Ep.35『愛してるが言えない』
ロキシーさんは、なにも不思議なことはないとばかりに、一口分に切り分けた三百グラムのレアステーキを口に運んだ。咀嚼と嚥下に至っても、彼は表情一つ変えることなく完了した。
「食べないんですか?」
「いえ。……いただきます。」
こうして昼食に連れ出されるときは、オレがどれだけ固辞してもロキシーさんは金を払わせない。そういう投資の仕方もある、というのを理解したオレは、最近はもう自分の財布を出そうとすることもなく、ただ誠心誠意感謝を述べるだけだった。
人の金で食う肉は旨いというが、同時、人の金で食う肉は残してはいけない、とも思う。マッシュポテトばかりをつまんでいたオレの躊躇を、もちろんロキシーさんは承知している。
刃先を肉に突き立てて、まだぶにぶにとした弾力を残す肉の繊維を、粗い目のナイフで引きちぎっていく。オレの様子を、ロキシーさんはわざわざ観察していない。オレの躊躇いなんてなんでもないみたいに、自分のステーキを旨そうに食った。
オレは、まだ淡く湯気を吐くそれを、なんとか舌先に乗せて、五分後の目覚ましのアラームを待つみたいに、何の解決にもならない余暇に甘んじた。けれど、舌の上で流れ出した肉汁の中に、薄い赤色の血を想像してしまって、よほど吐き気を喚起される。これならば、噛む暇もなく呑み下してしまった方がよかった。噛み締めた歯根が、喉元も引き締めて、吐瀉物をぶちまけるような醜態をすんでのところでキャンセルする。
こういうのはタイミングが大事だ。消化器の蠕動運動をなんとなく自覚し、まぁ正直よくわからなかったそれを棚上げして肉を呑み下した。命から沁みだした液体の味が鼻腔を突き抜けていき、ナイフを持つ手が動かせなくなる。
同時、この人は凄いなぁ、なんて、間抜けな感想が脳裏に浮かんだ。
貴方は、つい昨日。こうして一緒にテーブルを囲むこともできるような知能を持った人間を、テーブルに乗るような肉塊に、ただの一度のトリガーで変貌させてしまったというのに。貴方はそれを、ここで想起することもない。あるいは、想起したとして、それが食欲には一切関知しない。
驚くほどに、この人の精神構造はパーテーションで整理されている。
「ロキシーさん、……オレはもう、気持ちよく肉を喰えなくなってしまったかもしれません。」
貴方が、仲間の死に酷薄な感性を発揮する薄情者なのだとしたら、オレという人間は、貴方のようなタフさも、リケティアのような手際の良さもない、ただの臆病者なのだということになる。自分にはこれがある、そう無意識にわかっている人間こそ、その自問に対して無自覚なものだ。その反例として、なんにもないオレは、自分にはなにがある?と問いかける自問にこうも頭を悩ませている。
「ロキシーさんは、暴力の側にいる。」
オレがビビッて視線を逸らしたからだろうか。ロキシーさんは、いつもより優し気に微笑んだ。
「否定しませんよ。」
彼は、セットのコンソメスープで口の中の脂を洗い流して、再び肉を食んだ。幾許かの咀嚼は、随分と幸せそうに行われ、わざわざ「旨い」という呟きさえ溢して見せた。
「オレはこの間のでよくわかったんです。魔薬ビジネスを大局的に見た場合、そこには、暴力の側にいる人間と、そうではない側にいる人間がいる。そしてその分類には、その人間がどこに帰属するのかという要素は、必要とされない。
魔薬カルテルの中にも、法執行機関の中にも、暴力の側と、そうでない側の人間がいる。」
「魔薬密売ビジネスがここまで影響力を持っていることへの論拠です。農場でヒュドラを栽培する人間の大部分は、MSCSの安全装置がどうすれば解除されるのか知らずに死んでいく者も多いし、つまり自分の死因がどんな道具によって成されたのかも知り得ないような人間がいたりもする。」
ロキシーさんが言ったのは、魔薬ビジネスが当然とする、魔薬に搾取される側の人間の話だ。奴らは敵対カルテルの構成員ですらない、もっと言えば、魔薬というものに特定の思想を持たず、それを発言することもないような人間にすら、手榴弾を投げ込む。そこで殺される彼らは、もちろん暴力の側にいない。
「DEAも同じです。奴らの暴力に適応して、そこに疑問を抱かなくなる。いや、疑問っていうと、ちょっと違うかもしれないですけど。善悪の区別はつく。でも、それを、仕方ないことだって諦められるようになる。でもそれって、その人が、暴力の側に立ったという風に、オレには見える。多分、そうなるべきだってのも、わかるんです。」
「二元論は窮屈でしょう。」
「はい。でも、その狭間にいられるような人間が、いますか?
