第二章第十話「憂鬱」
「次の動きを決めましょう。私と彼で第二王子殿下の方へ向かうのが最も綺麗な形です。あなたは、第三王子殿下とギーべラント公爵令嬢を連れてゾラと合流してください」
美食家が姿をくらませてから、ミラがすぐさまその場を仕切り始めた。どうやら、リズの事情を察しているらしい。あなたと呼ばれたリズは、顔は見えないものの不服そうにしている。
「あなたは第三王子殿下の護衛としてこの場にいるのですから、自分のなすべきことをしてください。ご令嬢。契約違反になってしまうかもしれませんが、彼をお借りすることを許してくださいますか?」
ミラが少ししゃがんでアリスと目を合わせると、アリスは視線を横に流した。先ほどから、イリアにぴったりくっついて離れないのだ。
イリアは、正直まだ気持ちの整理ができていなかった。美食家に言われた苛立たしい言葉の数々が、何度も頭の中に呼び起こされる。アリスと顔を合わせるのは、何となく気まずい。
もちろん、美食家に言われた言葉は意味が分からないものであった。しかし、何故か妙にしっくりくるような感覚でもあったのだ。
悪いことをしているような、このまま一緒にいてはいけないような気持ち悪い感覚が頭から離れない。
変に吐き気がする。アリスの顔を見ると、それはどんどん酷くなっていった。腹部から何かが込み上げてくる。我慢できない。その瞬間、生温い液体が床に散らばった。
「あなた、大丈夫ですの?」
アリスが小さな優しい手で背中を撫でてくれる。第三王子やアリスのいる前で、汚物を吐き出すなど不敬にもほどがある。しかし、いくら吐いても気持ちは鎮まらなかった。
「おそらく、精神的なものだと思われます。詳しい原因は分かりませんが……もう一度聞きます。彼をお借りしてもよろしいですか?」
アリスには悪いが、今はとにかく距離を置きたかった。彼女の顔を見ていると、気分が悪くなるのだ。
怖い。アリスと関わることに、とてつもない恐怖を抱いていた。頬についた傷跡が、なぜか美しく見えてしまうこの感覚は、何なのだろうか。それは、あまりにも恐ろしかった。もう、関係を切ってしまいたいと思うほどに。
「……アリス様、すみません。僕は行きますね。給与はいただかなくて構わないので、公爵様にそうお伝えください。既にいただいてしまっている分は後日お返しします。僕を護衛に選んでくれて、その後のことも色々、ありがとうございました」
「……何で、そんなこと。そんな、終わりみたいに……行っても構いません。ですが、その後にまた家に戻ってくればいいじゃないですか……やだ、嫌です。何で、どうしていきなり私を避けるの……」
潤いのある瞳が、イリアの胸を締め付けた。もう、しばらくはアリスの顔を見たくなかったのだ。ミラの提案から話があまりにも飛躍しているのは分かっている。分かっているが、生半可な気持ちで待っていてくださいなどと言える自信もなかった。
「ひとまず、許可していただけたようなので彼は借りていきますね。そのお話につきましては、また後にお二人で話し合ってください。こんなことを言うのも気が重くなるのですが、今はそんな話をしている暇はありませんので」
ミラは、イリアに鋭い視線を向けた。怒っているようだが、声は異様に落ち着いている。
ミラに連れられて、イリアは王城の中を歩き始めた。
「その判断は賢明ではありますが、あのやり方では非常に一方的な押し付けです。さて。私からの意見はこのくらいにして、あなたにできることを教えてください」
「……すみません。まだ初心者ですが、少しだけ剣が使えます」
「……警戒心が高いことは大切なことです。しかし、私があなたを連れてきたのは紛れもなくあの力を使っていただくためなのですが」
全てを見透かしているような瞳に気圧されて、イリアは額に汗を滲ませた。
ミラと対面したのは今日が初めてだ。それなのに、彼女はまるでイリアのことをイリア以上に知っていそうに見える。
「何故知っているのか。それは、私が聖女だからに他なりません。そして、私はあなたの力を知っている。その扱い方も、危険性も」
「あなたは、一体……」
ミラに尋ねようとしたまさにその時、長い廊下の奥の方に人影が見えた。
深いローブを被った男性が、ミルクティーのような茶髪の女性を抱えてこちらに走ってくる。
「えっと、僕は。いや、そんなことよりもローズが……それに、マリーの足も」
しどろもどろで、何が言いたいのかよく分からない。イリアまで焦っていると、ミラが女性の足首にそっと触れた。温かい光に包まれたかと思えば、腫れていた足首がみるみる治っていく。
回復魔法とは違って、戻しているのではなく治しているという感じがする。初めて見たが、これがきっと神聖魔法というやつなのだろう。
ミラがローブの中から青白い石を取り出すと、ゆっくり魔力を込めた。
「応援を呼びました。殿下とマリー様はこの場でお待ちください。数十秒もしないうちに、聖騎士団が転移してきます。念のため、こちらを。魔法攻撃に反応して、防御魔法が出てくる魔道具です」
