番外編【②】「私たちの出会いI」
マリー・ウィンザーという人間は、控えめに言っても馬鹿正直で、ドジで、何をどれだけやっても人並みにしかなれない女の子だった。
貴族の教養として叩き込まれた勉学や作法だって全く上手くいかず、両親がそんなマリーを心配して乗馬や裁縫など色々なことをやらせてくれても成果は出せない。
自分でも、分かっていた。何においても才能がないのだ。できないことがあっても、仕方ない。才能がないのだから。
「マリー。来月、王城で開かれるパーティにランス殿下もいらっしゃるそうなんだ。殿下とお前は歳も同じだし、何より優しいお方だと聞く。無理強いはしないが、お前にぴったりの相手だと思うんだ。これを機にお近づきになれるように頑張りなさい」
「……はい」
自分とそっくりの柔らかな茶髪を揺らして、お父様が優しい眼差しを向けた。マリーが何度失敗しても、両親は見捨ててくれない。
ウィンザー公爵家の一人娘という立場は、そんなマリーにとって重たい鉄塊のようだった。
どうせまた失敗すると分かりきっていることなのに、そんな期待するような目を向けないで欲しい。まだ十歳のマリーは、恋愛事には全く興味がなかったのだから。
自分より年下の幼い令嬢が政略的婚約関係を結ばされているのを見ると、心底悍ましいと思った。
自分はこうはなりたくない。他人との将来設計を子供のうちに決められてしまうなんて、さぞ気持ち悪いだろうに。
「マリー。結婚というのはそんな嫌なものではないのよ。お母様は、お父様と出会えて幸せだもの。殿下でないにしても、あなただってきっと素敵な殿方と出会えるわ」
心のうちを見透かされていたらしく、お母様がそんな言葉を投げかけてくる。そんなことは分かっている。両親は仲がいいし、マリーのことを大切にしてくれる。
この穏やかな関係にマリー自身も浸っているのだから、気持ち悪いなどと言える立場ではない。
「……分かっています。ただ、自信がないんです。仮に出会いは上手くいっても、私が何にもできない人間だと知られてしまったら、騙されたような気持ちにさせてしまいます」
「そんなこと……きっと大丈夫よ。お母様にだってダメなところはたくさんあるけれど、お父様はそれでがっかりするような人じゃないもの。マリーにだって、ちゃんと内面を見てくれる人がいるに決まっているわ。お母様も手伝うから」
励ましの言葉も、今のマリーには何の意味も持たない。しかし、優しいお母様を困らせるのは避けたかったため、マリーは渋々こくりと頷いた。
お母様の真似をして、ハンカチに刺繍を縫い付けていく。もう何度もやっているはずなのに、一向に上達しない。
それでも、お母様は何も言わずに丁寧にやり方を教えてくれる。手に針を刺さないようにゆったりと一針一針に気持ちを込めて縫ったからか、ちょっぴり歪な形の小鳥も少しばかり可愛らしく見えてきた。
もしかしたら、次は上手くいくかもしれない。第一王子の婚約者争奪戦は、呆気に取られて何もできなかったウィンザー公爵家だが、今回ばかりはマリーのために精一杯の努力をしてくれている。
第三王子であるリオにはもう婚約者が決まってしまっていることもあり、王族とつながりをもつにはおそらく最後のチャンスだからだろう。
パーティまでの一か月間は、刺繍や作法、ダンスの技術をとことん磨くことになった。作法は身に染みついている部分があるにせよ、ダンスはなかなか上手くいかない。
「マリー様、肩の力を抜いて下さいませ。そのように硬い動きではお相手を不快にさせてしまいますよ」
睨みを利かせたエルがマリーのステップを厳しく評価する。きっちりとまとめ上げられたお団子に、白髪混じりのアイスブルーの髪がよりその厳しい性格を立てていた。
マリーのマナーやダンスの講師は先代コート侯爵の奥方であるエルが担当しているのだが、これがかなりスパルタだ。
「……すみません。その、どうすれば肩の力を下せるのでしょうか?」
「ひとまず、マリー様はステップを頭に叩き込んでください。完璧に覚えていたら堂々とやれるはずです」
