初恋未遂(2)
その日の夕方。
エマはシエナに頼まれた資料を受け取りに行く途中の渡り廊下のところで、柱の影から動けずにいた。
理由は簡単。すぐそこでフランチェスカとニックが真剣な話をしているからだ。
エマは「最悪だ」と、ため息をこぼした。
すると、
「こんなところで何をしているんだ?」
不意に声をかけられた。
エマが顔を上げると、そこに立っていたのはイーサン・ベレスフォード。いろいろと絡みのある陸軍参謀長だった。
「……ベレスフォード閣下。ごきげんよう」
「ごきげんよう、エマ嬢。こんなところでどうした?」
「資料室に行きたいんですけど、ちょっと通りづらくて……」
エマは気まずそうなエマを浮かべながら、自分の背後を指さした。
イーサンは柱の影から顔を出し、彼女の指す方を見る。
そして、苦笑した。
「痴話喧嘩か?」
「いえ、さっきまでは言い争っていたんですけど、今はちょっと落ち着きました……」
「和解モードに入ったということか」
「はい……」
「そうか……」
いっそのこと、痴話喧嘩の最中なら通りやすいのに。和解モードに入ったところに水を差すのは、さすがに気が引ける。
エマとイーサンは、顔を見合わせてため息をこぼした。
「閣下も資料室に用事ですか?」
「ああ、資料室に寄ってからアーノルドの執務室に行こうかと思っていたところだ」
「なるほど」
「仕方がない。しばらく待つか」
「ですね」
二人はもう一度、深くため息をこぼし、柱の影に腰を下ろした。
落ちていく陽の光が柱の影を深く伸ばし、ひんやりとした夕風が二人の間を抜け去っていく。
すっかり暗がりになった影の中で、エマは何となく、隣に座るイーサンの横顔を見上げた。
そして、そこでハッと気がついた。
そういえば、この人は生涯独身を公言している。
後継者はすでに決まっており、結婚しても子どもを産まなくてもいい。
「…………あ、なるほど」
そうか。シエナの言っていた優良物件とは彼のことだ。
エマはジッとイーサンを見つめた。
その視線に気がついたイーサンは怪訝な顔で首を傾げる。
「何がなるほどなんだ?」
「いえ、何でもありません。こちらの話です」
「そうか………?」
「ところで閣下。つかぬことをお伺いしますが、閣下はなぜ生涯独身を公言なさっているのですか?」
「どうした?藪から棒に」
「すみません。少し悩んでおりまして」
「それは、結婚についてか?」
「ええ、まあ」
「意外だな。君も同じく結婚しない主義かと思っていたが」
「あー、そうだったんですけど……」
「周りがうるさいか?」
「はい。親がちょっと……」
「そうか、なるほどな」
エマの年齢を考えれば、親が口うるさくなるのも当然の話だろう。
加えてエマは女だ。男の独身よりも、女の独身の方が世間の目も厳しい。
イーサンは、どう答えたものかとしばらく悩んだ。
二人の間には気まずい沈黙が落ちる。
エマはたまらず、笑って誤魔化した。
「すみません。急にこんな話されても困りますよね。忘れてください」
「いや…….、こちらこそ。気の利いたことも言えずに申し訳ない」
「いえ、そんな……」
「ただ、そうだな。私から一つ言えることがあるとすれば……、貫き通せば周りはそのうち何も言わなくなるということかな」
そう言ってイーサンは、どこか懐かしむような、苦笑交じりの表情を浮かべた。自らの過去を追想するようにひと呼吸置くと、ポツリポツリと語り始める。
「実は私が生涯独身を公言したときも、親族はうるさかったんだ。妻を娶ってこそ一人前だ、どれだけ出世しようが妻の一人もいないようでは半人前だ、と散々言われたさ」
「そうだったんですか」
「あまりにも言われすぎて流石の私も、だんだんと腹が立ってきてね。半人前だと言うのなら、そう言えないくらいに立派になってやろうと決めた。そうしてがむしゃらに働いて、今の地位まで上り詰めたんだ。そうしたら不思議なことに、後継を決める頃には誰も何も言わなくなった」
それは、イーサンの努力を認めてくれたのかもしれないし、ただ単に何を言っても無駄だと諦めただけかもしれない。
真相はわからないが、今はもう誰もイーサンの結婚について口を出さなくなった。
「まあ、女性の君に参考になる話ではないかも知れないけれど。個人的には君も同じように示してやれば良いんじゃないかと思うよ」
「示すって……?」
