初恋未遂(1)
とある日の彼らです。
「皆さんの初恋っていつですか?」
偶然、気心の知れたいつもの面子が揃った執務室で、休憩のお茶を用意していたエマは、不意にそんなことを尋ねた。
アーノルドとロイはティーカップを片手に、怪訝な顔で彼女を見る。
「…………どうしたんだ?急に」
「そうだよ、エマ。何かあった?」
恋にも結婚にもまるで興味がなかったエマらしからぬ質問に、二人は困惑しているようだ。
だが、彼らの向かいに座るシエナとマーシャは特に動じる様子もなく、口を開いた。
「そうねぇ、初恋……、いつだったかしら」
「私は6歳くらいのときですね。近所に住む歳の離れた従兄弟のお兄さんでした」
「もしかして前に話していた、マーシャのお父上の弟子だという?」
「はい。その人です。ちょうど私の10歳上なので、彼からしたら私なんてただの妹でしかなかったと思いますけど」
マーシャは遠くを見つめ、懐かしそうに目を細めた。
あの頃の淡い記憶をたどっているのだろうか。ロイはそんな恋人の様子に、眉を顰める。
「……マーシャ、その従兄弟とは今も会ってるの?」
「いえ。最近はあまり会っていませんね。たまに手紙が来るので、元気にはしているのは知っているんですけど」
「そ、そっか……」
会っていない。その言葉にあからさまに安堵したロイは小さく息を漏らした。
彼のその様子を見て、シエナはふと、何か悪いことを思いついたみたいに薄らと口角を上げる。
「ねえ、マーシャ。その従兄弟って、確か今は北方騎士団にいるのよね?」
「はい、そうですよ」
「どうする?せっかくだし、中央に呼ぶ?」
「えっ……!?」
マーシャが答えるよりも先にロイは慌てたように立ち上がった。シエナはその反応を面白がるようにクスクスと笑う。
「ロイ様、遊ばれてますよ」
マーシャは深くため息をこぼし、ロイに座るよう促した。
「シエナ様も、やめて下さい。従兄弟はもう結婚もしていますし、そこそこ大きな子どももいます。北でのんびりやっているんですから。シエナ様のお遊びのためだけに中央に呼び出すなんてこと、絶対にしないでくださいね?」
「やだ、マーシャ。冗談よ、冗談。本気で呼び出そうなんて思ってないから。ね?そんなに怒らないで?」
上目遣いで甘えるように首をかしげるシエナに、マーシャはグッと眉を寄せる。
そしてまた、大きなため息をこぼした。
「……まったく、もう。すぐに人を揶揄うんですから」
「へへっ。ごめんなさい」
「そうやって可愛く言っても、次は許しませんからね!」
「はぁい」
ツンツンとした物言いながらも、甘えてくるシエナを受け入れるマーシャ。
自分でも、主人のこの顔に甘すぎると思うがやめられない。
ロイは目の前でイチャつき出す恋人と幼なじみに、ムッとした顔をした。
「そ、そういうシエナ様の初恋はどうなんですか?」
「私?そうねぇ、私は…………、皇宮に来て初めて付けてもらった専属の護衛l騎士、かな」
シエナはそう言うと、フッと目を伏せた。
そう。あれはまだ、恋がどういう物かもよくわかっていない頃の話。
シエナは初めて付けられた自分だけの護衛騎士に恋をした。
強く逞しく、常に自分を気遣って守ってくれるその騎士が、幼かった当時のシエナにはまるで王子様のように見えたのだ。
それはなんとも子どもらしい初恋だった。普通なら、周囲の大人たちも『可愛らしい初恋だ』と優しく見守るところだろう。
けれど、未来の皇后となるシエナの場合は、そうも行かなかった。
シエナがそのことを侍女に話したその次の日には、護衛騎士は交代になった。
そして、
――あなたが想いを寄せて良いのは皇太子様ただおひとりだ
と、教育係にきつく叱られた。
「シエナ様……?」
