Ep.48『”あの人”の名前』
暗闇の中で、今日の娼館通りは営業を終えていた。
当然か、明日はあの人が農場を訪れる。きっと、クレノアが常駐している地下基地で、女がああも無残に扱われている様を見せつけるのは体裁が悪いのだろう。もしくは、あの場所にいる人間も、明日の準備に追われているのかもしれない。
地面から掘り起こした端末。指先はディスプレイを滑り、そのキーパッドを淀みなく押していく。
「定期連絡でかけた。」
『はい。聞いていますよ。』
電話に出たのは、ロキシーさんだった。
少しだけ面食らって、しかし、最初の数回はロキシーさんがそれを担当していたことを思い出した。少なくとも、俺のこの潜入捜査は、ロキシーさんによって承認された第三班としての活動だ。果たしてそれが彼のキャリアにどのような影響をもたらすのかはわからないが、彼はそれに酷く無頓着だった。
であれば、俺はそれに報いることができるように行動するしかない。俺たちのボスが、その最終段階に電話に出てくれたというのは、話が早くて助かるというものだった。
「すみません、予定変更です。あの人が、妙な女を連れてくると言い出しました。」
それはクレノアから得られた情報だった。彼女は、俺がDEAに通じていることを知っている。拷問にかけられたにも関わらず、俺の顔が割れていないと太鼓判を押したのは、クレノアとロキシーさんだった。
ロキシーさんが小さくため息を吐いたのがわかった。それは、きっと落胆からのものじゃなかった。
彼は、本気でロス・アンタニオスを潰す気でいる。どんな腹の内をしていても、そこから現れる行動こそが真実。もしその行動すら欺瞞だとするのなら、彼の人間性は嘘だ。それほどまでに、あの人は薄情者であろうとするし、そのために、トリガーを引く。これまでも、きっとそうしてきた。
『わかりました。ですが、突入は予定通り行います。構いませんね?』
「そりゃあ、俺は死なないだろうからいいですけど、……その、言いにくいっすけど、こいつらの武力は、正直DEA単騎でどうにかなるとは思えない。」
俺は、DEAでは落ちこぼれだった。でも、カルテルではそこそこの位置につくことができた。それならば、俺にはこちらの側の方が向いていたのだろう。そんな俺が言う言葉だ。きっと、キティ・キルマーの言葉よりは、キキの言葉の方が信用される。
『君の言いたいことはわかる、キキ。しかし、貴方が命を賭けている間、私はただ座して待っていたわけではない。』
ロキシーさんが、そんなに大人しくしているとは俺だって思っていなかったさ。
『メヒクト海軍と、アメリクス海兵隊に協力を取り付けました。』
それは、俺の浅い呼吸を絶やして余りある言葉だった。
メヒクト海軍は、汚職や賄賂に塗れたメヒクトの独裁政権時代の慣習から、距離を置いてきた。アメリクスが彼らに向ける信用を見れば、それは明らかだ。もちろん、ゼロだとは言わない。しかし、彼らは少なくともDEAに信用されるような与信を築き上げてきた。
そんな彼らが参入してくることに、異議はなかった。俺が思わず息を呑んだのは、アメリクス側から協力の申し出があったことだ。アメリクスは、もちろんこれまで魔薬に対して絶大な嫌悪を表明してきた。
しかし、メヒクトに点在する魔薬カルテルにとって最大のマーケットはアメリクスであったし、どれだけ薬物中毒者が国内に溢れようが、アメリクスの問題意識の優先順位は移民の方が上だった。それが、地理的にはメヒクトの砂漠の下に位置しているこの場所を標的とする。
その意味を、俺はロキシーさんの言葉だけで想像した。彼は思っていなかったかもしれないが、俺は確かに思っていた。この人は、その意味を、考えろと言っている。
「信じても、……いいんすよね。」
DEAは、幾度もCIMとの共同作戦でカルテルのボスを取り逃がしてきた。
CIMの全てがそうであるとは言わないが、彼らに作戦を知られれば、そのときに、俺たちは情報の漏出を警戒しなければならない。俺の疑問も当然というように、ロキシーさんは言った。
『我々だけではありません。彼らも、相応の準備をしている。大きな声では言えませんが、アメリクスが保有している適合者のいくつかも、貸し出してくれるようになっています。』
それは、大きな声では言えない話だろうと思った。