MSCSによって人間の頭が吹き飛ばされるような惨状に居てもたってもいられなくなって、それで敵の頭をMSCSで吹っ飛ばそうとするんなら、そいつは明確に暴力の側にいる。逆だってそうです。」
「狭間にいるのは無理でしょう。少なくとも法的な正当性なしに魔薬ビジネスに関わった時点で、その人間は犯罪者と見做される。法という厳格な審判が、彼らを狭間から押し出す。」
「だからオレは、どっちかにいないといけない。でもオレは、その法的な正当性を持っている人間です。」
もう表面は冷めてしまったのだろう。ぐつぐつと粟立っていたステーキソースは、外縁を少し固形化させて沈黙している。
「オレはできるなら、ロキシーさんの側に行きたい。」
それは、暴力の側、ということだ。それはオレが、薄情者になるということだ。オレが───
肩が重くなる。それはきっと、十数年前の兄の死体の重さと、ぴったり同じ質量を持っている筈だ。
それは、オレがあの死を、摂理として肯定するということだ。
「来れるんですか?君が。」
ロキシーさんの目は、オレに見たことのない色を見せた。
それは、侮蔑のような原色を持ち、しかし憐憫のような類似色に限りなく近く、一度瞬きをすれば、親愛という補色にも見えた。
彼がそんな倒錯した目をしたところを、オレは見たことがなかった。だから、それを測りかねた。
お前には無理だと言っているのか。お前はそんなことを思っていたのか、あるいは、お前は来ない方がいい?どうとも解釈できそうだった。
「トリガーは、軽い方がいい。でも、私は重いトリガーを信奉している。それは、そのトリガーの引き代に介在する危険を、自分の持ちえる何かしらの力によって打ち倒せると、そうできるようにとしてきたからです。どちらでもいいでしょうが。」
ロキシーさんの言葉は、重苦しい。彼がやろうとしているのが、オレが読み切れなかった感情の答え合わせではないのだというのだけがわかった。
「しかし、トリガーが引けないのでは、意味がない。
棍棒や斧で戦いますか?敵は、音速とそう変わらない速度で、貴方の頭を吹き飛ばしに来る。それでもいいというのなら、貴方はMSCSを人殺しの宿命から解放させてやることができるでしょう。いいえ、貴方が人殺しという宿命から逃れられる、というべきですか。
ただ、敵はトリガーを引く。
有史以来、石や棍棒、バリスタやシュラプネル、劣化ウラン弾や自動小銃、熱核兵器、あらゆる人殺しの道具が生み出されてきました。しかしその中で、最も効率よく人を殺せる道具は、MSCSなんですよ。貴方が暴力という要素を持つのなら、そこからは逃れられない。そしてそこには必ず、敵に狙いを定め、トリガーを引くという工程が必要とされる。
躊躇があろうが、なかろうが、トリガーが引けないのなら、意味がないんですよ。キルマー。」
彼はことあるごとに、”叩き潰す”と言う。それは、強い決意から来る語彙だと思っていた。しかし、そうではなかった。彼は、自分のスタンスを明確にしているんだ。肉を喰らうのも、言葉を放つのも、全て、自分のスタンスを強く、自分に刻み付けるための儀式だ。
───病に侵されている。彼らの血は、病毒のある血よ。
───ノアには悪魔が宿ってる。
どうして今、彼女のことを思い出したのだろうか。
少し考えて、すぐに思い当たる。
彼女も、自分のスタンスを自覚している。その宿命に則り人を殺し、その使命に従って言葉を紡ぐ。彼女は、そういったスタンスを刻み付けられている。彼女はずっと、暴力の側にいる。
だから、リケティアは言ったんじゃないか。こちら側に、暴力でない側に───戻ってきて、キルマー。
呑み下した熱い茶の感覚がする。
オレは、目の前のステーキに齧りついていた。切り分けてもいない肉塊に、ナイフを突き立てて、犬歯でそれを引き千切る。二、三度咀嚼して、その血の味を噛み締めながら呑み下す。思わず目尻に浮かんだ涙をそのままに、噛み付いて、牙を立てて、オレのスタンスを、刻み付ける。
オレは一体、どこにいるべきだ。
