Ep.54『パワー・オブ・アトニー』
「───さん……───ルトさん───てますか?」
新たなマネーロンダリングの方法は、常に考え続けなければならない。いくつかある口座のうち、海外の市場にアクセスするための中継地として利用される銀行のコルレス口座。上手く利用すれば、顧客の名前を完全に隠した状態で運用することが可能、というのはセスタのお墨付き───
「リゼルキルトさん!」
「あぁ!どうした」
扉を強くたたく音。我に返り、現実に帰還したような気になる。
執務室の扉の前で、強く僕を呼ぶ声がした。
「女を連れてきましたが、本当に、通してよろしいですか。」
「あぁ、構わない。見届けなくていいから、持ち場に戻ってくれ。」
扉の奥で了承の声を聞いて、こみあげてきた吐き気をゴミ箱にぶちまけた。無理して飯を食ったわけでも、酒に酔ったわけでもなかった。それでいて、最近では珍しいことじゃなかった。
舌の上を不快に滑った吐瀉物の残りを、ゴミ箱に吐き棄てた。昼食のときから残っていたナプキンを引き寄せて、口元の胃酸と泡を拭きとった。ゲロまみれのゴミ箱にそれも投げ捨てて、浮いた脂汗は袖で拭った。
ここ最近の睡眠時間は、平均して三時間というところか。幹部級の、それも、セスタやアステアが同席を望まれるような交渉には、全て僕が赴いていたし、厄介事の収拾も、彼女たちには任せなかった。それでいい。暴力担当は僕だ。だから、このところの不調も、その一環。
再び扉が叩かれ、応じると無遠慮に扉を開けた女が入ってくる。あまりにも精巧な造形に、本当に作りものなのではないかと毎度思う。
───エンタクト・コンネクジェン。
いつか、オンドゥラの高官に未成年の処女を売りつけたとき、ファミリアがパーティーに用意したコンパニオンだった。ファミリアに照会しても身元や来歴は不明。自宅で首を吊った死体として発見されたオンドゥラの労働省大臣の男───オルラエン───とも関与はなかったらしく、ファミリアの歓楽街でふらふらしていること以外に大した動きもないという女だった。
警戒していなかったわけじゃない。しかし、メルとルムの様子を見に行くときに、彼女は随分と性能の良い人間避けになってくれる。それでいて、下手に反抗的でもなく、つまらないというほど従順でもない。それが、随分と気楽だったのだ。
「今日も来たのか、悪いな。出かける予定はないんだ。」
「そ……じゃあ、ここでくつろいでる……」
好きにしろ、という前に、エンタクトは高いヒールを脱いでドレスを着崩し、神性すら感じる精緻なスタイルの肢体をソファに横たえた。零れた乳房に情欲を抱くことはなくとも、完成され尽くした容姿に感嘆はする。自分の腕を枕にして、彼女はじっと僕を見ていた。残念ながら、視線で人を殺すことはできない。僕は気にせず、次のメッセージをタイプし始める。
十通ほどメールを打ち、転送されてきた五通ほどを読み終えた時だった。
「最近……忙しそうじゃない……?」
それが自分から口を開いたことに、少しばかり驚いた。
柔らかな二の腕にぷっくりと押し付けられた頬が、その精巧な無表情に僅かばかりの愛嬌を生じさせていた。
「こないだは実験だからって途中で出てったし、マツさんの故郷にもついてって、ファミリアの商品が二つ増えてた。しかも、グトレマヤまで行ってすぐ帰ってきた。」
マツシマと僕が発ったというのは、別に知ることのできない情報じゃない。実験についても、アンプヘルタとクリスタルメスについてもそうだった。だが。
───グトレマヤについては、どこで知った?
