番外編【①】「昔と今」
他所行きの服に悩み始めてからしばらくが経った。十一魔賢としてではない外出など数年ぶりで、何を着たらいいのかよく分からなかったのだ。
「お母様、そろそろフィル様とのお約束のお時間になります」
「……分かっているわ」
時間もないということで、ローズは子供たちに見送られて屋敷を出た。人目につかないように裏通りを抜け、昔からずっとある喫茶店に入る。
一週間と少し前にも見た顔が、嬉しそうにこちらをじっと見つめていた。
「まさか本当に来てくれるとは思わなかったよ。ありがとう。今日も君は美しいね」
「……それ、やめて頂戴。好きにしたらとは言ったけれど、頻繁に会えるほど私も暇じゃないわ……」
ローズが目を泳がすと、感じの良い笑顔を浮かべたフィルがメニューを手渡した。それを受け取り、コーヒーを注文してから一息つく。正直なところ、昨日まで行くか悩んでいた。
もう一度会ってしまえば、彼をまるで許したかのように思ってしまいそうで怖かったのだ。
七年。
ローズの人生の四分の一だ。半分にも満たない。それでも、その七年が占める重さは、数字だけでは測れなかった。
少し前までのローズなら、彼に会おうだなんて考えもしなかっただろう。しかし、いざ少しだけ顔を見合わせてみるとその考えも変わった。ローズが背中を追い続けることしかできなかった彼は、良い意味で思っていたほど完璧な人間ではなかったのだ。
「前会ってからあまり経ってないはずなんだけど、何だか柔らかくなったね。あの子のおかげかい?」
「……そうね」
最初に会った時は、自分では何もできない子供に見えた。しかし、イリアは日々の中でみるみる変わっていった。イリアとの出会いを通じてローズが変わったと言われれば、それはきっとそうなのだろう。
「……イリア君は、出会ったばかりの頃のあなたに少し似ているわ……。比べるまでもなくあの子の方が優しくて、いい子だけれど……」
「耳が痛くなる話だね。あの頃は、僕なりに君に振り向いて欲しくて必死だったんだけどな」
皮肉を言うつもりはなかったのだが、フィルが寂しそうな笑みを見せると、ローズは少し悪いことをしたような気分になった。
「あの子は本当に凄いね。最近は、君の評判も良くなっていると聞くよ。僕は君の幸せじゃなくて、自分の幸せしか考えていなかったんだなって思わされた」
「……別に、あなたを許すわけではないけれど。昔はそれでも、悪くはなかったわ……」
ローズはフィルと過ごした時間を振り返りながら微笑んだ。
「どうせなら、罵倒なり何なりしてほしかったな。君は優しすぎるから、心配になる」
「……優しくなんて、ないわよ。支援金だって、本当は……」
本当は、フィルとの繋がりを完全に失うのが怖かっただけだ。彼からすれば、謝罪の意を込めたお金だったのだろう。しかし、ローズにとってはそれが唯一の彼との接点であった。
顔を合わせたくはないが、繋がりは欲しかっただなんて欲張りにもほどがある。未練がないと言えば嘘になるが、今更どうにかなろうというつもりもない。許せないのと、彼を嫌いになるのはまた別の話だった。それだけだ。
こうして二人で会話をしていることだけでも、今のローズには十分だった。
「……そういえば、体調は大丈夫なの?」
一見至って健康そうにしか見えないフィルの顔を見つめ、ローズは眉を顰める。
「……聞かれる気がしていたよ。今は安定しているから大丈夫。元はと言えば、侯爵家の息子としての自覚が足りていなかったのが悪いんだ」
「……ただの病気じゃないのね?」
店主がちょうどコーヒーをローズの前に置いていった。一口飲んで呼吸を整えると、ローズはフィルに向き直る。
「そうだね。醜いからあまり見せたくはなかったんだけど、ここまで言って見せないのも失礼だろう。君にこんなことを頼むのも酷い話だな……どうか引かないで欲しい」
そう言ってシャツのボタンをいくつか外すと、真っ黒な紋様が彼の身体にびっちり刻まれていた。その毒々しい見た目にローズは思わず目を見開いて、しばらく一言も発せなかった。
呪いだ。
それも、生半可なものではない。明確な殺意と悪意が見て取れる。ここまで大規模な呪いを受けておきながら、呑気にローズのもとへ訪れていた彼の気がしれないと本気で思った。
