Ep.41『じゃあ……付き合う……?』
久しぶりに出勤した俺に、事務所ではささやかな復帰祝いが催された。
気まずげな面々と、飄々としたロキシーさん、あれ以来話してくれなくなったリケティア。それから、わざわざ駆けつけてくれたのだという第四班のヒュエゴとは、今日が初めてだった。
デリバリーしたピザをめいめいに食べて、流石に酒はまずいからとGMSで買ってきた炭酸飲料を開ける。俺のことをリケティアには及ばないまでも心配してくれていた捜査官は、わざわざ途中で抜け出して、ドーナツの箱を両手に抱えて帰ってきた。
その中から、チョコやストロベリーソースがかかっていないようなものを選び出して、それを齧るついでにヒュエゴのところに向かった。
「はじめまして。キティ・キルマーです。いつもどうも。」
俺がそう言ったのを、ヒュエゴはすぐに理解した。俺が読み込む記録用紙は、全て彼のもとを通過して、俺が読めるように解されて届けられる。
「こっちこそ。ヒュエゴだ。」
ヒュエゴは片腕を俺の背中に回して、二、三度ぽんぽんと叩いた。懐かしいそれに、俺も片腕を回した。メヒクト式の挨拶だった。
「メヒクトにルーツが?」
「母親が。」
「そうですか。俺は、生粋のメヒクト人なんですよ。戸籍はアメリクスにありますけどね。」
彼は寡黙な男だった。愛想なんてこれっぽちもない。しかし、それで冷たく突き放されているという風には思わないのが不思議なところだった。
ヒュエゴの紙コップに注がれていたのは紅茶だった。味覚がないかのように何の感慨もなくそれを飲んでいた。
「そういえば、ソナー装置を導入したって聞きましたよ。よく予算が出ましたね。アメリクスだと、そういう装置には予算が出にくいでしょう。」
少し前にロキシーさんに聞いた話題を振ってみる。すると、ヒュエゴは少しだけ視線を伏せて、「オフレコにできるか?」と聞いてきた。訝しむも、すぐに頷いた。それに返すように彼も頷いた。
「本当はカルテルから押収したものだ。使えそうだったから、格安の購入費で導入したことにした。」
「なるほど。それはオフレコだ。」
俺が悪い笑みを漏らしたからだろうか、ヒュエゴも少しだけ口角を上げた。
「だが、君らが見つけたものを捜査するのにはうってつけだった。」
「あの民家の下にあったチューブですか。」
「あぁ。運ぶのには苦労したが、おおよそ完了した。」
確か、リケティアはそのチューブそれ自体の解析を鑑識官の同僚に頼んでいたはずだった。その情報も併せて考えれば、奴らの作り上げようとしている農場への、重大な手掛かりになるかもしれない。
「あのチューブは、あの部屋から地下の巨大なネットワークに繋がっている。おそらくだが、空気穴だったんだろう。」
「ネットワーク……?」
「もっと半径のでかいチューブが、あの細いチューブの先にあった。そして、その全貌を把握するのは、俺たちには不可能だ。」
「それほどまでに巨大なものが、なんで……」
「それは、チューブの解析をしたやつの見解によるだろう。」
礼を言って、ジャケットを羽織ったヒュエゴの背中を見送った。わざわざ来てくれたというのに、彼はパーティーの最後を見届けなることなく帰っていった。俺にその情報をくれるためだけに来てくれたというのなら、悪いなと思った。
さて、新しい情報の獲得により、俺は更なる情報の獲得の必要に駆られた。そして、それを手に入れるためには、ロス・アンタニオスの厳重なセキュリティの内側に踏み入るか、リケティアという面倒くさい同僚の不機嫌を案じてやるか、どちらか選ばなければならない。
さて、どうしたものだろうか。
*
キルマーの復帰祝いが催されることになったのは、ロキシーさんの提案のお陰だった。
カルテルに拉致されて拷問される。それは、全捜査員が等しく背負っている危険性であり、私たちに少なくない危険手当と、多額の生命保険が義務付けられている原因でもある。
しかし、私たちの事務所に、そんな危険性はこれまで存在しなかった。いや、存在しなかったわけじゃない。ずっと潜在していた。それが、キルマーという実例によって顕在しただけなのだ。そして私たちはそれを正しく理解し、真っ向から立ち向かわなければならない。
それだというのに、この事務所の少なくない人間が、それを、忘れようとしている。
あまりの恐怖か、それとも、ただの逃避か。キティ・キルマーという人間を忘れることで、自分が次のキティ・キルマーになるかもしれないという現実から目を背けている。それを知ってか知らずか、キルマーは職場復帰を決め、ロキシーさんはこの会を開いた。
あまりにも呆気なく登場したキルマーに、事務所の誰もが驚いた。その一瞬ばかりは、彼が拷問を受けたという事実すら希薄になった。それでも、いざ話してみてわかる彼の精神性の変容。そしてなにより、彼の身体に物理的に刻まれた、ロス・アンタニオスの脅威の痕跡。
