Ep.62『脳内化学物質の妄信者』
夢だと思った。
現実から一枚隔てて、沈み込んだ先の世界。黒の君は、ふるふると首を振った。
過去だと思った。
指先がテーブルをなぞり、その木目の感触すら知覚する。陽だまりの中の心地よい温度と、半分開けた窓から吹き込んでくる少しだけ冷えた風が、うなじを撫でて心地いい。それでも、僕はここにいるとは思えない。僕の指揮系統を離れた僕が、自分勝手に言葉を紡ぐ。
僕はそれを止める指揮権を持たないし、それは過去だったから、もう変えられるものでもない。
アステアが云う。
「わたしは、一緒に連れて行ってって言ったの。」
だが僕は、君たちを地獄に踏み入れさせるわけにはいかない。君たちを遠ざけず、その力を信じた結果が、その綺麗な肌に巻き付いた火傷の呪縛じゃないか。
アステアは云った。
「この地獄は、君が選んだ地獄じゃない。」
違う。僕が選び、僕が呼び出した地獄だ。お前たちが関わっていることは否定しない。でも、この地獄は僕だけのものだ。お前たちが、その業火を浴びる必要はない。
アステアは云う。
「わたしと、あなたが選んだ地獄。そうでしょ?リゼルキルト。」
僕の体は自分勝手にあれこれと話し、諦めたような顔をしたアステアが、寂しそうに出ていく。
また繰り返す。
鏡面の世界が現れる。
僕は二択を迫られる。君たちが言う。「遠ざけないで」僕は返す。「ひとりでやるしかない。」
そして、浅い眠りから覚める。
*
メヒクトに届く国際郵便が、セスタからの連絡を告げる。もうどれくらいその肉声を聞いていないだろうか。珍しかった彼女の直筆の筆跡が、なぜだかとても可愛らしく思えた。
送られてきたのは、平気そうに装った挨拶が綴られた便箋と、あちらの国の新聞記事だった。僕らは新聞記者やメディアを脅して、自分たちに都合のいい情報を載せるから、メヒクトの新聞と書いてプロパガンダと読んでいたものだが、あちらではどうもそうではないらしい。セスタが情報源にするくらいだ。
見出しには、僕らとラザロ教団がやり合ったときのことが回顧するように載っている。
ラザロ教団が暴れまわったのと同様に、それに収集をつける僕らも相応に暴れまわった。あちらはファミリアの配下にあるから、ファミリアを糾弾する文章はないにしろ、カルテルについては針で刺す程度に揶揄されていた。このあたりの差配はアザルベーダが適任だろう。効率的な新聞記者の黙らせ方を聞いておくことにする。
一か月も前の出来事が、いまさらこうして取り沙汰されたのは、あちらの国で起こった反魔薬デモの影響らしかった。
もちろん、明確にファミリアやカルテルを糾弾するような内容ではなく、魔薬というものそれ自体が悪であるという論調で起こされたもので、ファミリアはそこに爆弾を投げ込むべきか悩んだだろう。
切り抜かれた記事はもう一つあった。そちらはニュースサイトのスクリーンショットを印刷したものだった。
アメリクス・ジャーナルのネット記事だった。
『反魔薬デモ・ラザロ卿意欲示す』
そのタイトルを見てふと思い、僕はいくつかの情報媒体でラザロ教団についてを調べてみた。
そして、ここにきて優秀な部下の情報収集能力に錯誤を誘われていたことに気付く。
「あの連中、表には出てないのか……」
ラザロ教団。教会を破門されたという記事は、確かに残っている。しかし、それよりも孤児救済や、街区の教会で門戸を開く姿などの美談的ニュースの方が多い。誰も彼らを魔薬カルテルだと認識してはおらず、ラザロという奴がカルテルのボスであるということも、適合者であるということも隠されたまま。
一体どんな論法で反魔薬を説くのかは見ものだが、自分の勘違いには驚かされる。新興カルテルであるとはいえ、てっきり奴らも魔薬取締法執行局のモストウォンテッドだと思っていたのだが。
そんな連中が反魔薬デモに登壇して、民衆とともに魔薬とは仮初の快楽である!と気勢を上げる。
「ゼリタ。」
「はい。」
「少し出る。お前ほど強そうじゃなくて、ちゃんと僕を守れそうなのを、一人つけてもらえるか?」
*
昼下がりの小さな国道沿い。四階建ての小さな雑居ビルの一階が、その新聞社の小さな事務所だった。
『メヒクト新聞 セルナ』
そんな鋼鉄製のプレートに、社名とMSCSの弾痕が刻まれている。