適合者の条件は、この国、ひいてはメヒクトで違法薬物として指定されている薬物の摂取と、その素養だ。銃規制の厳しいメヒクトで、銃を撃ち放つようなことである。しかし、アメリクスはそれを認めた。アンクルリークスに載れば、長官の名前を飾った連中の何人かが首を飛ばされるだろうと思った。
『それに、ロス・アンタニオスを潰すのに、こんなにも絶好の機会はない。国家の力を使って、あの人とやらを殺せるチャンスがある。そしてその死体は、彼らの時代の終焉となる場所───貴方がいるその農場で荼毘に臥される。カルテルの解体。魔薬勃興の時代から、一度も国家機関によって成し得なかった宿願を、私たちが遂げる。
そのチャンスを、みすみす逃しはしませんよ。』
ロキシーさんは、どうやらやる気のようだった。
それは、もちろん俺だって同じことだった。
「わかりました。侵入経路については、前に言伝しておいた通りです。」
『ええ。抜かりなく』
「それじゃあ、関門で合流しましょう。ロキシーさん。」
返事が返ってこなかった。通話が切れたかと思ったが、端末の画面には、まだDEAの番号が表示されている。少しだけ間を置いて、ロキシーさんは思い出したように語った。
「明日、私の秘密を一つお教えします。」
貴方に明け透けにしている何かがあるんですか。そんな言葉を、なぜだか俺は言いそびれた。
*
「いやぁ、久しぶりな気がしますね。」
とは、俺と実際久しぶりに会ったロキシーさんの第一声だった。一年越しでも、彼の表情の裏側を読むことはできなくて、俺はただ、平凡な相槌を打った。俺の様子に構わずに、ロキシーさんは続ける。
「中の様子はどうですか。」
「はい。いつもじゃ考えられないくらいの厳戒態勢です。俺も、抜け出すのに苦労しました。」
ロキシーさんは、俺に熱いブラックコーヒーを差し入れした。どう解消すればいいのかもわからないような焦燥感を抱いていたから、それをありがたく頂戴して煙草を吸った。俺の口の端から昇っていく煙を、彼は無感動な瞳で見ていた。
「関門に近い地下水道までは、少しありますね。」
「はい。……もしかして、あれロキシーさんの車ですか。」
「えぇ。まぁ、カルテルから接収したものですから、私の個人的なものではないですがね。」
ロキシーさんが半身で振り返る。彼が身体を向けた先にあったのは、カルテル御用達。東都国産のピックアップトラックだった。荷台の後ろに張られたロゴマークは、磨き上げられたばかりのように光り輝いている。
寡黙な雰囲気を醸し出すロキシーさんが、そんなにも野蛮な車に乗っている想像がつかなかったから、少しだけ面食らう。
「あんなの運転できたんすか。」
「君の車と、そう変わりはしないと思いますがね。まぁ、私は古い人間ですから。」
俺とロキシーさんの歳の差は、多分二十は違う。オートマティックな運転に反旗を翻す俺のような物好きが、多数派だとは思っていなかった。しかし、ロキシーさんくらいの年齢ならば、運転免許を取得した頃はそういった車しか存在しなかっただろう。
電子制御によるギアチェンジという概念が、少なくとも市場には出てきていなかったような世代だ。そう思えば、障壁デバイスだって、彼の時代にはなかったかもしれない。
ロキシーさんに促されて助手席に乗る。乗るというよりはよじ登るという方が近かっただろうか。ふかしていた煙草は、流石に消した。
軽快にエンジンをかけて、ピックアップトラックは危なげなく動き出した。自分を古い人間と称した言葉に違わず、ロキシーさんの手つきは手慣れたものだった。
ガタガタと揺れるフロントガラス越しの景色を眺める。
「昨日言ってた秘密っていうのは、なんなんですか。」
上司だとか、目上の人というのは、なんというか会話の感覚が掴みづらい。しかし、それが疑問という形を持った問いかけに結実した瞬間に円滑なコミュニケーションの起爆剤になるような気がする。あるいは、上司という問うべきを前提とする属性が、そうさせるのかもしれない。
それを証明するように、ロキシーさんは滔々と語り始める。
「私の人生についての話ですよ。しかし、ここで話すには勿体ない。」
「……三十五号線にいたとき、ですか。」
ロキシーさんは、三十五号線に勤務していたことがある。俺が着任する前には、かつての国境線アタックの事件にも、当事者として参加していたはずだ。それならば、俺が聞かされるのはそのときの話だと思った。
