第三章第四話「凡人」
祈りの声が、耳の奥に残っている。鬱陶しい感覚に苛まれていると、リズがイリアの瞳をじっと覗いてきた。
「大丈夫? やっぱり教会に長い間いると疲れるよね」
「……ちょっとだけ。ここまで完全に、決められた通りに動くのは初めてだから」
完全に教会側で取り決められた通りに動く日々。一日三回のお祈りや掃除、信者からくる相談事の受け答え。これらが悪いわけではない。
ただ、窮屈なのだ。
自分で何かを考える時間がないというか、そんな隙を与えてくれない監獄のような空間。ダリエラ教会は、まさにそんな場所だった。
暗闇がイリアを侵食していくのを止めるためにミラが提案してくれたことではあるのだが、閉塞的な空間にイリアの心身は負担を抱いていた。
「今日は孤児院に行きましょう。たまには、息抜きも必要ですからね」
二人の様子を窺ったミラがそう言うと、イリアの心の中にあった重石が外れたような気がした。安堵が顔に出ていたのか、彼女は満足そうな笑みを見せる。
「パンやクッキーをバスケットに入れてください。馬車を用意させていますので、支度ができ次第出発します」
◇◇◇
「ミラ様。はるばるこのようなところまで、ありがとうございます」
小綺麗な院長が、柔らかな笑みを浮かべてイリアたちを出迎えた。孤児院の責任者というだけあって、優しげな雰囲気が溢れ出ている。
「いえ、当然のことですから。皆さまにお会いしたいのですが」
「ええ。もちろん」
院長に案内されて庭の方へと歩いていくと、和気あいあいと走り回って遊ぶ子供たちの姿が目に入った。
芝生は柔らかく、子供たちの真っ白な服は取り替えられたばかりなのか真新しい。孤児院としては、なかなか整備が行き届いているらしかった。
ミラがバスケットを持って行くと、子供たちが一斉に駆け寄ってくる。彼女はじっと子供たちの手のひらに目を向けたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。
「一人一個までですよ。余ったら、仲良く皆で分けること。分かりましたか?」
「「はーい!」」
元気いっぱいの返事をしながらバスケットに手を伸ばす子供たちを見て、イリアは胸が温かくなった。ローズの屋敷にいた時もそうだったが、もしかすると子供が好きなのかもしれない。
彼らは愛嬌たっぷりの笑みを浮かべながら、口いっぱいにパンやクッキーを頬張っている。
ふと、小さく縮こまっている子供が目に入った。まだ何も口にしていないようで、他の子供と比べると細身に見える。
「食べないの?」
イリアが駆け寄って声をかけると、その子供はぴくりと身体を震わせた。
イリアから目を逸らし、膝に顔を埋めてしまう。
「食べないんだったら私が食べちゃおうかなー、それでもいいの? たくさん食べないと、大きくなれないよ」
リズが目の前にバスケットを持ってきた。その子が顔を上げると、いたずらな笑みを浮かべてバスケットからパンを差し出す。
「……食べる」
そう言ってパンを受け取ろうとした手には、細かな切り傷がついていた。
「リズさんは、やはりこういうことに向いているんですね」
ミラがリズの背後から姿を現した。彼女の肩に顎を乗せ、後ろから抱きしめるような姿勢をとる。
「……シリウス」
「何か言った? 暑苦しいんだけど」
「いえ、何でもありませんよ」
奇妙な笑みを浮かべたミラは、リズから少し距離を取った。イリアに視線を向けると、試すような瞳を向けてくる。
「イリアさんは、ここをどう思いますか?」
「どうって……素敵なところだと思いますよ。笑顔に溢れてて、みんな楽しそうで」
「そうですか」
ミラは真顔で、楽しく庭を駆け回る子供たちに近づいていった。
「皆さんは、今、幸せですか?」
突拍子もない質問に、子供たちは固まって目を丸くした。幸せ──イリアからしても難しいことを、まだ年端もいかない子供たちに投げかけるとは。
一体ミラが何を考えているのかは分からないが、感情の読めない表情は、冷酷に子供たちの内側に入り込むような、そんな気味の悪さがある。
「「幸せだよー! ミラ様は幸せ?」」
少ししてから皆がそう答えると、ミラは頬を緩めて綺麗な笑みを浮かべた。
「ええ、私も幸せですよ」
それは、意味のない会話に聞こえた。子供たちの無邪気な答えに、取り繕った適当な回答をするミラ。
妙に、気持ちの悪い空間だ。
「ここはダメですね。後日、院長を解雇するように連絡しておきましょう」
帰り道の馬車の中で、ミラは淡々とそう口にした。イリアは目を見開いたが、リズは全く驚いていないような様子で窓から景色を眺めている。
「お気づきになられませんでしたか? あれは、子供の手ではありませんでした。労働者の手です。孤児院は、子供を働かせる場所ではないですからね」
その瞳には、深い深い影が沈んでいる。孤児院はそんな場所ではない。全くもって正論ではあるのだが、一つの孤児院に割かれている予算だって、きっとそこまで多くはないだろう。
院長を変えたところで、それが改善されるのだろうか。夢物語を追うことは悪いことではないが、現実を見なければいけない時もある。
「……納得がいかないとでも言いたげな顔ですね。私も分かっていますよ。理不尽なことを言っているのは。ですが、あなたには分からないでしょう。孤児院で育つ子供の気持ちが」
