第四章第五話「行動は慎重に」
太陽の下をゆっくりと歩きながら、一面に広がる野原や髪を揺らす優しい風に五感を研ぎ澄ませる。
「心配しなくても、大丈夫。私がいる」
胸の中にいるもう一人の人物に、そう語りかけた。命令違反。そんなこと、どうでもいい。ネームレスは目的を達成するために利用できる組織であっただけで、それ以外に利益を生み出してくれることなんて何もない。
誰かのために生きるということは、誰かを苦しめてもいいことにはならない。そんなことをしてしまえば、キキはきっと悲しむから。
「お姉ちゃん」
「何?」
その問いかけに、昔の記憶がじわじわと蘇ってくる。胸の奥に沈めていた後悔が、どろどろとした暗闇になって頭の中を覆い尽くした。
「ごめんね」
「いいよ」
胸の奥深くで絡まり合っていた糸が、すっと解けたような気がした。
「キキ、あのね……」
声を絞り出した瞬間、ふと意識が途切れそうになった。きーんと耳鳴りが聞こえる。これだから、嫌なのだ。
「あなたのせいで、代わりの転移魔法使いを探す手間が増えました」
外見を取り繕った真っ黒な怪物。
あまりに突然のことで、何が起きたのかよく分からない。じわじわと身体を焼くような痛みが、腹部から全身に広がっていく。どうやら、腹部にぽっかりと風穴が開いているらしい。
「放っておいても良かったのですが、あなたは少し勘が鋭いですからね。念のためです」
「……」
ボタンは、芝生に倒れたシキをまったく見ようとしない。動けないと思っているのだろうか。
タフな身体であったことを、これほど喜ばしく思ったことはない。致命傷だ。もう、治らない。だからこそ、この一瞬を大切にしたい。雷光のような速さで、シキは体勢を立て直してボタンに拳を振りかざす。
「……あなたに、彼は渡さない」
「思っていたよりも、馬鹿な子なのですね」
拳を手のひらで止めて見せたボタンは、ゆっくりとシキに視線を向けた。
キキは、暗闇の力が生み出したものではない。強い精神的苦痛を負ったシキの望みが生み出した、もう一つの人格だ。暗闇の力は、単純な身体能力の底上げとあと一つ──負の感情の集積が創り出す呪い。
未知の力には、未知の力をぶつければいい。暗闇を媒介とした呪いの力は、例え聖女であったとしても解くことができない代物だ。
「私を呪いますか」
ボタンの瞳をじっと見つめた。呪いは確かに発動している。時間がない。代償が、迎えに来る。
二人の存在も、生きた証も、この世界から完全になくなるだろう。彼もまた、シキとキキのことをきっと忘れてしまう。それでも、あの言葉はなくならないから。
意識が、ゆったりと遠のいていった。太陽の光が、眩しい。
本当は、ただ──。
「……痛いなぁ」
ずっと、謝りたかった。
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見えない苦しみを、理解することは難しい。だから、知りもしない人は皆、日常を続けるのだ。
「次のお仕事、いけそう?」
便箋をゆっくりと机の上に置いて、リズはガラス玉のような瞳をイリアに向けた。
「うん」
イスレン王国北部を悩ませている魔獣の討伐。リズが言うには、任務としての難易度はそれほど高くないらしい。しかしながら、要請を受けた十一魔賢のメンバーに少しばかり不安があった。
ニケ・アルスタシス。
明らかにイリアに敵対的な視線を向けていた少年だ。仲間同士で争っている場合ではないものの、彼がどう動くかによってイリアの行動も変わってくる。緊張で、少しばかり喉が震えた。
「大丈夫だよ。今のイリア君だったら、絶対に大丈夫」
根拠はきっとないのだろう。それでも、リズがそう言うならなぜだか大丈夫な気がした。励ましではなく、何か確証を持っている。リズの言葉は、それほどまでに妙な説得力があるのだ。
