Ep.59『IROL』
ベートを伴って帰ろうとした僕にルムは、「お姉さまに会っていかないの……?」と聞いた。僕は「少し時間をくれ」とそれを辞した。
ルムは複雑そうな顔をしたが、最終的には何も言わなかった。彼女はもう、言うべきことは言ったと思ったのだろう。
彼女が僕に授けてくれる言葉は、きっと的確で、それでいて優しい。声色が冷たくて、表情が薄いから、僕はそれをまっすぐに聞くことができる。受け入れることはできないかもしれないけれど、僕はルムのそれを好ましく思う。彼女の魅力の一因は、そういった抜身の刃のような美しさにある。
遠ざけないで、と。僕には触れることのできない彼女たちは口を揃えて云う。
遠ざけなかったゼータの隊長が、アスファルトの染みになって死ぬ。
そうして僕は、またその二択の分岐点で呟く。僕が、一人でやるしかない。
合わせ鏡の反復のように、遠ざけないで、という言葉が反射して、一人でやるしかないという結論を出し、それを反射した鏡に、ルムのような人間が映っている。その小さな口は、また「遠ざけないで。」と云う。その言葉が写った鏡にいる僕が、「一人でやるしかない。」と呟く。
それはやがて儀式となる。それは僕に、その選択が、僕の、ひいてはカルテルの進退すら決めることになると認識させる。
リゼルキルトの中のアンタニオスが言う。アンタニオスの中のリゼルキルトが言う。「信じろ。」「一人でやれ」後部座席の乗り心地は悪くない。僕の隣で、ベートの瞳が僕を見ている。
「どうした。」
「あの……キャッチボールをしませんか?」
*
「素手か?痛いだろう。」
「ベートは慣れているので大丈夫です。リゼルキルトさんも、多分大丈夫でしょう?」
それもそうだった。ベートがアンダースローで投げ渡してきたボールは、しっかりとしたメーカーの皮張りの物で、それなりの硬さがあった。しかし、その痛みと頬に風穴を空けられるのとでは、明らかに後者の方が優位である。
投球の心得はなかったから、取り敢えずで投げてみる。緩やかな放物線を描いた球は、僕が想定していたより上の方に流れた。少し遠くで待っていたベートは、微かに跳躍して、それを危なげなく掴んだ。
「悪い!少しずれた。」
「いいえ!この球速でこのコントロール……やっぱりセンスがいいんですね!」
お世辞かとも思ったが、そういえば手りゅう弾をぶん投げる訓練は、ゼータに何度もやらされていた。存外、僕には投球の心得があったのかもしれない。ベートが球を放る。
球の軌跡は、僕がしたそれよりもよほど緩やかに弧を描き、僕の首のあたりで減速しきった。僕は、目の前で糸につられた球をただただ掴んだだけのような錯覚を得た。
「……むしろ楽しくないかもしれないな。」
多少頑張ってブレた球を追いかけた方が、身体も動かせて達成感もありそうだ。わざわざベートに伝えはしなかったが、僕は球速よりコントロールを重視して次の球を投げた。ベートがまたもそれを危なげなく掴み取る。
「ベートは、幸せ者ですね。」
見る者が見れば庇護欲を抱くような笑み。声音も、それに倣って随分と可愛らしい。
さっきと寸分違わず同じ場所に落ちてきた球を掴んで、即座に投げ返す。リリースまでの速さを指標にして楽しもうと思った。
「リゼルキルトさんは、ベートのことを大切には思ってませんよね。」
「そんな風に見えたか?だったら悪いな。」
愛くるしい表情の狭間、ろくに話したこともなかったゼータの最年少の女。そこに、微かに混ざる諦観。いや、諦めというよりは、ただ単に、冷たさ、というべきか。
ふわふわと跳ねまわる声色と態度の裏側には、一貫して、彼女が醸成させてきた強い信条があり、そしてそれを彼女は疑わず、片鱗は凍えるほど冷えている。
二人の間を交わされるボール。
「お前を大切に思っていないことが、どうして嬉しい。マゾヒストなのか。」
「リゼルキルトさんは、大事な人を絶対に傷つけられたくないんですよね?気持ち、とってもわかります……」
だから、ベートが嬉しいのは。口の動きで、彼女がそんなことを呟いたのがわかった。
「ベートは、組織のために、リゼルキルトさんのために死ぬことを、貴方に許されてます。それが、幸せなんです。」
僕は、ゼータの隊長に、死の許可を与えた。言われてから気づく。僕はあれを承認した。僕は、その対象がルム達になることを、承認しなかった。ベートには、承認した。だから彼女は、自分が承認される側の人間であることを、幸せ、と言った。
「貴方に許される。それが、幸せなんですよ!ベートはリゼルキルトさんに遠ざけられてない。それが、幸せだと思います。」