急に何かに想いを馳せるように黙り込んだシエナに、マーシャは首をかしげた。
シエナはハッとして顔を上げる。
「ごめんなさい。ちょっと懐かしくなってしまって……って、どうしました?陛下」
ふと視界の端に入ったアーノルドが、子どもみたいにぷくっと頬を膨らませてそっぽを向いている。
その顔をしている理由は大体想像が付くが……、態度が子ども過ぎはしないだろうか。大国の主人が、何と情けない。
マーシャもロイも、若干引き気味で彼を見つめた。
「もしかして、自分が初恋ではなかったから拗ねています?」
「拗ねてない……」
「あれ?でも、この話は前もしませんでしたっけ?」
「聞いたよ。聞いたけど、でも!だからといって到底受け入れられるものではないというか……」
「うーん。そう言われましても、事実ですし……。こんなことで拗ねられても困ります」
「それはそうなんだけど……!でも……!お、俺の初恋は……シエナなのに、とか!そういうことを思っても仕方なくないか!?」
「はぁ、そうですか」
「そうですかって!なんか冷たくない!?」
「冷たいと言われましても……、陛下は私に何を言って欲しいのです?」
「……今は俺しか見ていないから、くらいは言って欲しい」
「………………また今度ね」
「なんで!?」
「なんでも」
詰め寄るアーノルドにそれを冷めた態度であしらうシエナ。
いつもの騒がしいやりとりが繰り広げられる。
そんな主人たちの様子を眺めなら、ロイとマーシャは顔を見合わせて笑った。
和やかな空気が執務室に流れる。
エマは紅茶を片手に、実はこの雰囲気に紛れて一人だけ初恋について何も言及していない男に視線を向けた。
「ロイ様」
「ん?何?エマ」
「そういえば、ロイ様の初恋って……」
「…………あ!!」
「え?」
「そういえば僕、クラウヴィッツ伯爵に呼ばれていたんでした!!危ない危ない!!忘れると事でした!!」
ロイは急に立ち上がり、アーノルドの執務机から必要な書類を取ると、急いで扉口に向かった。
そしてシエナやアーノルドたちに目を向けることなく、エマにだけ視線を向けた。
「エマ、お茶ありがとう!おいしかったよ!じゃあ、またあとで!!」
ロイはそれだけを言い残し、侍女長に怒られない速度で廊下を駆けて行った。
執務室は急に静まりかえる。
エマは扉口を見つめながらポツリとつぶやいた。
「逃げましたね」
「……だね」
マーシャとエマは顔を見合わせ肩をすくめた。
いつの間にかシエナの隣に移動していたアーノルドは、シエナの肩を抱きながら呆れたように呟く。
「あいつの初恋ってシエナだろ?」
「あ、やっぱり?陛下もそう思います?」
「なんだ、マーシャも気づいていたのか」
「ええ。何となくですけど」
「あら、やだぁ。シエナ、困っちゃう!」
「どうせアレでしょう?初対面で一目惚れして、その一ヶ月後にはその暴君具合にちょっと苦手になっていたパターンのやつ」
「おお、正解だ。流石マーシャ」
「…………ちょっと、それどういう意味よ」
シエナは自分の肩に置かれたアーノルドの手を払いのけ、彼を睨んだ。
アーノルドはそんな妻の額にそっと唇を落とし、愛おしそうに呟く。
「君みたいな女性に恋をし続けられる人間なんて、俺しかいないってことだよ」
「アーノルド………、強引に良い雰囲気に持っていこうとしているけれど、それ全く褒めていないわよね?」
「というか、恋し続けているのは陛下だけじゃないですけどね。もう一人いますけどね」
「おい、言うなよ。マーシャ。せっかく忘れていたのに」
アーノルドは一瞬だけ頭に浮かんだ、眼鏡の某参謀閣下をすぐに脳内で抹殺した。
「……それで?エマ。どうたの?何かあった」
