Ep.52『愛・・・200cc』
荷物を置いて身軽になった僕は、セスタに持たされたオーダースーツを着たが、廊下でばったり会ったマツシマにネクタイとベストは置いて行けと言われてそれに従った。わざわざ着たいわけでもなかった。それからマツシマは、僕のベルトを緩めて裾をだらしなくたわませ、シャツのボタンを上から二つ外した。マツシマも似たような格好をしていた。それと、僕が取り忘れたクリーニングのタグも千切ってくれた。
繰り出した夜の街。このままカルテルの連中さながらに売女を買いに行ってもよかったが、僕にもマツシマにもそんな趣味はなかった。反対方向の暗がりに歩き出し、入り組んだ一車線しかない道を歩く。ふと、マツシマが煙草をふかしているのに気付く。
「自分のテリトリーで、気が大きくなったか?」
「私だけは許されるんですよ。」
死体と注射器が転がっている雑踏に、コーヒーのカップを棄てることは躊躇うのに、マツシマは当然とでもいうように灰を落とした。この男が実際に煙草を吸っているのは、初めて見た。
「……この国でしか簡単に手に入らない銘柄でしてね。」
気障な笑みで紺色のボックスを見せてきたマツシマに、一本ねだる。安っぽいライターのシリンジを回して、煙を吸い込んだ。ヒュドラよりはよほど吸いやすいが、脳を揺るがすような陶酔も、また訪れなかった。
「女は。」
「すぐに見られますよ、下の穴まで。」
「娼婦なのか。」
「いいえ。踊り子、といえば、聞こえがいいかもしれませんね。」
エリンの適合者。
僕らが聞きつけたのは、マツシマの故郷───この国に、エリンの適合者が、魔女となり得る女がいるという情報だった。
「踊り子……ストリッパーか。」
「えぇ。まさか、ネット上でその顔を拝むことになるとは思いませんでしたが。」
僕らが爆撃に撃ち落されるかもしれないリスクを負ってまで見に来た面が、全世界に大っぴらに公開されているとはお笑い草だ。そして、はした金を払えばその裸身を隅々まで眺められるというのも。
「このあたりを縄張りにしている広域指定犯罪組織に探りを入れています。エリン・ベースに重曹や水を加えたお粗末な代物が出回っているそうです。エリンを摂取する機会が、ないわけじゃない。」
「せっかくこんな国に生まれたのに、あんなものに適合するなんてな。あんたらの神は、随分非情じゃないか?」
そのせいで、いたいけな踊り子の娘は、二つの巨大な犯罪組織のボスに、その裸体を晒さなければならない。
「貴方がたの神よりよほど寛容ですよ、私たちの神は。」
「どうだかな。」
「なにせ偶像だ。」
思わず、足を止めた。
そうだった。僕らの神は、この世界に貨幣として実在し、ときに、その評価額に見えざる手を伸ばすこともある。
資本主義とは、恐ろしき実在の神だった。
*
マツシマに倣ってやけに凝った作りの紙幣を四枚ほど抜き出し、受付の男に放った。マツシマは、ベルボーイになにやら説明し、一瞥した男は僕を通した。わけのわからない言語で話されるのは、確かに落ち着かなかった。
外身からは想像できないような立派な階段を下り、劇場さながらの扉を押し開けると、想像に違わず劇場さながらのホールが現れた。途端、地下空間とは思えない解放感が訪れる。
「ストリップクラブとは随分違うんだな。」
「えぇ。もはや文化ですからね。観劇に近い。」
僕らが出たのは二階席で、客はまばらだった。最前席から見下ろすと、どこかの音楽フェスで見たような突き出した舞台を、人々が取り囲んでいた。
「タイミングが悪かったですね。」
「女が服を着てようが着てまいが構わないが。」
音楽も鳴らず、派手派手しいライトもないホールを、マツシマは微かなため息とともに揶揄した。ストリップ、と称されて訪れた場所で、演者の踊り子全員が衣装でもない服を着て手を振っているのを不審に思うと、それを察したマツシマが補足する。
「カーテンコールですよ。劇中で死んだ演者でも、観客に呼ばれれば蘇って挨拶に出てくる。劇中で生まれたままの姿になった踊り子も、呼ばれれば服を着て挨拶に出てくる。」
「なるほど、挨拶……ね。」
「まぁ、これから結局脱ぐんですが。」
マツシマが言ったそばから、舞台の上の女は各々、下着姿やトップレス、あるいは全裸になり、観客はそこにチップを差し出した。中には胸を揉みしだく連中や、秘部をなぞるような奴もいたが、誰も咎められることはない。