このフードの男性は、第二王子だったのか。彼らがミラの言った通りにその場で立ち止まると、ミラがイリアの腕を強く引いた。
「早く行きましょう。殿下たちを逃がしてからどのくらい時間が経っているのか分かりませんが、転移魔法を使わなかったということは、転移できないほどの怪我を負っている可能性があります」
ミラは一呼吸置いて、真剣な瞳でイリアを見つめた。
「正直、私はローズさんより弱いです。単純な魔法の才能という点でも、精神的な点でも。私が得意としているのは、魔法の制御。私には、サポートしかできません。無理やりな方法ですが、あなたに力を使っていただく必要があるんです」
「……何をすればいいんですか?」
◆
腕がヒリヒリと痛む。執事服の男に担がれているローズの腕は変にだらんと垂れていて、呼吸の仕方もおかしい。しかし、まさかイリアが傷を負うことによって、暗闇が出てくるとは……。
腕からはぽたぽたと血が流れ出ているが、気にせずイリアは彼に向かって行った。
暗闇が、どこを狙えばいいのか示してくれる。無我夢中で、一振りを入れた。鎧のように硬い筋肉にせき止められるが、切りつけるように剣を引く。そこで生まれた隙に、ミラが光魔法の槍を放ち続けた。
「汝らは娘の仲間か? 余はこの娘が気に入ったのだ。故に、余のものとすることにした。それを邪魔しようと言うのなら、たとえ汝らが娘の仲間であっても容赦はせん」
「何を言っているのか理解に苦しみますね。そもそも、彼女には子供もいますし。あなたがおいくつなのか分かりませんが、そういった話し方は不愉快なのでやめておいた方がよろしいかと」
淡々とした声色のわりに、ミラの言葉はなかなか毒が効いている。大柄の男は目を見開くと、抱えているローズへ視線を向けた。
「なんと。余よりも先に娘を気に入った男がいたとはな。随分と趣味がいい男よ。しかし、子がいようなど余には関係のない話だ。余はこの娘が欲しい。そして、余はこの娘に勝利した。勝者の言うことが絶対であろうよ」
まともな感性を持っていないようだ。ミラは、彼の言葉を聞いて深くため息をついた。無性にイライラする。彼の言動と行動が噛み合っていないからか、それがまるで先ほどの自分を見ているようだったからか分からない。
「……さっきから、自分のだとか、欲しいだとか、なんで物みたいに言うんですか。気に入ったなら、どうして傷つけるんですか。僕が言えたことじゃないけど、あなたみたいな人を好きになってくれる人なんていないと思います」
「余を愚弄するか。この嫌な感じよ。汝、騎士であるか? 余は騎士の在り方が気に食わぬ。在り方を改めさせようと説いてくるところも含めてな。汝とは、気が合わなそうだ」
その瞬間、あまりにも素早い拳がイリアを目がけて飛んできた。ローズを担ぎながらこの速さとなると、一体もともとはどれだけ速かったのだろうか。
暗闇が足先までイリアの身体を覆い、そのおかげで何とか避けることができた。彼の動きを、これまで作ってきたイメージの中に取り入れる。
筋肉の動きや足腰のひねりを避けながら深く観察していく。イメージできなければ暗闇は応えてくれない。その動きを、自分のものにするのだ。
「ミラさん。僕が一撃を入れた後、十秒時間を稼いでくれませんか」
「物理攻撃を得意としている相手に無理を言いますね。できるか分かりませんが、了解しました」
彼の動き方のパターンはあらかた掴めてきた。大抵右の大振りで、稀にフェイントで蹴りを入れてくる。力とスピードには自信があるようだが、動き自体は洗練されておらず随分と粗かった。
それに、ローズを庇っているためか無駄な動きが多い。間合いを詰めながら、男に近づいていく、大きな一振りを入れて後退した。その瞬間、ミラが魔法を放ち始める。
男は俊敏に避けるイリアを諦めたのか、ミラにターゲットを変えた。ミラは魔法を放ちながら、器用に魔道具を使って男の視界を潰そうとしたり、創意工夫している。
そろそろだ。そろそろ、頭がぐちゃぐちゃになってきているはずなのだ。イリアは男ではなく、一か八かでローズに剣を向けた。もちろん、手加減はしていない。本気で切るつもりの一撃を、彼女に向けたのだ。
やけに手が震えた。大丈夫だ。男はほぼ確実に庇おうとする。この位置からでは、ローズを抱えながら避けることはできない。
「……汝、正気か!」
案の定、男はローズの前に自分の腕を無理やり突き出した。きちんと体勢は取れていない。しかも、ローズを抱えたままでは力を込めることもできない。中でもわりかし硬くない部分を狙いながら、イリアは最高の一撃を叩きつけた。暗闇のおかげで、力は一段と跳ね上がっている。
男の腕が地面にごとりと落ちた。気を抜いた隙に、担がれているローズに手を伸ばす。彼は抵抗したが、暗闇がイリアに道を作ってくれた。
