第一章第十一話「現実」
こんこんと扉を叩く音が聞こえてくる。ゆっくりと目を覚ましたイリアは、眠い目を擦った。扉を小さく開いて覗いてみると、二つ隣の扉をアリスが何度も叩いている。
そこは、リズの部屋だ。扉を開ける音に気づいたアリスが、こちらを向いた。
「あなた、そっちの部屋でしたの。てっきり……いえ、何でもありませんわ」
「何かご用ですか?」
まだ早朝ということもあり、イリアは部屋を出る支度を済ましていなかった。扉から顔を少しだけ出してアリスを見つめると、彼女の冷たい手がイリアの頬をつねる。
「用がないと来てはいけませんの?」
「……いえ。朝は肌寒いので、羽織ものをお召しになった方がいいですよ。少々お待ちください」
イリアは着替えてからローブを取り出すと、再び扉を開いた。アリスにローブを被せ、自分も外に出る。
「あなた、ローブがなくなると更に弱そうに見えますわね」
「……そうなんですかね。他の人にも似たようなことを言われました」
家を出る時に、リズもイリアのコーディネートに苦戦していた。自覚がないわけではないが、イリアには魔法使いらしい雰囲気がないらしい。実際のところ魔法使いではないため、それは正しいといえる。しかし、形すらも取り繕えないことに内心は複雑な気持ちだった。
「……えっと、どこか行きますか?」
アリスは何かを考えるような仕草を見せた後、真っ直ぐ指を指した。イリアが出てきた扉だ。
公爵令嬢と二人で密室にいるのは流石に良くないだろうとも思ったのだが、もしかしたらアリスはイリアを信用する材料を集めようとしているのかもしれない。
それで少しでも彼女の気持ちが楽になるのであれば、イリアは断る気にもなれなかった。アリスを中に通し、扉を少しだけ開けておく。
彼女は静かにベッドに腰掛けると、周りをじっと見渡した。
「荷物が随分と少ないんですのね」
「……何を持ってきたらいいのか、よく分からなくて」
「具合はどうですの?」
「……僕のですか?」
アリスはこくりと頷くと、ゆっくりと紫眼をこちらに向けた。突拍子もない質問だ。
「いつも通り、普通です」
「そう」
静かになった部屋の中で、イリアはアリスをじっと見つめた。よく眠れなかったのか、少しばかり顔色が悪いように見える。
「大丈夫ですか?」
「ええ」
アリスの額には汗が滲んでいた。呼吸も先ほどより荒くなっている。明らかに異常な様子だ。
「アリス様、とりあえず部屋を出ましょう」
「黙りなさい」
「で、でも」
「大丈夫だって言ってるでしょう。顔を合わせた時からずっと、その同情するような目が気に入らないのよ! 私は、同情して欲しかったわけでも、共感して欲しかったわけでもないのに……!」
イリアがアリスの手を取ろうとした瞬間、強烈な風魔法がイリアに向かって飛んできた。その衝撃で思いっきり壁に叩きつけられ、身体の所々に切り傷がついた。
「……ぁ、そんなつもりじゃ。……で、制御が……」
精神を蝕み、理性を失わせる──昔、本で読んだ精神操作系魔法の症状と一致していた。イリアが痛みを堪えながら瞼を開けると、アリスは駆け足でどこかへ行ってしまった。追わなくてはいけない。そんな気がしてならなかった。変な胸騒ぎが、今アリスを追わなければ後悔すると言っているのだ。
ゆっくりと立ち上がろうとしたが、足元がやたらふらつく。壁伝いに歩いていくと、鏡の前で足が止まった。頭を家具にでもぶつけたのだろう。血がゆったり流れ出ている。
不思議なことに痛みは引いていった。それよりも、アリスを追わなければならない。そんな焦燥だけが、頭の中を埋め尽くしていた。
「イリア君……?」
音を聞いて様子を見に来たリズが、こちらをじっと見つめていた。焦りが顔に表れている。
「治さなきゃ、血が」
「……精神操作系の魔法を使ってる人がいる可能性が高い。アリス様だけじゃない。みんなが危ないかもしれない。リズさんは、公爵様の様子を見に行って。僕は……」
「そんなことよりも、怪我を」
回復魔法を使おうとするリズの手を取り、イリアは彼女の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「浅い傷だから、止血しておけば大丈夫だと思う。ちゃんと仕事をしないと。リズさんの知り合いなんでしょ? お願い」
「……分かった」
リズはイリアにタオルを手渡すと、その場を後にした。流れ出る血をタオルで押さえながら、イリアは書斎に向かう。念のため掃除用の箒を拝借し、開けっ放しの地下階段を一歩一歩降りていくと、二つの影が見えた。
