Ep.63『愛情伝達子』
エンタクト・コンネクジェンがその広場を訪れたとき、広場には群衆が詰めかけていた。
最前列付近に集まっている人間が、この催しの熱心なサポーターで、拡声器を片手にプラカードを天に掲げている。そこから一線を引いて、みすぼらしい格好をした女子供、痩せこけた男がぽつりぽつりと立っていて、その隙間を埋めるように物珍しさに寄ってきた観光客と地元住民が1:1というくらい。
反魔薬、というよりは、むしろ魔薬を推進している側に立っているようなエンタクトは、その人波の中に分け入っていこうという気にはならなかった。
簡易的にあつらえた壇上では、三人の息子のうち二人をカルテルに殺された母親が、遺されたただ一人の息子と共に魔薬カルテルへの糾弾を口にしている。その前に壇上に現れた反魔薬団体の代表や、覆面を被った地元警察の男のそれよりも、ただのカルテルの被害者である母子のそれの方が、エンタクトにはよほど恐ろしく感じた。
その声色の奥に潜む、何者をも引き摺り込もうとするような覚悟。それに、思わずエンタクトは目を伏せた。
彼女がこの場所に来たのは、そうして身に覚えのない頸木に視線を逸らすためでも、魔薬撲滅に気勢を上げるためでもなかった。
黒衣を微かに地に這わせ、滑るようにマイクの前に立った男。エンタクトは、それをラザロ教団のティミス大司教という男だと知っていた。
ティミスは、大司教という肩書きに見合わぬほど臆病なように、エンタクトには見えた。群衆からの視線にびくつきながら、忙しなく視線をまわし、心臓の鼓動を押し込めようと手にした十字架を握る。
これから行われることを思えば、その結果がどうなるにしろ、エンタクトに幸福な未来はなかった。思わず後退った背中が、誰かに当たる。
「おっと、……これはすまない、人の子よ。」
その芸術的な曲線美を描く背筋に、針金のような悪寒が差し込まれた。自分が肩を震わせたことを、その人物に悟られたくはなかった。
「……ら、」
「名前を呼ぶなよ、エンタクト。わたしがここにいることは、彼だって知らない。」
振り返ったエンタクトの肩越しに、その男は壇上のティミスを指さした。
「知れば、彼の臆病症が酷くなってしまう。」
黒い外套。その首から提げられている十字架は、執拗に隠されている。上等な布であつらえた外套に感心する者が居ようとも、その正体にまで迫る者はいないだろう。
エンタクトは、心の中でその名を呼んだ。
───ラザロ卿。
「わたしに向かって、偽物の神を信奉しているなどと宣った連中が、この光景を見てほぞを噛む。貴様にもわかるだろう、エンタクト。」
エンタクトは、そう、と頷くことしか出来ず、頷いたまま視線を上げなかった。
偽神を信仰した、として教会を破門された男は、その罪状についてをいまだ呑み下せてはいなかった。それが、合成魔薬を作り出し、ラザロ教団を作り出し、人格漂白の最高傑作であるエンタクト・コンネクジェンを生み出した。
「わたしの奇跡を見ただろう。主に愛されたのはわたしだ。わたしが炎と共に蘇ったあのときから、わたしは神と共にある。」
過去、彼女の前で行われた、ラザロ卿の三度の死。
大司教の面々が、彼の名前を呼んだ。それだけだった。それだけで、彼は炎とともに蘇った。
「安心しろ。わたしの神が本物であるように、貴様の人格も本物だ、エンタクト。だから、わたしたちは愛し合わなくてはならない。我が教団の全員が、通じ合い、愛し合う。」
底冷えするような声と、その論法に、エンタクトは微か吐き気を覚えた。彼女が持ち合わせる自分史のプレリュード。その前の頁にある掠れたインクの滲み。漂白されたそこに、彼女は、自分でありながら自分ではない、或る少女のことを感じずにはいられなかった。
