第三章第五話「ミラ・グレイス」
人間が、嫌いだった。
路地裏に住み着いていた頃は、世界中の人間が敵だった。まるで、別の生き物を見るかのようなあの蔑む瞳を何度潰したいと思ったか分からない。
食べ物もない。言葉もよく分からない。生きるために盗みを働き、生きるために他者を傷つける。そんな生き方しか知らなかった。
ずっと。
ずっと。
ずっと。
ずっと、そのように生きていくのだと思っていた。
「やっと捕まえた! 誰か、警備兵を呼んできてくれ! この餓鬼め、いつも店の品物を無断で取っていきやがって」
恨みの混じった声が、やけに耳に響いた。押さえつけられた身体が痛む。まだ子供であるのに、そんなことお構いなしで力を込めているようだ。
このまま捕まったらどうなるのだろうか。
きっと、今よりもっと酷い環境に送りつけられる。最悪、奴隷として一生働かされる未来まで見えた。
そうなれば、もう生きているとは言えない。
嫌だ。そんな人生は、絶対に嫌だった。
「何かありましたか?」
修道服を身に纏った女性が、こちらをチラリと覗いてきた。眩しい銀髪に目を窄めると、柔らかな笑みを浮かべて手を差し伸べてくる。自分とそっくりな、褐色の瞳がやけに美しい。
「その子を離していただけませんか? 苦しそうなので」
「姉ちゃんには悪いけど、こいつは常習犯なんだよ。うちの店も、こいつのせいで利益が減少してる」
「なるほど。それはおいくらですか?」
「銀貨十枚分はあるだろうな」
その女性は、提げていた鞄の中から小さな小袋を取り出した。大量の銀貨や金貨が中からちらちらとこちらを覗いてくる。
「では、金貨一枚で手打ちにしていただけませんか?」
「いやいや!姉ちゃん、金貨一枚はさすがに多すぎるって。それに、そんなことを言われてもこいつの罪はなくならない」
「ご覧の通り、僕はシスターです。この子を僕にお任せしていただきたいのです」
店主は女性をじっと見つめて浅いため息をついた。
「分かった。でも、こいつと何の関係もないあんたからお金を受け取るわけにはいかねぇ。そいつをきちんと育ててくれよ。自分で稼いだ金で返しにこい。分かったか?」
力を弱めた店主はこちらをじっと見つめてきた。何を言っているのか、ところどころ分からなかったが、空気を読んでこくりと頷いてみせる。
女性が差し伸べた手を取って、ゆっくりと立ち上がった。
「あなた、お名前は何ですか?」
「……ない」
「そうですか。では、あなたのことは今日からミラとお呼びします。僕はシリウス。帝国から修行のためにきた聖女見習いのシリウス・グレイスです」
シリウスは、教会の中にある自分の宿舎までミラを連れて行った。温かみのある木製の家具に、可愛らしい置物の数々。どれもこれも、初めて見るものばかりだ。
「とりあえず、お風呂に入りましょうか」
よく分からない生温かい液体を浴びせられて、ミラは大暴れした。身体の傷にひどく沁みるそれを、シリウスは何度も何度も桶に入れては浴びせてくる。
「大丈夫、大丈夫ですよ。身体を洗っているだけです」
しばらくすると、ミラはすっかりお風呂に身体を任せていた。洗い終わった後に浸かるお風呂は、温かくて心地いい。
「本当であれば、僕があなたを育てるべきなのですが……生憎、今の僕の立場ではそこまで自由に動けないのです。ミラ。少しの間、あなたを孤児院に預けても構いませんか? こういった使い方は正しくありませんが、必ず迎えに行きます。その時までたくさん学び、遊び、子供らしい日々を送ってほしいのです」
「……分かった」
本当は、よく分かっていなかった。シリウスの言っていることは難しい。しかし、迎えにくる。それだけは分かった。
ミラは、初めて自分に優しくしてくれたこの修道女を信用することにしたのだ。
「そういうことで、お願いしてもよろしいですか?」
「ええ、もちろん」
孤児院の院長は、柔らかな笑みを浮かべてミラを迎え入れた。
「ミラ。僕は必ず成果を出して見せます。時折顔を見せにきますので。では、また」
こくりと頷くと、シリウスは歩いて行ってしまった。その背中をじっと見つめていると、院長がミラの肩に手を置いた。