あれはカルテルの連中にも一部にしか伝えていないし、ファミリアに至ってはマツシマとゼータしか知らないはずだ。今となっては隠してはいないが、所詮娼婦崩れのような女が知れる範囲を優に超えている。引き金を迷ったところで、キャリーケースの手荷物タグを思い出す。
「あぁ、スリーレターコードか。」
『GUK』と印字された手荷物タグ。ろくに荷ほどきもしなかったキャリーケースは、昨日から部屋の隅に置きっぱなしだった。中身はあちらで使い終わっていたので、タグはつけたまま郵送で送り返したのだった。
新たな着眼点を与えてくれたのを喜ぶべきか、そのつまらない表情筋の裏側で、彼女が何を考えているのか探るべきか。結局、僕は危害を加えてきそうなら殺そう、と結論を棚上げして、その静謐な双眸を見つめた。
「貴方をそんなにも急かすのは、一体……だれ?」
根を詰めすぎた少しばかりの息抜きに、僕は、つい半年前の出来事を回想した。
*
世界で最も美人が多い国───グランナダラ。そんな評判に違わず、車窓から眺めた年若い女は、大体が整った顔立ちをしていた。あまりタイプではなかったが、人種に通じるものだろうか、身体の起伏に富み、グラマラスな雰囲気を醸し出す扇情的な肢体には、アステア達やルムで肥えたと思っていた目でも退屈しなかった。
さて、グランナダラ・カルテルのボス、エミリア・カテドラルも、そんな美貌を湛えているのだろうか。車列は、聖廟を模った巨大な邸宅の門をくぐる。
褐色の肌と、夏空の雲のような儚い白髪。その、ともすれば薄幸に映るような淡いコントラストに、勝気な表情が浮かんでいる。何が面白いのか不敵な笑みを湛え、豊満な乳房に巻き付けた黒い布地は、果たして服と呼べるのか。だらしなくひっかけた対MSCS用に見える装甲付のジャケットが、彼女が足を組み替えたのにぎし、と鳴った。
「さて、リゼルキルト。実際に会うのは初めてだなぁ……?」
堪え切れない愉悦。舌先のそれが、忌々しい僕の仇名を呼ぶ。
「聖人。」
グランナダラ・カルテル。エリンの原料であるロキの大量仕入において、これほど理想的な生産業者は存在しない。なにせ、グランナダラの広大なロキの大農場、パラマから下の中南米の生産地。その利権の全てを掌握しているのが彼女と、彼女がボスを務めるカルテルであったからだ。
バハラータの巨大なカラシナ畑。メヒクトの砂漠の中に作り上げたヒュドラ農園。コンドルが統括するそれらに、エリンの生成拠点を追加するのは現実的じゃなく、また、それによって彼女たちグランナダラ・カルテルへの有効打になるとも思わなかった。
故に、リゼルキルト・カルテルのエリン精製は、彼女たちのロキに頼らざるを得ない。
「淡泊じゃないかぁ……?これまで直接出向くことなんてなかったのにぃ……今日はこんなにたくさんのお客さんを引き連れてきてさぁ!」
ばっと示した狭い部屋。そこが、エミリアの執務室なのだとすれば随分と清貧なものだが、おそらくは違う。僕の護衛数名と、廊下で待っている十数名。もちろん、エミリアの側の構成員も、同じか、少し多いくらいの人数が同席している。
特に、エミリアの直ぐ後ろに控える女───腰に届くような闇色の髪に、グレーのシャツとサスペンダー。仕立てのよさそうなジャケットの奥に、グランナダラ・カルテルの意匠が施されたネクタイが見える───は、その立ち姿と視線の運びで、相当の手練れだとわかる。
取引先の代表取締役が、明らかにアッパーな感じでトリップしている姿に、こちらの護衛は各々が警戒、当惑、危機感と平常心を乱されている。あんまり理性的なボスのもとでは、こういった人間への耐性が落ちるか。自分の常識人ぶりにも困りものである。
「そりゃあ、直接も出向くさ、エミリア嬢。」
「んぁ……?」
エリンの作用機序を思い浮かべた。
副交感神経を遮断し、ドーパミンの再吸収を阻害することで昂揚をもたらす化学物質。果たして僕の何かしらの言葉が、受容体拮抗薬となって彼女の昂揚を阻害した。
「酷いじゃないか。僕らは、仲良くやってきたはずだ。僕らはあんたらに敬意を払った。あんたらの希望する輸送手段には付き合ったし、マージンも相場より随分と高い筈だ。メヒクトにある他のしみったれたカルテルが、僕らより高い金を払ったことがあったか?この間港で摘発された三十トンのエリン、あの罪を被ってやったのは、僕らのカルテルだっただろう?」
