Ep.55『無闇矢鱈に輝くな』
ラップトップに際限なく送り込まれてくるメールの解読を一度切り上げて、途中運ばれてきた昼食に目を向けた。
食べる気がしなかったし、無理に食べてもまたゴミ箱を汚くするだけだから、エンタクトにくれてやった。存外拙くナイフとフォークを繰ったエンタクトの横を抜けて、ジャケットを羽織る。
「出る?」
「あぁ。お前は好きなときに帰れ。泊まりたければ奥の寝室を使ってくれ。」
「ん。私は……」
「なんだ。」
「んーん。ついてかない方がいいかなって思って。」
「あぁ。そうしてくれ。」
「はーい」
すぐに食事に戻ったエンタクトに背を向けて扉を抜けた。
昼過ぎからの用はセスタとの打ち合わせだった。試験的に始めていた完全匿名性のクレジットカードの利用について、ある程度の運用計画の目途が立ったというから、そのレクチャーをしてもらう予定だった。
あとは、彼女とのお茶に付き合う、という用事もあった。多分そっちが本命なんだろう。
大腸、いやもしくは胃のあたりが、嫌な軋み方をしていて、巻いたベルトが腹に食い込む感触がいつもより億劫だった。
歩けない距離じゃなかったが、歩く気は失せてしまった。僕が歩いてきたのに気付いた護衛の男が目礼する。
「車を。本社までだ。」と短く言えば、小さく頷いてキーを取りに戻った。今日の護衛はゼータの隊長だった。どうも、流行り病だとかで、カルテルもファミリアも配置転換の必要に駆られているらしい。ファミリアの人事幹部であるヴィオレタが、煙草の煙を吐きながら愚痴った内容を思い出した。
ロータリーまで出ると、既に車は用意されていて、はやく座ってしまいたかったから後部座席に乗り込んだ。一分も待たないうちにゼータの隊長が運転席に乗り込み、車はゆっくりと動き出す。
「少し痩せましたか。リゼルキルトさん。」
無意識に腹回りに視線を落とす。脂肪が落ちるのは問題ないが、筋肉が落ちるのは看過できない。
「すぐに元に戻すさ。」
心配そうな視線をバックミラー越しに向けられて、僕は視線を車窓の外に投げ出した。
*
大農場建設計画が完了してからというものの、僕は自分の身体に好き勝手させすぎたらしい。多忙により大暴れするスケジュールが心身に影を落とすのを、僕は無駄に達観して見ていた。
エリンのシェアを奪われ、三十五号線の争奪戦にある一つの懸念が生まれたころ。そんな最悪の時期だった。
締め付けを増していく金融犯罪対策室やIMFT、アメリクス治安当局や魔薬取締法執行局から逃れるための策は、講じ過ぎるということがない。
僕や、アステアを除くカルテル・ファミリアのリソースはそこにつぎ込まれ、相応に疲弊した。しかし、それだけならば昼間から原因不明の嘔吐に悩まされることなどなかった。
問題は、グランナダラ・カルテル、それも、エミリア・カテドラルによるあの一件からだ。もちろん僕の所有権を移譲することはなかったわけだが、必然、エリンの原料であるロキの仕入額は増大した。
メヒクト・グランナダラに限ればほぼ全てのシェアを占めているといえるグランナダラ・カルテルは、その資金力で以て武装。カルテルの規模としては、僕らに匹敵するまでになった。
金の流れは、多少の相殺はあれどほとんど僕らからグランナダラ・カルテルまでの一方通行で、それを座視していればいずれ食い殺されるのは自明。新たな販路と効率的な資金洗浄による軍拡を推し進めようとしたところで、思わぬところから寸鉄を喰らわされることとなった。
顧客情報を絶対に開示しないことで知られているシュバイツ銀行が、史上初めて顧客情報を開示した。
積極的脱税という疑義をかけられていた様々な投資家、企業経営者、政党関係者などが口座凍結を余儀なくされ、セスタの機転によりすんでのところで難を逃れた僕らも、資金洗浄中だった預金額の一割程度は甘んじて永久凍土に埋めざるを得なかった。
金融における信用とは、そもそれ自体が商品である。シュバイツ銀行はそれを失った。同時、僕らは大口の資金洗浄装置を失った。
そこで、僕もセスタもマツシマも、強力な武器の大量購入という手段を一度棚上げにして、違う道筋を探った。
