第三章第一話「信仰なき祈祷」
甘い香りだ。
頭が痛くなり、視界がちかちかと点滅するほどにイリアの心を支配する甘ったるい欲望。
ゆっくりと目を開くと、目の前には血溜まりが広がっていた。
人形のように目を閉じた屍の塊には、憎しみに任せて何度もナイフを突き立てたような傷が残っている。
誰が、誰がこんなことを。
頭に血が上り、どうしようもないほど狂いそうになった。歯を強く噛みしめると、憎悪が湧き上がる。
ふと自らの手を見ると、鮮烈な赤い血に塗れたその手に、しっかりとナイフが握られていた。
◇◇◇
はっと目を覚ました。
全身に汗が噴き出ており、服はびっしょりと濡れている。
大丈夫、夢だ。
そう言い聞かせて、締め付けられる心臓を落ち着かせる。新しい服に袖を通し、階段を降りると、リズが出かける準備をしていた。
「じゃあ、行こっか」
女神ダリアは死を救いだと説いた。
それを否定したリズと出会ってからは、確かにまだ世の中に光はあるのだと本気で信じることができた。
「本日は、お集まりいただき誠にありがとうございます。我々を守ってくださっている女神ダリア様に心からの感謝を」
大聖堂のど真ん中で、ミラがそう声をかける。石造りの質素な見た目で、柱には丸みのある優しげなデザインが施されているこの場所には、多くの信者が集まっていた。
彼らは、手慣れた様子で目を閉じて女神ダリアへの祈りを捧げ始める。
イリアも同じように真似をする。しかし、その心のうちには女神ダリアのことなんて全くなかった。
渦巻く不安と恐怖。
あれほどまでに感化されたはずの女神の言葉でさえ、今のイリアには単なる記号の羅列でしかない。
容姿も、その存在すらも本当か分からない神に縋ることに、何の意味があるのだろう。
「では、女神ダリア様の代わりに私から皆様に祝福を捧げましょう」
きらきらとした光が、一人一人の身体を包み込んだ。温かくて、やけに心地良い光。だからこそ、今のイリアには心底気持ち悪かった。
「浮かない顔ですね。まあ、無理もありません。私からイリアさんにお伝えした言葉が心身へのストレスにならないわけがありませんから」
食事の時間になってから、ミラがイリアの耳元でそう囁いてきた。
耳元をくすぐる温かい息に、思わず身を引きそうになると、彼女は不思議そうにイリアの漆黒の瞳を覗いてくる。
「ミラは聖女なんだから礼拝客と一緒に座るなんておかしいでしょ。何でここにいるの?」
リズが怪訝そうな顔を浮かべ、なぜかイリアを真ん中にして座っていることに疑問を投げかける。
年に一度、大聖堂にて行われる礼拝のメインイベントはこの食事だ。女神ダリアの命日であり、十二人の使徒のうちの一人であるアイビーが彼女を暗殺したとされる日。
そんな日を祝いの場にする倫理観はどうかとも思うのだが、死は救いだと説いた彼女の教えゆえなのだろう。
少し前まではイリアもそんな倫理観に浸っていたのだから、その悍ましさはとてつもない。
「私は聖女である以前に、信者の一人。こうして皆様と席を共にすることだってあります。信者でないあなたがこの場に来ていることの方が、私からしてみればおかしな話です」
「……たまにはいいかなって思っただけ。やっぱり、こういうのは性に合わないっていうのは分かったかな」
リズは顔を歪める。以前はあれほど女神ダリアに救われていたイリアですら嫌悪感を抱いたのだから、元から信仰心がないリズにとってはさぞ苦痛の時間だったに違いない。
元気がないイリアをリフレッシュさせようとしてくれていたのかもしれないと思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「私もダリア様の考え方に納得のいかない点はあります。死が救いという言葉は一見美しいですが、とても無責任で、残酷だと思いますから」
聖女でありながら、そんなことを言ってしまっていいのだろうか。
しかし、その言葉を肯定しないミラの方が、しっくりくる。ミラは何かを強く恨んでおり、それにはきっと例のイリアと同じ暗闇を使える人の死が関わっているのだろう。
「ミラは悪い聖女様だよね」
「この世に真なる善人などいないというのもまた、女神ダリア様のお言葉ですからね」
ミラは聖女らしい優しげな笑みを浮かべた。上手いこと言ったものだ。
女神ダリアの考え方を全肯定しないのもまた、女神ダリアの考え方とはなかなか皮肉な話である。
