Ep.38『三十五号線』
随分と性能のいいスピーカーが、広いホールの中を音で満たしている。一般席で見ていれば、僕らは会話どころではない音圧に黙らされ、大した興味もないファッションショーを何をするでもなく眺めることになっていたはずだ。
今回そうなっていないのは一重に、メルのお得意様がくれたチケットが、僕らをVIP席へと案内したからだった。好んで酒は飲まないから、チーズとハムを肴にソーダ水を飲んだ。
「妙な顧客を抱えてるんだな、君は。」
「私の魅力が引き寄せるのよ。でしょ?」
いつも通り自信に満ちていて素晴らしい。メルは僕の膝を椅子にして、さながらお姫様抱っこのようにしてシャンパンを飲んだ。
VIPルームはガラス張りで、音も大して入ってこない。ベランダのようなスペースに出れば、見やすさと喧しさもそれなりだろうが、僕もメルもそうしなかった。
ただ、彼女は少しはファッションに興味があるようで、巨大なモニターに映るモデルを熱心に見定めていた。
「やっぱりランウェイって素敵だわ。」
「僕にはよくわからない。」
「妻のような存在を、着飾って愛でてみたいとは思わないの……?」
「人形遊びの趣味はない。……ん?妻って?」
本題一直線のメルが、婉曲な言い回しをすることは珍しい。逆にそれが婉曲な表現でなかったとしたら、僕が受け取ったのはメルの本題だろうか。
「私の人生責任取ってくれるって言ったのは、貴方でしょう?そんなの妻って言っても過言じゃないわ……!」
「違う。」
華奢に見えるが意外と背丈のあるメルは、子供っぽい仕草と大人びた見た目の齟齬で危うい魅力を持っている。僕の腕の中の少女、その上目遣いに、思わず目を逸らした。
「ねぇ、……いい加減、身を固めない?私じゃ……貴方には足りないかしら。」
側から見れば、僕は美人を侍らせる裏社会の大物に見えただろう。いや実際そうではあるのだが、彼らほど黒い感情を持ち合わせてはいないのが厄介なところだ。
少し煌めいているメルの目許。張り切ってメイクした、とは彼女と待ち合わせた時の第一声だった。
ファミリアにいた頃は、多分意図して目許をはっきりさせたり、濃い色の紅を差したり、肌の体温を見え辛くするような色を多用していた。ファッショナブルな気性があるメルが、自分の嗜好を隠してきたのは自明だった。
多分髪は綺麗にセットしてきたんだろうけど、僕はそんなのに興味はないし配慮もなかったから、嫌われない程度にその頭を撫でた。僕が提供した微かな摩擦が、少女の明るい髪の光輪をたわませて、その心地に、メルは満足そうに瞼を閉じた。
「女なんてのは、弱点以外の何者にもならないからな。君のその申し出を断る代わりに、他の誰とも通じないと誓うよ。」
「それじゃあ……意味ないわ。」
「どうしたらいい。」
「他の誰とも関係を持たないで。大人しく、私だけで満足するのっ……!」
「話聞いてたか……?」
ことマフィアやギャングのボスの顛末は、女と金の扱い方を間違えた果ての無惨な死に様である。彼らは手錠をかけられるより先に魔法を受け、絶命してから写真を撮られる。
僕はそんなの御免だった。
メルは、今の僕がどうやっても要求を呑まないと悟ったのか、煌びやかなランウェイに顔を向けた。
彼女の主義信条である美しさを、きっとそこに重ねている。
「素敵でしょう。ランウェイだと、女の子は宝石になれる。言葉通りの意味じゃないわよ、比喩表現。」
「わかってるよ。人体が鉱物になったら大変だ。」
「真面目に聞いてる〜?」
しかし、彼女の言うこともわからなくはなかった。
煌めいたランウェイの中で尚、彼女たちの姿は輝いて見える。
「宝石って、なりたくたってなれるものじゃないわ。だって不可能だもの。でも、美というものが、その不可能を中和するの。ランウェイはその最たる例ね。
私たちは、絶対になれないけれど、止められない憧れの先に、あのランウェイを経て辿り着く。あれは、そのための道だもん。」
