Ep.23『麦畑は燃えている。』
麦畑が燃えている。
マツシマはその光景に目を見張り、果たしてそれが一体なんなのか、必死で自分史を回顧しているようだった。お前の人生にあるはずがない。むしろ、この世界史を回顧しても、この事象は見つけ出すことはできないだろう。
少し遠くの小さな小屋で、片腕のない女と、体の前面を陥没させた男が手を振っている。全裸の男女がひしめき合う教会の杯には、もうじき毒が混ぜられる。バルデリーニは、穏やかな瞳で僕を見ていた。
ゆっくりと、僕の額からせり出した、くすんだ色の物質。脳で発芽したそれは、僕の額の肉をかき分けて、この世界にゆっくりと産声を上げる。
「適合者であれば、誰もがこうなったんだけどな。」
それは、僕がとある名前をつけた異能。あるいは、アンタゴニストでいう戦時状態だった。それは角に見えただろう。僕は得体の知れない力をこの世界に解き放ち、その発端に火をつけた。
まだ僕の背後には、炎が燃え盛っているよ。バルデリーニ。
焼き尽くされた僕たちの麦畑。生きたまま焼かれたアステアの小さな唇の動き。「にげろ」それは、やがて僕の幻覚から抜け出して、とうとうこの世界に顕れた。
僕はそれを、魔人化と呼ぶことにした。
暴力衝動に支配された人間が、MSCSを生み出した。では、その暴力衝動すらも喰らい尽くす化物に、脳を支配された僕たちは、一体、何に目覚めるのだろうか。そこには、蓋然性がある。
僕の脳は、魔法になったのだ。そして、魔法を手に入れた。
人間が機械という遠回りをして辿り着いた概念。彼らが迂回したそこには、オーヴァードーズという概念があった。しかし、お前たちはそこに辿り着かなかった。魔薬も同じだった。MSCSという回り道をしたせいで、お前たちは麻酔薬に辿り着かず、魔薬という概念に接続する機会を失った。
遥か遠くに、山脈の影が見える。のどかな農村だ。太陽の輝きの中を、それよりも遥かに温度の低い炎が、更に光量を放っている。ホワイトアウトするような視界の中で、僕の振るった手が空を掻いた。
それは、地面をまっすぐに抉り、その傷跡の軌跡に、炎を立ち上らせた。やがて、バルデリーニのもとに達した炎は、彼の半身を灼いた。低い嗚咽が漏れて、焼け焦げたバルデリーニの皮膚が炭化して真っ黒に染まった。
その傍らに、聖火の守護聖人がいた。
彼女はバルデリーニに何かを囁いて、彼はようやっと、そのナイフを取り出した。
「彼女は……」
「見えたか、マツシマ。あれが、僕の会いたかった人だよ。」
銀色の毛先が、僕の視界を横切っていった。そして、バルデリーニには触れもしなかったその柔らかな肌が、僕を後ろから掻き抱いた。
「愛してる───リゼルキルト。」
僕はもう、死んだってよかった。また、君に会えた。君と触れ合えた、それだけで僕は、何にも勝る幸福を得て、この体にため込んだ苦痛の全てを取り払われてしまうのだから。
マツシマ、はやく済ませてくれ。マツシマ。おい、聞こえてるのか?