「……ミラちゃんには、見せたの? あの子なら、もしかしたら……」
「聖女様にはとっくに見せに行ったんだ。残念だけれど、どうしようもできないらしい。でも、そのおかげで君と話すことができたのだから呪いも悪くないかもね」
助からない。王国屈指の聖女であり、十一魔賢の一人であるミラがそう言うのであれば間違いないのだろう。
「……冗談はやめて。それ、痛まないの……?」
ローズが躊躇いもなく紋様に触れると、彼の身体がぴくりと動いた。凹凸があるわけではない。どうやら、紋様が身体に馴染んでいるらしい。
「……ローズ、あの」
ローズが顔を上げると、フィルは顔を真っ赤にしてこちらを見つめていた。ぱっと手を離そうとしたが、彼がその手をぎゅっと握りしめる。二人の間に、妙に速い鼓動だけが響いているような気がした。
「……」
「……分かってる。勝手なことをしてすまなかったね」
フィルが手を離してから、しばらく沈黙が続いた。気を紛らわせようとコーヒーを口にしたり、窓の外を眺めたりしたが、なかなか気分は晴れない。彼に目を向けてみると、じっとこちらを見つめていた。
「僕は、もう長くない。もっと前から分かっていたことだけど、今は少しだけ怖い。またなんて言わない。今日で終わりにするよ。お互いのためにね。ありがとう、ローズ」
フィルの満足そうな笑みを見て、胸が痛くなった。途端、魔力を大量に持ってかれるような感覚が身体中に走った。酷い目眩で彼の姿がぼやける。
イリアと子供たちに渡したネックレスが発動したらしい。
これは、身に着けた者への殺意に反応する魔道具だ。ローズ自身とパスを繋いでいるため、発動に必要な魔力は彼女が負担する。
この魔道具が発動したということは、子供たちかイリアに何かがあったということだろう。屋敷の結界には何の反応もない。そうなると、イリアのネックレスが発動した可能性が高い。
「ローズ、大丈夫かい?」
フィルが心配そうな表情を浮かべてローズを見つめると、耳が痛くなるほどの大音量で魔法放送が流れた。
「あー、聞こえていますかねー?
国民の皆様ごきげんよう。私たち、ネームレスが国家の崩壊と魔法使いの殲滅を予告いたします。既に複数の貴族家への襲撃を開始しております故皆々さんもお気をつけて!
先に私たちを見捨てたのは紛れもないあなた方なのですから。
以後、お見知り置きを」
その放送が終わった瞬間、王都の方向からとてつもない爆発音が鳴り響いた。王城から煙が上がっている。
非常事態だ。ローズは立ち上がろうとしたが、まだ目眩から抜けられない。フィルがローズを支えたが、ざわつく人々の声や急激な魔力不足にローズは頭が全く働かなかった。無理矢理残りの魔力を身体中に巡らしていく。
おそらくすぐに要請が入るだろう。とは言え、既に任務で離れた場所にいる十一魔賢も複数名いたはずだ。命じられるより先に、王族の安否確認や王都の被害状況を確認する必要がある。
「ローズ、行ったらダメだ。周囲の魔力が丸ごと呑み込まれている。僕の魔力もほとんど残っていない。君がやったんだろ? それなのに、魔力不足の症状が出ているなんておかしい。そんな身体では、行ったところで何もできない」
「……そんなこと、分かっているわよ。それでも行くのが十一魔賢なの……あなたには悪いけど、私は行くわ……」
店を出ようとするローズの腕を、フィルが掴む。心配しているのだろう。彼は昔からずっとそうだった。ローズからしてみれば、昔と変わらないのはフィルの方だ。自分を心配するその瞳は、優しさに溢れている。その優しさが、愛おしいと思った。
「……相変わらず、心配性なのね」
「君だから心配なんだ。他のことなんてどうだっていい、ローズが心配だから言っているのにどうして……」
フィルの手は冷たく、震えていた。少しの間その手をぎゅっと握りしめると、彼の目をじっと見つめた。きっと、これが最後だ。彼はまだここにいるのに、そんな気がした。
「……じゃあ、また」
王城近くに転移できるほどの魔力は溜まっていなかったが、できる限り飛べる距離まで転移する。壁際に寄って、少し呼吸を整えた。
振り返ることはしない。
ローズは、王都を目指して歩き始めた。