メルの中にある絶対的な指標:美しさ。彼女の幼少のツリーハウスを原体験とする信条は、憧憬に繋がっている。
そして、美しさという概念によって作られた道を借りて、あり得べからざる変身を遂げる。道の名前は、ここではランウェイだ。
「貴方は?なにになりたいの?」
「……別になんにも、ぁ、いや……」
僕はメルという少女の華奢な身体に格納されたとある関数に、自分のデータを入力してみたくなる好奇心に駆られた。
「王になりたい、と言ったら。僕には、どんな道が用意されるだろう。」
それはただの例え話だった。メルとて、こんな抽象的な話がしたかったわけではあるまい。それでも、僕は、視界の端をよぎった銀髪の毛先に、思わず口を滑らせた。
悩む様子も、訝しむ様子もなく、メルは答えを出力する。
「三十五号線、かしらね?」
僕が馬鹿だった。今際の際の彼女自身も言っていたじゃないか。メルという女の子は、実は全然馬鹿じゃない。
*
メルとのデートはショーの終演のあと、彼女行きつけの小洒落た酒場で落ち着き、なぜだか僕は珍しく酒を飲んだ。人間の精神状態を抑制させ、中枢神経に薬理作用を及ぼす神経伝達物質のアゴニスト。
僕はそんな毒物にまんまと眠気を誘われ、目が覚めた時にはメルと同じベッドで眠っていた。脳みそは優秀で、彼女を傷物にしたりはしなかったのを憶えていた。
それでも、彼女の肌を一度は触ってしまったことも、彼女がまだ、鳥肌を立てるのも、憶えていた。
僕の自己嫌悪の最中でも、メルは普段より落ち着いた、爽やかな笑顔をしていた。「おはよ。ふふっ」なんて揶揄うように笑った彼女は、そうやって僕に毒を盛る機会を窺っていたのだろう。薄情な女だ。
朝ごはんまでご馳走になってから、僕は本社まで帰った。州道を運転するのは億劫だったから、運転手を呼んで送ってもらった。護送車はしっかりと隊列を組み、僕を五体満足で送り届けた。
久しぶりのノープランの休日。地上四十二階のエレベータは、それなりに退屈だった。それから一週間を、僕はダラダラと過ごして、たまに大農場の都市部計画の舵取りをした。次の輸送計画の手配をして、一時間あまりの電話を何本かかけた。
オンドゥラ政府高官のこの国への極秘裏な訪問が決まり、ファミリアに歓楽街の手筈を整えてもらう。
仲間内で揉めて殺し合いに発展したゼータの隊員を呼び寄せて、平時状態のアンタゴニストでぶん殴ったりもした。もちろん殺さない程度に。
オンドゥラ高官の歓迎まで、残り一日となるまで、僕は社長室を出なかった。
*
オンドゥラ共和国の労働省の男は、オルラエンと名乗った。その男は、別に金に飢えてはいなかった。
空港のロータリーに停めていた車列。僕の隣に彼を座らせた。忙しなく周りを見渡すオルラエンは、まさかその車列の全てが僕らのものだとは思っていなかったみたいだった。
舗装された州道一本で、僕らの本社ビルまで辿り着ける。二十分しないくらいの時間、僕らは退屈な世間話に興じた。
MISの動向には困っているとか、モラルのない旅行客によって海洋が汚染されているとか、国の貧困状態はまだ抜け出す光明を見出せていないとか。そんな話をしたと思う。
貧困について論じた割に、オルラエンの時計は名高い腕時計ブランドのものであったし、スーツの生地は西洋仕立ての特注品。ピカピカに磨かれた靴の爪先は、天を見上げてピンとそり立っている。
彼をもてなす役割は、ファミリアが用意したコンパニオンが務めた。オンドゥラ共和国のお隣には、グランナダラがある。世界一と名高いグランナダラ美人に目が肥えていないかとは訝しんだが、どうやら杞憂だったようだ。むしろバハラータ近辺の、人種を特定しにくい様々な顔立ちの美女は、食傷気味のオルラエンの食指に触れたようだった。