「さぁ、いい加減に、あの忌々しい神敵に鉄槌を下さねばならない。殺し屋上がりというからには流石にしぶとかったが───囲っている女を狙ったのは効いたようだ。」
「……あれは……彼の」
「黙れ。そも、わたしに彼女らの情報を流したのは貴様だったではないか、エンタクト。自分だけ、その咎から逃れるつもりか?貴様が、奴を諜報した。」
「……そう……その通り。」
エンタクトは、リゼルキルトに近づいてからの全てを諜報した。
彼のスケジュールを盗み見、会話から推測し、捨てたレシートやクレジットカードの控えを漁った。体調を気にするふりをして弱る機会を窺っていたし、その弱点となり得るリゼルキルトの懊悩についても了解していた。
あのアイスクリーム屋の情報すら、彼女にとっては献上すべき供物であった。
「のこのこと我らの本拠地に赴くとは僥倖。適合者二人と相対し、奴がどこまで逃げおおせるのか。見ものだな。」
リゼルキルトがラザロ教団殲滅に乗り出したこと。その第一手として、ティミスの白昼堂々の殺害を計画したこと、それは、リゼルキルト自身の手で行われること。
なにより、リゼルキルトは、このところ不調だということ。
全てがエンタクトから齎された情報であり、全てがラザロの勝機であった。
「ティミス大司教に持たせたアダムスは最高級だ。彼の力の真髄、人格剥離は、次こそ奴の自我を漂白せしめる。
どこぞの草原に生え散らした萎びた麦。それが奴の姿だ。その草原、我が炎で灼き尽くす。」
ティミスの演説は佳境に入る。臆病者の心根を、なんとか奮わせて話す彼の仕草は、扇動者足るアジテーションを見せている。
「地に落ちて死なずば、その一粒の麦。唯一つにてあらん。」
群衆の中からどよめきが立ち上る。伝播するそれが、人波の模様をさざめかせる。
「来たか───!」
外套を剥ぎ、中空を臨んだラザロの視線。その先、宙に翻る体躯を認める。
奇妙な仮面で表情を塞ぎ、右手に黒、左手に白の剣を持つ。
黒の剣は、刃先が直角に鍛えられ、対照的に、白の剣は刺突に向くだろう鋭利なしなやかさを湛えている。
瞬時、襲撃を知らされていたティミスが、口腔の中に固定していた魔薬を呑む。彼の血液─脳 関門を通過した、共感性を司るアルカロイドが、異能の作動薬となる。爆破する受容体が、その作用機序を辿り、終着地。その薬理作用の名を呟かせる。
「甦れ、『鏡面閉───」
人混みの中に埋没したエンタクトには、ぐちゃ、というような水気を含んだ音しか聞こえなかった。おそらくは血液だろう水気の正体と、それを轟かせるほどの強力な力が、血液を噴出させるほどに肉体を損壊した。
ティミスの持つ力の一端。人格とともに屈折した肉体が、合わせ鏡の中を反射した魔法のもとで、再現不可能なまでに損傷させられる。そして流動的になった死体は、吐瀉物のように無遠慮にこの世界に垂れ流され、まさに今のような耐え難い音を引き連れてくる。
群衆が割れ、思い思いに逃げ出す彼らの逃走経路が、混戦して激突する。エンタクトのそばを流れていった人間の雪崩は、誰に助け出されるわけでもなく誰かの逃げ道となって踏み潰された。
向かってくる人々をどつき、時に蹴り飛ばしていたラザロは、人混みが薄くなったあたりで訝しんだ。
「なんだ……?炎……」
ラザロにとって、炎とは自身を象徴する概念であった。
エンタクトにとって、それは復活を象徴する概念であった。
ティミスにとって、それは絶対的な力を象徴する概念であった。
孤独な死刑執行人、アンタニオスにとっても、同じことだった。
「炎と共に甦った……結構なことだ。」
くぐもった声が、血溜まりの上に立っている。刈り取られた首が彼の手の中にあり、ぶらぶらと揺れるそれから、血液が滴り落ちた。
「こいつが甦れば、僕は、もう一つ首を持って帰れるな。」