対MSCS装甲と同じ強度のシャッターは、平日の昼間なのに下ろされている。その外側には、これまた気が遠くなるような可動式のフェンスが取り付けられており、もはやそれは営業しているとは言えないような状態だった。
ついてきていたアビレスの隊員に通りを見張らせ、僕はそのフェンスの留め具を魔法で灼いた。小さな破裂音で鎖が解け、フェンスを開く。シャッターの鍵穴についてはアビレスの男に針金を渡す。
うまい具合にがちゃがちゃとやり出した男は、針金では駄目だと悟ったのか、何かしらポケットから黒い金具のようなものを取り出し、それを鍵穴に差し込んだ。カチャ、と音がして、継いだ僕がシャッターを下から押し上げる。人間には持ち上げられないような重さにしてある、というのが謳い文句だったらしいのだが、この分では魔法を防ぐ力があるのかも疑わしい。
やっとのことで現れた扉を抜けて事務所の中に入ると、社員のほとんどはもう避難してしまった後らしく、社長の男だけがそこにいた。
「久しぶり、コルネラス。」
恰幅のいいその男は、鋭い目で僕を見据え、手にしたMSCSの銃口を一瞬たりとも僕から逸らさなかった。その引き金は既に引かれていて、MSCSの照準装置は僕の頭を掌握している。ぎょっとしたアビレスの男を手で制して、「座ってもいいか?」と問いかけた。
「帰れ、クソ野郎。」
茶が出てこないばかりか、暴言すら投げつけてくる男にため息を吐いて、僕は適当なデスクに腰を下ろした。
セルナ誌───彼、ヘルプス・コルネラスが創刊し、一切の魔薬カルテルからの脅迫、襲撃、収賄の類をはねのけたうえで、真っ向から魔薬カルテルを糾弾する、命知らずの新聞社。ここの記者は既に三人ほど殺されていたはずだ。コルネラス自身も、一年ほど前に白昼堂々往来で脇腹を魔法にぶち抜かれ、一か月間生死の境を彷徨った。
僕がこの新聞社を知ったのは、彼らが運営するウェブサイトを発見したことからだった。僕らはメディアを自分たちの都合のいいように改変したい。そして、どのカルテルも考えることは同じだ。だからこそ、貴重な現地メディアの情報は信用に値しないし、アメリクスから派遣されてきた記者は、ド派手なドンパチばかりを取り上げて、本腰を入れる者は少数。見込みのあるやつが出てきたと思ったら、次の日には廃工場で精肉されているなんてことはざらだ。
それ故に、現地メディアでありながら、一切のカルテルからの干渉を受け付けず、一貫して魔薬事業を糾弾し、その情報を発信し続ける彼らは、当事者である僕たちにとっても貴重な情報源である。
「殺してやるからな、今すぐに出ていかなければ引き金を引く。」
「質問の一つもなしか?僕の魔法は精度がいいぞ。」
「俺が死んでどうなる?誰も、お前たちを許しはしない。いつか、この戦争を終わらせる奴が出てくる。お前たちがそれを目撃する。俺じゃなく、お前たちがだ、クソ野郎。」
「まぁいい。一つだけ教えてくれよ。」
彼の目は凄絶で、僕のことを本気で憎んでいるようだった。それでいて、恐れてもいる。であるのにもかかわらず、彼はその主義信条でもって僕に銃口を向けている。彼を被膜している恐れや憎悪は、ジャーナリズムという彼の確信を全くもって毀損しなかった。
「ラザロ教団、あるいはラザロ卿について、どう思う。」
コルネラスは、唾を吐き棄てて言った。
「お前らもろとも死ね。クソ野郎どもだ。」
「そうか。苦労をかけたな、帰るよ。」
僕が背を向けたので、アビレスの男が割って入る。射線を切り、彼も出てくる。僕がシャッターを閉めてやる最後のそのときまで、コルネラスは銃口を向け続けていた。
「大層な男だ。」
しかし、必要な情報は揃えることができた。そして僕もまた怒りを思い出す。
僕があの日、メルに会わなかった理由。会わなくて済むのなら、ルムにだって会いたくなかった理由。それは、彼女たちに責められるのが怖かったという理由と、もう一つ。僕が、納得できていないからだった。
彼女たちにあんな光景を。メルを怖がらせ、ルムにMSCSを握らせた奴らに、僕は鉄槌を下さなければならない。それすら済んでいないのにすまなかったと言い張ったところで、なにも意味がないと思ったのだ。