「女の幸せは結婚だけではないということを示すんだよ」
「なるほど……」
「まあ、君の場合はもう既にそれを示せていると思うけれどね」
「え?どういう意味ですか?」
「君はシエナ様の側で働いている時が、一番幸せそうな顔をしているし、一番キラキラと輝いているという意味だよ」
イーサンはそう言って、穏やかに微笑んだ。
普段の姿からは想像もつかないほどの温かな笑みを間近で見つめてしまい、エマは思わず息をのんだ。
直視できずに咄嗟に目を逸らしたものの、顔全体が熱くなっていくのが自分でもはっきりとわかる。
「……なんて、流石に綺麗事すぎるだろうか」
「い、いえ!とても参考になりました!ありがとうございます!」
エマは赤くなった頬を隠すように、深々と頭を下げた。
気がつくと、背後から人の気配は消えており、渡り廊下にフランチェスカたちの姿はなかった。
「いつの間にかいなくなっていたな。行くか。資料室」
「は、はい!」
先に立ち上がったイーサンはエマに手を差し伸べた。
エマが躊躇いがちにその手を取ると、イーサンはグイッと力強く彼女の手を引いた。
(あ、まずい……)
さすがは軍人だ。思った以上に力が強い。
それこそ、勢いあまって、うっかりその分厚い胸板に飛び込んでしまうほどに。
「すみません!!」
「いや、こちらこそ悪かった。力が強すぎたな。大丈夫か?」
慌てて距離を取るエマに対し、イーサンは申し訳なさそうに顔を覗き込む。
「……顔が赤いが、本当に大丈夫か?」
「だ、大丈夫です!」
「そうか。ならいいが……」
「それより!ほら!さっさと行きましょう!資料室!」
ごまかすように早足で歩き出すエマの背中に、傾いた陽の残光が長く伸びていく。
すっかり静けさを取り戻した渡り廊下には、まだ熱の冷めない風と、彼女の乱れた足音だけがどこまでも響いていた。
*
数日後、食堂では嬉しい報告が聞けた。
「えっと……、この度、ニックと結婚することになりましたっ!!」
フランチェスカは、左手の薬指に光る指輪を恥ずかしそうに同僚たちに見せた。
その場にいた同僚たちは皆、拍手で彼女を祝福した。
もちろん、エマもその中の一人だ。
「良かった。仲直りできたんだ」
「みたいね」
エマはリリアと共に、安堵の表情を浮かべながら、幸せそうに笑う彼女を見つめた。
「そういえばさ、全然話が違うんだけど、エマってベレスフォード侯爵閣下とどういう関係なの?」
「え?どういうって……、たまに仕事関係で話をするくらいの関係だけど……?」
どうしてそんなことを聞くのだろう。エマは首をかしげた。
リリアはそんな彼女にニヤニヤとした笑みを向ける。
「えー?本当にぃー?」
「な、何よ。その笑みは」
「実は私、見ちゃったんだよねぇ。この間、閣下とエマが抱き合っていると・こ・ろ!」
「はい!?」
リリアがそう言った瞬間、エマは椅子をガタッと鳴らして立ち上がった。
「ち、違うから!!あれは抱き合ったんじゃなくて、ただの事故!!」
「でも見たんだよ?閣下の胸に飛び込んで……」
「違うってば!あれは私がよろけただけで!不可抗力だから!」
エマはあの日のことを思い出し、顔を真っ赤にしながら、首をブンブンと横に振って否定した。
だが、そうやって強く否定するほど怪しく見えるもの。
リリアはさらに追求しようと口角を上げる。
これ以上何か聞かれてもうまくあしらえる自信がないエマは、急いで食事をかき込み、
「そもそも!私、恋とかよくわからないし!」
と言いながら、トレイを抱えて、逃げるように食堂を出て行った。
入れ違いに食堂に入ってきたマーシャは、飛び出していったエマの背中を見つめながら、リリアに尋ねた。
「エマ、どうしたの?なんか慌てていたけど」
「ちょっと揶揄いすぎて、逃げちゃった」
「……逃げた?」
リリアは面白がるようにクスクスと笑みを浮かべる。
「お子ちゃまなエマちゃんに、初恋の予感かな」
「ちなみに相手は?どうせ、『エマの初恋はシエナ様だからー』とか言ってるんでしょう?」
「違うわよ。ベレスフォード侯爵閣下よ」
「………………え」
その名前を聞いた瞬間、マーシャはスッと顔を青くした。
「最悪だわ」
今ここで全力で止めなければ、不毛な片思いの連鎖が始まってしまう。
マーシャは急いでエマの後を追いかけた。
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