その迂回路として、エリンの適合者探しにマツシマの故郷まで出向き、グトレマヤのアビレスのリクルートに奔走した。
根回しとリスクヘッジに相応に精神を削られたが、その間にも魔薬株式会社の通常業務はこなし続けなければならなかった。
MSCSの性能向上を目的とした『箱庭』実験は、莫大な軍事費を賄う資金洗浄方法が見つかったときのための布石だった。
もちろん、その間にアステアは新たな資金源となるアンプヘルタとクリスタルメスを精製してくれたが、それを市場に投入するための諸々の準備については、僕が引き請けた。彼女たちを全世界の犯罪組織との交渉のテーブルにつかせるのは、僕が認めなかった。
聖廟で見た白昼夢。彼女たちの死体が、目の奥にこびりついて離れなかった。
車が地下のロータリーに着き、一人で本社ビルに入った。受付まで歩けず、途中のトイレに寄ってまた吐いた。
なにもない胃の中から出てくるのは、唾液と混ざって粟立った胃液だけだった。口をゆすいで前髪を整えた。潤んだ瞳が、筋肉質な身体をみすぼらしく見せた。
相変わらずとてつもないスピードで上昇していくエレベータ。眼下に広がるビル群を眺めながら、舌先に乗せたキュルケーを吐き出した。視界の色は毛羽立っていて、脳はあり得ない思考の領域に接続している。それなのに。
「なんで、出てこないんだよ……フラクタル。」
君だけは、姿を見せてくれなかった。
*
セスタによるこうしたレクチャーは、正直なところメールや通話で事足りる。むしろ、重大な仕事をいくつも抱えているセスタより、彼女の下にいる連中に任せるほうが得策だ。
わかりやすさや用意の周到さは一枚落ちるだろうが、しかし僕には想像もつかないビジネスの世界を生きている連中だ。きっとうまくこなすだろう。それでもわざわざセスタが教鞭を取るのは───
「お茶、お持ちしました。」
「助かるわぁ、ありがとう。」
流し目が僕を舐り、最後に運ばれてきたカップに向く。
この時間を、彼女が求めてくれているから、なのだろう。それもそうか。
僕が自分の所有権を交渉のテーブルに引っ張り出されたのは、なにもエミリアが最初ではない。今は仲間のような面をしているこの女こそ、僕に「人権」は「商品」であると教えてくれた先生その人なのだから。
今日もまた、虎視眈々と僕の所有権の買収に向けて策を弄し、その先にある金を信奉している。
この時間はいわば、彼女にとっての交渉の時間なのだ。
カップを僕の前に置き、セスタも自分のものをテーブルに置いた。顔を見ながらの方が話しやすいだろうという理由で、さっきまで隣にいたセスタは対面のソファに移動している。
狂的にわかりやすいセスタの資料を、「あとでデータでくれ」と返却し、貸与されたクレジットカードをマネークリップに挟んでポケットにねじ込む。
わざわざ自分から飲むことはない紅茶のカップを取り上げたところで、同じようにカップを持ったセスタが、口をつけるわけでもなくにんまりとこちらを眺めている。
「なんだ、飲まないのか。」
「えぇ。リゼルキルトくんこそ、飲まないの?」
わかってやっているのか無意識なのか、僕は、この紅茶を飲んだ傍から、ハンカチに吐き出そうと思っていたのだ。それを、こうも注視されるとやり辛い。
意を決して嚥下して、即座に起動する嘔吐反射を食道括約筋で強引にねじ伏せる。馬鹿な一人芝居のうちに、対面の席からセスタが消えている。
なにか、随分と前に同じようなことがあった気がした。
いつだったかは思い出せなかったが、そのあとどうなるのかは憶えていた。
テーブルを飛び越えてきた、インドア人間とは思えない細身の身体を、ソファの上で受け止めた。僕の膝の上に収まったセスタが、幾分か高い位置から僕を見下ろす。その両手は、僕の肩に添えられていた。
この状態から首の動脈を狙われれば、彼女の腕の下に控えた僕の手はセスタの首まで一直線には進めない。一撃で絶命させるのは諦めて、締め技に持ち込むしかないだろう。なぜだか立ち上がった頭の中の戦闘基幹システムが、そんなことを考えた。
