第一章第二話「異変」
「じゃあ、また明日来るね」
リズがいなくなった後も、イリアはしばらくその場から動かなかった。自分の頬を触ると、先ほどの記憶が蘇って顔が熱くなる。ふらつきながら村に戻ると、イリアは椅子に座って不思議な気持ちに沈んでいった。
翌日、言葉通りリズはイリアに会いに来た。川の前に座っていると、いつの間にか彼女が横にいる。
「なんか、昨日より顔色悪くない?クマが……」
彼女がイリアの目の下に触れると、驚いて身体がびくっと震えた。それに反応して、彼女の手もぴくりと動く。
「わっ、ごめん。そんなびっくりすると思わなくて……」
「……別に」
昨日も思ったが、距離が近い。
彼女からすれば通常運転なのかもしれないが、ただでさえ人付き合いが少ないイリアからすると、なかなか攻めた距離感だ。
彼女はポケットからメモ帳のようなものを取り出すと、イリアに向かい合った。
「ところでイリア君って、甘いもの好き?」
「……それなりには」
「何が好きなの?」
「……パンケーキとか」
イリアがそう答えると、リズは目を丸くしてじっとイリアを見つめた。
「……なんか、結構可愛いんだね。意外」
真剣にメモされているのを見て、イリアは何だか恥ずかしくなる。書き留められるなら、もっと大人っぽい食べ物を言っておくべきだった。
「私もパンケーキ好きだよ。王都に美味しいお店があってさ、たまに自分で作ることもあるけど」
「……そうなんですね」
その後も、好きな色だの趣味だの色々質問された。リズはご丁寧に全ての回答をメモしていく。いつ描いたのか、端っこに変な生き物の落書きがしてあった。
「イリア君は、私に聞きたいことないの?」
「……それ、なんですか?」
変な生き物を指差すと、リズは不思議そうな顔でイリアの顔の横にメモを並べた。意味が分からず唖然としていると、リズはメモを閉じてポケットにしまい込む。
「結構似てると思ったんだけどな……」
「……すみません、芸術的だったので気付けなくて。その、素敵な絵だと思います」
リズはじっとイリアの瞳を見つめると、メモ帳を再び取り出した。書き込んだことを、一枚一枚確認しているようだ。
「まぁ、今日はこのくらいかな。また明日も来ていい?」
「……はい」
彼女を村の入り口まで見送った後、家に戻ろうとすると、年老いた商人が手当たり次第に村人に声をかけていた。無視しようとしたが、その手には変わった魔法書がある。
「……それ、古代文字ですか?」
「おっと兄ちゃん、お目が高いねぇ。これは、世の中に数冊しか出回ってない貴重品さ。あんたならこの価値、分かるだろう?」
イリアは買う気がなかったが、一応目を向けてみる。確かに、今までに見たこともない魔法書だった。革製の表紙は劣化でぼろぼろになっており、細かな金色の刺繍だけは綺麗に残っている。
「……いくらですか?」
「買ってくれるのかい?じゃあ、兄ちゃんには特別に銅貨五枚で手を打とう。使い物になるかは正直分からんからね」
破格の安さに警戒心を覚えたが、手に取ってみることにした。ぼろぼろの魔法書を受け取ると、イリアは草木が生い茂る道を抜けて家に帰った。椅子に腰掛けると、マッチでランプに火を灯す。
リズは明日も来ると言っていた。少しでも魔法に関する知識を増やしておけば、彼女の手助けに役立つかもしれない。
──それに。
もう少しだけ、彼女のいる世界に近づいてみたかった。
早速魔法書を開いてみると、中は全くの白紙だった。ページをぱらぱらとめくっても、白紙が続くだけだ。ため息をついて魔法書を閉じようとすると、最後のページに文字が浮かび上がった。
「……Vitam tuam pro robore tuo pone」
その言葉を口にした瞬間、真っ黒な闇がイリアを飲み込んだ。全身を喰らい尽くされているような激痛に、声すら出ない。
──自分の意思とは裏腹に、イリアの意識は遠のいていった。
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十一魔賢の資格を得てから一年、リズは魔法使いとして自分がどうあるべきなのか、ずっと考えていた。
全てを助ける。
それが、リズが出した答えだ。お節介でも、何でもいい。ただ、目の前にある命を掬い取りたいのだ。
宿舎に戻る前に、リズは酒屋に寄ることにした。明日イリアのもとを訪れる前に、やっておくべきことがある。重たい扉を開くと、カウンター席には昼間から呑んだくれていたと思われる人影があった。
「エリザ、お願いがあるんだけど」
机に伏せて気持ちよさそうに眠っている頬をつねると、エリザは顔を歪めて瞳をゆっくり開いた。ピンクゴールドの髪をかき上げ、リズの目をまっすぐに見つめる。
「あなたねぇ、年上には『さん』をつけなさいって前にも言ったじゃない。んで、何の用よ?」
「明日、ちょっと付き合ってよ。治してほしい人がいるの。応急処置はしたんだけど、やっぱり痛みはまだあるだろうからさ」
「いいけど、その子はどういう経緯で怪我したわけ?私って、自業自得の怪我は治療しない主義なのよねぇ」
リズは黙り込み、エリザの両手をぎゅっと握った。
「私の力だけじゃ治してあげられないの。それに、こんなこと頼めるのエリザしかいないから……ダメ?」
「……一応ついて行ってあげるけど、治す約束はしてあげられないわよ」
翌日、リズはエリザを連れてオルレ村へ向かった。村に足を踏み入れても、鳥の声一つ聞こえてこない。子供の笑う声も、薪を割る音も、井戸の滑車が軋む音ですら、全くしないのだ。
「……エリザ」
「分かってるわよ、あなたは後ろに下がって」
エリザが腰に差していた剣に手を添えた。しばらく進んだところで、道の先に何かが立っているのが見える。全身が、真っ黒に染まっていた。周囲には、村人たちの死体が無惨にも散乱している。
──暗闇が、こちらを覗いていた。