ロキシーさんは、何も言わなかった。
*
オレがテイクアウトしたステーキのことを、ロキシーさんは訝しみはしたものの、特に何も聞かなかった。流石に、その金を出してもらうのは気が引けたので、あくまで固辞した。
情報提供者との面談がある、と言って店先で別れて、オレは随分久しぶりに、あの地下水道の入り口に辿り着く。
オレが会いに行かなかった間、彼女は、どんな風に過ごしていただろう。オレは彼女に、何をしてほしいのだろう。
それすらもわからないままに、梯子を下りる。多少ブランクがあっても体は憶えていたようで、暗闇の地下水道を、オレは臆することなく歩くことができた。辿り着く、オレたちの逢瀬の場所。
境界線だ。それは、目には決して見えない。その上、放射線みたいに、確かに存在しているわけではない。それは、どんな観測装置にも観測は不可能で、しかし、ガイガーカウンターにすら及ばない人間の脳みそだけが、それを知覚する。
オレは多分、境界線にいる。それは、狭間と言い換えてもいいかもしれない。しかし、この世界で狭間にいられる人間はいない。神か、あるいは審判が、境界線にいるオレの背中を押す。そしてオレは、リケティアかクレノアに手を引かれて、その領域で生きていくことになる。
オレは、この背中を押されるのが億劫だ。できるなら、オレは自分の道を、自分で歩きたい。自分で行く先を決めたい。この背中に背負った兄の死体に、触れられたくない。
クレノアは、いつも通りの場所にいた。膝を抱えて、十分に広い空間の中を、窮屈そうにしていた。
足音が反響するのは知っていた。クレノアは、オレが来たことに気付いている。そうして何も声をかけてこないのは、意識的な行動だ。
「久しぶり。」
「ん。」
今日は機嫌がよくない。が、相槌があったから、機嫌が悪いということもない。
少し距離を空けてクレノアの隣に腰を下ろし、ステーキが入ったパックを彼女の側に押し出した。それを一瞥したクレノアは、今日は自分でそのパックをいそいそと開けて、プラスチック製の安っぽいカトラリーを取り出した。相変わらず小さな口が、細切れにされた肉を食んで、そこから伝った脂が、その綺麗な紅を滲ませた。
「あの人を、殺せるの?」
クレノアは、誰と特定することなく言った。オレはそれを、ロス・アンタニオスのボスだと解釈した。
「なんで。」
「前は即答してた。……もう、そうしてはくれないんだ。」
あのとき拒んだのはお前だっただろう。咄嗟に出そうだった言葉も、過去の自分に体裁が悪くて勢いを無くす。だからオレは、いつかしたように言葉をこねくり回して、迂遠な言い草で保留する。
「お前が、愛していると言ってくれたら、男はそれだけでなんにでも頷くようになる。」
無視されるだろうと思っていたら、クレノアはゆるゆると首を振った。
「ノアはそれを言えない。……人生で一回も、言ったことが、……ない、から。」
どうして、と声に出しかけた。幸いなことに自制が利いた。
誰もかれもが、母親から「愛している」と言葉をかけられて育ったわけではない。その発音の仕方を知らない人間は、きっとそう珍しいものじゃない。飽食の時代、愛は枯渇している。
「”あの人”は、ノアを愛してくれてる。でも、それは、……この血を引いたノアを愛しているに過ぎない。ノアは、愛しているが言えない。」
愛しているが言えない。
その言葉は俺に、軽々しく言った彼女のそれより、遥かに重い響きをもたらした。
「ノアが口にしたそれは、多分。ノアの中にいる悪魔が吐いた言葉になるんだよ。」
呑み下さば───クレノアは、前後の文脈もなく突然そう言った。
ともすればそれは、本当に、彼女の中にいる悪魔が、彼女の中に流れている、病毒のある血が言わせた言葉だったのかもしれない。その真意をオレが問うより前に、クレノアの手が、オレの指先をなぞる。
クレノアはその瞳に涙を溜めていた。ぎょっとして、何も言葉をかけてあげられない。
「ねぇ、ノアは、どうしたらいい?」
その言葉は、彼女の一言目の言い換えだ。
「明日、十時にここに来る。そのときに……」