だから僕は奴らの首を刈る。そうしたらやっと、本当の意味で、あの姉妹に謝りに行くことができる。
「ラザロ教団を潰すぞ。準備を始めろ。」
*
反魔薬デモは、その意思を魔薬カルテル、ひいては現状を座視している政府、関連諸国に伝えるという名目で大々的に企画され始め、やがて、それは一つのイベントという形になった。
開催日付は一週間後になっていて、無駄な抵抗ではあるものの、その題目を魔薬カルテルに知られないように、という報道的配慮が、メヒクト国内では頻発した。デモに参加するつもりだった人間はそれに反発し、ネット上で意思を示した。メヒクトシティで行われるというそれの準備のために、僕は一度バハラータに帰国することにした。
数日かぶりの帰社に、ロビーのバーで一杯酒をひっかけた。バーを出ようとした僕に、バーテンダーの男が耳打ちする。
「あの方が来ております。」
「どこにいる?」
「実験室、と聞いております。」
「ありがとう。助かった。」
チップを置いてバーを出る。エレベータを上がり、セキュリティをいくつか抜けた。
『箱庭』実験室。重苦しい鉄扉がスマートに開き、僕はその部屋に足を踏み入れた。
実験装置のパネルを注視する長身。豊満な体つきを惜しげもなく晒す今日の装いは、異邦のバックパッカーというところか。実際、最近の彼女がやっていることはその服装に違わない。
「アザルベーダ!」
リゼルキルト・カルテル軍事顧問。アザルベーダ・ヴェスタが振り返る。
「お久しぶりでありますね、リゼルキルト殿!」
前より遠慮のなくなった抱擁が僕を熱く抱きしめて、その力の苛烈さに苦笑を誘われる。
ギブアップ、とその背中を叩いて、アザルベーダはようやく抱擁を解いてくれる。
「実験室になにか用か?」
「はい!ここ最近、エギュトス共和国の古代遺跡に行ってきたのですが、古代魔法と噂される方陣を見まして。ただ、現代のMSCSのそれとは全く違ったので、眉唾物か、なにかこの実験に瑕疵があるのかとお邪魔したのです。」
好きなことを、好きなようにやって、その人生を駆け抜けていくと言った少女。その様子を見るに、終着地に辿り着くのはまだ先になりそうだった。僕はそれを嬉しく思いつつ、眩しくも、歯痒くも思う。
「リゼルキルト殿は?いまは、メヒクトにいると聞いていたのですが……」
「あぁ。明日には戻るが、急遽カートリッジがいくつか必要になってな。これから備品部に行くところだった。」
僕が目を逸らしたのに、彼女は気付いただろうか。多分、気付いただろうな。
君がそんなにも眩く輝いている間に、僕は、君にはなれないということを突きつけられて、しかし、それを受け入れて君たちの肌に触れようという覚悟も持てないでいる。それが、急に後ろめたくなったのだった。
「後悔しているのですか?リゼルキルト殿。」
アザルベーダは、真剣な瞳で言った。
涙を堪え、しゃくりあげるように笑ったあのときの姿はもはやない。僕は彼女を直視できなかった。
「していない。僕が選んだ。」
「そうです。リゼルキルト殿、貴方が選んだ。貴方が始めた、戦争です。この戦争は終わらない。貴方が、他でもないリゼルキルト殿がそうさせた。」
僕は、自分で望んだとしても、この戦争を、この病を完治させることができない。この病は、この世界の誰にも完治させることはできない。僕であろうと例外ではない。そういう風になるように、僕は歩いてきた。
「この道を走ると決めたのなら、その道は、貴方に力をくれるでしょう。しかし、立ち止まってしまうのなら。その限りではない。」
その通りだった。彼女はそれを、誰よりも知っている。
だから、そうやって、無闇矢鱈に輝かないでくれ、眩ませないでくれ。
「リゼルキルト殿」
優しく呼んだアザルベーダが、僕に告げる。
「貴方を、ずっと見ています。ボクがこの地球を何周したとしても、貴方を見ているのです。」
だから。
「そんなに窮屈そうにしてはいけません。貴方がボクに、それを許さなかったのですから。」
*
何もやる気が起きなくて、実験室に置かれた粗末な椅子に座ってぼーっと天井を眺めていた。微かに眠気がやってきて、アラームを一時間にセットして眠った。繰り返す夢は、ずっと過去を映し出している。