そのせいか、キルマーに積極的に話しかけるのは、彼と特に親しくしていた捜査官に絞られ、あとはロキシーさんと、第四班から来た暗号解読捜査官と話をしているのを見たくらいだった。
やけに親しそうに暗号解読捜査官と話すキルマーに、機嫌を損ねないわけではなかった。
職場復帰の最初、自分から話しかけに行くのが毎日お見舞いに来てくれていたいい感じの同僚ではなく、初めて出会った他部署の捜査官というのは、どういうことなのだろうか。しかも男だ。まさか、そういう趣向でもあるのだろうか。望ましくない。私という唯一無二のものがありながら、そんなアヴノーマルに傾倒するなんて。
私は、傍から見てもつまらなそうに、あるいは、面白くなさそうに、甘ったるいジュースにぶくぶくと空気を吹き込み、その様子を刺々しく見ていた。
だから、彼が私のところまでわざわざ来たことに、少なからず驚いた。その上、「少し話せるか?」と主役の座を辞する提案までしたきたことには、それなりのときめきを感じたのだ。
それが。
それが。
「この間お前が依頼してたチューブの件、続報を聞いてもいいか?」
こんなにも色っぽくない会話になるものだろうか。
私が心底気分を害したというのに、彼は気付く様子もなく話を続けていた。多分それは、私よりもずっと仲良さそうに話していたあの捜査官から聴いた情報だったのだろうけれど、今ばかりは興味がなかった。
「それで、どうだ?」
どうだ?じゃない。
もっと先に言う事があるんじゃないのか。というか、彼が職場復帰するとかいう話も、私はロキシーさんから聞かされたのだ。DEA内の然るべき部署が、彼に別のキャリアの打診をしていたはずだ。それなのに、彼はまたこの国境沿いの街に戻ってきた。
その縫合跡が、本当にキリトリ線になってしまうかもしれない。その事実を、私に相談もなく自分だけで決めてしまったのだ。
それはもちろん、私が自分から見舞いに行ったのに、彼の話を聞くこともなくむすっとソファに座っていただけだったからというのも理由の一つだったかもしれないけど、それでも言うべきことと言うべき人について、彼は無頓着すぎると思う。
私は、ひとっつも私の不満をわかってくれないキルマーに、互いの利害を一致させる素晴らしい提案をした。
「今ここでキスしてくれたら、教えてあげる。」
ちょっとくらい狼狽えてくれたら嬉しかったのに、彼は私の唇になんて全然興味もなさそうに視線を逸らした。
「お前、そういうところあるよな。」
「わかった風にしないで。私のことなんて全然知らないくせに。」
「あぁ、そうだな。」
彼は、狭いデータベース照会センターの中で私に半歩距離を詰めた。ガラス張りの壁は、今日も透明度をなくしている。
でも、それで私が動揺することはなかった。どうせ彼に、そんな勇気も甲斐性もない。
唇が触れる直前に、私が「待って」とか「嘘だから」とかで自分の提案を取り下げるのを期待しているんだろう。絶対に、そんなことしてあげるもんか。私はちゃんと彼のキスを奪い取ってやる。
それで、キスするふりで誤魔化してやろうなんていう安易な発想をへし折ってやる。
私の頬に添えられた手。その熱が伝播したようで、多分私の頬も熱を持った。キスのときにどこを見ているのが正解かわからなかったから、慌てて目を閉じた。彼は、今、どんな顔をしているだろう。
というか、今、彼の唇とどれほど距離があるんだろう。というか、目を瞑ってしまったら、彼の目論見は達成されないんじゃないだろうか。目を閉じてしまったから、脳裏で考えがぐるぐると巡って、小さな走馬灯の様相を呈した。
そこで、とある光景を思い出す。
───実生活にどれほど支障があるかわかりませんが、脳機能にも多少障害が残ります。
そう、彼は脳機能に障害が残っていて、トリガーを引くことができなくて、関節を扱う全ての動作に躊躇を強いられる。
あれ、なんか、思い出していないところがある気がする。なんだか、大事なことを、忘れている気がする。
───実際にライターを渡せば、火をつけることができます。
───真似をしろというのができないんです。
「っ!」
思わず目を開いて、彼の唇に手を押し当てた。ぐっと押しのけて、怪訝そうな顔をするキルマーを睨んだ。
「あんたっ!……ほんとにキスしようとした!」
「お前がやれって言ったんだろ、なにを今更。」
「だ、だって……!」
そうだ。忘れていた。彼は、何かの仕草を真似することができない。彼の脳内でイミテーションを司る部分は、どうやら今は休眠している。だから、そうしてキスの仕草をしたという事実は、彼が、本当に私にキスをしようとしたということの、純然たる証明なのだ。
「だからって、……ほんとにするとは、思わないじゃん……」
彼の顔を見られなくなって、思わず視線を逸らした。困惑しているのが、見なくてもわかった。
当たり前だ。こんなにも私の一人芝居なことはない。彼は私の命令に忠実に従っただけで、感情を抜きにして考えてみれば何もおかしなことはない。