「え?」
「急に初恋について聞いてくるなんて、何かあったんでしょう?」
シエナは隣に座っていたアーノルドを強引に押しのけ、そこにエマを座らせた。
アーノルドは不満そうに口を尖らせるが、もちろん無視だ。
エマはもじもじしながら、大人しくシエナの隣に座った。
そして、小さく息を吸い、静かに語り出した。
あれは数日前。食堂で昼食を取っていた時のことだ。
隣のテーブルで外廷で働く女官のフランチェスカが泣いていた。
『どうしよう。ニックと喧嘩しちゃった』
『何があったの?』
『ニックが、皇后宮のアネットと仲良さそうに話しているのを見てしまって、つい責め立ててしまったの。そうしたら、彼すごく怒って……』
『何それ!ニック、酷くない?自分が浮気しておいて!』
『違うの!ニックは浮気していたわけじゃないの!……ただ、私が勝手にやきもちを焼いてしまって……』
フランチェスカは泣きながら、自分が悪いのだと話していた。
ニックが女の子と話しているだけでこころがざわつくこと。それをすぐ彼にぶつけてしまうこと。
そして、最近の彼はそんなフランチェスカを鬱陶しく思い始めていること。
『この前言われてしまったの。そんなに俺のことが信用できないなら、もう別れようって……。でも私、別れたくない……!』
フランチェスカはそう言いながら、大粒の涙を流した。
彼女の友人たちは、そっと寄り添い、肩をさする。そして、『悪いのはフランチェスカじゃない。あなたを不安にさせるニックが悪い』と言った。
エマはそんな彼女たちを横目に、早々に食事を終わらせ、静かに席を立った。
そして食堂を出た後、エマは一緒に休憩を取っていた同僚のリリアにポツリとこぼした。
『理解出来ないなぁ……』
『何が?』
『フランチェスカのことよ。ニックがアネットと話すのは、彼が皇后宮のシェフで、アネットは皇后宮の侍女だからでしょう?それなのに、フランチェスカの友人たちはニックが悪いと言うし……』
あれではニックが可哀想だと、エマは言う。
けれど、リリアは『仕方がないのよ』と苦笑した。
『フランチェスカだって、本当はわかっているのよ。ニックが浮気するような男じゃないことも、女の子と話しているだけで嫉妬するのは良くないってことも。……でも自分では止められないの』
『どうして?』
『それが恋ってやつだから』
――私を見て、私だけを選んで、他の誰にも触れさせないで
そんな、どこまでも身勝手で、自己中心的で、欲にまみれたただの独占欲。愚かな執着心。
それが恋だ。
『……って言っても、お子ちゃまにはわかんないか』
リリアはそう言って、子どもをあやすみたいにエマの頭をなで回した。
エマは咄嗟に『子ども扱いしないで』と怒ったが、その時にふときがついてしまったのだ。
「そういえば私、初恋すらまだだったなぁって…………」
エマは遠い目をして、紅茶を一口飲んだ。
「親が一向に私の結婚を諦めてくれなくて。私も最近は、そろそろ結婚相手を探した方が良いのかなぁとか考え始めていたんですけど……、そもそも初恋もまだの私に結婚相手なんて見つけられるんだろうかと……、なんだかそんなことを考えている内に色々と不安になってきてしまって」
「なるほどねぇ」
シエナはしょんぼりと肩を落とすエマを抱き寄せ、ヨシヨシと頭を撫でた。
エマはシエナの胸元に顔を埋め、甘えた。
やっている事はリリアと変わらないのに、シエナからの子ども扱いは嫌ではないらしい。
「エマはどうしたいの?恋がしたいの?」
「恋がしたいと思ったことは……ないです……」
「じゃあ結婚がしたいの?」
「結婚がしたいと思った事はありませんが……、両親を心配させ続けるのもどうかとは思っています……」