少しばかり身体をねじらせて、セスタはテーブルにあった僕のカップを手に取った。
「飲んで。」
強引に押し付けらたカップから、抗議の声を封じるように紅茶が流し込まれる。口腔で溺れた言葉は、一口分の紅茶に押し流されて喉奥に注ぎ込まれていった。そして、次は胃酸を伴って戻ってくる。
思わずえずいて、ずきりと痛んだ腹筋に体が折れ曲がる。顔を包み込んだ柔らかい感触。セスタの胸に顔を突っ込むような形になってしまったらしい。
傍から見れば天国のような光景でも、当事者としてはそうじゃなかった。続々とこみあげてくる吐き気に、謝罪の言葉も形にならない。
そのとき、僕の頭を撫でる感触があった。指の腹が、丁寧に頭髪の表面を滑り、そこから伝播してくる温かさは、それぞれの指の長さの割合に分割されている。お前にも、愛を思い起こさせるような行為ができたんだな、と思った。対極にある概念、「金」こそが、セスタ・クリスタルベリーの本懐だった。
僕が落ち着いたと見たのか、セスタは腕を僕の首に回し、その軽い体重を預けてきた。僕の耳もとへと向かっていく綺麗な形の唇が、笑みをかたどっていた。側頭をくすぐった硬い感触。彼女のつけている、気色の悪い髪飾り。
微かな吐息とともに、セスタは僕に囁いた。
「吐いて。」
反応が遅れる。抱擁を解いたセスタの指先が、僕の口に突っ込まれる。喉の奥を、その爪の先がかり、と掻いた。
押しのけようとした僕をセスタは再び抱き留めた。顔面を、また、あの柔らかな感触に包まれる。堰を切ったように零れた吐瀉物が、セスタの胴体に容赦なく吐き出される。飲み込んだ分の紅茶と、からからになってしまった胃液。
コップ一杯に満たないそれも、内容物は唾液と胃酸と紅茶のブレンドだった。えずき続ける僕の頭を、セスタが優しく撫で続ける。
異臭が立ち上り、ねばついた分泌液の感触は不快だっただろう。その服は捨てざるを得ないだろうし、こうして彼女に抱き留められている状況も、彼女にとっては衛生的に不健全だった。
そういった思考は、彼女に撫でられ続ける頭の奥でしっかりと働いているのだけれど、それでも、頭蓋骨一枚隔ててコーティングされた頭皮とそこに植わっている毛髪を突き抜けてくる甘美な掌の感触は、思考を容易く淘汰した。
「……折角の服が、っ、……ゲロまみれだぞ……」
「別にいいわぁ、これくらい。仕方がないわねぇ、リゼルキルトくんは。甘えん坊さんな上にこんな粗相をしちゃうなんて。」
「人の口に、指突っ込むのは……っ、充分粗相だ馬鹿。」
「キミが遠ざけるから。」
思わず口を封じられる。止まらない咳のせいじゃなかった。
「光は、綺麗だった───?」
歯根がぎし、と鳴った。胃液のせいだろうか。噛み締めた理由は、考えようとしなかった。
「眩しくて……綺麗で……憧れて……きっと、最後には……あぁならないといけない、んだと……」
「あのMISURANIAの一人娘は、リゼルキルトくんが出会うべき娘だった。でも、当たり前だけど、わかってたはずなんだけれど、いいことばっかりじゃなかったわよね。」
キミは、憧れてしまった。セスタの小さな口が、そんなことを呟いた。
「アタシは、キミのゲロを被っても、こうやって頭を撫でてあげられて、珍しくしおらしいキミが、本当に可愛らしくてしかたなくって……全然幻滅したりもできないんだけど。それでも、それでも、ねぇ。」
リゼルキルト。
「キミに守ってもらっているアタシが、アタシたちが、言わなくちゃいけないんだわ。」
言葉通り、泣きそうになるような掌が、僕を撫で続けている。思わず、その柔らかな胸に頬をうずめる。彼女の身体に由来するのか、布地からか、あるいは香水だろうか。それだけでセスタを思い出すような心地いい香りが、脳を痺れさせる。
「農場のときも、完成したあとも、国境線のとき以外、キミはアステアを戦場に絶対に連れ出さなかった。むしろ、縛り付けて、理研とヤサに押し込めた。」
「……うん」
「あの女が、そのときなんて言ったか、───憶えてる?」
遠ざけないで。アステアはそう言った。縛り付けないで。あなたと一緒の地獄に行かせて。同じ苦しみを味わわせて。自分だけで、行ってしまわないで。わたしのことは、そんなに信用ならない?信じてほしい。