「これから、この劇場はもっと小さくなるでしょう。踊り子に触れられなくなり、いずれは服すら脱がなくなるかもしれない。この場所は最前線であり、しかし、前哨基地ではない。後退し、敗走する、その、塹壕の中です。」
舞台の上、こちらをちらりと見た女がいた。
真っ赤なゴシック風のドレスを着て、網タイツの腿には紐のような下着が括りつけられている。小さくこちらにキスを投げた女は、この国の人間の見た目からは随分と乖離した綺麗な白髪をしていた。横でわかりやすく心臓を押さえる仕草をしたマツシマを、呆れたような瞳で見た。
「こういう楽しみ方なんですよ。」
「あぁ。今度仕事じゃないときに来ようか。」
「それは是非。」
シートに座ったマツシマは、どこから取り出したのか缶ビールを開け、気持ちよさそうにそれを流し込んだ。
「貴方が言ったことは、間違っていませんよ。鬱屈としてうんざりするような異常な密度の常識を、誰もが窮屈に享受して、表向き礼賛する国。正気じゃない。
先人からの教え?国民性?なんだ随分垢抜けた割に、奥底にはそんな青いイデオロギーを持っている。」
マツシマは煙草を取り出そうとして「あぁ、そういえば少し前に禁煙になったんでした。」とわざとらしく言った。それも後退か。
「私は貴方の文化レベルを憂いはせど、好ましく思いますよリゼルキルトさん。」
僕がシートに腰を下ろしたところで、ホールが暗転する。
「だから貴方は、窮屈になってはいけない。」
*
「いやぁ、それにしても完敗でしたね。」
「ま、それもそうだろう。こんな幸せな国に住んでる、それも女に、中南米の魔薬戦争に参戦してくれとは───頭がおかしい。」
ビールの缶をぽいと放り投げたマツシマは、いつもみたいにお上品に嗤った。
その缶の行方に腹を立てたのか、禿頭の老人が、わけのわからない言葉を吐きながら自転車でマツシマへ吶喊した。やがて、彼のしなやかな脚が放った蹴りが自転車の前輪を刈り、老人の禿頭は、その側面をアスファルトに叩きつけられた。
「少しだけ、あんたのことが見えた気がする。」
「それはよかった。それだけでも、この街に来た価値がある。」
呻く老人のあんまりな姿に、しかし、僕もマツシマも振り向きすらしなかった。
この国と、魔薬カルテル。
マツシマと僕。
偽造された処女性と、着の身着のままの暴力性。
イカれているのは、どちらだろうか。
「僕だな。」
例え共犯者のセンチメンタルに触れたからと言って、僕が突きつけたナイフの鋭さが鈍ることはなかった。
「きっと最後には、あんたと決別する。」
「えぇ。」
マツシマは心地よさそうに僕を見た。僕も、彼の瞳を見た。
暗く、狭い道を、歩き続ける。大通りに出て、点滅の青信号を止まった。その横を、猛スピードのタクシーが走り抜けていった。
「貴方は何を求めているのですか?リゼルキルト。」
あの日、僕は、とある少女の、華奢な身体に格納された関数に、その目的を入力した。お前は、そのときのことを知らないだろう。そして、あんただけじゃない誰もが、その存在を知らない。
「王位を求めてる。征服者でも、皇帝でも、国王でもない。」
夜空を横切っていった飛行機から、染色された光が放たれる。その点滅は、なにかを伝えようとしているようで、その実、ただ規則的に点滅しているだけだった。しかし、もし、僕が。その光に酷く隔たれて、求めていたとしたら、何かのメッセージを受け取ったように解釈したかもしれない。
「玉座に座れるのは一人だけだ、マツシマ。」
翌日、僕らは電車と高速バスを乗り継ぎ、この細長い列島の半ばを駆け抜けた。金を払って運動エネルギーを得ていたら、いつのまにか目的地についていた。「あまり夜の遊びに連れ出し過ぎると、そちらの薬理研の所長が怖い。」そんな軽口を叩いたマツシマに、僕も同意した。
アステアという少女は、怒ると結構頑固なのだ。
リゼルキルト・カルテル薬理研究所所長兼秘書を務める幹部、アステア・グルクロニドからの依頼は、新たな魔薬のための基原植物の採集であった。僕らがこの国に来る最後の一押しとなったその依頼を、ストリップショーでセンチメンタルになってしまって忘れてきましたでは始末に負えない。