「よくわからん奴だな、お前は。」
今ここで、僕が本気で放った球に頭をぶち当てて死ね、と命じたら、彼女は嬉々として従うだろうか。
想像できなかったから、実際に命じてみないことにはわからない。もしそれを遂行したとして、自分の頭蓋が砕かれる音を聞く絶命の瞬間、彼女は幸せを再定義するかもしれない。その思考までは、モニタリングできない。
「本当に、そう思っているのなら。」
「はい。」
「お前が、ゼータを継ぐか?ベート。」
笑顔のままのベートの顔。しかし、それはなんというべきか、モノクロに見えた。僕がキュルケーのやりすぎで目をおかしくしたのではない。感覚的に、その笑顔に色があるように思えなかったのだ。完全に感情が漂白された笑顔。そんな不気味な印象を抱く。同時、それこそが、彼女のパーソナルを最も端的に表現した表情なのだとも思う。
僕が放った球を掴み損ねたベートは、その球の行方を追わなかった。
「その名前を以て、───死なせてください。リゼルキルトさん。」
瞳孔を開かせた幸せ者の双眸が、僕を見ている。
僕はその瞳に、一つだけ。小さな、願望を語った。
「なぁ、ベート───」
*
翌日、マフィアの宿舎───マツシマの執務室で、僕らは相変わらず色気のない二人で顔を突き合わせていた。
僕がメールの文面で行った簡易的な現場の報告を、僕の肉声によって詳細に行った。それは、ラザロ教団の脅威についての話であり、ルムの被った火の粉の話であり、ティミスという大司教を名乗った適合者の話であり───死んだゼータの隊長の話であった。
「弔いをしましょう。貴方も出席してもらえますか。」
「あぁ。悪かったな、そっちの連中を巻き込んで。」
「いえ。カルテルの脅威となるなら私たちの敵でもある。それに、私も、まさか幹部級が出張ってくるとは思っていなかった。アステア氏が行くべきだと提言したことについては、間違っていなかったようですが。」
僕が視線をマツシマでないところに投げたことで、彼も話題が放棄されたことを悟ったようだった。
「それで、ベートを新たな隊長に、という話は本気ですか。」
「あぁ。僕に裁量はないから、あんたに持ってきた。」
「根拠は。」
「強いイデオロギーがある。ゼータのミュートロギアになり得る、と言ってもいい。」
「それは?」
「忠誠だ。ゼータという人間を殺したイデオロギーであり、コード・ゼータが忌避したイデオロギー。」
彼は、忠誠や義侠心というものをどこまでも排斥し、そのトリガーにまつわる意思決定の全てを自分が請け負うというイデオロギーを掲げた。それを、軽いトリガーと称した。
それは、ファミリア・ナイフというMSCSに引き金の重さを仮託し続けたバルデリーニと矛盾し、やがて、彼はその矛盾によって命を落とすこととなった。
そしてその刃に立ち向かった盾というのが、忠誠心だった。
「ベートは、僕に死なせてくれと言った。自分は幸せ者で、本当に嬉しいと言った口で、死なせてくれと言ったんだ。一貫してないように見える、トリップしちまったような論調だ。あるいは本当にトリップしていると思うか?もしくは、生まれたときから頭ん中に魔薬が詰まったサイコ野郎だと思うか?」
「思いませんね。彼女は女だ。」
「あぁ、その通り。じゃあ論理の通用しないヒステリック女かというとそうでもない。ずっと一貫した何かがある。それは、外から見れば論理も何もない不可解な言動に見えるだろう。しかし、奴の表情の全てがそれを否定する。あの女には、何かがあるんだ。そしてそれを僕らが呑み込みやすいように料理してやったら、忠誠心という名前の品ができた。」
彼女の中には、何かの論理があったんだ。僕がそうだったように、何か、大きな精神的な力が、彼女にそうさせた。
「ゼータ足り得る奴には、そういうイデオロギーが必要だ。」
「しかし、その忠誠心という柱一本で、彼女はやっていけるのですか。その柱がどれほど頑丈かもわからない。それが簡単に瓦解するような貧相なものだったとき、ベートは容易くバランスを崩す。そのリスクを、私たちは度外視できますか?」
それ一本でやっていければ、きっと理想的なのだろう。しかし、皆がそうであるように、やはりマツシマは危ぶむわけだ。ただの一つの信条だけで立ち上がれば、それは自立にして孤高。まるで光のように絶対的なものになる。だが、そうならない未来も、往々にして訪れる。
「二本足で立った方が、フラつかないで歩けるものだ。僕がゼータに最期に教わったことだ。」
「では、彼女の片足を、誰が務める。」
