Ep.1『死と憎悪の病』
※本作は、植物や違法薬物にまつわる描写が含まれますが、麻薬・麻薬戦争をモデルとした架空の物語であり、実態とは異なる部分があります。また、著者は本作により、麻薬に対するいかなるスタンスも表明しません。
病が、蔓延っている。
それは、死と、憎悪の病である。
貧民街の雑踏で、空腹に喘いだ呻き声を理由に殴り殺された男がいた。石造りの硬い納屋の外壁に頭を打ち付けられ、脳の血管がはち切れた。まだ成人にも満たない娘を、風俗に沈められた母親がいた。性病と暴力に侵され、娘は呼吸もままならないまま母の腕の中で死んだ。週末のカジノに行くために、賄賂を受け取った市警察の男がいた。男は、敵対マフィアへの報復に沸く暗殺部隊に機密情報を漏らした。マフィアの擁する殺し屋たちは、一般市民もろとも敵対マフィアを鏖殺し、その殺戮の雨を浴びて、カジノへ行くことができなかった男は死んだ。
死が蔓延している。
人間の不可逆かつ特別なプロセスを、あまりにも容易く完了させる、”憎悪”が蔓延している。
代替困難な殺意の脈動が、鬱血することなく流動し、その絶え間ない鼓動の発露に、暴力が顕現する。
死と、憎悪。金と、権威。
まるで、脳内伝達物質が受容体と結合するように、それらは固く結合し、受容体は作動する。連鎖する反応が、やがて感染するようにパンデミックを引き起こし、この国に病が蔓延していく。
死と憎悪の病。
あるいは、狂的な生物活性を持つ化学化合物が受容体に結合するように、快楽が連鎖していく。
誰も、この病を止めることはできない。
特効薬が必要だ。
病があるところには、その薬がある。
この病の特効薬が、必ず。この国にある。
唾液に浸されて重くなった紙片を吐き棄てて、僕は小さく呟いた。
「討て、聖火の守護聖人。」
*
僕には、家族が三人いた。父親と、母親と、そして、彼女は───
なんと形容すればいいだろう。彼女のことが見えていたのは僕だけで、写真にも、僕以外の記憶にも、ただの一瞬たりとも、彼女という存在は記録されていない。けれど、僕と、僕の両親の三人での家族写真のその余白には、必ず蠱惑的に笑みを見せるあの女が立っている。
僕にしか見ることのできない、あの女が。そこに立っている。
───炎。
麦畑が燃えている。
鳥肌が浮き、片腕を切断された母の死体。顔面から胸部、腹部までを陥没させ、内臓の大部分を抉り取られた父の死体。
麦畑が燃えている。
しかしそこに、一切の損傷なく両の足で立つ女がいる。
君が死ななくてよかった。僕は呟くも、破裂した肺のせいで上手く声が出なかったから、そう思ったという方が正しい。けれど、彼女は僕の意図をしっかりと理解して、そして笑った。
あれからずっと、君に、会えないままでいる。
少しばかり空の見える、情緒的なあばら屋で僕は目を覚ました。
随分遠くで銃声の音が何度か響いて、微かな発砲音の間隔が、ゆっくりと引き伸ばされる。次の銃声がなかったことで、やっと平穏が訪れる。果たしてその平穏がなぜもたらされたのかは想像に難くない。
照準に定められた誰かが、死に打ち倒されたというだけだ。
この国には、病が蔓延している。
仕切りも何もない部屋には、寝室やバスルームやトイレやリビングが、ごちゃ混ぜに詰め込まれている。無造作に置かれたバスタブには、埃と塵が溜まり、もう出ることのない湯を受け止める時を静かに待っている。
シンクに備え付けたダミーの蛇口を捻り、机の引き出しを三分の二まで引き出してやる。キリキリと回る回転機構の音が、やがて一際高い音を立てる。そして、バスタブを持ち上げる油圧装置が、その下に擁した地下収納を露にする。
ビニールのパッケージに収められた植物、そしてその隣に置かれた小箱の中に、腐り果てた木乃伊の指がある。もちろん本物の指などではなく、それは、病に罹ったとある植物から得られる菌糸である。
その下に敷かれた古紙を剥いで、金の塊を取り上げる。死と憎悪の病に侵された五十万ダラ。貧民街でそんな金額を手に入れられるのは、パトロン付きの高級娼婦かマフィアだけだ。そうでない人間は、際限なく搾取され、簒奪される。稼ぐことは許されても、富むことは許されない。
護身用のMSCSをベルトに差し、小汚いショルダーバッグに札束を詰め込んだ。
この悪夢のような現実の中で、僕たちは理想を夢見ている。幻覚を、空想を、虚構を求めている。
僕はここで。
「待っているよ、フラクタル。」
*
死体の壁。やむをえない理由───マフィアの抗争など───で量産された死体は、焼却炉に入ることも埋葬されることもなく、腐り果て、ドロドロに溶けるまで壁となって打ち棄てられる。酷い悪臭にもうなんとも思わなくなって、死体の曲がり角を曲がったとき、奥まった路地の奥。