それが、と継いで、僕は目の前のローテーブルにどっかりと足を投げ出した。テーブルの表面を削り取った靴裏が、いささか不快な音を立ててグラスを揺らした。
「それが、なんだってこんな契約に化けるんだ、なぁ……エミリア・カテドラル。」
懐から取り出したのは、ご丁寧にエリン五十キロと一緒に梱包され、郵送されてきた契約書だった。いや、通知書、といったほうがいいだろうか。そこには破格の条件が記されている。もちろん僕らにとって望ましくない意味での。
「これじゃあ僕らはあんたらに隷属してるも同じだ。税金みたいなものじゃないか。」
「それでいいじゃねぇか、魔薬流通税だぁ……あんたらはやり過ぎた。アメリクスの国家予算がつぎ込まれて、魔薬取締法執行局なんてもんができちまった。ジャンキーもそうじゃないやつも、あんたらのために税金を支払ってる。あんたらが払うのも、道理だろぉ……?」
「下らん。所得隠しも脱税も、税金を払わないためなら僕らはなんだってやるんだ。ケニーマン諸島じゃ常識だ。マネーロンダリングの心得はあるか?エミリア嬢。ないなら少しお粗末だな。僕らは、独占企業体なんだから。」
やけに綺麗な指先を弄び、エミリアの視線がその爪先に俯く。その先を少しばかりいじくりまわして、薄い唇が、ふ、と空気を漏らす。くつくつと哄笑が漏れ、その肩を揺する。
やがて抑制が効かなくなったのか、彼女は下品に口をかっぴらいて笑い声を爆発させ、呼吸困難寸前で息を吸い込んだ。
「アタシを小娘扱いするのはあんたくらいだよ、リゼルキルト。」
小動物に狙いを定めた側眼由来の単眼が、ぎょろりと眼下の中を滑る。喉奥でギチギチと奇妙な音を鳴らしたエミリアが、毒を込めた顎肢のように、僕に手を差し伸べた。
「やっぱり、欲しぃ、なぁ……?」
「は?」
一体なにを言い出したのか、僕が怪訝そうな顔をしたのを見て、エミリアは恍惚の表情を上気させた。艶やかな熱が、その頬に差す。
「誰かに想われるのは初めてかぁ……?リゼルキルト。それなら僥倖、あんたの言うとおりだぁ……!
アタシたちはカルテルなんだから───欲しいものは、どんな手段を使ってでも手に入れる。」
思わず引いた顎の、つい一瞬前にあった場所を、エミリアの手が掴んでいた。残念ながら何をも手中に収めなかったそれに、しかし、不気味な瞳は不快を示さない。
「全部、全部知ってるよ、リゼルキルト。全部だァ……」
なにか、嫌な予感がした。
そも、聖人などといういつかの仇名を持ち出された時点で、予感はしていた。
カルテルの中でも、ファミリアの中でも、それは禁句というわけじゃない。むしろ馴染んで使われている節がある。だから、それが致命的な響きを持つなどと思わなかった。
「聖教が憎くはないかぁ……?あの日の炎は、まだあんたを飛び起きさせることがあるんじゃないか?ごくたまに、燃え上がるように、……あの熱が再燃することはないかァ?」
「どこまで知ってる。」
「フラクタル───。」
「っ……」
久しぶりに、息が詰まった。
自分の口以外からその名前を聞くのは、二人目だった。
「バルデリーニは災難だったなぁ……でも、あんな心躍る物語を作り上げられたんなら、そうでもないか?」
「……なんの話を言ってる。」
「最初から言ってるじゃないか……アンタニオスの物語だよぉ、せぇいじん。」
テーブルに白い粉がぶちまけられる。白線を作るまでもなく、親指で鼻を塞いだエミリアが、塞がれていない方の鼻を啜る。勢いよく吸い込まれた副交感神経を遮断するエリン・アルカロイドが、彼女の鼻腔を抜け、血液─脳 関門を通過する。
それは、やがて受容体と結合し、昂揚を全身に滾らせる作動薬。
「あ、はっ……!」
ぎゅる、と白目を剥き、不可思議な軌道を取って焦点を取り戻す瞳。その単眼の中には、紛れもない僕が閉じ込められている。その瞳に反射した僕は、居心地悪そうに一筋の冷や汗を流す。
「ファミリアを乗っ取り、魔薬を作り出し、カルテルを築き上げた。調べ上げるのに随分注ぎ込んだんだぁ……!」
ふらついた声音に唾液か啖かが絡まって、二、三度壮絶な咳をしたエミリアが、決定的に告げる。
「想い人には会えたかぁ?あの、魔女にはさぁ……?」