以前は『仕事に生きる女性がいてもいい。自分の人生は自分のものだ』なんて偉そうに言っていたが、最近は少し自信がなくなってきた。
「自分の親を心配させてまで独身を貫くことが果たして正しいのかどうか……」
エマは俯き、苦笑した。
――女の幸せは結婚して子どもを産むこと
それはずっと昔から言われていることで、だからこそ、エマの両親は彼女に強く結婚を勧めているのだ。
娘の幸せを願っているからこそ、娘に結婚して欲しい。その思いは間違いなく、親から子への愛情で、エマもそれは理解している。
けれど……
「でも、仕事を諦めることは……まだ、考えられなくて……」
結婚すれば、家庭に入らなければならなくなる。
平民だったら、結婚後も働く事はできるだろうが、エマは腐っても貴族令嬢だ。つまり、必然的に結婚相手も貴族に絞られる。
そして、結婚後も働き続ける事を許してくれる男性など、貴族社会にはほぼいない。
「私、どうしたらいいのか……もうわからないんです……」
エマは暗い気持ちを誤魔化すように、えへへっと笑って見せた。
エマの気持ちも、彼女の親の気持ちも理解出来るシエナは悲痛な表情を浮かべた。
「……ねえ、エマ。一人だけ、結婚後も仕事続けていいって言ってくれる男性を知っているけれど、紹介する?」
「え?そんな人、本当にいるんですか?」
「ええ。その人はもう後継者も決まっているから、子どもを産む必要もないわ」
シエナは「どうかな?」と首をかしげる。
だが、その後ろでアーノルドとマーシャの首を横に振る。
「だめだ、シエナ。あいつだけはやめておけ。本当に」
「どうして?彼ほどの優良物件はいないでしょう?」
「本当にやめてください。いくらなんでも不憫すぎます。可哀想です」
「えぇ……、でも……」
「シエナ様、もう黙って」
不服そうに口を尖らせるシエナ。マーシャはこれ以上余計な事を言わせぬよう、主人の口をふさいだ。
「エマ、焦る必要はないよ」
「陛下……」
「今はまだ、周りの声が気になってしまうかも知れないけれど、これから時代は変わっていくだろう。もうあと数年もすれば、仕事に生きる女性も珍しくはなくなるはずだ」
何なら、そういった女性の代表に君がなれば良い。アーノルドはそう言って優しく笑った。
それはあまりにも非現実的で、理想論すぎる話なのに、何故だろう。この男が言うと、そうなる未来もあり得るのかも知れないと思えてくる。
エマの心は不思議と、少しだけ軽くなった。
「そんな時代が来るといいですけど」
「来るさ!絶対来る!」
「ちなみに、どうしてそう言い切れるのですか?」
「え……カン……?」
「カン…………」
「カンって……」
「せめて何か具体策を出しなさいよ……」
良いことを言っていたのに、台無しだ。
本当に締まらない人である。
シエナは大きくため息をこぼし、エマは空いたティーカップを片付け始めた。マーシャもそれを手伝う。
「まあ、そうですね。陛下の言葉は信用ならないですが、もう少しだけあがいてみようと思います。はい」
「え、なんか冷たくない?エマさーん?」
「私はあなたのそういうところ、好きよ」
「シエナぁ……」
「あ、私は好きじゃないです」
「君には聞いてないぞ、マーシャ」
「じゃあね、アーノルド。私たちはそろそろ行くわ」
「お、おう……」
「失礼しましたー」
「しました」
三人はテキパキと休憩用のティーセットを片付け、執務室を後にした。
室内には何故か、冷めた空気だけが残った。
「なんか最近、俺の扱いが雑じゃないか?」
最近、女性陣からの扱いがどんどん雑になってきている気がする。
一人残されたアーノルドは不服そうに口を尖らせながら、仕事を再開すべくペンを取った。