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ラベンダーのような紫髪をなびかせて笑いかけるあの顔が、ずっと忘れられなかった。
「アリス」
そう呼びかけられて重い瞼を開くと、温かい手が優しく頭を撫でる。頬を緩ませて身体に抱きつくと、あの人は嬉しそうに私の小さな身体を抱き上げた。
「……お母様、怖い夢を見た気がするの。お母様はいなくならないよね?」
「アリスは昔から怖がりさんね。ほら、今日はあなたの専属メイドを決める日なんだから。行きましょうか」
あの人に抱えられて広間に行くと、私が生まれた頃から世話をしてくれている複数人のメイドが並んで待っていた。誰が選ばれるのかとそわそわしていながらも、皆が優しげな表情で私たちを出迎えてくれる。
「あなた、アリスに決めてもらうってことでいいのよね?」
「ああ、本人が決めた方がいいだろう。さあアリス、選びなさい」
正直なところは、誰だって良かった。屋敷にいる人はみんな私に優しくしてくれるし、私のことを一番に考えてくれる。
ただ、この日はちょっと誰かに優しくしたい気分だった。仕事は全然上手くできないし、よく分からない場所で転んだりもする。そんな、自信のなさげなメイドがふと目に入った。
「ニナにする」
私がそう言うと、あの人は嬉しそうに笑った。ニナは、まさか選ばれるだなんて全く思っていなかったらしく、周りのメイドに背中を押されて私の目の前に立った。
「お、お嬢様……ほっ、本当に私でよろしいのですか?」
「うん」
大袈裟に涙を流して喜ぶ彼女の姿を見て、私は気分が良くなった。ニナは、頑張り屋さんではあるものの大事なところでいつも失敗する。
「お、お嬢様……! 見てくださいこのお花。殿下から送られてきたものだそうですが、愛らしいお嬢様にぴったりですね。私、花瓶を用意してきます!」
そう言って屋敷で一番立派な花瓶を運んできたかと思えば、すぐ机の角に足をぶつけて落っことしそうになる。
私は何となくそうなるのではないかという経験から、こんな時には魔法で花瓶を受け止めて机に戻したりと余計な手間をかけて彼女の仕事を陰ながら手伝うのだ。
そんなドジで何にもできないニナが憂鬱そうな顔を浮かべていた時は、少し話でも聞いてあげるかと彼女をこっそりティーガーデンに誘った。
「……実は、弟の病状があまり良くなくて。お暇をいただきたいのです。お嬢様には私なんかよりも、もっと色々できるメイドがそばにいた方がいいと思います……」
「そう」
翌日、私はお父様にニナの弟を何とかしてあげることはできないのか尋ねに行った。誰かのために何かをしたいと私が言い出したことが嬉しかったらしく、お父様はニナが辞めなくてもいいように彼女の弟の治療費を全額我が家で負担することを決めてくれた。
「お嬢様、ありがとうございます」
泣き虫なニナは、嬉しい時も悲しい時も号泣する。主人の前でわんわん泣くのはどうかとも思うが、彼女の裏表がないところにはとても好感を持てた。
「お嬢様、奥様が書斎にお呼びですよ」
あの人が私を書斎に呼ぶ時は、大抵いつもの合図だ。本棚の本を並び替えて、地下の階段を抜けていくと緑が一面に広がる。あの人とニナは、私が魔法で作った偽物を本物よりも愛してくれた。
「アリスの魔法は本当に綺麗ね。ニナもそう思うでしょう?」
「はい……! 何度見ても素晴らしいです。お嬢様ほど美しい幻想魔法を扱える方は、いないのではないでしょうか」
「……大袈裟ですわ」
そう言って私が恥ずかしがると、あの人はニナに耳打ちするのだ。
「アリスったら、照れているのね」
「そんなところも、とっても可愛らしいです」
こっそりする気があるのか、その小声は私に筒抜けている。頬を膨らませる私を見て、あの人は小さな手を優しく握った。三人で並んで森を抜けると、白い花が咲き乱れる野原が一面に広がる。
「アリス、花冠は作ったことがある?」
私が首を横に振ると、あの人は楽しそうに花を編み出した。ニナは、普段は何にもできないくせに職人のような手つきで冠を作っていく。二人は、各々が作った冠を私の頭の上に乗せると手を取り合って嬉しそうにしていた。
「……お母様。その、これの作り方を教えてくださいませんか?」
「いらっしゃい」
あの人の膝の上に座って、私は花冠の作り方を教えてもらった。夢中になって何個も作っていると、ニナが口を開く。
「お嬢様、確か明日は殿下がいらっしゃる日でしたよね?」
「ええ」
「指輪を作ってはいかがでしょう。殿下も、お嬢様が作ったとなればさぞお喜びになられるに違いありません」
