第四章第一話「お姉ちゃん」
「予想外の事態が起きたことを受けて、私たちも体制を建て直さなければなりませんね」
ウェーブがかった白髪を揺らし、真っ白な修道服を身に纏ったボタンがそう呟いた。集まっている面々は一言も声を発さずに彼女に注目する。随分と人数が減った。ボタンの癪に触った人間はその場で首が飛んでしまうからだ。しかし、強大な力を有していた美食家が十一魔賢によって落とされたとなれば、焦りが出てくるのも無理はない。
「やはり、多数の人間が混在すると頭が悪くなってしまうのですね。あの子は食いしん坊でしたから、そこがよくありませんでした」
ボタンは、淡々とそう口にする。後悔も嘆きもない言葉。そこには、怒りさえ込められていない。恐ろしい……が、これほどの不気味さがなければネームレスを統括することなんてできなかっただろう。自分勝手に、力任せに動く人員を一つのグループにできたのは、彼女の力あってのことなのだ。
「まさか王国の聖女に取り込まれてしまうとは思いもしませんでした。頑張り屋さんなのは結構ですが、正直なところさほど魅力のない子だと思っていましたから。ミラの方は一度放っておきましょう。どうせ自ら近づいてきます。あなたは次こそ成果を出してくださいね。そうしなければ、あなたの願いは叶えられません」
ボタンの前にひざまづくゾラの頬には、冷たい汗が伝っている。──次。また、この手を汚さなければならないのか。分かっている。自分で決めた道だ。それなのに、手の震えが止まらない。
「私を助けてくれるのではないですか? あなたがいるから、私がこうして頑張れるのです。あなたが私を愛してくださる限り、私はあなたを愛しましょう」
ゾラの頬を優しく触るボタンの手は、温かい。不安な気持ちも何もかも忘れて、この世界にたった二人きりのような気持ちが胸いっぱいに広がっていく。愛している。だからこれはきっと、間違っていないのだ。
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ミラ・グレイスの処遇。そんなことで、もう何日も魔賢会談が開かれていた。聖女としての資格まで有しているミラを十一魔賢の座から下ろすのは、教会を敵に回すにも等しい浅はかな考えだ。それに、今まで有事には協力を得られていた教会の騎士団まで動かせなくなれば、あまりにも大きな痛手となるだろう。
それなのに延々とこんな話し合いが続いているのは、ミラの存在が本当にミラそのものなのかという大きな謎があるためだった。
「では、どうしたら私は信用してもらえるのでしょうか?」
エリザの横に腰掛けているミラは、ゆっくりとそう口にした。その通りだ。今まで成果を上げてきたミラが、今できることなんてこれからも頑張ることしかない。それさえも許されなくなってしまえば、それはもう話し合いではない。この魔賢会談が、ミラ・グレイスを潰すために仕組まれたショーの一環のように思えた。
ふと、ミラの警告の言葉が蘇る。既に敵に包囲されているやもしれない。その敵は、誰であってもおかしくはない。たとえ十一魔賢であっても、おかしくはなかった。
「あのさ、こんな話し合いに何日も時間使ってる方が無駄だと思うんだけど。ミラのことは一旦保留で良くない?」
リズが心底面倒くさそうな顔を浮かべると、周りは静まり返った。確かに、この状況で仲間同士が疑心暗鬼になっていても仕方のないことだ。リズの言葉があったからか、魔賢会談は一旦保留という形で締めくくられることになった。
ミラは、案外普通に聖女として動いている。銀髪の部分は、定期的に染め直すことで誤魔化しているらしい。
美食家のような衝動もないらしく、イリアからしてみればまさに力だけを手に入れた理想の形だった。羨ましいなんて言ってはいけないことは、もちろん分かっている。
「大丈夫?」
リズが気遣うように、こちらに視線を向けてきた。黒縁眼鏡の奥から、ガラス玉のような瞳がきらきらと輝いている。
「うん、大丈夫」
それにしても、聖女の力云々の話は、結局何だったのだろうか。ミラの口車に乗せられるだけ乗せられて、イリアの問題はほとんど解決していない。不信感も、恐怖も、怒りも、考えすぎないようにする。そんなことで、今も何とか耐えている。
数日前までは確かに緊張が走っていたはずなのに、今ではそんな面影一つ見えないくらい心の内は穏やかだった。それはそれでいいのかもしれない。ずっと緊張しているのは、少しばかり疲れる。
「ねえ、飲み物買ってこようと思うんだけど何がいい?」
「紅茶で」
「うん! ちゃんと待っててね。変な人について行っちゃダメだから」
そう言ってリズが席を離れると、一層静かな空気感があたりを支配した。
ふと横に目を向けてみる。黄赤の髪が印象的な女性が、顔を綻ばせながらパンを口に運んでいた。美味しそうだ。そんなことを思いながら、もう一度彼女に視線を向けた。切りっぱなしボブがよく似合っている彼女には、何だか見覚えがあるような気がするのだ。
「──あ」
──ネームレスの転移魔法使い。
彼女のその姿は、あの転移魔法使いと瓜二つだった。途端に身体に緊張が走る。
どうする?
