第三章第九話「シリウス・グレイス」
◆グロテスクな描写が含まれます◆
お食事前や、直後は読むことを非推奨とさせていただきます。よろしくお願いいたします。
覆い被さるように倒れた彼女の身体は、やけに重かった。しだいに熱が引いていくその身体から無理やり抜け出すと、心臓が激しく鼓動し、いつまでも収まらない。
──死んだ?
これまでにない好機だ。彼女を食すれば、下半身がつながるかもしれない。そうすれば、これからだって欲望に塗れて美食を追い求められる。それを望んでここに訪れたはずだった。
何のために。
何のために、美食家になったのだろうか。記憶を辿ろうとしても、ぐちゃぐちゃで整理できない。口の中に広がる甘ったるい血の味と目の前に倒れている身体に、その思考はさらに乱される。
「……ミラ。嫌だ。行かないで」
青髪を結び、悠々とした視線を向けてくる男性を前に、シリウスは遠くなっていく意識を掻き集めようとした。
「何だ。今さら思い出したのかい。一応言っておくけれど、ミラには規約違反があった。だから、これは単なる制裁だ」
そんな声を無視して、シリウスはミラの身体に手を伸ばした。淡い光が、ミラの身体を包み込んでいく。まだ間に合うかもしれない。そんな希望を込めて、もう何年も使っていない神聖魔法を使った。
◇◇◇
人に優しくするのは当たり前のことだった。自分が大好きな人たちを大切にしたいと思うのは、おかしなことではない。周りの人に恵まれて育ったシリウスは、確かに清らかな心を持っていた。
兄弟三人と母親、祖父母の七人暮らし。シリウスが幼い頃に父親が他界してしまったこともあり、シリウスは皆を支える柱になることに決めた。
聖女になりたかったのは、弱者が平穏に過ごせる帝国を作るためだ。同情ではない。ただ、その方がいいと思ったから願った。
王国に来てから数日も経たない頃に、ミラに出会った。生き方を知らない子供。周りに恵まれていたシリウスにとって、それは初めて面と向かって見た自分の知らない生き物だった。
初めの頃はそれこそ面倒を見てみようくらいの気持ちで、そこまで入れ込むつもりではなかったはずだ。
「……シリウス。また、あのお話をしてください」
「いいよ」
いつしか、ミラはシリウスの夢を一緒に追ってくれる、いなくてはならない存在へと変わっていた。何度も何度もシリウスの夢物語を聞いては、瞳を輝かせるのだ。
この世界で一番互いを理解していたと思う。それほどまでに、ミラとシリウスの距離は近づいていた。
「シリウス。次はいつ頃来れるのですか?」
寂し気な瞳を向けられてしまうと、ずっとここに留まっていたくなってしまう。
優しくミラを抱きしめると、ミラはシリウスの頭を撫でてくる。本当は、寂しいのはずっと自分の方だったのかもしれない。当時は、そんなこと考えもしなかった。
国王陛下から推薦の話を聞いた時は、胸が高鳴った。ようやく、夢に近づける。しかし、ミラを置いていかなければならないことは心苦しかった。大丈夫。あともう少しの辛抱だ。
そう言い聞かせて、シリウスはしばらく会えない旨をミラに告げた。もう、二度とシリウスとして彼女のそばにいられないなんて、思ってもみなかったのだ。
長テーブルに並んで腰掛けると、身体に緊張が走った。最終的に残るのは実力者だけということもあって、集まった面々はなかなか個性的だ。
「あ、あの……。もしかして、シリウス様ですか?」
おどおどした様子で、偶然にも隣の席に座っていた修道女が声をかけてきた。癖のある藍色の髪は肩くらいの長さで、雰囲気に似合わず大人っぽい顔のパーツが印象的だ。
「はい、僕がシリウスです。あなたは?」
「ひゃいっ、えっ、えっと……。私は、サクリと申します。シリウス様のお話は常々伺っておりまして……その。よろしければ、イスレン王国での生活を色々と教えていただきたいのです」
一応ライバルのはずなのだが、サクリからは純粋な興味と探究心が感じられる。聖戦とは言えど、少しばかりのんびりしたい気持ちがシリウスにもあった。彼女との会話は、いい息抜きになるかもしれない。
「いいですよ。僕の話で良ければいくらでも」