「お二人は、この食事の由来についてはご存知ですか?」
「……女神ダリア様が使徒の一人であるアイビーに暗殺された、彼女にとって最後の日。最後の晩餐ですよね」
イリアがそう答えると、ミラはこくりと頷いた。
「あの日、女神ダリア様を中心に十二人の使徒は各々の席に腰を下ろしました。その中で遅れてやってきたアイビーは十三番目に席についた人間であるため、世界的に十三という数字は忌み嫌われているのです」
「それも、知ってます」
ミラは一呼吸置いて、イリアたちの心の奥を見透かしたような瞳を向ける。
「では、本当は、遅れていらっしゃったのは女神ダリア様であるという説はご存知ですか?」
「……それは、知らないです。でも、それだと十三人目は亡くなった女神ダリア様になっちゃうので、意味が分からないですよ。十三が良くないとされる理由がなくなっちゃいます」
「それはそうですね。ただ、私にはこの説の方がやけにしっくりくるもので。皆さんのご意見を聞かせていただきたかったのです」
変な説だ。仮にミラが言うこの説が真実だとしたら、アイビーが来た順番は完全に分からなくなる。そうなると、十三という数字が畏れられる意味も崩壊してしまうではないか。
「私以外の十一魔賢で信仰心が深い人は誰かご存知ですか?クイズです」
突然始まったクイズタイムにイリアは頭を悩ませた。リズは答えを分かっているためか、つまらなそうにだんまりする。
「えっと、すみません。とりあえず、ローズさんとエリザさんでないことは分かるんですけど……他の人とはまだあんまり関わりがないので」
「それは失礼いたしました。正解は、ゾラさんです。理性的な方が神を信仰しているということには驚かされましたが、彼の見識はなかなか面白いのです。イリアさんも、同じ信者として今度お話してみてはいかがでしょう?」
善意で勧めてくれているようだが、イリアにはもうそれほど信仰心という信仰心もない。
それこそまともな信者からすれば、恨まれてしまいかねないほどに。
「……気が向いたら」
「そうですか」
残念そうにミラは顔を沈めたが、まるで切り替えることを強制されている人形のように、すぐさまいつもの調子に戻った。
「さっき、何であんな説を教えたの?その後のクイズで誤魔化そうとしたみたいだけど、違うよね。ミラは、何が言いたかったの?」
ふと、リズが小さくそんな言葉を口にした。ミラは彼女の顔を見ると、目を閉じて何かを考えているような様子を見せる。
「……それは、お教えできません。口に出してしまった言葉は、いつか現実になり得る。この言葉も、女神ダリア様の教えですから。こんな疑念を話してしまえば、その瞬間から私は聖女でなくなってしまいます」
そんなことを言われると、ますます気になってしまうではないか。
「じゃあ、断片的なキーワードでもいい。ヒントでも。ミラは、何を怖がってるの?」
「……怖がっている。それは確かに、一理あるかもしれません。私は、シヴァ帝国に非常に興味があるのです。そして、アイビーはなかなか根気のある方だと思っています。それらは確実に、私と何かで結びついている」
何を言っているのか全くもって分からない。シヴァ帝国に、アイビーに、ミラ。あまりに脈絡のない組み合わせではないか。
シヴァ帝国と言えば、帝国五武将を名乗っていたゲイルが思い浮かぶ。あの時も、ミラは帝国という言葉に反応していた。
仮に彼が本当に帝国五武将の一人であるならば、それは王国に対して敵意を示しているも同然だ。新たな問題まで発生しては手に負えない。
それに、帝国、アイビーがミラに結びつくとなるとさすがに意味が分からない。ヒントにしては、あまりにも抽象的すぎる。
「ひとまず、覚えておくってことでいいや。一応言っておくけど、イリア君を変なことに巻き込まないでね?」
「ではこちらからも。いくら派閥とは言えど、あなたが彼を支配しようとするのはやめてください。他の方からも似たようなことを言われたことはありませんか?」
リズは口をへの字に曲げると、イリアの手を掴んで引っ張った。
「帰ろう。ここにいると、気分が悪くなる」
「……えっと」
正直、まだミラには聞きたいことが山ほどあった。しかし、リズに対して彼女が失礼な言葉を投げかけたのも事実だ。気を悪くするのも分かる。
イリアが立ち上がろうとすると、ミラがイリアのポケットに何かを入れた。
「では、またいつか」
その「いつか」は、そう遠くない気がした。