僕らにその植物の名前と必要な分量を書き留めたメモを渡したアステアは、隣で神妙な顔をしながらキーボードを叩いていたセスタの髪飾りをひっつかみ、「ちょっ!?なに!?なにするのぉ!?」と大層動揺した財務幹部の綺麗な金髪付きで花の特徴を示した。
「こういう花。ちゃんと見つけてきて。」
頭を抱える僕の隣で、対岸の火事であるマツシマは笑いをこらえながら足元を見つめていた。呑気なものである。
稀代の変人である守銭奴のCEOは、貧民街生まれの小娘にその細腕を振り回しながら猛抗議し、対する小娘はというと意に介さずに煙草を吸い始める始末であった。これがファミリアの幹部会で起こった出来事だったのなら、僕だって面白おかしく見れたかもしれないが、残念ながら火種は僕らの独占企業体の中で弾けている。
全く下らないその痴話喧嘩の消火を鎮火に任せ、僕とマツシマは逃げるようにこの国にやってきたのだ。
セスタの数本の毛髪が犠牲になったあの問答のお陰で、僕らは確かにその植物を見つけることができ、発展途上国の祖国に植栽を伝えるというカバーストーリーまで考えてその植物を手にすることができた。
エリンの精製法を盗まれたアステアは、それに怒るようなことはなかったが、自分の作品が淘汰されることにはある種の痛痒を覚えたのか、次回作の完成に意欲的だった。
これを持ち帰れば、また彼女は薬理研に引きこもり、時たま風呂にも入っていない身体で僕に飛びついてくるはずだ。
田園を臨む田舎の駅舎。自動改札機もない小さな駅のベンチに座り、マツシマは煙草を吸った。今度はちゃんと、喫煙所として利用されるスペースだった。神崎を出てからというもの、マツシマの中にあった暴力性は鳴りを潜め、緞帳から差し込むような深淵の吐露は現れなかった。やけに窮屈そうに吸殻を捨てたマツシマを置いて、先に改札の中に入った。
*
ブラウ連邦に戻った僕は、隠れ家のうちの一つである、アステアと共有するヤサに帰った。といっても、どこから聞きつけてくるのか、僕のヤサの場所は大体はアステアにバレていて、というかセスタにもバレていて、この間は突如アザルベーダが門戸を叩いたこともあった。
これで果たして敵対カルテルから隠れられているのかと思わなくはなかったが、僕の場所を探り当てるのはいずれも奇人変人怪人である。とりあえずいくつかの新たな潜伏場所を探すために、馴染みの不動産屋に賄賂を贈っておいた。
一階のガレージで車を降りて、外階段を上る。最上階まで上がるのが億劫だ、とはセスタの言だが、そこはデスクワークの弊害ということだろう。一年マフィアの殺し屋部隊に入隊することを勧める。
「戻った。」
扉を開けた瞬間に、焦げ臭い香りと、内側から破裂したガラスの甲高い音が響いた。
「アステア……!」
思わず飛びついて、その矮躯を熱源から遠ざけた。もはや恒例となってしまった、キッチンでのお手軽魔薬精製実験である。バーナーで炙られたフラスコは、破裂した底から濃い煙を吐いており、なんとも言い難いケミカルな香りを漂わせている。
「心配しすぎ。」
「火傷……気を付けてくれ。指が使い物にならなくなったらどうする。」
「ちょっと火傷したかも……舐めて?」
「氷を持ってくる。」
「どケチ……!」
冷蔵庫に歩き出した僕の背中に、柔らかいクッションがぼふ、と投げつけられる。
吊るしてあるビニール袋を引き千切り、その中に氷をいくらか放り込んだ。ごろごろと音を立てた即席の氷嚢の口を縛ったところで、刺々しい声が飛んでくる。
「またそうやって、遠ざけようとする。あんまり束縛しすぎると、また別居するから。」
「別に最初から同居してない。たまたまここに帰ってきただけだ。」
「の割に、昨日の夜から何個もサーバー経由してメッセージ送ってきてたみたいだったけどね。」
冷蔵庫の中から缶を取り出して開ける。小気味良い開栓音とともに一口飲んで、人工甘味料とカフェインがごちゃ混ぜになった味に一息ついた。
テーブルについて、氷嚢を差し出す。まだ不満そうな視線を送ってくるアステアは、それでも素直に受け取ってくれた。
「……疲れてるでしょ。」
疲労といえば、そうなのかもしれない。そう、これは、キュルケーを使った後の感覚に近い。太陽の光を見ても、それが朝だとか昼だとか言うのがわからなくなる。逆に、夜を見たら朝のように感じるかもしれないし、鼓動はずっと高鳴っている。
あるいは、休養という状態を、認識しなくなっているか。
「疲れてる……?」