サクリは目を輝かせて嬉しそうな笑みを浮かべた。それにしても、サクリが自分と似たような夢を追っているとは。それを知った時は、胸がいっぱいになった。
「シリウス様は、思っていたよりも可愛らしい方なのですね」
「僕が? そんなことないと思うけど」
「いえ、シリウス様は可愛いですよ。いつもミラがなんとか、ミラはあの時って、ミラ様のお話ばかりではないですか。シリウス様のおかげで、私までミラ様マスターになってしまいました」
気恥ずかしい思いで、シリウスは唇を尖らせる。言葉を交わす中で、容姿が少しばかりミラに似ている彼女といつの間にか親しくなっていた。
──そんな日々はあっという間に流れていく。
「皆さん、食事にしましょうか」
長テーブルの真ん中に腰掛けるのは、大聖女と呼ばれる各国聖女の統括役。ダリア様に最も近いお方と言われているボタンという女性だ。
この世の者とは思えないウェーブがかった白髪に色のない瞳。
何を考えているのか全く分からないところが、シリウスには少し怖かった。
「あの、シリウス様。今日の夕食の味、少しおかしくありませんでしたか?」
「そうだったっけ? サクリがそう言うなら、調味料でも変えたのかな。食いしん坊が言うと説得力があるね」
「もうっ! 美味しくなかったから言ってるんです!」
頬を膨らませるサクリを前にして、シリウスは顔を綻ばせた。しかし、サクリがそこまで言うほどだっただろうか。正直なところ、シリウスにはその変化が全く分からなかった。
いつも通り部屋に戻ってベッドに横になる。今日はやけに寝つきが悪い。それでも、しばらくするとしだいに意識も遠のいていった。
目が覚める。窓から差し込む光があまりにも眩しい。頭がじんじんと痛んだ。服を見てみると、汗で身体にぴったりと張り付いていた。
風邪だろうか。そう思って自分に神聖魔法をかけてみたはいいものの、治る気配はない。
修道服に袖を通し、シリウスは廊下を壁伝いに歩いていった。体調が悪いあまり魔法が上手く使えないのかもしれない。申し訳ないが、サクリに治してもらおう。
彼女の部屋の扉を二回ノックした。返事がない。一縷の望みにかけて、シリウスは扉を引いてみた。
「……シリ、ス」
ベッドの上が鮮烈な赤色で染められていた。虚な瞳をこちらに向けて手を伸ばしてくるサクリが目に入る。少し言葉を呟いただけで、口元から血反吐を吐き散らした。
すぐさま駆け寄ってサクリに神聖魔法をかけたはいいものの、治る気配は全くない。
「なっ、何で……今すぐ他の人に見せにいかないと」
サクリを担ぎ上げようとしたが、身体に力が入らない。身体の至る所に飛び散った血は、妙に甘い香りを放っていた。
「……ごめ……さい」
気がついた時には、腕の中にいたはずのサクリがいなくなっていた。先ほどまでシリウスを悩ませていた頭痛もどこかに行ってしまっている。
どこに。
部屋の中を探し回っていると、ふと大鏡が目に入った。焦っていたからか、ヴェールを被り忘れている。それだけではない。口の中が妙な満足感で満たされていた。血だらけの指を口元に入れて違和感を掻き出そうとすると、糸のようなものが出てくる。
藍色の美しい糸だ。しばらくそれを眺めて、再び鏡を見た。自分はこんな顔だっただろうか。妖美な雰囲気のある目元から下へと視線を移動させる。
口元が、血で染まっていた。
「──は?」
思わず、その場で尻もちをついた。口の中に残る甘ったるい感覚。その正体に気づき、腹部から何かが込み上げてくる。吐き出したいのに、喉元につっかえて出てこない。それは、今まで食べたどんな食べ物よりもシリウスの心を満たした。
「おや、まさか適性者が現れるとは」
声がした方向へ目を動かすと、服も相まってやたら白いボタンがシリウスをじっと見つめていた。
「素晴らしい才能ですね。帝国の聖女はあなたにしましょう」
柔らかな笑みを浮かべた彼女は、膝を曲げて興味津々そうな瞳を向けてくる。
「どうして話さないのですか? 教えてください」
「……僕には、あなたが何を言っているのか分からない」
そう言って、シリウスは後ろに下がろうとした。しかし、ベッドにぶつかってこれ以上下がれない。