そこで僕はようやく、口に出さないと聞こえないのだということを思い出した。
「マツシマ、継承しろ。」
「え、えぇ、……ですが、」
「きっと、大人しく渡してくれるはずだ。」
おずおずと、マツシマは麦をかき分けて、バルデリーニのもとへと歩き出した。皮膚を焼却され、その筋線維すらも灼きつくされたバルデリーニは、炭化した新たな皮膚がお気に召さなかったらしい。その丸見えになった片方の眼球が、瞼を失ってぼろぼろと涙を流していた。
「エンケファリン……貴方が、貴方の目的は、ぁ……!先代はっ……貴方は!一体……誰なんだぁ……!?」
バルデリーニは、ファミリア・ナイフを抜いた。
その異様な光景は、十分にマツシマを混乱に陥れ、彼は縋るように僕を見た。けれど、彼はこの世界を変貌させたのが僕だとわかっていたから、直ぐに目を背けた。
「もう、もうよくわかりませんよバルデリーニさんっ……!貴方が、あんなものを連れてきたっ、あの女はなんなんだ!?あれがファリンなはずないでしょう!?あそこで手を振ってるのは誰ですか!どうして……どうしてこの火は、貴方だけを灼くんだ!?」
マツシマが何度問いかけても、バルデリーニは答えなかった。ずっと、そうだった。彼は、マツシマの問いに答えたことなどなかった。少なくとも、この二年間は、そうだったのだろう。僕の耳元で、フラクタルが囁いた。
「えんけふぁりんんんん!!こんなもの、くれてやる!!!」
バルデリーニは、その巨体を起き上がらせて、傍らのマツシマをファミリア・ナイフで突き刺した。
彼をこの裏社会の螺旋に放り込んだ過去の遺物が、三世代という流転を経て、その所有権をマツシマの血脈に回帰させる。すぐさまにナイフを引き抜いたマツシマは、腕の切り傷の具合を見て忌々し気に僕を見た。なんだ、大した傷じゃないじゃないか。
ゆっくりと歩き出したバルデリーニは、二本しっかり足がついているのに、随分とバランスを崩して、遅々として僕に、いや、フラクタルへと向かってきた。片足だったゼータの方が、よっぽど上手く歩いたぞ。
ゆっくりと手を伸ばした。僕のそれに、フラクタルのしなやかな腕が、絡まり合うように重ねられる。それは照準だ。
「打て。」
叩きつけられた炎の熱波がバルデリーニの頬を穿ち、やっとのことで歩いてきた数歩分を巻き戻しながら、彼は背中から地面に叩きつけられた。彼を打った焔は、何もかもを焼却するように燃え上がり、それは爆炎と見分けがつかなかった。
からからに乾いた空を突いた火柱の発生源で、全身を燻され、マフィアのボスだった男が蹲っている。
「マツシマ、ナイフは抜けるか。」
僕がマツシマに声をかけると、すまし顔のフラクタルがその視線を遮った。
「私を見てよ。」
「あ、あぁ、そうだな……ごめん。」
何度も思い返したその表情。あまりにも綺麗で、僕はその造形に畏怖すら覚える。その美しさは、この世界の何をも超越しているように見えた。フラクタルとは、そんな少女だった。
マツシマは、落ちていたファミリア・ナイフの鞘にナイフを収めた。そして、小さく息を吐いて、ゆっくりと、その聖剣を抜き取った。露になる刀身が、不気味な輝きを、この世界にもたらす。
資格は移った。
幾千、幾万の死体の山の上、そこに戴いた鈍色の王冠を、僕はマツシマに戴冠した。
ファミリアのボスが誕生する。
「君は、僕に、どうしてほしい……?僕は君のために、どうすれば、」
「会いに来て?リゼルキルト。……次は貴方が王になるの。」
フラクタルは、どんな宝石よりも美しい瞳を綻ばせてそんなことを言った。
「そこで私、待っているから。」
フラクタルは、そんな言葉と、小さな口づけを残し、焔と成って消えていった。
ずっと、君に触れていたかった。時間という概念が空間に転化してしまうくらいに、僕と君の間を流れる時間軸を、不動のものにしてしまいたかった。この宇宙の全ての物質の運動量とエネルギーを把握し、存在確率についてを承知したうえで、その全てを操ることができたのなら、僕はきっと、君と触れている間のこの世界を凍結させて、宇宙の膨張熱すら冷ましてしまえた。
僕は、心臓に空けられた大穴から、失意がだくだくと零れ落ちるのを自覚しながら、アンタゴニストを構えた。