そこで、僕は本題に入ることにする。死したゼータの”前”隊長が予定していた、とある計画。
「アビレスの隊長。ゼリタだ。」
ゼータ・アビレス統合計画。
「さぁ、仕事の話をしようマツシマ。一か月後、メヒクトに飛ぶ。」
一か月後のメヒクトへの遠征。ゼータの事実上最高責任者であるマツシマは、その義理を通そうと同行を申し出たが、何か強い興味でもないのなら別に来てもらわなくてもよかった。なにせ、僕は最初からゼータに同行してアビレスの連中に会いに行くつもりだった。彼らを引っ張ってきたのは僕とアザルベーダ、そしてその一助となったトールだ。
アザルベーダはカルテルの正式な構成員ではないし、トールは今は密輸担当幹部。畑違いも甚だしい。引き合わせるのなら、それは僕の役目だった。
「改修は終わったのですか?」
「終わる見込みだ。それに、最初はゼータとアビレスの力量を計りたい。行軍する予定だから拠点にはほとんどいない。多少なら工期が伸びても問題ない。」
「なるほど、そうですか。それは、是非とも同行したくないものですね。」
マツシマの身体能力はおそらくゼータの隊員としてもやっていける領域にある。億劫そうなのは、彼が生来そういう気質じゃないからなのだろう。
「統合作戦の運びはそんなところだ。」
僕が話したいことは話した。あとは好きにどうぞ、という言外のターンエンド。マツシマもそれをわかっていて、小さく頷き資料を取り出す。「セスタ氏から伝言です。」とわざわざ言い添える。
「電話なりメールなりすればいいものを。」
「一晩中泣いたんですから、まだ声が戻らないのでは?責任の一端を自覚した方がい。」
「なんだ、あんたにも皺寄せがあったのか?」
「皺寄せという言い方は適切ではないですが、健常なセスタ氏がこなしていた業務の量を、少々見誤っていた、というところですかね。」
インテリの連中というのも大変だな。それならば、僕はよっぽど行軍の方が心躍る。
「まぁ、彼女の導入したスーパーコンピュータのお陰で、それも多少緩和されています。それで、そんなスーパーコンピュータを、クリスタルベリーとしてではなくカルテルとして入手できた理由の方ですが。」
「あぁ。タリャーリナから密輸したと聞いてるが。」
「各国が覇を競い合う技術の結晶です。そう易々と他国に持ち出せるものでもないし、まして犯罪組織に渡ることなど考えられない。そうすれば必然。」
「なるほど……どんな厄介事が潜んでいるのか。」
セスタのことだから、そういったリスクヘッジについては了解している。僕らがギリギリキャパオーバーにならないような量。つまり、自棄にもなれないが常識的なワークライフバランスにもなれないという絶妙な塩梅のタスクということだ。
「陰謀論の類だと思っていたのですが、どうやら公に活動している秘密結社がありまして。」
マツシマが示したロゴ。六芒星の中にある不気味な瞳。その横に、鎚が点対称に配置されて枠を取っている。アルファベットも併記されていたが、その特殊なスペルに読み上げるのが遅れる。
「ウォーランド、ギルド……?」
「えぇ。闇の政府とか量子力学とか、その筋の人間が好きそうな話題の中でも一際人気な、そんなトピックです。」
かつて、中世と近世の間のあたりの時期、勃興した鍛冶師稼業の職人が結成した鍛冶師組合を源流とする組織。
「友愛主義」と銘打った思想を啓蒙する団体で、全世界会員数がおおよそ一千万人と推測される秘密結社。それは陰謀論も燃え上がるだろう。
教皇庁と同じだ。会員制にして活動実態が不明瞭。クローズドな実態に、人々は陰謀を仮託する。
「その実、彼らは本当に啓蒙活動を行い、その主義信条に適う個人、あるいは法人に寄付を行うような、少し閉鎖的な慈善団体という感じなのですが。」
「またお決まりのパターンか?どんな陰謀論を聞かせてくれるんだ、次は。」
「残念ですが、ラザロ教団と同じです。彼らは各国に支部を持っています。それをフォージと呼ぶそうです。アメリクスにもフォージ・アメリクスがあり、タリャーリナ共和国にも、フォージ・タリャーリナがある。それも複数。そしてその中で、第二管区と呼ばれる領域を管轄するフォージが、ギルドを破門され、あまつさえタリャーリナから犯罪組織として認定されました。」
思わずため息をついた。僕ら犯罪組織の領分を、どうしてこうも教会だとか政府だとか慈善団体が踏んでくるのか。
「その第二管区というのは?」
「タリャーリナ共和国のミュートリノを管轄していました。フォージ・タリャーリナ第二管区、現地では『プロファロギア』という名称があったそうですから、略称であるロギア2の方が通りがいいらしいです。」
