第三章第二話「かくしごと」
大聖堂を出てからしばらくの間、リズは一言も話さなかった。先ほどまで聞こえていた祈りの声が、イリアの耳の奥にまだ残っている。
「大丈夫?」
「……うん。ごめんね、連れてきたのは私なのに」
一面が芝生に覆われた帰り道。その途中にある大樹の陰に入ると、リズはその場にしゃがみ込んでうずくまってしまう。イリアも横に腰掛けて、彼女が口を開くまでじっと待った。
「……イリア君、なんか私に隠してることない?」
隠していること──暗闇を使い始めたということも、ミラから言われたあの言葉も、何もかもリズには話していない。
隠していたわけではないが、言いたいわけでもなかった。何より、イリアを助けた彼女が自分を責めてしまうような事態は避けたかったのだ。多少は察しているように見えたこともあり、そのことについては話すつもりがなかった。
ローズやミラが伝えていないのなら、わざわざ話す必要はないだろう。
「……ないよ」
「そっか」
嘘は思いやり。そう言い聞かせて、イリアは胸の奥に渦巻く罪悪感から目を背けた。
ガラス玉のような彼女の瞳がずっと揺れていたことになんて、全く気づかずに。
「私たちって、まだ知り合いなのかな」
知り合い。そのような言葉で片付けられるほど、リズとの関係は浅くない。元はと言えば、気恥ずかしさでそう言ってしまっただけなのだ。
複雑で、知り合い以上の何か。イリアには、それを表す最適な言葉が見つからなかった。
「イリア君も、私って変だと思う? 普通じゃないって……ちょっと重たいなって感じる?」
「そんなこと、ないけど……」
実際、思い返してみてもリズをそんな風に感じたことは一度たりともないはずだ。
お節介なところはあっても、それは彼女の在り方の一つである。それに、そんなお節介をかっこいいとは思っても、億劫だと感じたことはない。
「本当は、ローズがイリア君と仲良くなってて羨ましかった。アリス様だって、イリア君が世話焼いてて羨ましかった。ミラも。みんな、私が知らないイリア君を知ってるのに。私は何にも知らない……」
かける言葉も見つからない。そのように思っているなんて、全く思わなかった。
だって、リズはイリアを引っ張ってくれる存在だ。いるだけで周りの空気を変えてしまうような、イリアには到底届かない人ではないか。
「王都にお出かけした時に、ルイズからも言われた。恋愛的な気持ちがないなら、ちょっと踏み込みすぎなんじゃないかって。私って、イリア君のこと好きなのかな?」
「えっ……その、それは。僕には、分からないよ……」
あまりに直球すぎる純粋な疑問に、イリアはどきどきする暇もなかった。むしろ、彼女に欠落した何かが一瞬だけ姿を現したような、人間になろうとしている何かを見ているかのような、ぞっとする感覚で胸が満たされていく。
「……私、最初から自分のことしか考えてないの。そのために、イリア君には従順でいてほしかったのかもしれない。できることなら、私の手の届くところにいてほしかった……」
それは、イリアにとって眩しくて、手の届かない存在であったリズが人間に見えた初めての瞬間だった。
「分からないの。私が何をしたいのか、イリア君をどうしたいのか、どうなりたいのかも全部……」
「……僕にも、リズさんの気持ちは分からない。分かってあげられなくて、一緒に考えてあげられなくて、ごめん」
膝に顔を埋めるリズの頭を優しく撫でた。意味があるかは分からない。
むしろ、こんなところでローズの癖を真似するなんて、皮肉にもほどがあったかもしれない。
「帰ろう。きっと、ちょっと調子が悪いだけだよ。とりあえずゆっくり休んで、落ち着いたらまた話そう」
イリアが手を差し伸べると、リズはその手をゆっくり取った。久しぶりの手袋の感触は、イリアの手を優しく温める。
家に戻ってから、どのくらい時間が経ったのだろうか。昇ったばかりだったはずの太陽が沈み、夕飯を食べ終わると、リズは先ほどのことなどなかったかのようにいつもの調子に戻った。
まるで、自分の醜い部分を隠そうとしているかのように見えてしまう。
「ねえ、さっきの話だけど」
「あっ、ごめんね? 変なこと言っちゃって。もう大丈夫だから気にしないで」
避けている。先ほどの話題に触れられることを。
触れてほしくないのかもしれないが、あそこまで言われて放っておけるほどイリアは冷たい人間ではなかった。
「……何で、平気なふりするの?」
「イリア君のためにやってるのに、どうして深掘りしてくるの? 元はと言えば、イリア君が私に何か隠してるから悪いんだよ。全部話してくれてたら、こんな気持ちになることもなかったのに」