「ミラさん。まずは一緒に暮らす皆さんをご紹介します。きっと仲良くなれますよ」
シリウスが選んだ場所だったからか、孤児院は、思いの外悪いところではなかった。それでも、外の世界を知っているミラにとっては窮屈な場所だ。
ここを世界の全てだと思い込んでいる能天気な子供たちに囲まれ、勉強し、家事を手伝い、時には遊ぶ。そんな規則正しい生活は、ミラにとって退屈でしかなかった。
「ミラは大人びているんですね」
「その作ったような話し方はやめてください。シリウスはいつ聖女になれるのですか?」
「耳が痛くなる質問だな。僕だってなれるものなら早くなりたいんだよ。まずは王国で成果をあげないと。こう見えても、僕は既に王国ではなかなか有名人なのさ」
自慢げな笑みを浮かべたシリウスの顔を見つめて、ミラは表情を綻ばせた。
「僕が帝国で聖女になれたら、ミラはどうする? 帝国は完全実力主義の根付いている国だけれど、僕はそんな帝国を変えたい。王国にいた方がずっと幸せかもしれない。それでも、僕はミラがそばにいてくれたら嬉しいな」
「シリウスはお人好しが過ぎますからね。私がそばにいないと、すぐに騙されてしまいそうで心配です」
「随分と言うようになったね。ほんと、生意気なんだから」
シリウスがミラの額をつんと押すと、立ち上がって柔らかな笑みを浮かべた。
「じゃあ、僕はそろそろ帰ろうかな。またね、ミラ」
「はい」
シリウスと出会ってから、二年の月日が流れていた。ミラは短期間でかなりの言葉を覚えた。学ぶことは、自分を強くしてくれる。
何の力も持たないミラにとって、それは強い武器になり得るものだった。
かと言って、勉強が得意なわけではない。凡人に毛が生えた程度だ。
それでも、シリウスの助けになりそうなことは何だってしたかった。
◇◇◇
最近は、体調を崩す子供が増えたように思える。ミラは、院長とともにせかせかと手を動かした。
感染症が流行っているのだろうか。金銭面できちんとした体制が整っていない孤児院では、医者を呼ぶことも難しい。
「ミラ、向こうの子たちの様子を見ていてくれないかい?」
「はい」
布を顔周りに巻いたミラは、苦しそうに寝息をたてる同い歳くらいの子供たちに目を向けた。
栄養価が高いとは言えない食事に、効果なんてほとんどない野草で調合された薬。
痩せ細ってしまった彼らは、今にも命を落としてしまいそうに見える。
「──ねえ、ミラ。僕、このまま死んじゃうのかな」
「絶対に良くなりますよ。きっと、あと数日もすればお医者様がきてくださります」
確証のない言葉を吐いた。医者なんて来ない。そんなことは分かっていたが、ミラはそんな事実を彼らに伝える勇気がなかった。
「……そっか。ミラは、シリウス様にそっくりだね。本物の、聖女様みたい」
その言葉を聞くたびに、胸が満たされていった。シリウスはここ最近来ていない。おそらく、感染症の流行が影響して教会に来る患者の治療で精一杯なのだろう。
もし、自分にも人を癒す力があれば……目の前にある命を掬い取ることができたはずだ。
しかし、ミラはそんな力なんて持っていなかった。唯一出来ることといえば、シリウスが教えてくれた光魔法くらいで、それだって初級止まり。
この年齢のわりにはできている方らしいが、ミラにはそんなこと関係なかった。
目の前に助けを求めている人がいるのに、助ける力がない。それは、あまりにもひどい現実で、シリウスがいればこうはならなかっただろう。
シリウスでなくてはいけない。
誰にでも手を差し伸べ、人を導く星のような存在に憧れた。そんな存在になりたいと願った。以前は盗みを働き、人に迷惑ばかりかけていた自分でも、なれると信じ続けたかった。
「ミラは悪くないよ。この子は、もとから身体が弱かったんだ」
鼻を刺す、人の焦げる匂い。昨日までミラに柔らかな笑みを見せてくれた彼が骨になるまで、ミラはじっとその燃え盛る炎の塊を見つめていた。
それから数週間後、シリウスは孤児院にやってきた。やけに疲れたような顔だったが、すぐさまミラに駆け寄って優しく抱きしめてくる。
「……ごめんね。すぐに来れなくて」
「別に、仕方ないですから」