ローズの首根っこを掴んで後退する。彼女の息はまだある。殺さないぎりぎりを狙ったような状態だった。しかし、左腕が明らかにおかしい。骨が、まるでなくなってしまったかのようにだらんとしている。これは、治せるのだろうか。
「……先ほど、汝に騎士かと問うたのは間違いであった。汝は、騎士とは程遠いものよ。騎士よりも気に食わん。余は、いつか汝を殺す。余の名はゲイル。帝国五武将の一人、獅子王ゲイルである。この名を胸に刻んでおけ」
「やはり帝国からの……逃すわけがないでしょう。命が惜しければ、この場で降伏を」
ミラが杖を構えると、ゲイルが片腕で地面を殴りつけた。地が激しく揺れ、身動きが取れない。彼は、振り返ってイリアを見つめると、太々しくゲートに入っていった。
「肋骨が数本、左腕は……治せませんね。完全に潰れてしまっています。後ほどエリザさんに見せるとしても、この怪我では治しようもないかと。ですが、物理重視の相手によくここまで耐え切りましたね。殿下方も無事に騎士団と合流できたようです。ここに来てから、あなたが一番頑張っていたと思います」
「……励まさなくてもいいわ。本当に、まだ生きているのが不思議なくらいよ……」
ミラが神聖魔法を使うと、小さな声でローズがそう呟いた。暗闇が徐々に引いていくイリアをじっと見つめる。
「……すみませんでした。剣を振るったことも、この力を使ったことも」
「……怒っているわけじゃないのよ。ただ、心配しているだけ……。あなたの中で、人を傷つけるその感覚が当たり前になってしまうんじゃないかって……イリア君には、それを教えてくれる人が必要だわ……」
ローズはだらんと垂れた左腕を庇うように立ち上がって、右手でイリアの頭をわさわさと撫でた。ミラの前で子供扱いされるのも恥ずかしいのだが、久しぶりの温かさは心地よい。
ここ最近は大人になろうと精一杯だったからか、重石が取り除かれたかのように心が軽くなった。
「転移魔法を使っていただくことは可能ですか?一旦、皆さんと合流したいのですが」
「……あと少しだけ、魔力が回復すれば転移できると思うわ……」
「では、私の魔力を使ってください。あんまり激しく吸わないでいただければ構いません」
ローズがミラの手を握って少しすると、白い光が視界を覆った。目を瞑ると、全員が集まっているざわざわとした空間に出る。王城内ではなさそうに見えるし、外でもない。
ゾラが糸目を細めて、転移してきたばかりのイリアたちに視線を向けた。
「死者は一人もいません。そちらはどうですか?」
「こちらもだよ。転移場所を十一魔賢本部に設定していたおかげで、万全の体制で動くことができた。まさかミラがここまで口を出してくるとは思わなかったけれど、おかげで上手く事が運んだ。彼は、君の言った通りだったようだね」
ゾラがイリアをじっと見つめると、ミラは小さく頷いた。
「あの組織が何をしようとしているのかは分かりませんが、彼を堕とさせはしません。彼の力は、王国のために使っていただくつもりです。では、私は彼と話したい事がありますのでこれで。ローズはエリザに腕を見せに行ってください」
何の話をしているのか分からないが、ミラに連れられてイリアは人気の少ない廊下に来ていた。ゆっくりと呼吸をすると、ミラがイリアに向き直る。
「改めまして、本国の聖女で十一魔賢が一人、ミラ・グレイスと申します。以後、お見知り置きを」
「えっと、イリア・ソルフリートです……その、ミラさんは僕の力について知っているんですよね?」
「ええ。私の知り合いも、あなたと同じような力を持っていたんです。ですから、ある程度の理解はあります」
ミラは何かを言おうとして、押し黙った。暗闇の力を知っていたとは。それなら、魔賢会談の時に、何故それを教えてくれなかったのだろうか。
ミラの情報があれば、大きく暗闇の謎に近づけるはずだ。そうすれば、誰も傷つけずに誰かを助けることだってできるようになるかもしれない。
「その知り合いの方に会わせてくれませんか?僕は、知りたいんです……この力が何なのか」
「……すみません。その人は、もう亡くなっているんです。私は、あなたにその人と同じようにはなって欲しくないと思っています」
ミラは深く息を吸った。まるで、これから死を宣告する医者のような、覚悟を決めた真剣な表情だった。
「……あなたは、人を切ることに抵抗はありましたか?」
「……少しはありましたけど、とにかく必死だったので……途中からは無我夢中で」
「その感覚が、ダメなんです」
「その、何が言いたいのか分からないんですけど。つまりそれは……」
遠回しに言うことを諦めたのか、ミラは顔を歪めてイリアをじっと見つめた。
「その力は、あなたの正常な感覚を蝕んでいきます。ちょっとした感情でも、狂気的に増幅するのです。あなたが、いずれ周りの大切な人間をも殺してしまうかもしれないというお話をしています」
それは、お前はいずれ殺人鬼になるかもしれないと宣告されているようなものだった。