パチパチと炎が揺れていて、壇上は火の海と化していた。その熱は、それを生み出した彼の身すら焼き、しかし、彼の意識はその痛覚に無頓着であった。
「僕が詫びを入れないといけない相手は二人なんだ。あんたが、その首をくれるか?」
「きさま、ま、それは、」
リゼルキルトは、炎を纏って歩き出した。
既にラザロとエンタクトしかいない血塗られた広場を、ゆっくりと、闊歩した。文字通りレッドカーペットさながら、彼の歩みは堂々としたものだった。
数メートルの距離を置いて、リゼルキルトが立ち止まる頃、ラザロは自分が間違えたことを悟った。ぶらぶらと揺れるティミスの首が、奇しくもラザロに目を合わせた。
「十秒後だッ!急げ!インクィタス!」
ラザロは自身の教会に通じる携帯端末に怒号を飛ばし、その奥のくぐもった了承の声を聞いた。懐にあったラザロ教団のシンボルである十字架のMSCS。ラザロは最期に言い残し、自分の顎を撃った。
「聖人の名を騙ったこと、後悔させてやる愚者め」
爆ぜたラザロの脳漿が、炎に包まれる。飛び散った側から焼却されるそれらは、やがて燃え尽き、大元のラザロの体そのものも、同じ運命を辿った。
それは、彼が死んだということであり、同時、彼が甦ったということでもあった。了解していたリゼルキルトは、落胆もなく言った。
「帰るぞ、内通者。」
唖然としたエンタクトは、差し出された血まみれの手を取らなかった。自分の表情がいつもと全く変わらないことも、そうであるのに自分はいつも通りの自分に見えていないであろうことも、何もかもを自覚していた。
そしてリゼルキルトは、エンタクトの手を取った。
「帰って拷問して橋に吊るさないといけないからな。自分で歩いてもらえるか?」
あからさまに面倒そうに視線を投げたリゼルキルト。しかし、それでも頑として歩こうとしないエンタクト。両者の刹那の拮抗は、ティミスの首が地面に放られる音で決着した。
「今日は少しばかり人間らしいな。」
両腕でエンタクトを抱き上げたリゼルキルトは、それだけで飽き足らず、鍛え上げられた筋力と、重心を見極める感覚によって、エンタクトの長身を片手で抱えた。空いた片腕で、ティミスの頭部が拾い上げられる。
炎の中、エンタクトの瞳が揺れていた。
エンタクトにとって炎とは。復活を象徴する概念だった。それでいて、終わらない地獄を暗示する概念でもあった。
その地獄の炎から立ち上がったリゼルキルトは、さながら炎の簒奪者であるプロムテネスのようだった。咎を背負い、内臓を啄まれ、しかし、人間に希望を授けた。
その希望は、原初の”火”である。
*
ラザロ教団本拠地、通称『教会』
天窓のステンドグラスからは、染色された陽光が注ぎ、色素の薄いタイルが組み合わされた床面の意匠が、混ざり合って鈍い色になる。
つい数秒前に立ち上った炎は、巨大な手に掻き消されるように散り散りになり、火の粉の一つも残さずに消えた。残ったのは、頭をMSCSによって破裂させられた筈のラザロの、その無傷の肢体だけだった。
「よくやってくれた、インクィタス大司教。」
「光栄ですわ、ラザロ卿。」
甦ったラザロを迎えたのは、優しげな声をした女だった。ティミスと同じ教会の正装に身を包み、同じ十字架を提げている。
「皆、伝えておかないといけないことがある。」
ラザロの声で、陽の当たらない場所に控えていた二人が銘々出てくる。
「リセンティア大司教、ベスティアリス大司教。」
「はっ。」
「はいはい。なんだい?」
鋭く応じる体格のいい男と、眦に紅を差した気怠げな女。ラザロが呼んだ通り、それが教団会議の一員、リセンティアと、ベスティアリスであった。
ラザロは、微かに俯き、吐息した。
「嗚呼、愛おしきティミス……」
