第三章第六話「第二のシリウス」
「ミラ様、大丈夫か?」
「何がですか?」
パン屋の前で、ミラが店員と話している。イリアは、そんな様子をじっと見つめていた。ぼーっとしていると、横からリズが頬をつねってくる。
「しっかりして」
「……ごめん」
あれから、リズと少し気まずくなってしまった。
胸の内に這い寄る違和感は、イリアにだって分かっている。きっと、リズが怒っているのは今のイリアが何かおかしいからなのだろう。
しかし、何がおかしいのか自分でもよく分からなかった。違和感はあっても、考えようとするとそこまで思考が追いつかない。
「はい、イリアさん。あーん」
ミラがイリアの口にパンを押し込んできた。思いのほか力強く押し込まれたこともあり、むせそうになる。
そんな様子を見てリズが顔を歪めていると、ミラはリズの口元にもパンを添えた。明らかにイリアの口に押し込んだ時よりも思いやりがある。
「そんなお顔はリズさんに似合いませんよ。ほら、笑ってください」
「誰のせいでこうなってるか分かってる? 都合の悪いことは全部忘れるようにできてるのか疑うレベルなんだけど」
「もちろん覚えています。ですから、このように取り戻そうと努力しているわけです」
ミラが柔らかな笑みを浮かべたが、リズは不機嫌そうな様子でパンを頬張った。
「笑う人の元にしか、幸せは訪れませんよ」
ミラのその言葉を聞いて、イリアは目を見開いた。懐かしい言葉だ。昔、母親がよくイリアに言ってくれた言葉。
イリアが具合が悪い時、薬を買いに行くと言って出かけてから戻ってこなかった母親。村の人は、きっと熊にでも襲われたのだろうと話していた。そんなことが、ふと思い起こされる。
「どうかしましたか?」
「いえ、昔母親がよく言ってくれた言葉に似ていたので」
「……そうですか」
ミラは、きまり悪そうに視線を泳がせた。
リズはそっぽを向いて頬を膨らましている。
「リズさん、二人でお話しましょうか。いつまでもあなたにそのようにされていては、私も動きにくいので」
「……分かった。変な言い訳はしないよね?」
「もちろんです」
ミラが晴れやかな笑みを浮かべると、リズは立ち上がってイリアの顔をじっと見つめた。
「じゃあ、イリア君はここで待ってて」
取り残されてしまったイリアは、わけが分からないまま昔の記憶に浸ることにした。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
路地裏に入ったところでミラは足を止めた。振り返った彼女の瞳は、深く沈んでいるように見える。
「で、どんな話をしてくれるの?」
「……では、私がいかにあなたを想っているかという話からしても構いませんか?」
ミラはリズを壁に押し倒すと、手に指を絡ませて顔を近づけた。今にでも唇同士がくっついてしまいそうな勢いに、リズは押し黙る。呼吸音がやけに近く聞こえた。肌に触れる温かな息は、ミラの緊張のようなものを感じさせる。
「……私は、リズさんに愛する人の影を重ねているのです。初めて会った時、その姿を見て、在り方を知って、確信しました。あなたは、シリウスだと」
「ちょ、ちょっと待って。本当に意味が分からないんだけど。その、ミラには悪いけど。私は私で……それ以外の何者でもないよ」
少しキツイ言い方だったかもしれないが、リズはミラの危うさの根源に触れたような手応えがあった。このままにしてはいけない。そんな気がするのだ。
「分かっています。あなたはリズさんです。ですが、私にとってあなたがシリウスのような存在であることは変わりません。この胸の高鳴りが、締め付けられるような気持ちが、あなたをシリウスだと言っているのです」
縋るようにリズを抱きしめてくるミラの心臓は、確かに高鳴っていた。
その姿は、一人の人間に依存することでしか生きられない子供のように見える。リズは、優しく彼女の背中を摩った。
この選択は、きっと正しくない。リズはリズでなければならない。他の何者かを演じてしまうなんて、ミラのためになるわけがないのに。
「ミラ。どうして今の状況を作ったの?」
「……そうですね。私の嫉妬が少しと、あなたが私の跡を追ってくださることを願っての行動です。偽物でしかない私よりも、本物であるあなたの方が聖女になるべきだと思います。私が死んだら、リズさんは悲しんでくださりますか?」
「……」
イかれている。考え方から何もかもが、リズには到底理解できないものだった。
ミラ・グレイスという人間の醜い中身を見せつけられたかのような感覚が、身体から離れない。初めて、手を差し伸べる勇気が出なかった。彼女を助けることはできない。
ミラは、とっくの昔に壊れてしまっている。
目の前にまだ命はある。温かい。生きている。彼女のそばにいられる存在にならなくては。また、昔と同じ轍を踏むことになってしまう。
