第三章第七話「親友」
リズは、ティーカップを口に運んで深いため息をついた。その表情は、ひどく疲れているように見える。机を挟んで向かい合うようにソファーに座ったものの、なかなか話が進まない。
「……それで。イリア君は、私がそのシリウスって人に代わってミラを支えた方がいいと思う?」
「……よく分からないけど、リズさんが誰かの代わりになろうとするのは良くないんじゃないかな。そもそも、それだってミラさんのためにならないし」
イリアが惚けている間に、リズはなかなか大きな問題を背負い込んでいたらしい。イリアだってもちろん知らないミラの秘密の根幹。
その深い心の暗さは、少し覗こうとするだけでも悍ましさを感じさせる。
「そうだよね、ミラのためにならない……。ミラってあんまり詳しくは話してくれないからさ。話したくないことは別に言ってくれなくていいんだけど、あまりにも分からないと困るなぁ」
天井を見上げたリズは、顔を歪めた。目を閉じて、そのまましばらく動かない。
「美食家は私が殺す。本当はイリア君にその力は使ってほしくないんだけど、協力して」
「それは、もちろん……。でも、僕なんて大した戦力にはならないと思う。王城でも、美食家の動きは速すぎて追えなかったし」
「そんなことないよ。よく分からないけど、ネームレスはイリア君を仲間に引き入れたいんでしょ? だったら、美食家はイリア君に手を出しにくいんじゃないかな。あくまでその可能性が高いって話で、絶対ではないけど」
言われてみれば、確かにそうだ。スミやゲイルとかいう人間はそんなことお構いなしだったが、転移ゲートを用いるあの女性はそんなことを言っていた。
美食家の人間性が破綻しているのはともかくとして、王城で対面した時だって明確な殺意は感じ取れなかった記憶がある。もし、彼らがそう簡単にはイリアに手を出せないとすれば……。
それは、かなり利用できるのではないだろうか。向こうが手を出しにくいのなら、少なくとも今までよりは戦いやすいはずだ。
「……その。リズさんは、そういうことできるの? 僕には、ミラよりもリズさんの方ができない気がするんだけど」
「できるよ。イリア君は知らないと思うけど、十一魔賢の中で一番人を殺してるのって多分私だし」
イリアは、言葉を失った。たとえそうだとしても、イリアはリズにそんなことしてほしくない。眩しい星が穢れてしまう瞬間を、目の当たりにしたくなかった。それだけではない。
単純に、きっとリズだってそんなことしたいわけがないと思うのだ。彼女が望んでいないことを、みすみす見過ごすわけにはいかない。
「僕、頑張るね。リズさんに無理させなくても済むように」
「……別に、そんなこと。でもまあ、ありがと」
リズは膝を曲げて、顔を埋めた。少ししてから顔を上げると、じーっとイリアに不審な視線を向ける。
「私も呼び捨てでいいんだけど。なんか、ミラは呼び捨てで私はさん付けってすごくおかしくない? 私の方が早く仲良くなったのに」
不機嫌そうに頬を膨らませるリズを前にして、イリアは頭を掻いた。リズを呼び捨てにするのは、何だか気恥ずかしい。
そういえば、騎士道で学んだことはどこに行ってしまったのだろうか。今思えば、あんなこと恥ずかしすぎて、もうしばらくはできない気がする。
「ねえ、聞いてる?」
「えっ、うん。聞いてるよ」
「呼んで」
「……リズ」
半ば無理やり言わされた感はあるものの、リズはその言葉を聞いて満足そうな笑みを浮かべた。立ち上がってイリアの横に腰掛けると、肩にもたれかけてくる。
花が咲いたような甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
「離れなくていいの? ミラからお願いされたんでしょ?」
「……うん。でも、何でそんなお願い聞いてたのか分からない」
「私とミラ、どっちの方が好き?」
「そっ、それはさすがに……答えられないよ」
イリアが慌てふためいていると、リズはその状況を楽しんでいるようだった。
──やはり、悪い女だ。
リズは時折こういうふうに揶揄ってくることがあるから、なかなか気が抜けない。そういった意味では、一番厄介な相手だとも言える。
「言わなくても分かってるから大丈夫だよ」
耳元でそう囁かれ、イリアはその場から飛び跳ねそうになった。耳元からじわじわと顔が熱くなっていく。
何も大丈夫ではない。ミラのことでいっぱいだったはずの胸の奥が、いつの間にか塗り替えられていた。
「驚きすぎでしょ」
涙を拭いながら笑うリズを見て、恥ずかしさで顔がさらに熱を帯びていく。揶揄われていることに耐えられなくなり立ち上がろうとすると、リズが腕を引いてきた。
「ごめんごめん。もうちょっとだけそばにいてよ」
イリアが再びソファに腰掛けると、リズは眼鏡を机に置いて、ゆっくりと革靴を脱いだ。スカートを押さえながら横になる。太ももの上に、リズの端正な顔が乗っかった。
イリアの手を取って自身の頭の上に置かせると、心地良さそうに目を瞑る。
「私、ちゃんとやれてるかな」
「うん」
「これからも、ちゃんとできるかな」
「できるよ」
イリアは、優しくリズの頭を撫でた。艶のある髪は、指通りがいい。
恥ずかしそうに笑うリズの顔を見て、胸が温かくなっていく。