「……そのー、あんまり暗い話はやめようよ。ここはミラの言う通りにすればいいと思う。ミラの方が、色々詳しいわけだしさ。ね?」
リズが間に入ってイリアに明るい笑顔を見せた。ミラと真っ向から争いたいわけではなかったこともあって、イリアは黙って窓の外の景色を見つめる。
「少し、いいですか?」
教会に戻ってから数刻が経った頃、ミラがイリアの袖を掴んで漆黒の瞳を覗き込んできた。
「……どうしたんですか?」
「先ほどは失礼いたしました。私が孤児院出身なもので、少しムキになってしまったようです」
視線を落とす彼女を前に、イリアは居心地が悪くなるのを感じた。
自分が悪いことをしてしまったかのような気持ちが、心の中を支配する。
「別に大丈夫ですよ。僕も……なんかすみません」
「いえ。ですが、もしお気にされているのであれば、一つだけ私のお願いを聞いてくださりませんか?」
褐色の瞳は、イリアの心臓を掴み取らんとするほどにギラギラと輝いていた。
「何ですか?」
「リズさんの横に並び立とうなどとしないでください。あの方は、私にも届かない存在。第二のシリウスなのですから」
わけが分からない。──シリウス。聞いたことのない名前だ。それがリズとどう関係しているのか分からないが、そんなことをミラに言われる筋合いはない。
「……耐性があるのですね。では、少し失礼します」
ミラがイリアを壁に押し倒すと、端正な顔を近づけてきた。
「リズさんには、素質があるのです。仮物の私にはない聖女の素質が。あの方から見れば、どのような才能も意味を成し得ません。ですから、凡人同士、私と仲良くしませんか?」
やけに耳に残る声だ。頭の中をかき混ぜられているような感覚に、思考する力を失っていく。
「次からはミラって呼んで。私を、あなたの特別にしてください。ね? イリアさん」
このままではダメだ。そう思っているはずなのに、胸が高鳴る。顔を灼くような熱に溺れていくのを、じっと感じていることしかできなかった。
「……はい」
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「イリア君、何かあった?」
ガラス玉のような瞳を丸くしたリズが、イリアの様子を伺うように顔をじっと見つめてきた。
「いや、何にもないよ。どうしたの?」
「本当に? いや、なんか私のこと避けてるように感じたから」
リズは顔を歪めていたが、イリアには心当たりが全くなかった。ただ、何かが頭の中にまとわりついているような感覚がずっと離れない。
ふと、目の前に藍色の髪を揺らしたミラが歩いてきているのが目に入った。
ほっとする。
なぜかは分からないが、彼女の姿を見つけて安堵している自分がいた。
ミラが柔らかな笑みを浮かべて駆け寄ってくると、胸がいっぱいになっていく。
「今日はお休みですね。せっかくなので、二人でどこかにお出かけしませんか?」
「たまにはそういうのもいいですね」
そんな二人の会話を聞いて、リズが間に割って入ってきた。
「ちょっと待って。どういう状況?」
「何を驚いているんですか?」
「──ミラ。さすがに、こういうのは私も看過できないんだけど。聖女の力をこんな風に使うなんて、正気じゃない。私たちを騙したの?」
妙な寒気に身体が襲われる。リズから溢れ出ている冷気が、周囲を氷漬けにしていった。
「あれほど氷魔法から距離を置いていたのに。やはり、一番得意な魔法属性は感情が昂ると出てきてしまうものなのですね。聖女の力だなんて、やめてください。私の力で彼からの愛を勝ち取ったにすぎませんよ」
「無理やりそんなことして、何が目的なのかを聞いてるんだけど。協力と利用は違う。私たちを利用する気なら、今すぐにでも帰るから」
ミラは首を傾げると、イリアの袖を掴んできた。
「イリアさんもそう思いますか?」
「えっと、その……リズさん。多分、ちょっと勘違いしてるだけだよ。ミラは仲間だから大丈夫。じゃないと、暗闇のことを話してくれなかっただろうし」
なぜ自分がミラの肩を持とうとしているのか分からない。それなのに、そうするのが当然かのように口を開いていた。
「うるさい。イリア君は黙ってて」
どうしようもなくイリアが黙り込むと、ミラは冷たい表情でその顔を見つめてきた。
胸がぎゅっと締め付けられるように痛くなる。
「頼りないですね。はなから期待していませんでしたが、ここまでとは」
棘のある言葉が、イリアの胸に突き刺さった。また、見捨てられる。そんな不安に呑まれていく。何とかしなければいけない。
「リズさんの方こそ、黙れよ。帰るなら一人で帰ればいい。僕は、ここに残るから」
「……」
しだいに、周囲の氷が溶けて消えていった。ミラに認められたいという妙な欲求に突き動かされてリズの顔を見ると、噛み締めた唇から血が流れ出ている。
「やればできるじゃないですか。偉いですよ、イリアさん」
ミラがイリアの頭を優しく撫でると、一瞬湧いた罪悪感もなくなってしまった。
「それで、リズさんは帰りますか?」
「帰らない。でも、もうミラのことは仲間とも思ってない。大嫌い」
「……それは、傷つきますね。私は、あなたのことが好きなのに」
端正な笑顔を浮かべたミラの瞳の奥は、ひどく揺れているように見えた。