アステアの手を取った瞬間を。セスタに言った「独占企業体」という言葉、コンドルを乗せた車が、走り去っていく姿。ルムが語った、とある姉の姿。「遠ざけないで」と口々に言い、言った傍から、血肉へと変わっていく姿。
アラームよりも先に目が覚めて、瞼を開けたところで、無感情な双眸と目が合った。
「こんなところでなにしてんだ、入室許可、ないだろ。」
エンタクトが、僕の目の前に突っ立っている。
その奇跡的な美貌は、一人用の椅子に座った僕の隣を見てつまらなそうに視線を彷徨わせ、僕は仕方なく実験装置の電源を落とした。そして、二人掛けのソファに腰を移し、「ん」と言ったエンタクトは僕の隣に座った。
「眠ってたんだ。枕を貸してくれるか?」
「えー……足が痺れたらどいてね。はい、」
エンタクトの腿に頭を預け、もうひと眠りしようかと瞼を閉じる。僕が過信していた本社セキュリティの改善策と、こいつの手綱を握っていないファミリアへの正式な抗議の書面は、目が覚めてからということにした。
折角目を閉じたというのに、エンタクトの手が僕を撫でるから気が散った。寝れないということはないが、こいつが何かしでかしたときにすぐ飛び起きられるよう、そういった寝方をしなければならない。睡眠の階層を浅く保つというのは、存外に気力がいる。
「貴方は……」
ぽつりと、エンタクトが言った。まさか話しかけてくるとも思っていなかったから、もう眠るのは諦めた。顔の良い女のふとももの柔らかさを味わいながら、その愉悦に精神の方を回復させようと開き直る。ドレスから覗く生足は、男からすれば垂涎ものだろう。
「なんで、魔薬を売るの。」
「焔が熱いと知ったからだ。そして、その熱にはお前ですら手も足も出ない美人の女がいて、彼女が僕に王位を求めた。」
「よくわかんない。」
「わからないように言ったんだ。」
少しだけ不服そうな顔をして、エンタクトは説明を求めた。全部を説明してやるつもりははなからなかった。
だから、少しだけ教えてやる。あの銀色の彼女について。
「薬でトリップしてるときにだけ現れる女がいる。求めてやまない、そんな女だ。」
エンタクトはふ、と息を吐いて、二、三度、緩慢な瞬きをした。侮蔑とか憐憫とか、そういうのではなく、どこか、驚いたような嘆息だった。
「それを……偽物みたいだって思わない?」
「なら魔薬も同じだ。その快楽がまやかしなのか、本物なのか、誰もわからない。人間の感情が脳内の化学物質の比率によって決まっちまうって話を聞いて悲観したがる連中がいるが、僕は一ミリもそうは思わない。そういう連中もエリンをキメたら同じことを言うはずだ。自分たちがこんなにも単純な生物でよかったってな。」
「……まやかしでいいの?本物かどうか……それが、大事じゃん。」
「じゃあ誰がそれを判断する。」
僕の反駁に、エンタクトはしかし言葉を返さなかった。
「僕らが本物だと思ったら本物か?それじゃあ僕は魔薬の快楽を本物だと思う。世界中の魔薬中毒者もそう言うはずだ。でも、魔薬取締法執行局の連中は口が裂けてもそんなことは言わないだろう。なぁ、もう矛盾したぞ。本物はなんだ?」
「それは……」
「僕らが演劇の役者なら、僕らを俯瞰する連中が決めてくれるだろう。全てを俯瞰できるのだから、偽物と本物の区別をつけるくらい造作もない。だがな、演劇の中に居るキャラクターは、そこに観客がいることを知覚しない。そうできないようになってるんだ。第四障壁、思考実験だ。」
僕らの世界だって、そうかもしれない。これは世界最大級の演目で、僕らが足掻いている自問自答やこの世界は、全て観客がプログラミングした見世物かもしれない。でも、もしそうだとしても、僕らはそれを知覚できない。彼らは絶対に、僕らに第四障壁を越境する術をプログラミングしない。「私たちのことを知覚する」と、絶対にタイプしない。
だから僕らは、自分が信じる本物を信奉するほかない。
「本物なんてものはない。あるとすれば、それは、僕らじゃなく、『僕が』、本物だと妄信するものだ。誰が僕にそれを偽物と言ったって、誰もそれを論理的に証明できない。」
エンタクトは僕を撫でるのも忘れて、しばし思考していた。
エンタクト・コンネクジェン。血が通った彼女の肉は、作り物のように見えてちゃんと温かい。