好きな女を自分の部屋に連れて帰るといい、と言ってやれば、彼は喜んでパーティー会場から抜け出していった。なるほど、線が細くて、薄幸そうな黒髪の女がタイプか。
僕は、マツシマにメールを打って、あとのパーティーはファミリアとカルテルの人間に好きにさせると連絡した。カルテルの人間には、ここにあるものなら好きに飲み食いしてくれて構わない、合意のもとなら女も。と伝え、前のめりのファミリアの人間に、僕は努めて許しは与えなかった。彼らには、マツシマから指令が行く。僕らの歪な組織構造のための、衝突回避策であった。
最終的に、パーティー会場は下品な笑い声と、何十枚かの皿や備品の犠牲で盛大に盛り上がった。それを予見していたマツシマからは、カルテルの備品である食事や食器や社屋に対しての賠償の申し出があったが、その全責任をファミリアの構成員に擦り付けるのも可哀そうな気がしたから断った。
僕がいれば、少なくともカルテルの人間は気疲れするだろう。目立たないような席に陣取って、酒の入っていないカクテルを舐めていた。そうした喧騒を好まない連中にとって、僕の傍は安全地帯に見えたのだろうか。カルテル・ファミリアどちらからも、僕と性根を同じくするような人間が集まってきた。割合ではゼータの人間が多かった。
僕は、ゼータの今の隊長と、少しばかりMSCSの話をして、ファミリアの若手の幹部とMISURANIAの今後についてを話した。彼が今、かつてのマツシマの席を占めているらしい。
カルテルでは、会計の部長が僕の隣に座った。彼は、結婚についての話を持ち掛けてきたから、僕は門外漢だが、独身は気が楽でいいとアドバイスしてやった。「リゼルキルトさんほど雁字搦めの人、見たことないですよ。」とは、彼の言った言葉だった。
僕らの団欒は、盛り上がる、というよりは和やかに経過していった。そんな折角の席に、コンパニオンの女一人が迷い込んできた。目は肥えていると自負していたが、それでも、恐ろしく美人な女だと思った。彼女は、気負うこともなく僕らの一団のテーブルの隅に座り、つまらなそうに喧騒を見ていた。
もともと、つまらなそうな女性を楽しませてやろうと思うような性根を持っていない連中が集まっていたから、彼女に触れる者は誰もいなかった。彼女も、それでいいようだった。
ゼータの隊長とゼータの設立についてを話したとき、彼が口を滑らせた。「アンタニオスさん。」それは、ファミリアの古参の一部の人間が、たまに間違える人名だった。
ファミリアの世代交代に関与していなかったり、浄水場の事件についてを詳細に知らない人間からすれば、それはよくわからない言い間違いだっただろう。
実際、カルテルの人間も、ファミリアの人間も、それの意味がよくわからなかったり、周知の事だろうと指摘すらしなかった。
ただ、その女だけが反応した。
「彼と二人にできる……?」
そうして、僕らの団欒は総辞職による解散の雰囲気となった。
僕らは、せっかく集まっていた連中を散らすのが申し訳なくてバルコニーに出た。
夜風は涼しく、酔っていればそれなりにリフレッシュしただろうなと思った。
「僕に、一体何の用なんだ。」
「……別に。ただ、……なんでもない。」
掴みどころのない女だった。僕に委縮しているとか、緊張しているというわけではない。その少ない言葉数は、彼女が会話の空気だとか流れだとかに無頓着であるから表れたもので、他人にどう思われようが構わないという投げやりさが起源だった。
「名前は。」
「エンタクト。」
「そうか。」
僕はおしゃべりしなくても平気な質だ。こんな精巧な美女を侍らせていれば、並大抵の人間避けにはなるだろう。そのまま、僕らは夜空を眺めていた。
「メモ帳とペン、持ってる……?」
「あぁ。あるが。」
手を差し出してきたので、僕は懐から手帳を渡し、確かに片手を空けた状態でペンを手渡した。