好戦的ではないようなイメージが勝手にイリアの中に巣食っているが、それも気が変わったなどと言われれば意味を失う。焦りで心臓がどくんどくんと鼓動する。落ち着け。こんなことで暗闇を制御できなくなったら元も子もない。
再び彼女に目を向けると、いつの間にか席を離れてイリアのすぐそばに立っていた。
「……あの」
こちらを覗き込むように、彼女が腰を曲げた。艶のある柔らかなボブが揺れて、少しばかり顔にかかる。
「お姉ちゃんの、知り合いの方ですか?」
お姉ちゃん。そんな単語が、イリアの胸の奥に強く刻まれた。何と答えればいいのだろう。答えに悩んでいると、リズが戻ってくる。目を丸くして、イリアと彼女を交互に見た。
「知ってる子? 一緒に食べる?」
飲み物を両手に。腕に紙袋を抱えたリズが、切りっぱなしボブの彼女に声をかけた。そうか。リズは、彼女の容姿を見たことがなかったのだった。
断片的な特徴は教えていた。それでも、実際に会ったイリアですらすぐに気づけなかったのだから、雰囲気がそれほど違うのだろう。
そもそも、別人なのかもしれない。
「え、何で黙ってるの? とりあえず座りなよ。ほら、これあげる」
リズが飲み物をベンチに置いて袋から焼きたてのマフィンを取り出すと、彼女は目を輝かせてそれを受け取った。先ほどもさぞ美味しそうにパンを頬張っていたし、食べることが好きなのかもしれない。
「名前は?」
「キキと申します。お兄さんには少しばかり見覚えがあったので、お姉ちゃん──シキが知っている方なのかと思ったのですが」
リズがイリアにどうなのかと尋ねるような視線を向けた。
「えっと……どうだろう。分からないから、きっと通りすがっただけとかじゃないかな」
「そうですか。それは失礼いたしました。私はお姉ちゃんのように記憶力が良くないので」
随分とご丁寧な口調だ。しかしながら、やはり容姿はイリアが以前対面した転移魔法使いそのものと変わらない。ただのそっくりさんという言葉で片付けるには、あまりにも似すぎている。
「……その、お姉ちゃんってどんな人なの?」
「私のことを世界で一番大切にしてくれるとってもカッコいい人です。魔法が上手で、頭も良くて、優しくて。私はそんなお姉ちゃんが大好きなんです」
自慢げに「お姉ちゃん」について語るキキの瞳は、きらきらと輝いている。人違いだと思いたい。
しかし、キキのイリアに見覚えがあるという発言は正直気になる。こんなに純粋な瞳で語る彼女が、ネームレスと関係しているとも思えないのだが。
「キキちゃんのお姉ちゃんはどこにいるの?」
「私とお姉ちゃんはいつも一緒にいますよ。お姉ちゃんはたまにしか出てきてくれませんが、キキはシキでシキはキキですから」
いつだっただろうか。医学書で、一人の人間の中に別の人格が現れる症例について読んだことがある。仮にキキの言うお姉ちゃんがネームレスの人間なら、今は捕える絶好のチャンスなのではないだろうか。
心臓が激しく鼓動し、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
「ねえ、リズ。この人さ……」
言ってしまえばいい。
あくまで可能性の話だとしても、それが目の前にあるなら動くべきだ。それなのに、純粋無垢なキキの瞳を見ているとそんな気持ちが薄まっていく。
「どうしたの?」
「……ごめん、何言おうとしたのか忘れちゃった」