「それで、一体何をやらかせば、国から犯罪組織だとお墨付きを貰えるんだ。」
「前聖教会教皇暗殺の嫌疑と、ミュートリノ駅舎爆破事件の首謀者の嫌疑。」
「……あんたらも見習ったらどうだ。バルデリーニは、駅の方のモールで好き勝手遊んで満足していたそうじゃないか。随分景気の悪い犯罪組織だ。」
「こんなのと比較しないでください。」
さすがに不服だったようで、マツシマの否定は即座に差しはさまれた。
「しかも、……また教会が関わってるのか。存外、陰謀論も馬鹿にできないな。あの、どんな性的嗜好を持った人間でも満足させられるという売春専用都市も、実在するかもな。」
「滅多なことを言わないでくださいよ。」
「まぁ、経緯は大方わかった。そのロギア2が所有していたスーパーコンピュータが、僕らのもとに転がり込んだ、と。」
「えぇ。ロギア2の代表を務めていたフリードという男に、セスタ氏が掛け合った。」
どこまでも手広い奴である。一体どんなツテをしていれば、そんな連中にスパコンをくれと頼めて、いいよと言ってもらえるのか。
「もう既に厄介そうだが、僕らが対応を迫られるとしたら、どんなのがある。」
「実は風評と実態が悪すぎるだけで、このままならば何か必要なことはあまりありません。ただ、セスタ氏も私も、そして貴方も、同じところで引っかかった。」
「聖教か。」
「えぇ。昨日の今日でなんですが、この魔薬市場の中で、彼らは無視できない利害関係者になりつつある。」
僕の原初にして、アンタニオスの生みの親。はたまたラザロとかいう人物を蘇らせてみたり、人格を漂白したりする。随分な連中である。
その巨大さを考えれば、末端が膿み、それが脳を蝕んだりする現状にも納得はあるが。
「前教皇は、表向き老衰で崩御したことになっています。しかし、当時ロギア2の代表だったフリードによる謀殺だった、という可能性が、蓋然性のあるシナリオとして存在する。」
「根拠は。」
「前教皇の短い任期と、その前の教皇の時代に起こったこと。貴方も、関係ない話じゃない。」
そこまで誘導してもらえば、僕にでもわかる。
前の前の教皇の時代。前教皇の任期が短いともなれば、遡ったその時期その時代、僕は今の僕に近しい僕だったはずだ。そして、そんな僕が関与していて、その事実をマツシマが知っている出来事。
「市国の建国と、聖教銀行の開行か。」
「えぇ。貴方も口座を持っているそうじゃないですか。」
僕らがまだ四人だけでカルテルを切り盛りし、手ずから路上で売人をやっていたとき。僕らは、ファミリアの銀行を厭うて国外の聖教銀行に口座を作った。まだ開行したばかりで預金を求めていた聖教銀行の門戸は、随分と軽かったのだ。
そしてそうであるならば。
「もちろん、不正が横行した。具体的には、武装組織に渡る武器購入費の、資金洗浄。」
「話が見えてきたな。その武装組織というのが。」
「えぇ。ロギア2です。フリードは、前々教皇と親交があった。そして、その開行にも関わっていた。」
「前教皇が推し進めたのは確か、教会内の不正調査と、断罪。」
「フリードにとっては殺すに足る理由を持ち合わせている。ほどなくして、実際にロギア2は犯罪組織として認定されました。」
聖教にまつわる謀略と、図らずもそこに接続したカルテル。
「立ち返るようですが、やはり最後に出てくる厄介事は、聖教から連想されるカルテルと、目下最大の敵対勢力であるカルテル。」
「ラザロ教団とグランナダラ・カルテルか。」
もういっそ、どちらとも壊滅させてやれば、万事解決というわけにはいかないだろうか。
コーヒーを飲み干して、手を振ってマツシマに資料を下げさせる。心配はどれほどしても損はないが、程度と頻度についてはこちらが決める。少しばかりの現実逃避として、僕はマツシマに新たな話題を提示した。
「セスタに伝えておいてくれるか。」
「これは……MSCSですか……?」
僕が手渡した設計図。一応は、カルテルの腕利きの人間に作らせたものだから、アンタゴニストのそれよりもよほど見かけはいいはずだ。
「あいつが少し前に、障壁デバイスの実験機の話をしてたんだ。」
「なるほど。」
「僕も、一枚噛ませてもらう。金に糸目はつけないから、用意させてくれ。」
ソファに投げていたアンタゴニストを一瞥して、マツシマは呆れたように言った。
「特注のMSCSを二本も持っていて、どうするんです?」
僕は何度も言っている筈だが、マツシマは気付いていないらしい。だから、僕はまた教えてやることにする。
「二本あった方が、フラつかないで済むんだよ。」