「……絶対に悲しまない。ミラの跡も追わない。誰にだって、代わりなんていないよ。ミラは誰の代わりでもないし、偽物でもない。この世界に、このミラ・グレイスはたった一人しかいないんだから」
「……生意気ですね」
ミラはゆっくりとリズから腕を離した。柔らかな笑みは、以前よりすっきりして見える。
「シリウスに似ているからという理由で気に入っていましたが、そんなことを言われてしまってはリズさん自身にときめいてしまうものがありますね」
「よく言うよ。ミラにはあんまり好かれたくないな。面倒くさそうだし」
「そうですか? リズさんに愛してもらえるように頑張りますね」
そう言って、ミラは手を差し伸べてきた。浅いため息をついて仕方なくその手を取ると、路地裏から抜け出す。
もちろん、イリアを見ておくことがリズの中での最優先事項だ。しかしながら、あれほどの危うさを見せつけられておいて、ミラを放っておくわけにもいかない。
「近いうちに美食家と対面します。彼女と王城で対面した時、ちょうど食事をした後のような雰囲気がありました。ですから、そろそろ再びその周期が巡ってくることでしょう」
「何でそんなこと分かるの?」
「彼女の中から星がしだいになくなっているからです」
リズは、頭を悩ませた。ミラの言っていることは、おそらくミラ自身にしか分からないことだ。それを信用するにしても、あれほどまでの回復力を持つ美食家をどうこうするのは至難の業のように思える。
「暗闇も万能ではありません。神聖魔法や回復魔法と同じく、治せる傷には限りがあります。ですから、死ぬまで殺し続ければいいわけです」
「その、よく分からないんだけどさ。それは、ミラにできるの? ミラは、人を殺したことなんてないでしょ?」
「……できますよ。これは、救済ですから」
──救済。
体のいい言葉だ。実際に相手を目の前にすれば、きっと躊躇う。自身を偽物だと称していても、ミラは聖女なのだ。今までのミラを見てきたリズには、彼女が人を殺せるようには思えなかった。
だからこそ、今ここにいる自分が何とかしなくては。ミラ・グレイスという人間を助けるために、リズは手を汚す決意をした。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「お待たせ」
声がした方に目を向けると、リズとミラが戻ってきたところだった。距離が近い。仲がいいというよりかは、ミラが一方的にリズに擦り寄っているような感じに見える。
そんな二人の姿をじっと見ていると、ミラがリズから離れてイリアの隣に腰を下ろした。
「置いてけぼりにしてしまいすみません。寂しかったですか?」
「べ、別にそんなことは……」
気恥ずかしさで目を泳がせると、ミラはいたずらな笑みを浮かべた。ふと、リズをじっと見てみる。何かを考え込んでいるような様子で、こちらには全く興味がないようだ。
◇◇◇
「大丈夫?」
出かけている間ずっと心ここにあらずであったリズを気にかけて、イリアは声をかけてみた。リズは目を少し見開くと、いつも通りの晴れやかな笑みを浮かべる。
「大丈夫だよ。ちょっと色々悩んでただけ」
そう言って目を逸らすリズは、やはりどこか活気がないように思える。信頼されていない。イリアは、リズにとってまだ守らなければならない存在のままなのだろう。現在のイリアがおかしいからというのも理由の一つなのかもしれないが……。
とにかく、守られてばかりで何にもできないのは嫌だった。ようやく、力がついてきたところなのだ。リズが頼れるほどの存在でなくても、話くらいはしてほしい。
「……本当は、リズさんのこと避けてた。ごめん。都合が良すぎるって分かってるけど、僕でよければ相談してほしい。一人で抱え込まないでよ」
「……多分、イリア君がそうなってるのはミラが聖女の力を使って精神的な操作を加えたからだと思う。だから、そんな思い悩まなくてもいいよ。今回のことは、私が何とかするから」
歩き出そうとしたリズの腕を、咄嗟に掴んだ。次の言葉は決めていない。突き放されたのだ。分かっている。それなのに、このままは嫌だった。
「しつこい。今色々考えてるところだから、そっとしておいて」
「……」
「ごめん、ちょっと言い過ぎた。ほんと、何でこんなに余裕がないんだろう。このままじゃ、ダメなのに……」
リズの瞳は激しく揺れている。何が彼女をここまで動揺させているのだろうか。分からなくても、そばで支えることはできるはずだ。必要なのは、ちょっぴりの勇気と気持ち。
少なくとも、今のイリアにはそれだけで十分だった。
「頼りなくても、支えたい。ダメかな?」
「……イリア君って、たまに図々しいよね。分かった。手伝ってくれる?」
申し訳なさそうに微笑むリズの顔をじっと見つめて、イリアは頷いた。