背中に指先が触れる感覚。その手は、一体、誰のものなのだろう。
「そのときに、もう一度。オレの話を聞いてくれないか。」
*
翌日、アラームもなしに目を覚まし、朝飯を食った。GMSに五個入りで売っていた冷凍食品で、温めるだけでよかった。おそらく何かしらの穀物でできている生地には、ペースト状になった肉が挟まっていたから、できれば想像しないようにして無理矢理胃に収めた。甘いコーヒーを飲み干して、顔を洗う。適当なジャケットを肩にひっかけて、家を出るとき、ふと思い立って、MSCSのケースを手に取った。そう大きなものではなく、上半身に及ぶベルトで背中に横一文字に引っ掛けることができた。
シルエットは不格好になるが、そう気にすることもなく家を出た。コンクリート打ちっぱなしの、粗末なアパートメント。三階までしかないからエレベータはなく、タイル張りの螺旋階段を下りて行った。
車に乗り込もうとしたところで、少なくとも視覚からの情報はゼロになる。
人間の五感に割り振る知覚のパーセンテージは、確か視覚が八割ほどを占有していたと思うが、こと拷問においてはそうではないのだと、オレは人生で初めて実感していた。視界を覆われたままで行われる拷問では、痛覚が百パーセントを占める。それだけで、状況を判断するのに事足りる。痛覚は触覚に属するだろうから、触覚が百パーセントを占める、といった方が正確だろう。
ゴツゴツとした椅子に座らされて、両手両足は縛られている。声もなく始まった拷問は、流れ作業のように進行する。
今まで散々伝え聞いていた拷問の一部始終についてを、オレは初めて自分で経験している。
今までは、ジェットコースターに乗るための列に並んでいるような感覚だった。
目の前では、その恐怖に狂乱の声を上げる他人が見えていて、そして、その内自分にもその順番が回ってくる。違うのは、自分の番になったとき、日常を吹き飛ばすような爽快な心地は訪れないということ。
爪は何枚か剥がされたが、途中から痛みが混線してよくわからなくなり、左手の中指を剥がされた段階で特に何も思わなくなった。彼らは、オレに痛みを与えるというより、オレの死体によってメッセージを伝えたい。これは手紙の執筆によく似ている。筆致は滑らかで、オレの反応に関わらず、てきぱきと爪は剥離されていく。
次にはシンプルな殴打が体中に叩き込まれ、途中から鈍器によるものに変わった。どうやら痛みというものには上限がなかったようなので、オレはただ殺してくれと思考するだけの肉の塊になった。生きていた方がいい、とのたまう連中に、オレはこの隣に椅子を準備して同席を勧めてやりたかった。
指先をチャキチャキ、という音と共に冷たい感触が触れた。折角爪を剥いだのに、と思ったところで、右手の人差し指が切断される。骨を砕くごり、という音がした。骨伝導で体の中を直送である。
意識は常に鮮明、先鋭。
その後加えられた痛みについてを、オレは全て列挙することができた。
左耳の耳朶が切り裂かれ、だらりと垂れ下がる。普段DEAのバッヂをつける左胸のあたりの皮膚が切り取られ、熱い焼き印がじゅ、と押し付けられる。いくつもの筋線維がアポトーシスをはじめ、いい調子だと思った。
シンプルにへし折られたせいで、四肢はあらん限りの方向に可動域を拡張している。いい加減死ねるような気がしてきた。椅子が引き倒されて、垂れ下がっていた耳朶がべちゃりと引き千切れる。地面の砂埃が気管に入る。ざらついた感触。咳は出なかった。
毛むくじゃらの腕がオレのジーンズと下着を脱がし、まさか今から強姦が始まるのかと、気が遠くなるような心地になる。無意識に引き締めた肛門が、硬く、しかし冷たいものに押し広げられる。異物が進入してくる心地に、変な吐き気がした。
そこでオレは唐突に、それがなんなのかに気付いた。
「ま、待って……!まって、まってください!それは、それ、まって!」
彼らのトリガーは軽いだろうな。
引き絞られたMSCSのトリガー。オレの直腸の中で、魔法が激発する。