彼女が寝返りを打つと、イリアの腹部に顔を押し付けて抱きしめてきた。
「今度からは、他の人を気安く信用しちゃダメだよ。私に冷たくするのも禁止。分かった?」
「……分かった」
リズは、しばらくその姿勢でいた。穏やかな呼吸音を聞いていると、しだいに眠たくなってくる。いつの間にか、重い瞼が閉じようとしていた。
「イリア君、寝ちゃった?」
リズがゆっくりと寝返りを打って元の姿勢に戻ると、手を差し伸べてイリアの頬に触れた。
柔らかな手が頬から唇へと流れていく。
「好き……か。どうしたら、分かるんだろう」
ソファが、少し沈むような感覚があった。温かな息が、頬をくすぐる。目を開いてみると、リズの顔がすぐそばにあった。
「あ」
イリアが呆然としていると、リズは何事もなかったかのように起き上がって眼鏡をかけた。革靴を履き、立ち上がってこちらを向く。
「じゃあ、また明日ね」
「えっ、うん……」
リズが部屋の扉を開けて出ていくのを見守った後、イリアは自らの唇に触れてみた。
何もしていないはずだ。
少しばかり寝ぼけていたこともあって、確証がなかった。しかし、何かが唇に触れたような感覚はない。そう思うと、変に高鳴っていた心拍もしだいに落ち着いてくる。
そうだ。リズにも危ういところがあることを、完全に忘れていた。やはり頼ってばかりではダメだ。
リズだって、自分と何ら変わらない一人の人間なのだから。
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「何? 待ち伏せしてたの?」
「人聞きが悪いですね。健気にあなたを待っていたというのに」
リズが部屋を出てから歩いていると、壁際に背をつけてミラが立っていた。憂いを帯びた表情は、今にも消えてしまいそうに見える。
「何かありましたか? 顔が赤いですよ」
「……何でもない。そんなことより、何の用?」
「用がないと会ってはいけないのですか?」
おとぼけて首を傾げるミラを前に、リズは浅いため息をついた。ミラに連れられて彼女の部屋に入ると、半開きの窓から涼しげな風が入り込んでくる。
「……好きって、どういう気持ちなの?」
ベッドに腰を下ろして、リズは小さく口を開いた。ミラは目を見開くと、柔らかな笑みを浮かべて横に腰掛けてくる。
「そうですね。一緒にいると嬉しくて、胸がいっぱいになって。その人が離れていってしまうと思うと悲しくて、苦しくなるような気持ちでしょうか。もちろん、人によって好きの形は違うものですが」
「……じゃあ、やっぱり私ってほとんどみんなのことが好きじゃん」
「そのお答えも大変可愛らしいのですが、そういうことではないのですよ」
ミラは軽やかに笑うと、優しい瞳をリズに向けて頭を撫でた。
子供扱いされていることに唇を尖らせると、肩にもたれかかってくる。
「無理して背伸びしようとしなくても、リズさんにだっていずれ分かります。そういうものですから」
「ふーん」
リズはミラの瞳をじっと見つめた。褐色の瞳はゆらゆらと揺れている。
「ミラって、聖女の癖に嘘つきだよね」
「そうですか? 私なりに真摯に答えたつもりだったのですが」
「だってミラって、実のところそんなに私のこと好きじゃないでしょ? 何で自分を騙そうとするの?」
ミラはぴたりと固まった。ベッドに横になると、リズにもそうするように促してくる。
「それは言葉の綾というものです。私はリズさんのことが好きですよ。友人として。お分かりいただけますか?」
「その、人によって好きの形が違うっていうのがよく分からないんだけど」
「そうですね。では、リズさんはその……ほとんどの方とキスできるということでしょうか?」
「できるわけないじゃん」
そんな当たり前のこと、聞かれるまでもないだろう。リズがミラに不審な視線を向けると、彼女は満足そうに微笑んだ。
「では、あくまで一つの指標として。キスしたいと思えるような相手は、リズさんにとってきっと特別な方なのだと思います。どうですか?」
「したい……か。確かめるためにしたらダメなの?」
「違ったらどうするのですか?」
ごもっともな意見に、リズは口を閉ざした。そんな相手、いるだろうか。永遠に出会えない気さえする。
「ミラにとっての指標って何?」
「そうですね……リズさんにアドバイスをしておきながら恐縮ですが、分からないのです。ただ、ずっと一緒にいたいと思える相手は大切にしたいですね」
その答えを聞いて、余計に分からなくなってしまった。やはり、リズにはまだ難しいらしい。こんなこと、聞かなければよかった。
「まさか、リズさんとこんな話をするとは思いませんでした。私のことが大嫌いなのではないですか?」
「まあ、私って結構気分屋だし。終わりよければ全ていいって言うか、ミラのことが嫌いな方が面倒くさそうだったから嫌いになるのをやめたって感じかな」
めちゃくちゃで都合のいい考え方なのは自分でも分かっているが、ミラは嬉しそうにリズに抱きついてきた。藍色の髪が肌に触れてくすぐったい。
「では、私たちは親友ということで」
「……あんまり調子に乗らないでよ」
怒ったような口を利いてはいるものの、リズの心はひどく穏やかだ。
尚のこと、彼女に幸せでいてほしいと思う気持ちは強くなっていった。