エルは厳しいが、根気強くマリーの先生をしてくれている。きっとできる。自分を信じて、マリーはひたすら練習に打ち込んだ。
◇
「マリー、緊張する必要はないからね。いつものようにしていれば、何も心配することはない」
「はい。私、頑張ってみます」
王城を前にして、マリーは固唾を飲み込んだ。本番──そう、これが本番なのだ。
殿下のお目にかかれなくてもいい。今後を平穏に過ごすために、とんでもない無礼を働くことだけは避けなければ。
入城して分かったのは、自分より歳上で、大人びた雰囲気を漂わせているご令嬢も多く集まっているということだった。皆ランス殿下を狙っているらしく、覇気が違う。
自由に歓談しながら楽しめるように、真っ白な長テーブルにずらーっと色々なお茶菓子が並んでいた。美しく整えられた庭園の緑は、緊張していたマリーの気持ちを少しばかり落ち着かせる。
思わず長テーブルのお茶菓子に手が出そうになったが、エルに言われた小言がふと頭の中をよぎった。
「マリー様。お茶菓子には手をつけてはいけませんよ。そんなことをしたら、下品な女性だと思われてしまいますから」
せっかくあるものを食べないのは勿体無いが、マリーはぐっとその食欲を堪える。
それにしても、ランス殿下はどこにいるのだろうか。なかなか外にお出でにならないこともあって、その容姿も性格も、どこまでが本当なのか分からない噂話だった。
一方でリオ殿下は、元気よく貴族の面々に挨拶して回っている。まあ、兄弟で性格が違うのなんてよくあることだ。
容姿が醜いからだとか、太っているからだとか、色々言われ放題だが、マリーには、どうにもそれらが表舞台に姿を見せない理由とは思えない。
そんなことを考えていると、コソコソと令嬢たちが噂話しているのが耳に入った。
「リオ殿下の婚約者様って、まだ五つだそうよ。まさかそこまで幼いご令嬢と婚約を結ばせるなんて……何というか、お相手が公爵家だとしても、政略的って感じよね。選択する権利もないなんて、殿下が可哀想よ……」
「……周辺諸国との関係が良好ですから、自国内で固めるのは分かりますわ。ただ、数ある公爵家の中からギーべラントにしか声がかからなかったのは、不快ですわね。あのような子供、殿下に相応しくありませんのに」
ひどい言われようだ。そんなことを陰で言っている人間の方が、よっぽど殿下に相応しくないということに気づいていないのだろうか。
マリー自身も、この政略的な婚約関係に思うところはあったのだが、まだ年端もいかないご令嬢を悪く言う彼女たちには心からの軽蔑を抱いた。
「あなた、先ほどから何かご用?」
彼女たちがこちらを見ているような気がして振り返ると、案の定、その場にはマリーただ一人しかいなかった。目をつけられたのは一目瞭然で、思わず顔を歪めてしまう。
「いえ、何でもありません。お話の邪魔になるといけませんので、私はこれで失礼いたします」
マリーがその場から離れようとしたが、彼女たちは取り繕ったような笑みを浮かべてその腕をそっと掴んだ。
「あなたも、そう思いますよね?」
「……」
「そうですね」とでも言っておけばいい。それなのに、マリーの中にある純粋な価値観がそれを許してくれない。
一息ついて、マリーは彼女たちに厳しい目を向けた。
「お二方は、貴族として恥ずかしくないんですか?私には、そのような話をこの王城という敬うべき場でする人間の気がしれません」
少し言いすぎたかもしれない。二人は不機嫌そうな顔を浮かべて、尊大な態度でその場を去っていった。
こんなことをしている場合ではない。しばらくしてから、マリーもその場から離れようと足を動かした……が、ふと壁際で小さく丸まっている男の子が目に入る。
何かの遊びをしているのか、茶色の紙袋を頭に被って地面に座っている。
明らかに目立つはずなのに、なぜか今になるまで全く気づくことができなかった。
どこかで転んだらしく、艶々の綺麗な膝から血が流れ出ていた。
「大丈夫ですか?」
「……」
返事をしない。まさか死んでいるのでは……と思って脈を測ろうとすると、ぴくりと彼の身体が震えた。
どうやら、殺人現場を目撃してしまったわけではないらしい。