彼女が何かを書き出している間に、マツシマにメールを打つ。『ヴィオレタに、エンタクトという女の素性を照会してくれ。いつでもいいから、僕に結果を回してほしい。』
エンタクトは、描き終えたページを引き千切り、手帳とペンを僕に返した。僕がそれを仕舞い終えたころに、引きちぎったページを手渡された。
「私の連絡先。……なにかメールしといて。電話番号も。」
「……肝が据わった女だな、あんた。」
「……?なにが?」
「わからないならいいさ。死ぬまではそれでいけ。」
まるで神がその髪の先まで計算し尽くして造形したような、作り物のような美しさの女。僕は、持っておくべき警戒心が、その美貌に溶かされるのを危惧した。だというのに、彼女はどうにも掴みどころがない。思わず、込めていた力が脱力する。
この夜会は、彼女が主役だったのか、なんてことまで思って、すぐに思考を終わらせた。
「ん。じゃあ、私はこれで。」
「帰るのか?」
「うん。……まだ何か用がある?」
用がありそうだったのはお前だろう。
「いいや。大丈夫だ。車を呼ぼうか?」
「必要ない。自分ので来た。」
「そうか。ナンバーを教えろ。」
「ん。」
彼女の言ったナンバーを記憶して、フロントに電話を繋いだ。やはり彼女は来客用の駐車場に停めていたようだったので、ロータリーまで持ってこさせるように申し送り、適当な感謝の言葉を述べて通話を切った。
僕が電話を終える頃には、エンタクトは背中を向けていた。それでも最後、バルコニーから会場に戻るところで、半身で振り向いてひらひらと手を振った。それに倣って、僕らは気さくな友人同士のようなさよならを演じた。
会場を横切る彼女に、下世話な欲望を向けるような連中はいなかった。
*
ロビーから社長室に内線が入る。オルラエンのもとに行っていた女が帰ったそうだった。僕が用意させた金については受け取ってくれたようで、手配していた送迎車で帰宅したとのことだった。
「二時間、か。淡泊な男だな。」
社長室を出て、二十四時間体制で社長室を護衛する二人に出先を伝えた。同行の必要を聞かれたので、必要ないと答えた。社長室のトラップ金庫から、アンタゴニストを取り出していた。
オルラエンのような男に殺されるのなら、僕もそこまでだと思った。
それでも彼らが心配そうな顔をするので、「それじゃあ、キューイングデコイを一つ貸してくれ。」と所望すると、彼らは我先にとそれを差し出した。結局二つも貰ってしまって、帰りに何か買って行ってやろうと決める。
エレベーターは一度、どんなフロアから乗ってもロビーに到着する。ファミリアの要望で入れたバーに行けば、手筈通りオルラエンがいた。バーテンダーは、ちゃんと仕事を全うしたらしい。
「女の見送りか。」
「り、リゼルキルト……あぁ。まぁ、そんなところだ。」
「ハニートラップってわけじゃない。僕らの方が見られちゃ困るものを見せただろう?」
「あ、あぁ……」
オルラエンの携帯端末には、僕らの不都合により惨殺された死体の写真と、積み上げられた魔薬の積み荷の写真が転送済みだった。
「いや、僕がしにきたのは、もっとあんたに楽しんでもらおうって話だ。」
「た、楽しんでもらう……?」
「慌てるなよ。明日は僕らの歓楽街を見せてやる。」
彼は明日の最終フライトで帰国の予定だ。
「さて、あんた、プライベートジェットシェアリングの会社、実質運営しているだろう。」
「っ……あ、あぁ!どこで、……それを……!」
それがオンドゥラで違法なのかそうでないのかは興味がなかったが、そこまで狼狽えるというのなら、違法なのか、もしくは立場を利用して融通したのか。しかし、カルテルの情報部は優秀である。ファミリアの情報局についてを、僕もマツシマも信用していなかった。
「僕を共同経営者にしてくれよ。」
僕が見せた端末の画面を見たオルラエンは、しばしそれを眺めて、生唾を飲んだ。
「プリントアウトしようか?」
「……頼む。」
そうして、交渉は成った。