思わず立ち上がりかけた僕の肩に、誰かの手が乗っている。預けるような生易しいものではない。その関節を半ばへし折るような、そんな力を感じさせる、あまりにも強い制止。翻った、白に近い金髪。
雪───そう思った。
窓の外、太陽が鳴りを潜め、月が出ている。紫煙が風に掻き消されて、ぐしゃぐしゃに撹拌される。そこに香る黒───「遠ざけないで。」そんな声が聞こえる。
黒を裂き、なにより鮮烈に、輝きが飛来する。夜空を横断し、全宇宙最速の速度で駆け抜けていく流線。僕を眩ませてやまない、光の速度。軍服から解き放たれた少女の、泣きそうな微笑み。
「───『大聖廟』。」
小さく異能をなぞった言葉。やけに流暢に放たれた魔法の言葉。エミリアの凄絶な瞳が、ぎゅる、と細められ、それに応じる。
「セス、タ、」
弾け飛んだ昔なじみの少女の顔。足元でごろりと転がった頭部。埋め込まれた瞳が、灰色に濁って光を喪失している。きらりと光ったそれが一体なんだったのかと思えば、彼女の眦から零れ落ちた花飾りだった。
首から上を失った華奢な少女のシルエットは、均された首の断面から執拗に鮮血を吹き出し、襟元からそのクリーム色のスーツを暗澹と染めていく。血液色のスーツがぶくぶくと蠢き、細腕を、背筋を、その両脚を、なにかが這いずっている。彼女の内側を這ったそれは最期、出口からがぱりと顔を出す。
落とされた首の代わりのように、血泡を撒き散らしながら、それが産声をあげる。セスタの身体を喰い破り、この世界に這い出して来る。
思わず漏らした嗚咽。背中から抱擁する温もりが、それを一瞬押し留める。肩越しに見たアザルベーダの顔に、幾筋にも迸る血色のグリッド。ぼろぼろと顔面のパーツを取り落していく光の彼女は、妙な青紫色の斑点を浮かべた両腕で最期に僕を抱きしめた。ぼとり、とその腕から伝わる力が半分になる。アザルベーダの下半身が、腐り落ちてカーペットに染みを作る。
「あす、てあ……」
僕が視線を向けたときが、丁度最後だった。
どぱん、と弾けた重苦しい肉の音。血生臭い爆炎が立ち上り、鉄のにおいがする爆風がはらわたを引き連れている。どろりとしたケミカルな香りがする硝煙が、引き裂かれた服から覗く少女の肌を舐り、そこを走る火傷痕の凹凸にたわんだ。
空気が爆ぜる音が立て続けに響き、アステアの肩口に風穴が、脇腹に空洞が、頭蓋に開放が。吹き飛んだ腕と血液の垂れ幕、ペースト状になった脳漿。
「アタシのものにならないか?リゼルキルト。」
どす黒く、むせ返るような異臭が漂う部屋の中で、エミリアが一枚の紙をテーブルに置く。
原本ではない。カラーのインクがグレースケールに改められ、薄灰色のノイズが紙面の全面を覆っている。それは、ある口座の開設書類だった。金を積み立て、それを電子通貨としてトレードすることもできる、最近出てきた金融ビジネスだった。そこには、実際に金を蓄えている貸金庫のシリアルナンバーも記されていた。
サイン登録者の欄には、エミリア・カテドラルの実名でサインが記されている。つまり、その口座の資金を自由に操ることのできる人物の署名だった。その下に、空欄の署名欄がある。
「運用委任契約」
裂けたエミリアの頬から、血液が滴り落ちて、書類の空欄が血液色に滲んだ。
「アタシのものになるんなら、ここにあんたの名前を署名する。アタシの全ての信用と、寵愛の証だァ……そうだろ?」
運用委任契約───そこに署名することができれば、僕は、その口座の中に眠っている莫大な金を、そこから生まれ得るあらゆる貨幣価値を、莫大な資金を、自在に動かし、そしてそれは、グランナダラ・カルテルをある程度自由に動かせるということでもある。
つまり、そんな破格の権利が、今、僕の目の前で、僕の所有権を担保として、血液に浸されている。
それは、お前を全ての優先順位の頂点に置いてやる、そんな、言外の証明書なのだ。
「アタシの全てを、あんたにやる。だからぁ……あんたも、アタシのものになる。だろぉ……アタシだけの、英雄。」
清潔な部屋。
死体の一つもなく、不快な異臭もしない。
窓の外では、太陽が雲を透かしていて、僕の足元には、よく手入れされた汚れ一つない絨毯が敷かれている。血液の一滴も垂れていない契約書と、傷一つない綺麗な頬のエミリア・カテドラル。
「帰るぞ。」
血生臭い白昼夢、エリンの、適合者。