「ぁ」
「あ」
引き裂かれた衣服から豊かな乳房がこぼれ落ち、端正な顔立ちからは意識というものが剥落している。
真っ黒な印象の女。露出した肌が、そのせいで眩しく見えていた。そんな女の両腕と両足を持った男二人。
「知り合いか……?」
妙に緊迫した面持ちの男は、おずおずと僕に訊いた。
もう一方の男が、片腕を背後に回したのが見えた。
「いや、違う。」
「あぁ、そうか……焦ったぁ。あー、貰っていくけど……いいよな……?」
ベルトに手をかけて、咄嗟の事態に備えておく。
男が言った貰ってもいいか、という言葉について、僕は明確に答えを持たない。正真正銘、彼女は僕の所有物ではないからだ。
男が言った貰ってもいいか、という言葉について、僕は明確に意味を知っている。正真正銘、僕はこの国の人間であるからだ。
明日の食事はおろか、今日の生命さえも怪しい場所で、まさか清廉潔白な娯楽などが手に入るはずもない。その女が辿る末路は、強姦と凌辱の果てに、一生を愛玩生物として生きるか、あるいは早々に解体されて臓器ごとにオークションにかけられるかのどちらかだろう。
「僕はこのまま消えるから、あとは好きにしてくれ。だから、僕の背中を撃ったりしないでくれよ。」
「あぁ、そうだよな。あぁ、わかった。」
こちらもあちらも、お互いの生命を保証した口約束。その担保として、銃に添えた手を離すことはない。
ゆっくりと後ずさり、この世で最も小さな相互確証破壊を、壊さないように、犯さないように、慎重に。そうすることでしか、この病の中では通じ合えない。
そのときに、女の額が鼓動した。
風穴を空けられた二人の男の死体が、黒の女を取り落とす。
*
黒の女は、意識があるかのように立ち上がって僕の肩を掴んだ。
切り裂かれた衣服からこぼれた裸体から、なんとなく目を逸らした。女の裸が見たいなら、娼館にでも行くかそのあたりの死体の服を剥いでやれば事足りる。だから、それが羞恥からの行動ではないと思った。
真っ黒な女のその真っ白な肌が、きっと、眩しかったんだろう。
「……大丈夫なのか。」
声をかけてみる。
返答はなかった。その表情からはまだ、人間の意識というものが剥離している。
その代わりに、その可憐で端正な顔立ちの額に、ぽっこりと突き出た真っ白の塊が、私が意識であります、とでも言わんばかりに屹立している。
女の肩越しに、風穴を空けられた死体が二つ転がっている。
「どうやって、風穴を空けた?」
僕の肩を掴んだまま止まったままの女に、問いかけてみる。答えが返ってくることはないと思っていたけれど、答えは返ってこなかった。
その細腕には、人間の腹部を貫き、あまつさえその軌道に風穴を遂げるような武器の存在は見受けられないし、人間の肉体を抉るのに、その両腕は柔らかすぎる。隠し持ったMSCSの類も、こんな路地裏ではお目にかかることはない。
女は、僕を押しのけるように腕に力を込めた。視界の端にチラついた死体のせいで、腸が疼いた。
けれど、僕の五臓六腑は健在のまま、女は地面を蹴った。その脚力は、地面を抉り取るようなことはなかったけれど、容易にその肢体を宙に誘い、その軌跡を追った僕の目は容易く太陽に眩まされた。
わけのわからない白昼夢のような雑踏に、何の変哲もない死体と、生臭い臓器の放つ悪臭だけが漂っている。
───一体、なんだったんだ。あの女。
やはり、金なんてものは厄介事の種だ。
この世界に存在する全てのものと代替可能な価値を持つ。その魔力を持つ。
戦争も、怨恨も、飢餓も、苦痛も。全ての原因を辿れば、そこには資本主義という巨大な敵が立ち塞がっている。
ショルダーバッグの現金を確認しよう。そう思って手繰ったところに、あるはずのものがない。
「あの女、……。」
五十万ダラは、安くはない。いやむしろ高い。なにしろ、それは僕の全財産だ。
女の飛び去った方角。
「クソ女。」
*
風が走る。真っ赤な花が、淡い紫の花が、柔らかな風の指先に撫でられて揺れた。
この辺りは、アトロサイト山脈に囲まれた盆地だ。夕刻には、微風すらも鳴りを潜め、夕凪が訪れた街並みは夕日に焦がされる。夕方になる前に辿り着けたのは僥倖だった。
淡い紫の花弁が透けて、真っ白で透明な陽の光が、葡萄味のソーダ水みたいな色になっている。
黒の女は、そんな花の中に抱かれて眠っていた。
この街では、造花ですらお目にかかることはない。生花などは、マフィアが囲っている高級娼婦に手向けられる、支配の証としての意味しか持っていない。
とすれば、この花畑は、そんな支配の象徴であろうか。死と憎悪に支配された国が生み出した、生花という支配の象徴が、いたいけな生娘を囲っている。