ただ、もちろん感情を抜きにしないで考えたら、「あんたそうやって誰にでもキスすんの」とか「それは少なくとも私を特別に思ってるからなの?」とか「その割に全然好きにさせようみたいな下心見せなくない?」とか、おかしな言葉は喉元まで来ている。
「頼むから、泣かないでくれよ。」
「泣かない!……うっさい」
そうは言ったけれど、私はよくわからない感情で泣きそうだった。あのまま止めてなかったら、もしかしたら、とか。
「私のこと、……好きなの?」
いやあっちの台詞だろ、と私の中の私はすぐさまに指摘したけど、でもそれは、彼が誰にでもキスしてしまうような不埒な男なのかを判断するための質問だったから、いったん棄却しておく。
キルマーは、小さなため息をついて、頭を掻いた。歪な形をした耳に触れたからだろうか、少しだけ疼痛に顔を顰めて、すぐに無表情に戻る。
「毎日お見舞いに来てくれて、一番俺のことを心配してくれて、自分の車に住まれるようなことしたら、大体の男は好きになる。その上、相手はお前なんだから。」
全身からわっと湧き上がった感情が、私を泣かせようとした。でも、その理由を今度は詳細に語ることができた。でも、絶対にそれはしなかった。恥ずかしいし。
「じゃ、じゃあ……付き合う……?」
自分から交際を持ちかけたことなんてなかった。大体は、しつこいくらい求愛してくる男に、仕方なしで付き合ってやるくらい。だから、私は可愛い告白の仕方も、潔い失恋の仕方も知らない。成功率を上げるために策を弄することも、むしろくだらないとすら思っていた節がある。
そんな私の一世一代の告白に、でも、彼は苦い顔で言葉に窮した。脈がないのなら、大きな声で「付き合わない」と言ってくれた方が清々しかったのに。
「わかったわよ……私じゃだめなんでしょ。」
「……悪い。」
彼は私のことが好きで、私は少なくとも彼氏にしてやっても悪くないと思ってる。でも、彼はそうは思っていなかった。それは、別に私が好かれていないってことじゃない。それは、彼がなにか、私よりも面倒くさい考えを持っているってだけのはずだった。
すぐに、キルマーの手を取った。
「でも、絶対。あんたの手は、放してあげないから。」
たとえ、誰があんたの唇を奪ったっていい。でも、この手を掴んで、こちら側に繋ぎ留めておくのは、絶対に私の仕事だ。
私だけは絶対に。
もう二度と、「戻ってきて」なんて言わせない。
*
深夜の事務所。随分遠いところの一角はまだ騒がしいが、俺の近くには、疲れ切って寝ている奴か、既に家に帰った連中のデスクしかない。リケティアから教えて貰った情報によれば、そのチューブは真空を作り出すためのものなのではないか、ということだった。
ここにきて、俺はその概念に突き当たる。
「道だ。」
呟いて、納得する。
それは、道であるはずだ。
真空を作り出すためのチューブ。その先には、更に太いチューブがあり、そのネットワークは、この街の、あるいは、あの砂漠の下まで、膨大に広がっている。では、それはなんのためか。
それは、俺がずっと引っかかっていた概念だ。
農場には、必要な物資の搬入や、廃棄物の排出という代謝があり、そして、そのためには道が必要だ。その道は必ず、バスや郵便物のように別のネットワークに通じており、俺たちが彼らの狭いネットワークにアクセスするためには、その道を辿るしかない。
しかし、俺たちはそこに辿り着けていない。
その一端を、俺は掴んだのではないだろうか。
道から隔たれた農場というのは、ある矛盾を孕んでいる。
彼らが、自分たちだけがキマるためだけに農場を作り上げ、そんな中でドラッグパーティーを楽しんでいるのなら矛盾はない。しかし、彼らの農場で作り出されたヒュドラは、既に市井を薬漬けにしている。
そう、農場には、成果物の出荷という本懐のために、道が必要不可欠であるのだ。
それならば、その道は、果たしてどこにあるのか。”地下”だとすれば、全ての説明がつく。真空中を、摩擦力から解放された積み荷がとてつもない速さで出荷される。そこには、密売人や密輸人の介在する隙間はなく、空気と一緒に排除される。
やがて、辿り着くべきところに終着した薬は、全世界に取り込まれ、この最悪な現実に転化する。
「農場は、地下に存在している。」
少し前の摘発で、俺が抱いた違和感。
地下空間でヒュドラを栽培できるような装置の開発。それは、果たしてカルテルにどれほどの利益をもたらすだろう。俺たちが見つけた地下の農園は、農園とはいえ家庭菜園レベルだった。そんなものを開発して、カルテルにどんな利益がある。
そうじゃなかった。カルテルの組織図において、末端に下りてくるのはいつだって余り物だ。カルテルの中枢には、あれをもっと効果的に、あれがなければ成り立たないはずの、巨大な野望がある。
虚空を紅色が通り抜けていった。それは、見えるはずのない道の経路を通り、俺にその存在を見せてくれる。
俺は、自分の変化に気付いていた。
「なぁ、そうだろう?兄貴。」
俺の背中にいた頭を潰された死体が、かくり、と頷いた。