「いいえ。それより前のことですよ。」
それきり、ロキシーさんは薄く微笑んだままステアリングを繰るだけだった。
ドロキシ・トリプターという人間の経歴は、確かにずっと続いている。それは、彼の優秀さを見れば未来についてもそうであろうし、過去については不動の実績として刻まれている。
貴方は一体、俺に、どんな話をしようというんだ。もう一度、疑問を重ねるべきか迷っていた。そんな俺の迷いを見透かしたように、貴方は言った。
「君は、私が昔出会った男に似ています。」
「……俺が、……ですか。」
「えぇ。彼とは、本当に二、三言、言葉を交わしただけですが、その血は、君に流れているような気がする。」
助手席から見たロキシーさんの姿が、その輪郭をぼんやりと歪ませて、霧散していくように感じた。
貴方が出会った、俺の知らない誰かの姿を、貴方は俺に重ねている。一体そいつは、どんな奴で、それでいて、どんな血脈を、俺に背負わせたのだろうか。俺は、見たこともないあの人が、クレノアに背負わせた悪魔についてを思い出していた。
ピックアップトラックはいつの間にか、俺が指定した地下水道の入り口へと到着している。
*
暗い地下水道。会話すらも億劫なほどに、俺たちの足音はその空間を反響した。
しかし、俺たちが敵に出くわす可能性は驚くほどに低い。それは、俺がこの一年で勝ち取った信頼の使い道であり、俺たちが会敵しない間に死闘を演じている他のDEA職員と、メヒクト海軍、アメリクス海兵隊の奮闘の結果でもある。
ロキシーさんは、ピックアップトラックに積んでいた重そうなジュラルミンケースを持って、俺のあとをついてきた。関門の認証ボタンを慣れたように押す俺に、軽蔑や憐憫の視線を向けることすらなかった。
俺たちは、容易に関門を突破して、農場最後の扉に向かうレールに乗った。
歩きっぱなしだった俺たちに訪れた少しばかりの休息に、ロキシーさんは何かを口に含んだ。その口元に、何か煌めいたものが見えて、暗闇をいいことに凝視した。それは、唾液のようだった。しかし、彼の口元の筋肉がそれほどまでに脆弱だったとは記憶していなかった。
俺の記憶を裏付けるように、それは、彼の口の端から垂れたものではなかった。
それは、彼の裂けた頬から垂れたもので、血の滲むそれを、ロキシーさんは無頓着に袖で拭った。
俺がその容体を訪ねるべきか迷っている間に、扉が開く。俺たちは最後の一本道を歩いた。
「ロキシーさん、それ、大丈夫っすか。」
「あぁ、すみませんね。古傷が開いたんですよ。気にしないでください。」
ロキシーさんの瞳は、真昼間の癖に真っ黒な通路の中ではあまり見通せなかった。
「あの人がやってくるのは、どれくらいの時刻ですか。」
「この調子なら、鉢合わせるかもしれません。定刻は、十四時半でした。」
「そうですか。」
これから、ロス・アンタニオスを潰す。
アメリクス・ジャーナルが発表した、公の宿敵、そのナンバーワンに名を連ねる組織。そのボスの名前、あの人の真名を知っているのは、今となってはカルテルの連中からDEA第一〜四捜査チームの面々へと広がっている。
かつかつと歩むロキシーさんに、俺は思わず聞いた。
「ロキシーさん、俺に似ているって言った奴、誰だったんですか。」
「あぁ……あれは、国境線アタックの前でしたね。作戦名はBORDER LINE ATTACKと言ったんですが。」
「え……え?」
「私が少しヘマをしましてね……そう、あのときは、DEAなんていう組織はなかった。彼が一体どこに所属していたのか、そのときの私はわかりませんでしたから、名前だけ憶えていたんですよ。まぁ、すぐに殺してしまったんですが。」
「い、や……なに言ってんすか」
何か。何かが、決定的に間違っている気がする。
俺は、キティ・キルマーの物語を生きていたはずだ。それなのに、それが、決定的な、致命的な間違いだったのではなかったか?そう、自問する自分を自覚した。果たしてこれは、俺の物語だっただろうか。もしくは。
「散らかってきたな。」
ロキシーさんが言った。
「彼は、ドロキシ・トリプターと名乗ったんですよ。」
待ってくれ。なにを言っている。貴方は、おかしくなってしまったのか?