やけに小さく見えたシリウスの頭を、ミラは優しく撫でた。
「ちょっとだけ、二人で話そうか」
院長に許可を取ったシリウスは、ミラを連れて外に出た。芝生の上に寝転がり、ミラにもそうするように促す。夜空をさまざまな色の星が彩っている。
「ミラ。僕、帝国に戻るよ。国王陛下が、僕を推薦してくれるらしいんだ。またしばらく会えなくなっちゃうけど、絶対に僕は勝ち残る。そうしたら、一緒に帝国で暮らそう」
「……シリウスは、どうして誰にでも優しくするのですか? 私は、シリウスにそこまでしてもらうほどの人間ではないと思うのですが」
シリウスは目を見開くと、晴れやかな笑みを見せた。
「僕は、誰にでも優しくなんてないよ。僕は、助けたい人を助ける。みんな助けたくなっちゃうからそうするだけさ。要するに、ミラが気に入ったからそうしたいだけ。僕は、ミラのことが大好きなんだよ」
星空に照らされた銀髪は、きらきらと輝いて見えた。
「私も、シリウスのことが大好きですよ」
シリウスは、帝国に帰った。聖戦の情報は王国にも流れ出てくるため、そこまで心配することはないだろう。
仮に、彼女が聖女になることができなかったとしても、国王が推薦したとなればイスレン王国でそれなりの仕事を貰えるはずだ。もちろん、ミラはシリウスが聖女になると信じて疑わなかった。
シリウスは特別な人間だ。彼女が聖女になれなければ、誰が聖女になるのか。
確信を持っていたこともあって、ミラは孤児院で院長を支えながら自分も神学についての勉強を始めた。
──それからさらに数年後。
シリウスが面倒を見ていた子供ということもあり、ミラには思いの外早く声がかかった。
王国随一と名高いダリエラ教会から、シスターにならないかという打診があったのだ。
「ミラ、どうしますか?」
「そろそろ聖戦も終わる頃でしょうし、お断りしようと思っています。私はシリウスに早く会いたいので」
院長の方から、丁寧にお断りの旨を書いた手紙を送ってくれた。シリウスは、やはり最も多くの人々からの支持を得ているようで、次期帝国の聖女間違いなしと言われている。
送った手紙と入れ違いで、郵便物が届いた。花柄の綺麗な便箋の送り主には、シリウスと書かれている。
嬉しい気持ちで胸がいっぱいになった。席について丁寧に便箋を開けると、たった一枚の紙が入っていた。
僕はもう、聖女にはなれない。ミラにも会えない。ごめん。
たったそれだけのことが、便箋の真ん中に殴り書きされている。
意味が分からない。王国内の新聞には、まだそんなことは書いていなかった。きっと悪戯の手紙だ。そうに決まっている。だって、シリウスはミラが傷つくことなんて絶対にしない。
会えないなんて、言うわけがないのだから。
すぐさま院長に今日の新聞の内容を確認してもらった。やはり、そんなことは書いていない。大丈夫だ。シリウスが聖女になれないわけがない。あれほど輝ける人間は、シリウスしかいないはずだ。
翌日の新聞に、シリウスが聖戦を辞退した旨が書き記されていた。膝から崩れ落ちたミラには、何もかも分からなかった。なぜそうなった、なぜ自らそんな道を選んだ、夢を語る時のシリウスが、ミラは一番大好きだったのに。
最後の手紙をぐしゃぐしゃに握りつぶした。唯一信じることができた星は、ミラのことを捨てた。その事実だけが、残った。
そんな出来事があった後も、ミラの生活は何ら変わらなかった。孤児院で過ごす日々。しかし、ミラももう子供というほどの子供ではない。いつの間にか、孤児院で最年長になっていた。
「ミラ。もう迎えは……」
「分かっています。一度お断りしてしまいましたが、ダリエラ教会に連絡を取っていただくことはできますか?」
院長は、きまり悪そうな顔でこくりと頷いた。シリウスの所在は分からない。この世界で一番大好きで、大嫌いな人。シリウスに見つけてもらうためには、シスターになることが一番だろう。
彼女のことだから、いきなり顔を見せにくるかもしれない。そんなことになったら、本人に大嫌いだと言ってやる。きっと悲しむ。だが、そんなことはお互い様だ。
「ミラ・グレイスと申します。よろしくお願いいたします」