缶に手を伸ばした僕の手を、アステアが掴む。今日も、その力は苛烈だった。
「疲れてるっ……て、聞いてる!」
「疲れてない。ちゃんと目的のものは持ってきたよ。検めてくれ。」
わざわざ誤魔化していた疲労を思い出させられるのが億劫で、バックに突っ込んでいた花をテーブルに置いた。鮮やかな黄色、中には少しばかりオレンジに寄った色味の物もある。シニカが原産だが、いまは東都国での栽培が盛んで、その解析も進んでいる。
「君の求めてたものだ。魔煩、間違いはないか。」
ぐ……と肩に力を込めたアステアは、仕方なくといった風に花を眺め、そしてこくりと頷いた。
仕事の話はそれで終わりだった。あまり彼女を関わらせても得はない。僕が戦い、彼女は出不精をやればいい。MISURANIAの一件で彼女の力を借りたのは不覚だった。
「少し寝る。夕方のフライトでメヒクトに飛ぶから、もし起きてなかったら起こしてくれ。」
まさかそんな無能を演じるはずもなかったが、アステアに一言断って、扉に向かって立ち上がった。その先には、この場所が本社ビルだったころからの家具が置かれている。
眠り過ぎてもよくないから、ソファで眠るつもりだった。レースカーテンだけを閉めて、照明を切る。ソファに身体を横たえ、目を閉じたところで、その瞼の向こう側に、彼女が居るのを知覚する。
「どうした……?」
アステアは、何も言わずに僕の手を握った。どこぞのクソジジイのお陰で、僕は基本的にどんな状況でも寝られる。僕の手に随分とご執心な秘書の悪戯にも、寝息で返してやることができるのだ。
「握っててもらえると、安心するから。どれだけ暗い場所でも、ちゃんと、誰かが傍にいるってわかるから。だから、」
遠ざけないで。
深い眠りに落ちていく気がした。これはまずい。起きられなくなる。起き上がれなくなる。それでも、泥のように身体にのしかかってくる睡魔と倦怠感が、ずるずると僕をノンレム睡眠の領域へと降下させていく。そして太陽も。
輝きは薄暮を滑り、夕刻へと堕ちる。
*
身体が跳ねて、目を覚ました。
繋いだままの手。ソファに寝そべった僕と、その手を繋いで、床に座ったまま眠るアステア。その瞳がゆっくりと開いて、悪戯が成功した子供のような表情を象る。
「お寝坊さんだね、リゼルキルト。」
そうして笑いかけてくれたアステアの小さな頭を、ぽんと叩いた。
「うるせぇ。」
フライトには間に合わないだろう。時刻で言えば夜八時。西洋の腕利きに作らせたオーダーメイドの腕時計。滑らかに秒針を刻むそれが、自分の不覚と、秘書の悪戯の成功を表している。
「喉乾いたね。水でも飲も?」
「あぁ。持ってくる。」
「いい。」
では君が注いで来てくれるのか、などという常識的な解釈は、どうにも彼女に通用しない。彼女の手から溢れ、床で滑らかにひしゃげていたビニール製の氷嚢を、アステアは澱みなく拾い上げた。
「おい」
その膨らみが破れ、ローテーブルの上に放置されていたグラスに細い水流が注がれる。清流で作った氷だ。しかし、なんというかそれは。
「汚ねえな」
「なっ……!汚くない!これは、あなたを温めたわたしの熱で溶けた氷……!愛が添加されてる!濃縮還元!」
心底不服だというように、愛の添加された水をぐい、と差し出すアステア。人肌の温かさを湛えた愛を賜り、呆れながらも口をつけた。
こういう時ばかりは、連中の捻じ曲がった異常性癖に倣いたくなる。
連中というのは、僕らの取引に関わる政府高官、犯罪組織の首領、レコード会社のプロデューサー、代表取締役etc.である。幼児性愛者、動物性愛者、死体性愛者、重度の被虐性愛者と多種多様な世界を見せてくれる彼らには、驚愕と軽蔑の念を禁じ得ない。
嚥下して、喉元を愛が通り抜ける。
「わたしも飲むから残しておいて。」
「じゃあ量が足りないな。」
最初から注ぎに行けばよかったものを。そんな含意を内包した言葉だった。
僕から奪い取ったグラスに口をつけ、アステアはそれを飲み干した。
「愛はね、求めすぎても与えられすぎても辛い。どっちだって、苦しんで死んじゃうんだ。」
彼女の首筋に見えた火傷痕。その呪縛が、その細首を締め付けて、その苦しみの最中、小さな嗚咽が「苦しい」と声をあげる。
この水が愛ならば、僕はどれほどを求めていいんだろう。あるいは、どれほどを与えればいいのだろう。
窓の外、月が出ている。