あの人も嬉しそうに頷くと、私は白い花で指輪を作ることにした。恥ずかしい気持ちもあったが、殿下は顔を合わせる度にプレゼントをくださったり、髪型やドレスを褒めてくださるマメな方だった。
たまには、私から何かを贈るのも悪くないかもしれない。
魔法で作られた花ということもあって、見た目は質素だけれど永遠に枯れることのない花だ。彼であれば、ずっと大切にしてくれるだろう。
「アリス。どうかした?」
真っ直ぐな青い瞳がこちらを覗き込むと、私は驚いて目線を泳がせた。
「殿下にお渡ししたいものがあって……」
白い花の指輪が入った箱を手渡すと、殿下はそれを開けて目を丸くした。
「これ、魔法で出来ているのかい?」
「はい。まだまだ拙いですが、私がお作りしました」
「……アリスは本当に凄いな。ありがとう。大切にするよ」
殿下は嬉しそうにはにかむと、私の手をぎゅっと握った。真剣な眼差しに、身体が強張る。
「アリス。君がここまで魔法を使えることは、どれほどの人が知っているんだい?」
「お母様とニナは全部。お父様も……多少は知っているかと思います。それ以外の人には、見せたこともありません」
「アリスの魔法はとても素晴らしいものだけれど、その力をきっと多くの人が欲しがるし、妬むだろう。僕の権力争いに巻き込みたくないんだ。だから、君の魔法は今言ったみんなと僕だけの秘密にしよう。約束してくれるかい?」
「……お約束いたします」
殿下と小指を結んだ時、彼の優しさが身に染みた。きっとこの時の心の温かさは、永遠に忘れることがないだろう。
殿下をお見送りした後、あの人はとても嬉しそうな笑顔を見せた。
「お母様、どうかされましたの?」
「……アリスの婚約者が殿下で本当に良かったなって思っていたのよ。お母様と並び立てるくらいアリスを大切にしてくれる人でなきゃ、安心できないもの」
そう言って私を抱きしめるあの人の身体はぽかぽかしていて、心地良かった。
途端、妙な感覚がアリスの身体を駆け抜けた。はっと目を覚ますと、見知らぬ顔の男が階段を降りて偽物の森に足を踏み入れようとしているまさにその瞬間だった。
「はじめまして並びにごきげんようお嬢様。ずっと寝てれば、痛い思いせずに死ねたのにもったいないなぁ」
その男は、老人を思わせる真っ白な長髪をかき上げ、口角を上げて気味の悪い笑顔を見せた。どこを見ているのか分からない、色素の薄い瞳がじっとこちらを見つめる。アリスは杖を構えたが、彼は両手を上げて降参のポーズを取った。
「ちょっと待ってよ。せっかくの機会だしさ、お話しようよ」
「あなたと話すことなんてありませんわ」
「そうかな? 知りたいんじゃないの、気になってたんじゃないの、後悔してたんじゃないの、お嬢様が大好きだったお母様とメイドについてさぁ」
その言葉を聞いてアリスが黙り込むと、嬉しそうに彼は笑った。
「お嬢様は大好きなお母様の仇を討ちたくて、大好きだったメイドを殺したんでしょ?優しい殿下が何とかそのことを有耶無耶にしてくれたけど、君の人生は狂った。分かるよ。内心ではずっと疑問だったんだよね。あの子が、そんなことするはずないのにって。とっても悲しいお話だよね」
「……お前が、知ったような口を聞くな」
怒りがふつふつと湧き上がり、彼の口を今すぐにでも閉ざしてしまいたい衝動に駆られる。しかし、彼は気楽な様子で続けた。
「でもさぁ、あの時のお嬢様って正直周りが見えてなかったよね。まぁ、実際にやったのはあの子なんだけどさ。ただ魔法で操られてただけなのにね。あの子、死ぬ間際になんて言ってたのかな?身に覚えのない罪で、一番大切にしていた君に殺されたんだから最悪の気分だったに違いない!可哀想に」
にこやかな笑みを浮かべてそんなことを口にする彼を見て、アリスは握っていた杖を手放した。ニナは、お母様を殺していなかった。
当然、当時も最初はニナがやるわけがないと思っていた。彼女が淹れた紅茶に毒が入っていたとしても、彼女が犯人だとは限らない。
しかし、屋敷中を探し回っても、どれだけ調べても、ニナが犯人である証拠しか見つからなかった。
死ぬ間際……彼女は何と言っていただろうか。聞かないようにしていた。裏切られたと決めつけて、見ないようにしていた。血まみれになりながら、自分に手を伸ばそうとした彼女はどんな顔をしていたのだろう。
「ねぇ、お嬢様。これって、全部お嬢様のせいじゃない? 大切な人を不幸にしちゃうお嬢様なんて、死んじゃった方がいいと思わない?」
彼は、良いことがあってはしゃいでいる子供のように笑った。