「恐れているのですね。大丈夫。世界中の皆様があなたを咎めても、私があなたを許しましょう。愚かなまま、愛してあげます」
血まみれのシリウスの口を、真っ白なハンカチで拭いながらボタンはそう口にした。
頬に冷や汗が伝う。ここにいてはいけないと、全身の感覚器官が警報を鳴らしていた。
逃げて。喰らって。
逃げて。喰らって。
逃げて。喰らって。
そんなことを繰り返すうちに、いつの間にかイスレン王国に辿り着いていたのだ。至高の食材、ミラ・グレイスを求めて。
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ミラだけは傷つけたくない。この世界でたった一人の特別。シリウスは、強く強く願った。
どんな形でもいい。それをミラが望んでいなかったとしても、いつかきっと心から笑える日は来るはずだ。自分がいない世界でも、ミラには笑っていてほしい。
暗闇が、ミラとシリウスを諸共に飲み込んだ。シリウスの全てをミラに与える。それは、全ての重荷を背負わせる行為でもある。
ミラが悲しむかもしれない。苦しむかもしれない。死にたいと思ってしまうかもしれない。
それでも、生きていてほしいと思ってはダメだろうか。
ミラはもう一人じゃない。いつまで経っても、シリウスがミラの胸の内を独占してはいけないのだろう。きっと、この共依存はよくないものだったのだ。できることなら、全て忘れてほしいと思えるほどには。
「ミラ。愛してる」
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ゆっくりと目を開いた。身体が羽のように軽い。目の前で、ゾラがあり得ないものを見るかのような表情を浮かべた。
「ちなみに、私はどのような規約に引っかかったのでしょうか?」
「……件の魔法書を勝手に持ち出しただろう」
「それだけですか? あの魔法書が一度きりしか使えないものであることは既に周知の事実だったはずです。私は、類似品を探すためにあくまで一度お借りしただけですよ」
床に手をつけず、バレエのステップを踏むようにゆったりと起き上がったミラを、ゾラはじっと見つめていた。
人間なのかもはや怪しいのは、自分でもなんとなく分かる。殺しかけたはずの美食家の死体は、綺麗さっぱりなくなっていた。
「まあ、それは一旦なかったことにして差し上げます。私がどうなっているのか説明していただけますか?」
「……美食家を取り込んだ。髪に銀髪のメッシュが入っている」
ミラは、自らの長髪を手に取って今の状況を少しずつ理解していった。
「どうしますか? あなたが何を企んでいるのかは知りませんが、正直今の私にはあなたなんて心底どうでもいいです。ゾラさんがどうしても私を殺したいのであれば、お相手しますが」
「いや。生憎、僕は早死したくないものでね。今の君は未知すぎるあまり、勝てる算段が見つからない」
先ほどとは随分と態度を一変させたゾラを見て、ミラは内心で笑いが込み上げてきた。凡人だと嘲笑っていた奴が今更何を言うのか。
「分かりました。ではお帰りください。そろそろリズさんたちがいらっしゃる頃でしょうから」
見逃すわけではない。彼は、明確な敵意を持ってミラに牙を剥いてきたのだ。動き出すなら、もう少し様子を見てからが妥当だろう。
ゾラがその場を後にするのを見送って、ミラは身体を伸ばした。
「あなたという人は。とんでもないものを残していきましたね」
頭の中にあるもう一つの記憶には、シリウスが実際に見てきた聖戦の闇がくっきり残っていたのだ。大聖女がその力に強く関係していることも分かった。
手のひらをじっと見てみる。まさに奇跡のような状況だ。人間を喰らう美食家だからこそできたことなのかもしれない。ある意味、今もミラの中で美食家は生きているのだから。
「あなたがそう思ってくださるなら、私はもういい子でいるのをやめます。いつまでも背中を追いかけていては、大人になれませんからね」
虚空に向かって発した言葉は、確かにシリウスのもとに届いているような気がした。
「……シリウス。私も、あなたを愛していましたよ」
胸の内でずっとつっかえていた何かが、すっと解けた。