◇◇◇
一面に広がる雪景色。中部と北部で気温に差があることは知っていたが、ここまでとは。コートの上から腕をさすり、手袋越しに息を吹きかける。真っ白な息に、少し気分が高揚した。自分が知らない場所。視界に映る何もかもが、新鮮に思える。
「これくらいではしゃいでるとか、餓鬼かよ」
皮肉な声に顔を歪めながら、イリアはそばで不貞腐れているニケに視線を向けた。イリアとそれほど変わらない背丈に、生意気な口調。相変わらずローブで顔がよく見えないが、歳はそれほど離れていないように見える。
「なんだよ、喧嘩売ってんのか?」
どちらかと言うと、喧嘩を売っているのはニケの方だろう。こういうのは、反応したほうが負けだ。変な対抗心から小さくため息をついて、イリアはニケから目を逸らした。
「おい、無視してんじゃねえよ」
「はい、そこまで。仕事中なんだから、仲良くして」
リズが間に入ってそう口にすると、ニケは顔を歪めて視線を逸らす。背中の革ベルトに差し込まれた斧が、煌びやかな光を放っていた。
「イリア君も、あんまりニケに意地悪しちゃダメだよ。ちょっと怒りっぽいところはあるけどさ」
「リズの生意気がそいつにうつったんだろ。お前みたいに、何にもできないくせに俺たちと肩を並べようとしてる奴が気に食わないんだよ」
「……もう、ニケは序列に厳しいなぁ」
ニケが一人で針葉樹の森に向かって歩いていくのを、ぼーっと見ていることしかできない。根本的に気が合わないのだろう。彼の態度を見ていると、イライラしてしまう。出来れば打ち解けたい気持ちはあるものの、この調子では上手くいきそうにない。
「きっと今からでも仲良くなれるよ」
イリアの気持ちを察したのか、リズが顔を覗いて晴れやかな笑みを浮かべた。そうだろうか。
気を取り直して、やけに静まり返った森に足を踏み入れる。北部は住居が少ないこともあって、魔獣対策が少しばかり遅れている傾向があるらしい。
「足音、気をつけてね」
「うん」
魔獣は人と比べて五感に優れている。数が多いことが見込まれるため、悟られてからでは遅い。直接巣を叩き潰すというのが、今回の作戦だ。しかし、巣はなかなか奥の方にあるのか、しばらく歩いてもそれらしきものは見つからなかった。
「……面倒くせえ」
舌打ちしたニケが首元から木製の笛のようなものを取り出した。
「ちょっと、まっ」
リズの声を無視して、笛から耳障りな音が鳴り響く。森一帯を囲い込むようなその音は、確かに魔獣たちの怒りを買った。
「経験不足なお前らに忠告してやる。様子見なんてしてる間に、守れるはずだった誰かが死んだらどうする? 十一魔賢を名乗るなら、早く終わらせることを意識しろ」
こちらに向かってきている魔獣の足音が、確かに聞こえる。しだいに大きくなっていくそれに、身体を強張らせながら剣を構えた。偉そうにしていたニケが背中から斧を取り出し、空を切るように大きく一振りする。
すると、時間差で強風が吹き荒れ、ニケのフードが脱げた。
「……五十、いや。百体近くは殺ったか。何体かは隠れやがったな」
魔獣の足音も、地響きも、今や全く聞こえない。いつの間にか、血しぶきが森を赫く染め上げている。
何が起きたのか、全く分からない。魔獣だけが、綺麗に切り刻まれていた。
「なんだよ」
長い耳。肩にかかるくらいの長さの緑髪に、金色の瞳。女性かと思ってしまうほどの美形だ。
──歴史書によると、数百年前に絶滅したはずではなかっただろうか。
感嘆の声が漏れてしまいそうになるのを堪えて、イリアはリズを見つめた。
「もっと気をつけてよね……一応、国家機密レベルの案件なんだから。その。ニケは、この世界で唯一のエルフなんだよ」
世界にたった一人のエルフ族。それが、目の前にいた。




