第四章第四話「選択」
碧い瞳がじっとこちらを見つめていた。一言も話すことなく、時間は静かに流れていく。家に帰ってきてから、ずっとこんな調子だ。
「どうかした?」
さすがに長いこと見られていると居心地が悪い。イリアは視線を横に流して、目の前にいるキキにそう尋ねてみた。
「……ちょっとだけ、怖いんです。私が望んでいることなのに、こうやって考えることも、何かを思うこともなくなってしまうと思うと、やっぱりちょっとだけ怖いんです」
そこには、命があった。自分が消えてしまうことに、キキが不安や恐怖を抱かないはずがない。キキがそれを望んでいるから、ひとまず協力することにしただけだ。イリアにも、これが正しいことなのかは分からなかった。
そばでその光景を見ていたリズは、冷たい表情を浮かべ、介入してくる気配もない。らしくないと言えばそうなのだが、キキのことから目を逸らそうとしているようにも見える。
「……やめてもいいんじゃないかな。その、難しいけど。僕だったら、ずっとそばにいてくれた人がいなくなっちゃった方が悲しいから。いるときの辛さよりも、いないときの辛さの方が多分ずっと大きいと思う」
自分で言っていて、本当にそんな気がした。いなくなってしまったら、後悔することしかできない。自分だったら、そんな経験はしたくないと心の底から思った。
「……」
キキは黙り込んで、気まずそうに指を動かす。その動きを見つめながら、じっと彼女が口を開いてくれるのを待った。
「ダメだよ。これ以上、踏み込んだらダメ」
視界が真っ暗になる。リズの冷たい手が、目元を覆っているらしい。その手に上から優しく触れた。
「……何で?」
「みんなにとって、良くないことだから」
随分と抽象的な回答だ。しかしながら、それについて問い詰める気にもなれない。リズがはっきり言わないのは、多分その方がいいからなのだろう。それならば、イリアも余計なことはしない方がいい。
それでも、胸の奥にある違和感はなかなか消えてくれなかった。
「リズは……」
キキの想いを尊重してのこと。それ以外の意味なんてないはずなのに、リズがこの件に関して協力的になるのは違和感があった。
いつもだったら、きっとキキの考えに真っ先に反対しているだろう。それほど、リズは「命」に固執している人間……なのだと思っていた。
イリアを探していた目的も不明のまま、ここまで道しるべになってくれているのだから、そういった印象がつくのも無理はない。
「あくまで精神病の治療に使われる魔道具だけど、一部の記憶を消しちゃえば、きっとキキちゃんの願いは叶うよ」
リズの正しさは、本人にとって望ましい形にならないこともある。それが、彼女なりの優しさだと分かっていた。それなのに、今回は。
リズが何を考えているのか、全く分からなかった。少し、怖いと思ってしまうほどに。
「私は、大丈夫です。すみません、元からいないはずのものなのに、こんな弱音を吐いて。お姉ちゃんが好きでいてくれた私は、偽物の私じゃないのに」
空気を切り裂くような、明るいキキの声が部屋に響いた。リズがゆっくりとイリアの瞳を覆っていた手を離す。
──偽物。
偽物とは、なんだろう。本物を真似て作られたもの?だとしたら、キキは偽物なのだろうか。いや、違う。偽物なんかよりも、もっとずっと、ずっとずっと本物だ。
偽物かどうかなんて、誰にも決めることはできない。
「……偽物なんかじゃないよ。今、こうやって生きて、言葉を交わしてる。みんながみんな、自分が本物かなんて分からないし。その、そういうものなんだと思う」
リズはソファに腰を下ろし、小さくため息をついた。
「……もう、ほんと。私が責められてるみたいで嫌になっちゃう」
そんなつもりは全くなかったのだが、リズがそう受け取ったのならきっとそうなのだろう。
「ごめん」
「別に怒ってるわけじゃないよ? ただ、こんな調子だといつまで経っても進展がないなーと思っただけで」
リズはキキの顔をじっと見つめた。イリアの言葉を聞いて考えが決まったのか、少しばかり気が楽になったかのような様子を見せる。
「イリア君、ありがとうございます」
ふにゃりと笑う顔は、可愛らしい。初めて名前を呼ばれたからか、鼓動が速くなっていくのを感じる。
「もう少しだけ、いいですか?」
キキがイリアの手を取った瞬間、淡い光に包まれた。最後に見えたのは、不機嫌そうにしていたリズが目を見開いた瞬間だった。転移魔法だ。優しい風が、短い黒髪を揺らす。静かでのんびりとした平野、そのど真ん中にいつの間にか立っている。
「……何で、わざわざ」
キキの方に目を向けたその時、全身に緊張が走った。キキ……ではない。鋭い碧眼が、じっとこちらを見つめている。