修道服を身に纏ったミラは、シリウスの背中を追って愛想のいい笑みを浮かべた。
王国でもそろそろ新たな聖女が決められる時期だろう。成果を残す。結果を残す。そのためだけに、シリウスを真似して偽善を振り撒き続けた。
「ミラ様。お客様です」
次期聖女候補の筆頭としてミラの名前が出回り始めた頃、突然その日はやってきた。
フードを深く被り、顔を隠していたが背丈や姿勢には見覚えがある。ミラは、すっかり彼女の背丈を抜かしていた。
「なんのご用ですか?」
「……」
ミラは、彼女の手を取って個室へ連れて行く。誰もいなくなったことを確認して、冷たい瞳を向けた。
「シリウス」
「……ごめん。今までずっと会いに行けなくて。本当は、ミラに会っちゃダメなんだ。それなのに、結局。これも、あの気持ち悪い食欲なのかもしれない」
「何を言っているのか分からないのですが。まず、話す気があるならそんなフードは脱いでください」
ミラが無理やりシリウスのフードを取ると、目を見開いた。あの美しい銀髪が、真っ黒に染まっている。口元や目元の形も、以前の彼女より妖艶に思わせるものへと変わっていた。
唯一変わっていないとすれば、ミラとそっくりな褐色の瞳ぐらいだ。
大嫌いだと言ってやるつもりだったのに、そんな気も起きない。
「……これは」
「……私にも分からない。ただ、もう元に戻れないことだけは分かる。人間を見ると、無性に食欲が湧いて、それで、私……頭の中が色々な人の記憶でごちゃごちゃになって……」
シリウスは、シリウスではなくなっていた。彼女は、こんなにも弱々しい性格ではなかったはずだ。一人称だって、昔は僕だった。
人を見て食欲が湧く。記憶がごちゃごちゃになる。意味の分からない話であるのに、何となく理解できた。
シリウスが突然聖戦を離脱した理由として、妙にすっと身体の中に入ってきたのだ。
ひどく痩せている彼女の顔には、頬骨が浮き出ている。
「……何か、食べますか?」
「……いらない。普通の食べ物は味がしないんだ。気をつけた方がいいよ。ここに来たのだって、残された私の記憶が、ミラへの愛情が、食欲に変わっただけなのかもしれないから」
シリウスもどきからその原因や力についてある程度の話を聞き、ミラは押し黙ってしまった。
ミラにはどうすることもできない暗闇の力。シリウスを蹴落とすためだけにそんな恐ろしい手を使った帝国の人間。理不尽な現実が、憎たらしく思えてくる。
「私の方からも調べてみます。シリウスは、今どこで寝泊まりしているのですか?」
「……王都の近くにある宿屋。でも、もうミラには会わない方が」
「今さらそれは無理があるでしょう。大丈夫ですよ。こう見えても、私は王国では有名人ですから。あなたより強いかもしれません」
自慢げな笑みを浮かべて見せると、シリウスは顔を綻ばせる。
ミラは全てのお勤めを終わらせてから、度々シリウスのもとを訪れるようになった。
「ミラといると落ち着くな。あんなに怖かった気持ちが、なくなっていく」
「そうですか」
ベッドの上に二人並んで横になると、シリウスと別れたあの日を思い出す。夜空を彩る星々に、月明かりに照らされて輝く彼女の銀髪が眩しかった。その記憶は、まだ鮮明に残っている。
「私の命は、シリウスのもの。ですから、我慢しなくてもいいのですよ」
褐色の瞳がゆらゆらと揺らいだ。シリウスもどきがミラをじっと見つめると、愛おしそうに藍色の髪を撫でる。ミラの手に指を絡ませ、あともう少しで彼女の唇が首筋に触れそうになった瞬間、シリウスもどきは動きを止めた。
「そんなこと言ったらダメだよ。私は、ミラの笑顔が大好きなんだ。笑うとさ、幸せが自然とやってくるものなんだって。だから、ずっと笑顔でいてね。おやすみ、ミラ」
瞼が重くなってくる。そのまま泥のような眠りについたミラの横にいたはずのシリウスは、朝目が覚めるといなくなっていた。
枕元に置いてあった手紙を開き、ミラは呼吸を整える。
シリウスはもういない。彼女の記憶は、有象無象と混じり合って、溶けてぐちゃぐちゃになってしまうのだろう。
手を下すのは、ミラでなければならない。そんな思いを抱えながら、ミラ・グレイスは茨の道を歩むことに決めた。