「いやぁ、二十年前のことは懐かしい。あの頃は、障壁デバイスが、アメリクス国内の研究機関か、各国の先進企業が眉唾物で開発しているくらいで、市場に出回っているのは本当に少なかった。今の対MSCS戦闘をするたびに、僕は感謝してしまうんだ。まぁ、本当はなくたっていいんだが。」
頭痛に、思わず立ち止まった。
「そう。あんたらは勘違いしているが、リケティアもだ。一度目の国境線アタックは、MISURANIAによって引き起こされたものだ、という報告書を読んだよ。馬鹿らしい。アメリクスも所詮あんなものか。いや、聡明だからこそだったのかもな。」
もはや俺には、それがロキシーさんであるようには思えなかった。
「あれは、僕らのカルテルが主導したものだった。それを、国境警備隊ごときが止められるはずがないよな。今回だってそうだった。あんたらはいつだって詰めが甘い。僕が整形手術の失敗で死んだってニュースを、まさか速報として流されるとは思ってなかったよ。あぁ、こっちとしては好都合だったが。
しかし、死体の確認もなしにそれとはお粗末だ。それに、おかしいとは思わなかったのか?突如失踪したドロキシ・トリプターが、いつの間にか復帰していて、その顔は、整形したから多少違うはずだという弁明に騙されるなんて。
それは、あんたらが道を見られていない証拠だ。自分がどこからきて、どこにいるのか。そして、どこに行くのか。自分の場所を認識できていたのは賞賛に値する。だが、接触する他の道についてそんなにも無頓着じゃ、意味がないだろう。
聞いてるか?自分が今、どの時間軸の、誰を見ているのか。それを、もっとちゃんと、考えるべきじゃなかったか?」
いくつもの不可解のピースが、俺の頭の中でかっちりとはまっていく。やめてくれ。それじゃあ、一体、貴方は誰なんだ。
「まぁ、それも今はいいさ。」
「ま、待って、……待ってくださいよ。……俺たちは、あの人を、……あの人に、法の裁きを下すために、」
「あの人って、一体誰なんだ?」
ロキシーさんのその反駁に、いや、それがロキシーさんだったのかはわからないけれど、それでも、俺はその証明のために、その答えに寸分違わず答えた。あの日、クレノアが言った名前。
───ロス・アンタニオスの、ボスの名前を、教えてくれ。
俺は、間違っていたか?
いいや。間違っていないはずだ。ちゃんとあのとき、クレノアは教えてくれたはずだ。俺たちが叩き潰さなければならない組織、ロス・アンタニオスのボスの名前。あの人、という殻に隠された真実の名前を。
『あの人の名前は───。』
その名前を、俺は忘れたことがない。
叫ぶように、ロキシーさんに言った。
「オースだッ!オース!俺たちが、法の裁きを下さなきゃならないのは……!」
ロキシーさんは、視線だけで俺を促して、壁に埋め込まれたインターフェースを見た。俺は、わけもわからずに認証のボタンを押す。
この先に、俺たちが倒すべき相手が、いるはずだ。それなのに、この人は、いつまで悪ふざけを続けるのだろうか。
貴方だって、その名前を知っていたはずじゃないか。
「ロキシーさん……俺たち、同じ目的を、共有していますよね?俺は、貴方に、ついていって、いいんですよね?敵を、叩き潰す。それが、俺たちの目的の筈ですよね……?」
「あぁ。それは間違いないさ。僕はもう二十年も、奴に煩わされてきたんだからな。それに、聖杯にはもうじき毒が混ぜられる。確か七億年先の明日この遥かなる平原。肉が腐るときの名前、健やかなるお前確か、ダダラガヤアボーンダボ・ラ・ルリ・ダーンブブルーグ。」
「え……ぇ、なんて、言ったんすか……ろきしー……さん?」
昼間なのに真っ暗な通路を抜けて、俺が入力した認証が、扉を開ける。不穏と無理解を連れたって、開いた扉の向こう側を見た。
『久しぶりじゃのぉ……リゼルキルト。』
しゃがれた老人の声が、誰かの名前を呼んだ。
俺はそれに、何も理解を得られなかった。
ロキシーさんは、持っていたケースから、とあるMSCSを取り出した。それは、真っ黒で、俺のMSCSとは対極にあるようだった。それでも、俺は、俺だけは、それが何を模しているのかわかった。きっとそれは、俺と同じだった。
振りかぶられたそのMSCSに、俺は自分のMSCSを抜いた。名前を呼ぶ。頼む。こんな俺の、力になってくれ。
「アゴニスト。」
「アンタゴニスト。」




