Pro.『第四障壁』
※本作は、植物や違法薬物にまつわる描写が含まれますが、麻薬・麻薬戦争をモデルとした架空の物語であり、実態とは異なる部分があります。また、著者は本作により、麻薬に対するいかなるスタンスも表明しません。
第四障壁、という思考実験がある。
ある物質における観測を行う装置の中で、その物質の左右、背後は第一、第二、第三の隔壁で囲まれている。しかし、その物質から見て正面、あるいは、観測する人間から見て正面の壁、第四の隔壁には、観測用の覗き窓がある。
観測者は、覗き窓から物質の変容を観測し、シュミレートする。その物質は、自分がシュミレートされた虚構の存在であるということに気付くことはなく、あたかも、その実験装置の中こそが”真の現実”であると錯誤し、あるいは、妄信する。
第四障壁、という思考実験がある。
我々は、より高位の次元に存在する何者かによってシュミレートされ、全てが仕組まれた機械仕掛けの世界で、愚かにも、この世界が本物であると高らかに世界を賛美する。あるいは、この世界こそが本物であると、空気の味を説き、世界の理を解き、その妄信を時に、”真の現実”と呼称する。
実験装置の中の世界と同じように、我々は、我々を作り、シュミレートする存在に気付くことはできない。第四の隔壁を突破することは、できない。しかし、そんな荒唐無稽な思考実験から導き出された結論を、一体この世界の誰が否定できるというのだろうか。
誰一人たりとも、いるはずはない。それは、耄碌した神父の頬を打っても、国家間弾道ミサイルを撃っても、数百年来の未解決問題を討ちとったとしても、同じことである。どんな知の巨人であろうとも、彼ら、彼女らは、”この世界”の人間であるからだ。
隔壁に囲まれ、第四障壁の存在を知覚することも出来ない、”この世界”の人間なのだから。
第四障壁、という思考実験がある。
目の前にいる女が、この愛おしくてたまらない女が見える。
これは、このからからに枯れた脳が見せた夢なのだろうか。誰も、わからない。
この脳以外が、この脳を理解することはできない。そして、この脳すらも、これが夢なのか、そうでないのか、理解することはできない。
つまり、この世界に存在する脳では、誰も、現実と虚構を正常に判断するインターフェースを持たない。現実─虚構関門を持たない。
現実、あるいは虚構は、簡単にその関門を素通りし、現実、あるいは虚構の喜びを起爆させる。
蠱惑的に、魅力的に、この唇を奪った女と、この脳に湧き上がり、作動した悦びは。この女は、誰かがシュミレートした”虚構”か。あるいは、”現実”か。
この脳では、判断できない。
二人きりの寝室。微かに訪れた平穏の足音と、蕩けそうな逢瀬の光景に、思わず瞼を閉じたとき。誰かがシュミレートをやめる。実験装置の蓋が開けられ、その中に光が注ぎ込む。僅か一瞬前に見た寝室の光景と、瞼の裏側の一瞬の暗転。
瞼を開けたところに、第四障壁を超えた先の世界がある。
かも、しれない。
全てを得て、全てを支配したあとに、自分の全てと言えるこの女を抱いた感触すら置き去りに、瞼を開けた世界で、薬漬けになり、うわ言を呟きながら、口元を這いずり回った唾液に喉をえずかれる中で、薄汚れた天上に手を伸ばす”現実”がある。
かも、しれない。
彼女の背筋を撫でる感触。きめ細かな肌は、まるで陶磁器のような滑らかさを持ち、けれど、それよりは幾許か柔らかく、より苛烈に熱を持つ。つい数秒前に口づけたその唇の艶やかさに、また吸い寄せられそうになる。その口許がくゆり、幸福を作動させる生物活性を持った声色が囁く。
「私が、貴方の見せた幻覚なのか、結論は出た?」
首を振った。結論は出ない。この世界にいる限り、あるいはこの世界から抜け出したとしても。これは、未解決問題ではない。解答のない、不解決問題である。だから。
「だから、一生 苦しんでね?
私のことだけ、で。」