「可哀そうだけど、リゼルキルトくんは、もうアタシに見捨ててはもらえないの……だから、キミの駄目なところと、情けなくて、自意識過剰で、アタシたちを前時代的ジェンダーイメージに縛り付けているキミの、」
「な、なにを」
「黙って聞いててっ!」
むぐ、とセスタの胸の中でくぐもった声を漏らす。
「キミの、格好悪い秘密を、暴いてあげる。」
アザルベーダに憧れた。
それは、彼女が、自分の力と、自分の意思だけで、眩しいくらいのアザルベーダという存在だけで、あの道を駆け抜けていったからだ。
僕は、彼女に手を差し伸べなかった。彼女の存在に、責任を取ろうとしなかった。取れなかった。だって、僕は。
「光に眩まされたの?」
セスタの優しい声色が、信じられないくらい鋭い刃渡りで、ぐっと僕の肉を裂く。
「確かにリゼルキルトくんは、一人でマフィアの幹部を殺してきた。」
だくだくと流れ落ちる血液の向こう側で、僕の神秘が切り拓かれる。僕が秘めていた、秘めたままで、神聖さに転化させていた心根が。
「でも、まだそれが通じると思ってる?」
だって僕は、僕が占めているこの席は。リゼルキルト・カルテルのボスの座は、世界をまたにかける犯罪組織の首領の座は、法執行機関のレッドノーティスに刻まれた名前は。
「キミは、たったひとりでここまで来たんじゃない。この先も、ひとりでやっていけはしない。」
憧れた。望んだ。眩まされた。
わかっていたはずだ。光には、届かない。僕の手は、秒速三十万キロメートルで駆け抜けていった輝きの、その残光を掠めるに過ぎないのだから。だから僕は、それになれるはずがないんだから。
それでも。王になれる器には、きっと光が相応しい。そうでなければ。そうしなければ、僕は。
脳裏には、ふわふわと揺蕩う、銀色の君がいる。でも、その周りに、気色の悪い花飾りをつけた守銭奴の女と、黒の中に輝きを湛える少女と、光のような笑顔をした女と、目麗しい姉妹の姿がある。
「仕方……ないだろ。」
なにが、とは、セスタは訊かなかった。僕も答えを持ち合わせていなかった。
ぼとり、と何かが滴る音がした。それは、やがてだくだくと勢いを増して、セスタに傷つけられた形而上世界の傷口が、この世界に呼び出されてしまったのではないかと思った。
けれど単純で、それは僕の鼻から流れ出した血液だった。既に汚れまくったセスタのスーツを、汚い僕の血が上塗りしていく。
「ちょ、リゼルキルトくん!?」
理性が薄れる中、僕の顔を両手で掴んだセスタに表情を覗き込まれる。
そうやって、そんなにも、僕を気にかけてくれる。彼女も、自分を信じて欲しいと言っている。遠ざけないで、と。僕とアステアと同じように、セスタだって、僕と同じ地獄に行くと約束した。そう、契約した。
でも。
「僕は、……どうせ……」
僕の心の何かしらの安全装置が、うなりをあげてその言葉の続きを言わせないようにした。平時ならば容易く完了されたそれも、わけのわからない状況のせいで間に合わなかった。
口に出した瞬間のセスタの表情で、全部を間違えたと思った。ぞっとした。初めて見た表情だった。
「僕はどうせ、お前の一番にはなれない」
実際、そうじゃないか。信じろ、遠ざけるな、そんな風に言うのなら。
僕を損切りしようとしたのはなんだったんだよ。そうやって金ばっかり追いかけているのはなんなんだよ。信じて欲しいという君が、本当に僕を信じているのか?
君は、金しか信じていないんだろう?
君の優先順位の頂点に、きっと、僕はいないんだろう。
僕をソファに横たえたセスタは、内線を取って何事かを告げた。それで、汚れたままの服で、足早に部屋を出て行った。
一人きりになった部屋の中で、エミリアのことを思い浮かべていた。
『アタシの全てを、あんたにやる。だからぁ……あんたも、アタシのものになる。』
とんでもない論理だと思った。傲慢だと思った。それでも。
僕だって、心の奥底では、そう思っていたんじゃないか。
最悪の気分で、意識は無意識に埋まる。




