには、あってはならない名前がある。あってはならないというよりは、どうしてそこにあるのかがわからない。
この状況が、その書類が、果たしてどんな結論をもたらすのか。彼女が僕に問いかけた、「セスタ・クリスタルベリーが一番大切にしているもの」という問いの答えが、一体何なのか。
「運用委任契約───。」
セスタは、決していい慣れてはいないだろうそんな契約の名前を、流暢に読んだ。
運用に関する委任契約。それは、その口座の持ち主、その資産の持ち主から、運用を委任され、それを自由に動かすことを許された契約。つまりは、エミリア・カテドラルが僕に持ち掛けた契約と同じで、金を優先順位の最上位に置くセスタ・クリスタルベリーが絶対に履行することのない契約だった。
だってそれは、彼女の最も大切なものを、他人に委ねるということだ。自分が最も大切にしているというものを、他の誰かにゆだねられるものだろうか。ならその時点で、それは、最も大切にしているとは言えないんじゃないか?
それじゃあ、どういうことなんだ。
「なんで……ぼくの、名前……」
「この金庫にある全ての書類の運用委任契約。そこに、リゼルキルトくんのサインがしてあるわ。」
セスタ・クリスタルベリーは、おぞましいことを言った。
「アタシが、金を優先順位の頂点に置いているって話をしたことが、もしかしたらあったかもしれない。でも、あったかしら。」
セスタはずっと、僕に所有権を求めてきた。それは、僕の身柄を支配下におくことによって、彼女に何かしらの資産的な利益があるからだと思っていた。だから彼女は僕に、損切り、なんてことを口にしたんだ。
でも、あのとき、彼女は。
「あったかしら。リゼルキルトくん。アタシが、キミよりも金の方が大事、なんて。一度でも、言ったことがあったかしら。」
あのときの彼女は、魔薬カルテルのボスとしての僕に、損切りと口にした。でも、そのあとには、僕の所有権を求めた。あるいは、僕を、あの社長室の中で飼い殺そうとした。
「じゃあ……お前が、……お前の中の、いちばんは……」
「キミ……キミが、一番大切。アタシのものにしたい。アタシだけのものになってほしい。アタシの全ての資産を、キミと共有したい。」
セスタの手が僕の指先を絡めて、彼女の瞳の中に、僕がいる。
僕は、心底狼狽した顔をしていて、その瞳からは、決して逃れられなかった。
その瞳の中には、ずっと、山積みのダラがあったはずだった。その瞳の中にいる僕は、彼女に評価額を付けられた金融商品の筈だった。それなのに───それなのに。
「アタシはキミを、キミだけを愛してるの…………リゼルキルト、くん……」
セスタは、一世一代の告白でもするように、まるで普通の女の子のように、頬を染めて、僕を見つめた。
君の一番は───そこに、僕は座っていてもいいのか?
思わず離れようとした僕の手を、セスタの手が苛烈に掴む。何も答えを返さずに、煙に巻くことは許さないと。
「金」を司る財務幹部が、闇の世界を知る死の商人が、市場を操る資産家が、そのセスタ・クリスタルベリーの表情が。これまで陰に隠れていたその場所に、光を当てる。
「愛、だけじゃ……キミの信用には、足りないかしら……」
セスタ・クリスタルベリー。金と、武器を司り、そして同時。最も深いところでは、愛を司る、小さな女神。
彼女が持っていた小箱から、端正な意匠が凝らされた注射器が現れる。彼女はそれを静脈に刺し、ゆっくりと薬液を注射した。
「クリスタルメス」
見渡した鬱屈とした地下室。そこには、壁一面の金庫ではなく、浄水場が広がっている。太陽を遮る厚い天井はなく、ただ、轟々と流れる水流の音だけがある。僕に視線を向けるセスタの背後、フラクタルによく似た銀髪の少女が、少しむくれた顔で揺蕩っている。