マリーは、お気に入りのハンカチを取り出すと、彼の膝に優しく結びつけた。
もっと気軽に渡せるハンカチがあればよかったのだが、仕方ない。ハンカチくらい、また買えばいい。
「どうして、頭に紙袋を被っているんですか?」
「……」
なぜ話さないのだろうか。お気に入りのハンカチを犠牲にしたこともあって、マリーは少し機嫌を悪くする。
「……外に出るのが怖いから」
小さな、呟くような声がマリーの耳を揺らした。この小さな存在に興味が湧いてくる。マリーは、ゆっくりと彼の隣にしゃがみ込んだ。
「どうしてですか?」
「……みんなが、何を考えてるか分からないし」
マリーの頭の中に、「?」の文字が浮かんだ。そんな当然のことを怖がっていたら、生きていけないだろうに。
「それは、当たり前のことなのでどうにも……」
「……」
彼は、再び黙り込んでしまった。気まずい。興味本位だったとはいえ、触れられたくないことだったのかもしれない。
「……君は、かっこいいよね。さっきも、二人に向かってはっきりと自分の考えを言えて。僕には、絶対できないな」
かっこいいで済まされてしまうのは少しばかり楽観的ではあるが、褒められるのはそこそこ嬉しい。
それに、仮に今後彼女たちが難癖をつけてきたとしても、彼の証言があれば何とかなるかもしれない。
「ありがとうございます。ですが、私はそこまでできた人間ではありませんよ。失敗ばかりで、今日だってまだ目的を達成できていませんから」
マリーは、手袋に包まれた自分の手をそっとさすった。刺繍をやる中で、何回自分の手に針を刺してしまったか分からない。
彼は紙袋を少しだけ持ち上げて、その手をじっと覗き込んだ。顔は見えないが、興味を持ってくれているようだ。
「刺繍針でちょっと怪我をしてしまったんです。お見苦しいので、手袋を」
「……やっぱり、かっこいいよ。頑張ることができる人は、かっこいい。僕は、逃げてばっかだから」
不思議と、胸の奥がぎゅっと熱くなった。マリーにとって、頑張ることは当たり前のことだ。
できない自分を取り繕うための努力、そんなものをかっこいいと言ってくれる人は初めてだった。
だからこそ、卑屈な彼に苛立ちが溜まっていく。自分のことを、そんな風に言わないでほしい。
「先ほどから、自分にはできないとか、自分は逃げてばかりだとか、しゃきっとしなさい! あなたは、人に優しい言葉をかけられる素敵な人間ではないですか……!」
今、何と言ったのだろうか。
立ち上がって、感情のままに彼を叱りつけている自分に、マリーは驚いた。
告白をした後のような、高まっていく気持ちに、顔が熱くなる。まるで、自分が自分ではないような不思議な感覚だ。
心臓の鼓動がやけにうるさい。
「……ご、ごめんなさい。それに、ありがとう。その、さっき言ってた君の目的って何なの?」
深呼吸をして気持ちを落ち着かせたマリーは、目の前の彼をじっと見つめた。そうだ。ランス殿下にご挨拶をしなければならない。
殿下と仲を深められれば、きっと両親は喜ぶだろう。
しかし、彼にそんなことを言いたくはなかった。別に、殿下に興味があるわけではないからだ。それに、彼に嫌われたくない。その気持ちを認識すると、再び頭に熱が昇ってくる。
なぜ、彼なのだろう。
今だって小さく丸まっているし、顔すら分からない。
ちょっと褒められただけだ。本当に、ちょっとしたことなのに。
マリーは、この不思議な少年に恋をしてしまったのだった。
「……えっと」
質問に答えようとすると、元気よくリオ殿下がこちらに向かって走ってきた。
何の躊躇いもなく、紙袋を被った彼の手を取る。
「お兄様!お父様がお呼びです……っと、失礼いたしました。ご令嬢とご歓談中だったのですね」
お兄様。今、確かにお兄様と言った。
記憶を手繰り寄せるが、彼を叱りつけた場面が何度も蘇る。
無礼という言葉では済まされない失態だ。
マリーは、初恋の終わりを一瞬にして感じ取ったのだった。
現在1、2章の改稿をぼちぼち進めています。
大筋は変わりませんが、一部内容の変更や追加がある予定なのでよろしくお願いいたします!