その発破機構が接続するのは、三つ目のカートリッジ。一段目のトリガーを引いて、バルデリーニを照準した。それは、注射だった。この注射器の中、カートリッジに収められた薬液を、この注射針を通じて、彼の体内に注入する。そうして、この病は根絶され、完治される。
一段目のトリガーを引いた時点で、この魔法は発動した。アンタゴニストの銃口から伸びた半透明の魔素偏光が、互い違いに組み合わされて、静脈を目指して注射針を形作っていく。薬液を溢してしまわないために、それは精密に予備動作を必要とし、魔法の構築までに時間を要した。
この病に、僕は特効薬を打ち込むことにした。
二段目のトリガーのロックが解除される。
麦畑という、マフィアに虐げられる側だった人間たちの生業が、息も絶え絶えのマフィアのボスだった男を取り囲み、あまつさえ、その火を媒介して燃やしている。それはこの現実の、まさしく象徴だった。
「あんたが、あんたの先代が、先々代が、ずっとため込んできた呪いだよ。」
そうだ。いつかは全部、帰ってくる。そしてその瞬間が、今だった。不運だったな、バルデリーニ。
僕はトリガーを引いて、辛く、苦しい苦痛を仮託されてきた魔法たちの悲願を達した。その呪いは、砲身を駆け抜けていき、注射針の中を走った。迸るそれは、死と憎悪の病に突き刺さり、循環器系に取り込まれる。その特効薬は、やがて血液─脳 関門を素通りし、ある脳内伝達物質と同じ作用を引き起こすよう、受容体と結合する。
その生理活性は、ごく単純であった。全ての苦痛を、取り払う。
バルデリーニはその薬液を呑み下し、そして絶命した。
僕が撃ち放ったそれは、毒だったのだろうか。
瞼を閉じた。もう一度開けたとき、そこに、夜闇の中に落ちる浄水場の光景が広がっていた。
「一体、なんだったんですか、あれは。」
「僕らがやろうとしてることが、最終的に辿り着く場所だよ。」
何も燃えていない浄水場には、むしろ反対に、水ばかりが流れていた。
「なぁ、マツシマ。」
「なんですか。」
「どうしてバルデリーニは、この場所に通っていたんだと思う。」
「……そりゃ、あの、……あの女に、会うためでしょう。」
バルデリーニは護衛も連れずに、度々この場所に来た。マツシマは、フラクタルのことを思い出したのか、また怯えたような瞳をして僕から視線を逸らした。
リトン組を殺したとき、マツシマは、リトン組の護衛はバルデリーニではなくゲストの方を守る、といった。それは、バルデリーニが普段から、一人でこの場所を訪れていたことを知っていたから言った言葉だったのだろう。
「じゃあもっと言えば、どうして彼女は、この場所に現れたと思う。」
まるで悪夢を見たとでも言いたげな顔のマツシマに目線だけで指図して、彼にバルデリーニの死体を運ぶのを手伝ってもらった。
もっと言えば、どうして僕はこの場所で働くことを選んだのだろう。
なぜセスタは、この事業だけを入札したのだろう。
マツシマが頭を持つのを嫌がったので、僕がバルデリーニの頭を持ち、マツシマが足を持った。
「僕は一つだけ予感がある。」
「……この浄水場に、一体なにがあるというんです。」
「いや、ここには何もないさ。ただの……普通過ぎるくらい普通の、浄水場だ。」
流れ込んできた水を浄化して、やがてそれは濾され、あるいは消毒されて、そしてその過程は、全て”浄化”という言葉に還元される。
ここはただ、水を浄化するためだけの施設だ。
だから。
放り投げたバルデリーニの死体は、暗く、昏い闇の中に真っ逆さまに落ちていき、少し遅れて、大きな水飛沫の音だけが、僕らのもとに届いた。
「浄化したかったんだ。この病を。
フラクタルも、セスタも、そして僕も。ずっと、ここを終わりの場所にすると決めていた。そう、望んでいた。」
僕らが焼き尽くし、蒸発した水源が、やがて水蒸気となって雲になり、いずれそれは、雨となって降り注ぐ。そうして、僕たちが枯らした水源に、再び戻ってくる。全ては回帰する。この水も、僕らの所業も、呪いも、全ては自分に帰ってくる。水はそのメタファーだ。だから、それを無意識に、浄化したがった。
その水面の奥底に沈んでいくバルデリーニが、この場所で浄化されれば、少しはお前の望んだ地獄に行けるかもしれないな。
*