思いやりだと言い聞かせて、話すことを躊躇ってしまったことが、まさかこんなことになるなんて思わなかったのだ。
「ごめんね。面倒くさいでしょ? 今まで取り繕ってただけで、本当は、こんなに面倒くさい人間なの。責めたいわけじゃなくて……今はちょっと、一人になりたい」
上手くいかない。イリアでは、リズのようにはなれないということを痛いほど思い知らされた。
ローズも、アリスも、ミラも知っていることをリズは知らない。改めて考えてみると、不思議な話ではある。ミラに至っては、まだ信頼できるのかもよく分からない相手であるのに、リズよりもイリアのことについて知っているかもしれない。
仮にリズが何かイリアに秘密があったとしても、イリアはきっとそんなこと気にならないだろう。
イリアの中で、「かくしごと」はそこまで重いものではなかった。その価値観は、リズとはずれていたらしい。
部屋に戻ってベッドに横になると、ポケットに何かを入れられたことを思い出した。
折り畳まれた、小さな紙切れだ。
中を開いてみると、「明後日、教会に来てください」とご丁寧に書いてあった。正直、リズを傷つけたばかりなのに、ミラとこそこそ密会する気にはなれない。
どうするか悩んでいると、しだいに瞼が重くなってきた。
扉の開く音がする。ベッドが沈み、温かくて柔らかな感触が背中を包み込んだ。
目はすっかり覚めてしまったが、どうしたらいいのか分からず、身体が硬直する。
「……まだ、起きてる?」
二人が寝るにはあまりに狭すぎるベッドの上で、イリアの背中からぎゅっとしがみつくように抱きしめているリズが、小さく呟いた。
人肌の温もりと、柔らかな感触。優しげで甘い香りに、胸が高鳴る。自身の心拍が、やけに大きく聞こえた。
「……うん」
「……そっか」
沈黙が続く。呼吸の音に耳を澄ませていると、正直に話したほうがいいような気がしてきた。正しいか正しくないかは、他の人に求めてはいけない。
自分で考えるべきことだった。
「……そういう感じで。今まで黙っててごめん」
洗いざらい全てを話してしまった。暗闇の力のことも、ミラから言われたことも、あの紙切れのことも全部。むず痒くて、心臓の鼓動が鳴り止まない感覚がイリアを支配する。
「……うん。話してくれて、ありがとう」
リズは、イリアの背中に頭をぐりぐりと押しつけた。くすぐったい。
後ろを振り向いてみると、リズの煌びやかな瞳が目の前にあった。眼鏡を外しているからか、その距離は今までで一番近い。鼻息が頬を掠め、思わず起き上がって、彼女から目を逸らす。
「……隠してたこと、怒ってる?」
「怒ってるよ」
気まずさで、イリアはゆっくり視線を落とした。仕方ない。リズにとっての「かくしごと」は、イリアにとってのそれと持つ意味も、価値も違うのだから。
「許してはあげないけど、分かった。とりあえず、今の状況をなんとかしないと」
イリアが顔色を伺っていると、リズは顎に指を寄せて、何かを考えているかのような様子を見せた。
「……あのさ。要するに、ちゃんと感情の制御ができればいいってことだよね? ならきっと大丈夫だよ。イリア君が嬉しい時も、怒ってる時も、悲しい時も、楽しい時も、私が一緒にいるんだから」
月明かりに照らされたリズは、この世界にあるどんな星よりも輝いて見えた。
心強い言葉に、胸がいっぱいになる。いつの間にかリズに励まされていて、やっぱり彼女はイリアを導いてくれる一番星なのだ。それは絶対に変わらないのだと、心に深く刻みつけられた。
「どうしたの? もっと嫌味ったらしく怒った方が良かった?」
「ううん。そうならなくてほっとしてる」
「悪い子め」
小悪魔的な笑みを浮かべたリズは、自分の中で折り合いをつけたように見えた。小さなベッドの上で大の字になって笑う姿は晴れやかで、こちらの気分まで明るくさせる。
「明後日だったっけ? 私も一緒に行っていい?」
「うん」
ミラがどう思うかは分からないが、リズからのお願いは断れない。
それに、リズもついてきてくれると思うと、不安だった心が楽になったような気がした。
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「それで、お二人で仲良くやって来たということですか?」
シスター服に身を包んだミラが、質素な木製のテーブルの上に人数分のティーカップを置いた。
リズの紅茶の近くには、ミルクと砂糖の容器が置かれている。ミラは席について、何かを見透かすような瞳をこちらに向けてきた。
「困ったものですね。さすがにこれは想定外です」
そんなことを言いながらも、ミラの表情は満足げに見えた。