彼女にも何か理由があるのかもしれない。何がしたいのか分からないが、イリアにはそれをリズに伝える覚悟ができなかった。
リズは黙り込んで、美味しそうにマフィンを頬張るキキをじっと見つめる。何かを考えているようだったが、何も言わずに飲み物に口をつけ始めた。
一見イリアの言葉を飲み込んでくれたようにも見えるが、きっとそうではない。リズ自身も、イリアが伝えようとしたことに気づいているようだ。
「お兄さんたちは、やっぱりシキのことを知っていますよね? それも、私が知らない何かを」
イリアを見つめるキキの深い青みがかった瞳は、やけに冷たく鋭い。イリアが硬直していると、なんてことないような様子でリズがキキの頬を人差し指でぷにっと押した。
「そんな怖い顔したらダメでしょ? イリア君、驚いちゃってるから」
随分と可愛らしく言い換えられてはいるが、リズのおかげかキキはすぐさま先ほどのように柔らかい様子に戻る。
「大変失礼しました。私も、ちょっとは分かっているんです。お姉ちゃんが褒められたことではないことに関係していることも。それが、私のためだと言うことも……」
一体何があったのだろうか。事情は分からないが、何かが関係しているのは一目瞭然だった。リズは立ち上がると、キキの方に向かって手を差し伸べる。妙なことが始まるような予感は既にしていた。
「うちに来なよ。お姉ちゃんが変なことしないように、私が止めてあげる。どう?」
やはりそう来たか。イリアとしてもそうできたらいいとは思っていたものの、仮にも十一魔賢の中で指名手配のような扱いを受けているネームレスとこうして呑気に会話を交わしている時点で職務放棄に近い。
リズの立場をこれ以上危うくするわけにはいかないだろう。ここは止めに入らなければならないところだ。
「大丈夫だよ。こんな街中に置いておくほうが危ないでしょ」
イリアが口を開くより先に、リズがそう付け加えた。相変わらず無理やりな言い分だ。しかし、理にはかなっている。このままネームレスかもしれない人間を放置しておくよりはずっといい。
それに、イリアだってリズのこういうところに何度も助けられてきたし、リズのこういうところが好きだった。
仕方ない。リズがやると決めたことを止めさせるのは、きっと至難の業だろう。
「その……私は世間知らずなので、きっとたくさんご迷惑をおかけしてしまうと思います」
「いいよ。賑やかなほうが楽しいしさ」
リズの家についてからというもの、キキはそわそわとした様子で椅子にちょこんと腰掛けていた。人が増えると、イリアとしてもなんだか落ち着かない。
リズがホットミルクを机に置いて、イリアの横に座ってくる。
「……一応聞いておくけど、この子って前にイリア君が言ってた転移魔法使いの人?」
「多分」
二人でこそこそと話していると、キキは気まずそうな様子でこちらを窺うように見ていた。何か話したいことがあるようで、もじもじと手を動かしている。
「あの。お願いしたいことがあるのですが」
リズとイリアが一斉に視線を向けると、キキは身体をこわばらせた。
「……私は、お姉ちゃんが作り出したキキに過ぎません。本物のキキは、もうきっとこの世にいない。お姉ちゃんが大好きで、お姉ちゃんも私が大好きで。だから、私はお姉ちゃんにこれ以上私のせいで傷ついてほしくないんです。キキがいなくなれるように、お手伝いしてくれませんか?」
無理に作ったような優しい笑顔は、イリアの胸の奥をぐさりと突き刺した。




