第二章第二話「騎士道」
「まさか、ここまで体力がないとはな。その貧弱な身体で、どうアリス様をお助けしたのか……」
リリメルは地に伏せているイリアを見つめ、深いため息をつく。
何かの勘違いでリリメルに目をつけられてしまったこともあり、イリアは過酷な体力作りに駆り出されていた。騎士団長の任務を副団長に託した後から、リリメルはイリアにつきっきりだ。屋敷周りを百周した後にすぐさま素振りを千回。数分の休憩後に、いきなり実戦訓練などと称して彼女のサンドバッグにされる始末。
地獄。控えめに言って地獄だった。しかし、イリアの横について回っていたリリメルは爽やかな汗を拭って平然としている。
どんなトレーニングを積んでいれば、こうなるのだろうか。
「そろそろ食事の時間か……アリス様が卿をお待ちだろう。明日も待っている。せいぜい身の程を弁えるのだな」
「……はい」
明日は筋肉痛にうなされることになるだろう。間違いない。壁に手をつきながらふらふらと歩いていると、アリスが騎士団の控え室で読書をしながら待っていた。
「……お待たせいたしました」
へっぴり腰でイリアが中に入ると、アリスは目を丸くしてじっとその姿を見つめた。そのまま少し経ってから、何も見なかったかのように本に目を落とす。
「あの……アリス様?」
「……っ、ごめんなさい。あまりにも可笑しくて」
アリスは口元に手を当てて、必死に笑いを堪えようとしていた。そんなに変だろうか。身体がぴくぴくとするのを何とかしようとしたが、意識で何とかなるものではない。
恥ずかしさでその場に座り込むと、本を閉じたアリスがイリアの前に歩いてくる。
「それ、広間まで戻れますの?」
「はい。歩くのは遅いかもしれませんが……」
アリスは面倒くさそうに顔を歪めたが、イリアの首根っこを掴んでずるずると引きずり始めた。
妙に身体が軽い。それに、引きずられているのに摩擦の感覚がなかった。流石に小柄で非力そうなアリスが、イリアをそのまま運べるとは思えない。どうやら、身体を浮かせる魔法でも使っているらしい。
情けない姿でしばらく引きずられていると、あっという間に広間についていた。
「……すみません」
「別に構いませんわ。それにしても、リリメルは厳しすぎますのね……今度言い聞かせておきますので」
「いえ、それは大丈夫です。本当に」
そんなことをされてしまっては、本格的にイリアの命が危うい。アリスは不思議そうな顔を浮かべたが、イリアの熱意に押されて納得してくれた。
それにしても、あれほど優秀そうな騎士がいながら、なぜアリスは彼女をそばに置かないのだろうか。食事を口にしながら、ふとそんなことを思った。
仲が悪いわけではなさそうだし、リリメルがアリスに向ける忠義はなかなかのものである。彼女の方が、イリアよりも頼りになるに違いない。
「アリス。リリメルは相変わらずだったかい?」
「いえ、今日は珍しく話が通じましたわ。おかげで不快な思いをせずに済みましたけれど」
公爵の質問にアリスがそう答えるのをイリアはじっと聞いていた。珍しくとはどういうことなのだろうか。
「そういえば、君にはまだ話してなかったね。リリメルは、アリスのために平民から騎士に成り上がった子なんだよ。まぁ、こちらが彼女を認知したのは騎士になってからのことなのだがね」
「無駄に手を握ってきたり、私が怒っている時もにやけ面で話は全然聞きませんの。それ以外にも色々。距離を置いていましたが、いつの間にか騎士団長になっていたなんて……」
アリスは口をへの字に曲げた。しかし、ここまでの言われようとは。少しだけリリメルを可哀想に思ってしまう。
アリスは迷惑そうにしているが、良い意味でいえばリリメルは一途だ。一人の人間のために、自分の人生をかける感覚はイリアにはまだよく分からない。それでも、そばにいることではなく、そばで守ることを選んだところは素直にかっこいいと思えた。
どうりで、イリアへのあたりが強かったわけだ。アリスを守ろうとする一心が強いのだろう。そう考えてみると、行きすぎた勘違いなどにも納得がいく。
「……なるほど」
「あなたも、何か気に触ることをされたらすぐ私に報告なさい」
翌朝、ひどい筋肉痛でイリアはベッドから起き上がることすらままならなかった。それでも無理やり身体を起こして、服に袖を通す。
昨日は散々な目に遭ったが、彼女がアリスを思っていることだけは理解できた。
しばらく気怠くて動く気にもなれなかったけれど、少し休憩してからアリスを迎えに行った。毎度ついて来るのも大変だと思うのだが、アリスに毎朝迎えに来るように言われたからだ。
眠い目を擦りながらぽやぽやとした様子のアリスが出てくると、二人で騎士団の控え室に向かう。
「このような早い時間から、アリス様までいらっしゃらなくても良かったのですが……」
リリメルがイリアに不審な視線を向けると、アリスが間に挟まって彼女を睨みつけた。
「あなたが信用できないから、私が手間をかけて足を運んでいるということをくれぐれも忘れないように」
「左様ですか。私の行動は全てアリス様のためを思ってのものなのですが」
反抗的な返事を残して、リリメルはイリアに目配せした。アリスと別れて昨日と同様の訓練をこなす。全身が痛い。動くことをやめてしまえば、その痛みはよりひどくなるだろう。
身体中から汗が噴き出ているような感覚と、熱を帯びた筋肉が、不思議と気持ちを高揚させた。