しかし、そんな悲観的な想像も、彼女の傍らに捨て置かれた僕の鞄を見て霧散する。
いたいけな生娘は、人を二人殺し、目撃者の全財産を奪った後で、こんなにも穏やかには眠らないだろう。
ため息を吐いて、傍に建てられた小さな家に目を向ける。
貧民街にしてはよくできた家だった。人一人が生活するワンルームとして見れば、支障はないだろうと思った。
扉を開ける。鍵はかかっていなかった。
こんな国に生きている人間が、それも女が、どんな家に住んでいるのか興味があった。
マフィアの連中が売り捌いている花や香水、煙草の類は、隣の大国の一見綺麗な資産家が、娘や愛人に贈るらしい。女とは、そういったものが好きなのだろうか。そしてそれは、この世界に生きている女も、同じなのだろうか。
その部屋には、照明と呼べるものがほとんどなかった。
まだ真昼間だというのに、締め切られたカーテンのせいで暗闇が立ち込めている。扉から差し込んだ光を頼りに、テーブルの上に置かれていたオイルランプをつける。マッチの火がランプに移り、微かな油の香りが、鼻腔の奥をほんのりと焦がした。
におい、という極端に情報量の多い感覚の伝達物質が、人間には不可視だというのが不思議だった。
光が灯る。暗闇を舐り、火の熱さと光に尻尾を巻いて逃げていく鼠のように、闇が剥ぎ取られていく
───シリウス歴932年、シヴィアと旧ブーリオンス帝国の一年戦争───従事した軍医───曰くそれは、全ての苦痛を取り払う魔法の薬───精製方法は不明で、医療用への転用も不可能。───前線で戦った兵士のほとんどが戦死した故取り沙汰されなかったものの───高い精神的・肉体的依存性があり、強い”耐性”が───生き残った兵士のほとんどが重度の薬物依存───彼は、一日中うわ言を呟くようになり、瞳が徐々に透明になって───唾液を垂らしながら立ち上がることも───翌朝様子を見に行くと、自分の手で喉を切り裂いたまま死んでいた───世論は戦場に住まう邪心の呪いと解釈し───愚かにも、それを”戦争病”と揶揄し、そこに存在したとある魔薬の存在についてを───
───金鉱脈の大々的な埋蔵が明らかになったゴールドラッシュ後期───私が訪れた町───あまりに標高の高い山脈に囲まれた────町の富裕層は山脈に住む犯罪組織の───誘拐の身代金は、ダラに換算すれば一回目が十万ダラ(当時の為替相場)、二回目以降が五十万ダラ、最終的に百万ダラに匹敵することもあった───当時の警察機構は全くの無力で───犯罪組織の住まう山は中腹以降極端に高度が増し───酸素濃度が低すぎることで、人間の生命活動───誘拐された人質には───彼らは山に生育している植物を濾した───それが、体内の酸素飽和度を安定させ───
───植物の実がなったとき、十分に消毒した清潔なメスで───乳白色の粘性のある液体───すぐさまに凝固するので───幾許かの乾燥時間を必要とする───採取した果汁を溶媒に浸し(この項で示した溶媒は塩基性エチル・クフール性溶液を使用している)───溶媒に溶解させた溶液から、塩基性エチル・クフール性溶液をろ過し、エチル・クフールを除去する───塩基性水性溶液によって抽出を行い───抽出した濾液からは乳液の形成が確認される───乳液形成の回避のために十分な塩と撹拌し───塩基性水性溶液に沈殿している物質───酸・塩基指数を8~9に合わせる───
───一年戦争の帰還兵に、私はその薬の名を聞くことができた。彼は、痙攣する横隔膜を制しながら話した。
───軍医は、全ての苦痛を取り払い、この戦場に蔓延している死の病の特効薬だと言った。
───皆、フリントロック式マズルローダーの甲高い銃声にガタガタと震えているとき
───腹腔に水が溜まっていく音を聞いているとき
───神経を遡行する痛覚の電気信号を噛み締めているとき
───その注射器を手に取った。
───その薬の名前は、
壁を覆い尽くし、天井にも到達しはじめている膨大な数の資料。
新聞記事の切り抜き、古書にも見える紙質のページ、血のにじんだメモ書き。おぞましい現実の、更にその深淵にある”何か”。それを推察する全ての手段が、ごちゃ混ぜにされて、その部屋に詰め込まれている。
その恐ろしいテレスコープの覗き穴を覗くべきか、僕は大いに躊躇した。僕の背後で、光が遮られる。
頭の中で、肉声のモノローグが聞こえる。
はじめは、強者の老兵の声で。次に、つい先ほど人生を終えた死体の声で、そのあとに、あの黒い女の声で。そして、そのあとに、僕の家族の、彼女の、あの愛おしい、彼女の声で。フラクタル。
───その、薬の、名前は。
「C17H19NO3。」




