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【電子書籍化】ある日突然、夫が愛人を連れてくるものですから…  作者: 七瀬菜々
本編

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29/51

29:13番倉庫(3)

 ステュアート公爵領と数年前に帝国の属国となったリーズ公国との国境付近には、今は使われていない教会がある。その場所はちょうど高台となっており、公爵領で一番大きな港がよく見える。

 午前二時の少し前。不穏な風がざわざわと木々を揺らす中、ジェームズ・ハワードは教会の敷地内に非合法に立てられた二階建ての小屋の窓から港の方を眺めた。

 彼の腕にはめられた高級時計はもうすぐ時代が変わる瞬間を指し示す。その時間にこの時計を水につけ、針の動きを止めたいくらいだ。彼はフッと薄く笑みをこぼした。


「猊下、先に取引を成立させてしまおう」


 葉巻を咥えた中肉中背のハゲ親父ことトマス・ステュアートは空の木箱に座り、古びた木の丸テーブルの上に複数枚の契約書を並べた。麻薬取引と契約書だ。

 午前二時ちょうどに港で打ち上がる花火はこの契約が結ばれたことを祝福する余興に過ぎないと、彼は下品に笑う。ハワードは『そうですね』と読めない笑みを浮かべて、公爵の前に座った。


「これが成立すれば、あなたは帝位だけでなく、莫大な富も手に入れることができます」

「ああ、楽しみだ」

「お分かりとは思いますが、あなたが皇帝となられた暁には我が祖国を自由にしていただきたい」

「わかっている。大丈夫だ、任せなさい」


 約束は守ると、公爵はハワード枢機卿にペンを差し出した。

 彼はそれを受け取ると契約書にサインする。


(これで私の人生最大の戦いが終わる)


 心の中でそう呟きながら、彼は小さく息を吐き出した。


「ご確認ください」


 ハワードはペンを置くと、契約書を重ねてトントンと机で整えてから、それらを公爵に手渡した。ステュアートは品のない笑みを浮かべながら書類を一枚一枚確認する。老眼なのか腕を伸ばして書類の文字を読む姿は、そのだらしない体型と悪い表情に絶妙にマッチして、悪役らしい悪役だった。ハワードは彼のその様に辟易した。

 帝国皇族の血を引く人間など、ろくな奴がいない、と。

 書類を確認し終えたステュアートは静かに立ち上がると、目の前のハワードに手を差し出した。どうやら握手を求めているようだ。ハワードは仕方なく、それに応じた。


「これから、ともに大陸を発展させていこうじゃないか。猊下」

「こちらこそ、よろしくお願いします。……皇帝陛下」


 『皇帝陛下』という単語を強調しつつ、ステュアートの手を握り返した彼の顔もまた、悪代官のような表情だった。


「猊下は気が早くていらっしゃる」


 まだ早いと笑う彼だが、その表情は満更でもなさそうだ。ハワードは腕時計を外し、ほくそ笑む彼に盤面を見せた。


「早いとおっしゃいますが、そろそろですよ?」


 短針は二に限りなく近く、長針は一二に限りなく近い場所を指し示している。


「おお。ではそろそろ祝杯をあげようか」


 ステュアートはそばに控えていた従僕にワインとグラスを持って来させた。

 そしてワイングラスを一つ、ハワードに渡すと二人並んで窓際に立つ。

 海からの風が潮の匂いを運んでくる。空は満天の星空、空気が澄んでいて、その輝きがよくわかる。今日は比較的夜でも暖かい。最高の天気だ。

 二人は夜空に浮かぶ半分の月にワインが入ったグラスを掲げると、『乾杯』と言葉を発した。

 カンッと音を立てぶつかり合うグラス。その瞬間、そこから見える港の一三番倉庫が大きな爆発音とともに吹き飛んだ。


「はっはっはっ!実に愉快だ」


 赤く燃え上がる港を背に、ステュアートは一気にワインを飲み干した。

 手配していた者たちがすぐに消火活動を行うだろうが、そこにいるはずの皇帝アーノルドも皇后シエナももう助からない。

 邪魔者が消えた今、彼は無敵だった。


「これから忙しくなりますね、皇帝陛下」


 わかりやすい世辞を口にしたハワードは皇帝になったつもりの彼にワインのおかわりを注いだ。少し遠くに見える港は明らかに非常事態なのに、音が聞こえないこの場所からはその喧騒も届かない。

 ただ焚き火を見るように、二人はその炎を眺めた。



「あ、ああ……」


 コツコツと弱々しいヒールの足音が、木の床を鳴らす。少し踏み込めばギーッと鳴く床がこの空間の物々しさを表現していた。

 階段から顔を出した皇太后ヴィクトリアは、奥に見える窓からの景色を見て、青い顔で急いで窓辺に寄った。


「そんなっ……」


 まるで悲劇のヒロインのようにその場に崩れ落ちる彼女に、ステュアートはふん、と鼻を鳴らす。


「貴方の息子は死にました。その妻もね」

「……どうして⁉︎」

「手違いで、港の爆薬が燃えてしまったようです。実に残念ですな。義姉様」


 ステュアートはワイングラスを揺らしながら、愉快そうにわらった

 ハワードは慰めるように、そっとヴィクトリアの肩を抱く。


「そんな……。ああ、シエナ……。アーノルド……」


 ヴィクトリアは肩に置かれたハワードの手に自分の手を重ねると、その白磁の頬に一筋の涙を流し、祈るように胸の前で両手を組んだ。

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