「剣の振り方がなっていない。まず、頭上までしっかり持ち上げろ。肘を伸ばしながら前へ振り下ろす。この時に、腕だけではなく腰や足も使うんだ。素振りを完全にできるようになってから、次に入る。私が良しと言うまでやり続けろ」
スパルタではあるが、きちんと教えてくれている。しかし、真面目に言われたことを実践しているうちに、数刻が経った。リリメルは地面に座ったまま動かない。イリアの素振りをずっと見ているだけで、一言も話さないのだ。
そこまで出来ていないのだろうか。そう何度もやっていると、自分でも腕の感覚がよく分からなくなってくる。
やり続けるしかない。終わりの見えない理不尽な時間だけが経過していく。いつになったら終わるのだろう。昨日の疲労が残っていたこともあって、精神はわりと限界に近づいていた。
「少し休憩にする。水分を取っておけ」
休憩。これが終わった後も素振りはやり続けるということだ。木刀を地面に置いて、イリアは水を一口喉に流し込んだ。燃えるように熱くなっていた全身に恵みが染み渡る。
ここまでくるとイライラもなくなっていた。むしろ、絶対に良しと言わせてやるという謎の気合いが入るまである。
木刀を手に取って素振りを始めようとすると、リリメルが口を開いた。
「良し。生半可な気持ちで剣を握るというのであれば容赦はしなかったが、どうやら私は卿を見誤っていたらしい。良い根気だ。私情で剣を向けるなど言語道断。アリス様の騎士として恥じるべき行為であった。昨日はすまなかった」
リリメルは姿勢良く腰を曲げた。イリアが呆然としていると、彼女は顔を上げて申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「……全然気にしてないので大丈夫ですよ。むしろ、お忙しい中教えてくださってありがとうございます」
「気を使わせてしまってすまないな。だが、本気でやるというのであれば私も敬意を払おう。まだ卿を認めるわけではないが、アリス様を守るために卿が強くなろうとしていることだけは分かった。アリス様の横に立っても問題ないくらいに叩き上げてやる」
それからは、ひたすら剣を扱う上でのコツを伝授された。
「振り下ろした後に構えを崩すな。相手からの次の一撃にも、自分の次の攻撃にも対応できなくなる。最後まで足に力を入れて、いつでも動けるようにしておけ」
地道にやることが一番大切らしいが、理論的な説明が入ってからイリアはみるみる吸収していった。
何をやるにも向き不向きがある。イリアは正直、剣術に向いていないと勝手に思い込んでいた。しかし、まさかやり方だけでここまで変わるとは。何事も試してみるものかもしれない。
そう思うと、不思議と疲れも吹き飛んだ。
「最初はどうなることかと思ったが、筋は良い。理解力が高いのだな」
「ありがとうございます!」
爽やかな汗をかいて剣を振る。なかなか悪くない。何よりリリメルは教えることが上手く、的確な意見をくれるためありがたかった。
「実践はここまでにしよう。次に、剣をもつものとして騎士道を理解してもらう」
「……騎士道ですか?」
「ああ。卿はアリス様の部下ではないが、護衛として恥じない人間であるべきだ。また、礼儀を欠かすな。女性を立てることはもちろんのこと、褒め上手になるんだ」
騎士としての精神まで身につけるつもりは全くなかったのだが、興味がないわけではない。何なら、スマートに色々とこなせないことに悩んでいたこともあるくらいだ。
騎士道を理解すれば、大人になるための第一歩が踏み出せるような気がした。
「私自身が最も大切にしているのは、敬意だ。主人であるアリス様はもちろんのこと、自らを守る力を持たない者、そして何より真っ直ぐに努力し続ける人間への敬意は怠らないようにしている」
「……なるほど」
「難しく考える必要はない。これは、あくまで私が大切にしていることだ。卿がすぐに実践できそうなのは礼儀だろう。相手をよく見て、素直に褒めればいい」
相手をよく見て、素直に褒めるだなんてやったことがない。何を褒めればいいのかも分からない。これですぐに実践できそうなことだと言うのだから、やはり騎士道は奥が深い。
「……具体的にはどういうことですか?」
「仮に、そこをアリス様が歩いていたとする。アリス様は、本日も見目麗しいですね。その姿を一目見ることができ、恐悦至極にございます。そう言った後、手の甲にキスするのだ。騎士であればこれくらい当然だろう」
自信げに語るリリメルの話は多少参考にはなるのだが、いかんせんイリアには難易度が高すぎる。いきなりそんなことをしたら、嫌われるのではないだろうか。
今日学んだことを振り返りながら泥だらけで控え室に戻ると、アリスは目を丸くした。しかし、イリアのすっきりしたような表情を見て頬を緩ませる。
「昨日よりも少しばかり男前になった気がしますわね」
「ありがとうございます。お美しいアリス様にそう言っていただけて嬉しいです」
アリスが手を滑らせて本を床に落とした。イリアがそれを拾い上げると、呆然と突っ立っている彼女に手渡す。アリスはそれを受け取ると、顔を赤らめてイリアの目をじっと見つめた。
「……ありがとうございます」
「いえ、戻りましょうか」
騎士道は難しいが、これから少しずつ実践していけば、いずれはリリメルのような雰囲気を放った人間になれるかもしれない。そう思うと、胸の奥からやる気が湧いてくるのだった。