合成魔薬───通称アダムスを手に取ったラザロが、その錠剤を呑んだ。途端、凝縮された時間の渦が、彼の脳内で弾けた。そして、心の奥の方から押し寄せてくる激情に、涙が溢れ出す。
「ティミス大司教が、殉教した……っ」
ラザロが告げたとき、今は三人となった教団会議がどよめきを発した。インクィタスは、その声に似た優しげな顔立ちを悲壮に歪ませ、リセンティアは、湧き上がる怒りを必死に抑えつけ、ベスティアリスは、依然気怠げな表情で舌打ちだけした。
「リゼルキルト・カルテルのボス、リゼルキルトの仕業だ……彼が、こんなにも強力であったと、わたしが見抜けなかったっ……そのせいで……!」
膝を折ったラザロの拳が、教会の地面を強く打った。
その芝居がかった大袈裟な仕草に、しかし、誰も口を挟まなかった。全員がティミスの死を悼み、ラザロのようにしてよいのなら、泣き喚いてしまいたかった。
しかしその中で、ベスティアリスだけが意味のある言葉を吐いた。
「エンタクトはどこだい、ラザロ卿。」
共にこの場所に帰ってくる筈だった少女、作り物のような美しさを持った少女、作り物の心を持った少女。
「彼女は手放した。敵に内通者と露見しては、もう手札として使いものにならない。」
「あんたはそうかもしれないけどねぇ、あたしは、あの娘に愛を与えた。あれはあたしの物だったはずだ。」
「彼女を愛してくれてありがとう、ベスティアリス大司教。しかし、あの女はいつか我々に牙を剥く。」
「あたしなら、そうはさせなかった。」
インクィタスは心配そうにラザロを見つめ、リセンティアはまだ、ティミスを失った悲しみに嘆いていた。
鋭いベスティアリスの双眸と、それを受け流すような涼しい顔のラザロ。エンタクトが教会にいた頃、彼女の身の回りの世話をして、名前を与えてやったのはベスティアリスだった。自分の所有物であったエンタクトを易々と手放したラザロに、ベスティアリスの怒りは晴れない。
ぱん、と手を叩く音。それが、ある種の閑話休題、あるいは休戦の合図となった。手を叩いたラザロは、そうしたのと同じ手を差し出して、その上に乗った錠剤を見せた。
「我々は同じ主を仰ぐ者たちだ。きっと目的地を違わない。まずは通じ合ってからにしよう、ベスティアリス。
わたしたちの愛ならば、きっとわかりあえる。」
インクィタス、リセンティア、ベスティアリスの順で、それぞれが錠剤を手に取り、呑み込んだ。ラザロもそれに続き、先に飛んだ三人に倣ってステンドグラスの光を浴びる。地面に寝そべり、その陶酔に意識を浸す。
やがて薬理作用によって励起した彼らの精神は、互いの精神と接続し、そこを愛が往来する。アダムスとは、愛情を伝達し、相互通信する感情粒子だった。
インクィタスが黒衣を脱ぎ、その豊満な体つきを露出させる。生まれたままの姿の彼女を、自分も脱いだベスティアリスが抱きしめた。感涙に声を潤ませたラザロも、そしてリセンティアも脱衣し、抱き合った。
「愛おしい、君たちが本当に愛おしい」
「どうして、どうして死んでしまったのティミス」
「あんたたちこそ、あたしが唯一通じ合える相手だ」
「私は、絶対にこの五人を忘れない。嗚呼!待っていてくれティミス」
全裸の男女四人が、その一糸纏わぬ身体を擦り合わせ、しかし、そこに性愛は一ミリも介在しない。教会としては清貧、しかして状況からすれば不審。快楽とは愛で直結し、彼らは愛によって快楽を得る。
そこに、セックスで得られる快楽は必要なかった。
翌朝、彼らは目を覚ました順に服を着て、何事もなかったように教会を出ていく。擦り合わせた肌の感触、互いに慈しみながら揉みほぐした肉の感触、抱きしめられたときの温もり。それはあるいはまやかしで、そのために、彼らはそうも酷薄なのかもしれなかった。