「あの子にとんでもないことを吹聴してくれましたね」
冷淡な声。表情の読めない顔。同じような顔なのに、先ほどまでとはまるで別人だ。
「……しかしながら、今までで一番健やかな気分です。あなたに対する好感は、キキから来ているもの。ですが、それもまた悪くない」
少しばかり、シキの口角が上がっているように見えた。殺意はない。以前会った時よりも、丸くなった印象を受ける。
「失礼、質問に答えていませんでしたね。単にあなたと話したかっただけです。あなたの恋人がいると、まともに話せませんから」
「その、リズとはそういう関係じゃ……」
「そうでしたか。彼女を手玉に取れるとは、人は見かけによらないのですね」
そう見えるのだろうか。どちらかと言うと、いつもイリアが振り回されている印象だったのだが……そんなこと、今はどうでもいい。
最初こそ警戒していたはずの人物と、こうして普通に言葉を交わしている。不思議なこともあるものだ。
「何が目的なんですか?」
「さて、私にも分かりかねます。理性ではなく、キキの思うがままに任せただけですから」
頬に、柔らかな感触があった。驚いて数歩後ろに下がると、背伸びを終えたシキがこちらに視線を向ける。
「なっ、何して」
「好意をお伝えしただけですが」
「……好意って。僕はあなたに好かれるようなことなんて、何にもしてな」
シキはイリアの唇に自分の人差し指を当てて、静かにするように促した。
「私たちは、嬉しかったんですよ。キキの存在を、あなたが認めてくれたことが。たったそれだけのことでも、嬉しかったんです」
そこまで馬鹿正直に言われると、なんだか落ち着かない。自分では、大層なことをしたつもりはなかった。
「復讐を遂げるには、キキの心は優しすぎる。だから、捨てようとしました。キキを私の妄想だと決めつけて」
彼女は、何を思って生きてきたのだろうか。自分を妄想に囚われた人間だと解釈して、ずっと一人で復讐だけを願って。少しでもその生き方以外の選択肢を見ることができたのなら、それほど良いことはない。
「これから、どうするつもりなんですか?」
「私にも分かりません。ただ、しばらくはキキと二人だけでいたい。もう、あなたに会うこともないでしょう」
意思のこもった力強い声に、こちらの心まで震えてしまう。シキの背中を押してはいけない。そんな気がしてならないのに、彼女の決意を覆せるほどの言葉も、イリアには見つからなかった。止めることも、後押しすることも、できないのだ。
「……」
「そんな顔をしないでください。この先に何が待ち構えていようとも、私たちは満足しています。それに、私たちは表裏一体。当然、自分の命を最優先に動きますよ」
シキはご丁寧にお辞儀をして、ゆっくりと顔を上げる。彼女が見せる柔らかな笑みは、確かにこの選択が正しかったのだと告げているようにも見えた。
「では、私たちはこれにて失礼いたします。あなたの力は、人によって発現の仕方に大きな差があるもの。ネームレスの統括者に、あの女神の皮を被った悪魔に近づいてはいけません」
ネームレスの統括者。その人について詳しく知りたい気持ちがあったものの、踏み込んでしまえば、シキたちの立場を危険に晒してしまうかもしれない。女神の皮を被った悪魔。仲間であるはずの人間にここまで言わせるその人物は、一体何者なのだろうか。
◇◇◇
彼女たちが光の中に消えていくのを見守って、イリアは平野の真ん中で小さく息をついた。風に揺れる草の音が聞こえる。視線を上に向けると、視界いっぱいに煌びやかな銀髪が映った。
箒から飛び降りたリズを支えようと手を伸ばしたのはいいものの、受け止めきれず、二人揃って芝生に倒れてしまう。
「大丈夫?」
「うん」
そう言いながらも、リズはその場から動く気配を見せない。背中をぽんぽんと優しく撫でると、頭をぐりぐりと胸元に押し付けてくる。
「やっぱり、ちょっとだけ痛いかもしれない」
「え」
「嘘だよ」
その言葉に胸を撫で下ろして、イリアは眩しい陽の光から目を逸らした。
「私が間違ってた。イリア君のためだって言い聞かせて、あれは命じゃないって無理に決めつけて」
リズが何を言っているのかは、話半分くらいしか分からない。けれど、キキとの関わり方に対して後悔の念があることだけは伝わってくる。
「リズが間違えても、僕がいる。だから、大丈夫だよ」
偉そうなことは言えないが、一人でいるよりも二人の方が心強い。それは、リズにとっても同じであってほしい。
「……生意気だね」
唇を尖らせて顔を顰めたものの、リズの声はいつも通りの明るさを取り戻していた。