さて、マツシマは晴れて、バルデリーニ・ファミリーのボスとなる資格を得た。世代交代で組織の名前は変わるはずだから、マツシマ・ファミリーとでもなるのだろうか。何故だか格好がつかないな、とマツシマと軽口をたたき合った。
頭を掻いたマツシマの腕を引き寄せて、掌底を叩きつけた彼の腕の付け根が嫌な音を立てて滑落する。皮膚と筋肉だけが彼の腕をぶら下げていて、残った腕で僕を殴りつけようとしたマツシマの足を刈り、地面に叩きつけられるより前に彼の胸に前蹴りを叩き込んだ。
吹き飛んだマツシマは、触れることもできないだろうに自分の肺を手探りで探し、信じられないようというような目で僕を見た。
その呼吸は不規則で、怨み言も吐けないようだった。
「僕がここ十数日を、何に費やしたか知っているか?」
僕は、浄水場の地下室に保管していた資料の束と、いくつもの盗聴器を、横たわるマツシマにばら撒いた。少しは呼吸が落ち着いたのか、マツシマは「なんで、」とか「一体なにを」とかを口走ったと思う。
「情報局のカルメアを、お前は使えるから残したいといったな。それはどうしてだ?」
「前ッ、貴方に……話した通りだッ……!」
「いや、違うんじゃないか?バルデリーニは、無暗に部下を殺さない主義信条だったらしいじゃないか。根を詰めている部下に、新婚旅行の休暇と、心ばかりというには羽振りの良い金を渡すくらいには。
でもカルメアは違ったな。」
カルメア・エテカレアが、疑わしきは罰せよ、として処刑したマフィアの構成員のリスト。それは、偶然にもマツシマの胸元にぶちまけられていて、そのリストは三十枚にも及んだ。
「例えばあんたがボスになり、僕にこう持ち掛けたとしよう。今までの貴方との会話と、貴方と交わしたメールの内容は、全て私がデータを取っていて、これを情報局に持ち込めば、貴方は処刑対象になるでしょう、とか。」
僕は、しゃがみこんでマツシマのポケットを漁り、投げ渡した黒い端末を取り上げた。ボイスレコーダー機能が、別れてから今までのマツシマの言動を、全て録音している。
「カルメアが生きているのなら、僕はそれを脅威に感じて、あんたの傀儡になったかもしれないな。だが、僕だってあんたを完全に信用していたわけじゃない。あんたが僕を、完全に信用していなかったのと同じようにな。」
マツシマは、忌々し気に散乱した盗聴器を睨んだ。
「お前の部屋に取り付けてあった盗聴器とセンサーの数は、正確には五十個だ。四十七個じゃない。残りの三つは、僕のだな。それとこの端末も、あんたに貰ったものじゃない。似たような見た目をしたボイスレコーダーだ。あぁ、あんたのその顔の横に落ちてる資料。それが、あんたのヤサの場所を全部正確に記したもので、その足で踏みつけてるやつが、音声ファイルと紐づいた識別番号を記した、僕らの全ての会話の議事録だ。」
ゆっくりと伸びをして、僕はマツシマに友好的な笑みを向けた。
「僕たち、これからも仲良くやれるよな?」
その、小さな小さな相互確証破壊。僕たちはそれをもってやっと、互いを信頼し合うことになった。決して、互いを仲間とは呼ばない、そんな関係性で。
*
全身を水に浸されて。その女は折れてしまいそうな細腕で、男の大きな体躯を引き摺りあげた。
まるで炎に焼かれたように全身が壊疽したその死体をもってしても、彼女はそれが、クァトロ・バルデリーニであるとしっかりと認識した。
「私達、いい友人だったわね。」
女は、持ってきていたグラスに酒を注ぎ、一息にそれを呷った。
「あぁ、これはいいわ。苦痛を取り払う薬、ね。気分がいい。」
女は、大腿のベルトに差していた拳銃を抜いて、震える指でトリガーに手をかけた。
「私達の駄目だったところは、いい友人すぎたところね。互いがいなくなったら、もう私たちは、こんなにも通じ合った友を得ることはできない。貴方達とマツシマは、やっぱり宿命を持っている。」
女のそれは、愛していた男に対する慚愧ではなかった。
だからこそ、女ははっきりと口にした。
「愛してはいなかったわ、バルデリーニ。」
互いを一番の友人と称した二人は、螺旋する運命を漂白する水流の中で、最後の逢瀬を交わした。
「でも、愛していたわ。バルデリーニ。」
微かに爆ぜた音。
夜闇の中をキラキラと反射する水面に、似た者同士の二人の死体が、寄り添い合うようにして浮いていた。




