第四章第二話「まどろみ」
一睡もできなかった。考えられるいくつかの可能性が頭の中を巡り続ける。どうしようもないことであるのに、思考することをやめられないのはどうしてなのだろうか。いつの間にか、カーテンの隙間から朝日が顔を覗かせていた。
「ずっと暗いのは嫌だから、今日はみんなでお出かけに行こう!」
朝食を前にして、元気よくリズがそう口にする。眠い目を擦りながら、イリアはそんなリズと横に並んで目を輝かせるキキを見つめた。正直外出するような気分ではないが、気持ちを入れ替えるという意味ではいい息抜きになるかもしれない。
「どこに行くの?」
「着いてからのお楽しみ」
にんまりと何かを企んでいるかのような笑みを浮かべたリズは、バスケットを手にして出かける支度を始めた。一方イリアは、わざわざ準備するようなこともないため、玄関で気ままに待つことにする。
ふと、鏡が目に入った。随分と変わり映えしたものだ。細くて何もできそうになかった自分が、今では筋肉もついて少しばかり背も伸びた。見た目だけでいうなら、明らかに男らしくなっている。
「じゃあ行こっか」
リズに連れられて、三人で横に並んで歩いた。穏やかな風が短い髪を少しばかり揺らし、温かい陽の光がこちらを照らしてくれる。たった一日しか構築されていない関係のはずなのに、妙にしっくりくるのが不思議だ。キキの適応能力の高さというやつなのだろうか。
大樹のふもとで、リズがマットを敷き始める。そんな光景を、やけに冷静に俯瞰している自分がいた。
「今日はここでお昼ご飯を食べます」
そう宣言したリズは、マットの上にちょこんと座ってバスケットを開けた。見栄えのいいサンドウィッチが顔を覗かせる。美味しそうだ。それなのに、眠気がおさまらない。こういう落ち着いた場となると、先ほどまで大したこともなかった眠気がひどく身体を襲ってくる。
「じゃあ、いただきます」
三人とも手のひらを合わせて、仲良くサンドウィッチに手を伸ばす。ずっと張り詰めていた気持ちが、落ち着いていく。少しばかり、考えすぎていたのかもしれない。ずっと警戒して、周りを疑って。そんな生き方はイリアにはできない。ミラのように生きていくのは、自分には耐えきれないほど辛かった。
優しい味が、口の中いっぱいに広がっていく。お腹が膨らんでしまったからか、瞼が勝手に閉じてうとうとしてしまう。
しばらく目を瞑っていたのか、目を開くと、視界がずいぶん低くなっていた。頭が柔らかい感触で包まれている。再び目を閉じて、また開く。今の状況に気がついてはっと起きあがろうとすると、優しい手がイリアの頭を撫でた。
「たまには甘えたっていいんだよ。今日はおやすみ」
長い銀髪が少しばかりイリアの頬をくすぐった。イリアの胸の奥を温めてくれるような言葉を聞いて、再びうとうとし始める。そのままゆっくりと、夢の世界へと誘われた。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「そろそろいいんじゃない? 私はあなたとお話ししたいな」
黒縁眼鏡の奥から見えるガラス玉のような瞳が、鋭く目の前にいる少女を映し出す。大樹に背もたれて眠たそうにしていた彼女は、すっとその柔らかさを消した。冷たい、氷のような瞳。変化ひとつ見せそうにない硬い表情は、彼女としての在り方を体現しているようにも見える。
「タイミングが掴めませんね。あなたの考え方は、正直理解に苦しみます」
「確かにそうかもしれない。でもね、私がこの選択をした理由は三つある。一つ目。他の十一魔賢とあなたを接触させないため。二つ目。あなたよりも私の方が強いから。三つ目。少なくとも、キキちゃんは嘘をついてなかった。だから、泳がせてあげたんだよ」
イリアの頭を優しく撫でながら、リズはそう口にした。真後ろにいる彼女を、振り返るような仕草さえ見せない。
「あんまりこういうこと言いたくないんだけど、できれば殺したくないんだよね。あんなの見せちゃったら、イリア君の身体に毒だから」
「随分と下に見られているわけですか。やはり理解できません。私はあなたに力の一端も見せていないというのに」
リズの静かな瞳が、彼女の心臓を掴み取るように見つめる。互いに見つめあってからまだ数分も経っていないはずなのに、随分長いことそうしていたように感じられた。
「シキちゃんは、どうしてずっと怒ってるの?」
「想像力が豊かなのは結構ですが、過度な妄想は謹んだ方がよろしいかと。私を理解できるのは、私ただ一人だけ。それで十分です」
シキが立ち上がったと同時に、光のような速度でリズに強烈な蹴りが向かう。確実に避けきれない速さ。そのはずなのに、リズは最後まで平然とした様子でシキを見つめていた。
どうしてか、動きを寸前のところで止めてしまう。心の奥深くを覗かれているような瞳から、目が離せない。
「良かった、止まってくれて」
リズが柔らかな笑みを浮かべてみせると、シキはその場に腰掛ける。
「私が助けてあげる。その代わりに、イリア君の力について知ってることがあったら教えてほしい。どう?」
「……私を理解しているかのような口ぶり。いえ、実際に私の記憶を見られているということですか。厄介な瞳ですね」
「使ったのはだいぶ久しぶりだよ。それに、わざわざお願いしてるくらいだから分かるだろうけど不完全なの。その人にとって、一番鮮烈な記憶しか見れない」
シキは目を細めて、顔を膝に埋める。気持ちよさそうに眠るイリアの顔が視界に入った。
「それで手を打つのも悪くはありません。しかしながら、私には成さなければならないことがある。あなたの手を取ることは、組織を裏切ること。それは、死を意味しているも同然です。私は、まだ死ぬわけにはいかない」
感情の見えない冷たい声であるのに、それはまっすぐ伸びていた。迷いなく直線を描いているかのような、はっきりとした声だ。
「ですが、あなたが私の中にあるキキの人格をどうにかする方法を既に手にしているというのであれば、話は別です。私は一刻も早く、偽物のキキを捨てなければならない。それは目的を果たすために、必要なことですから」
シキの碧眼が、リズをじっと見つめる。リズは目を閉じて、膝下で眠っているイリアの頭を撫でる動きを止めた。
「少し時間はかかるかもしれないけど、知ってるよ」
リズがそう口にすると、眠っていたイリアがゆっくりと目を開いた。シキはかくりと頭を揺らす。その瞬間、先ほどまでの厳しい雰囲気がすっかり消え去った。
「……なんかあった?」
「ううん、何にもないよ。よく眠れた?」
「……うん。あのさ、リズは無理しないでね」
どう思って出てきた言葉なのかは分からない。自分がそんな顔をしていたのか、あるいはミラの行動を思い出してそう言ったのか。意味のない言葉である可能性だって、十分にある。
それなのに、胸の奥深くでひんやりと固まっていた氷が溶けていくような気がした。
「ありがと。じゃあ、そろそろ帰ろっか。キキちゃんは大丈夫?」
「失礼しました。眠ってしまっていたようなのですが、ご迷惑はおかけしませんでしたか?」
「うん、全然何にもなかったよ」
嘘は嫌いだ。それがどんなに優しい嘘だとしても、自分だったら知りたいと思ってしまうから。それでも私は、息をするように嘘をつく。そうしないと、キキを殺す勇気が出ないから。人を助けるために一つの人格を傷つけてもいいとは言えないけれど、それが誰かを助けるためなら、元からいない存在を見捨てなければいけないことだってあるだろう。
だからこれはきっと、間違っていない。




