第一章第十話「燈」
「で、どうするのか聞いているのですけれど」
アリスの瞳が、イリアをじっと見つめる。氷のように冷たい紫眼が、次はお前だと言わんばかりにイリアを射抜いていた。
「……どうも、しません。僕には、その経緯も分かりませんし。その人を悪だと決めつけることもできません」
イリアは、リズやローズ、エリザの顔を思い浮かべた。
「何があったとしても、結局のところ前に進むしかないんだと思います。だったら、そのお手伝いができたら……かっこいいなって」
正直、まだ自分に自信はないし、生きていくことに心から喜びを感じることはできない。
過去が変わることはない。それでも、彼女たちの言葉は少しずつ自分を変えてくれている気がするのだ。
傷は消えない。それでも、その傷を増やさないように歩くことはできるのかもしれない。
「……変わってますのね。生憎、私は他人に頼るつもりはありませんので」
アリスはそう言うと、気が楽になったような様子でティーカップを口に運んだ。
「……頼るつもりはありませんが、あなたくらいなら傍に置いても害はなさそうですわ。あなた、私の護衛になりなさいな。ひょろくて見ていられませんもの。勝手に死らないように、私が監視して差し上げますわ」
「……ありがとうございます」
まるで、アリスがイリアの護衛のようではないか。いや、頼りないというのも自覚はあるのだが……任されたからにはきちんと護衛らしいことをしなければ、リズにまで悪評がいきかねない。
しかし、アリスは満足そうにしている。彼女に拒絶されて護衛らしいことができなくなるよりも、こちらの方がマシかもしれない。そう考えてみると、今の状況はかなりチャンスだ。
「えっと、見回りでしたっけ?お好きになさい。今日はここまでで構いませんわ」
「……ありがとうございます。これからよろしくお願いします」
アリスから離れて屋敷の見回りに戻ると、壁際に透明な糸のようなものがまとわりついている箇所を見つけた。糸を追っていくと、一つの部屋につながっている。明らかに怪しいわけだが、無闇に扉を開けるわけにもいかない。
しばらく様子を見たが、人の気配もなければ、魔力らしき反応もない。思い切って開けてみると、何の変哲もない石が木箱に大量に詰め込まれていた。
魔法石とは違う、真っ黒な石だ。触ってみても何も起こらないし、変な匂いがするということもなかった。ただ、妙に手に吸い付くような、馴染むような感覚がある。何のために置かれている石かは分からない。とりあえず、イリアはリズを探すことにした。
この広い屋敷ですぐに合流するのは難しいかもしれないとも思ったのだが、リズはもう半分を見回ったらしく、最初に別れた場所で待っていた。
「お疲れ様。全部見終わった?」
「いや、まだ。確認して欲しいものがあって……僕には何か分からなかったから」
「うん、いいよ」
イリアがリズを部屋に案内すると、先ほどまで漆黒だった石が赤く輝き始めた。途端、とてつもない爆発音が鳴り響く。
恐る恐る目を開くと、イリアは一瞬で防御魔法を展開したリズの背中に守られていた。
石は粉々に砕けており、部屋からは煙が上がっている。
「僕が来た時は、触っても何ともなかったのに……」
リズは、石に触れてすらいない。部屋の中に入っただけだ。
「遠距離で操作できるんだったら、イリア君が入った時点で爆発させてもおかしくない。となると、一定の魔力量に反応するとかかな……」
リズは、散らばった黒石の破片に触れた。
「ギーべラント家は魔法に長けてるから、そこを狙ったのかもしれないね。でも、魔力を蓄えられそうな素材でもないし、まだ分からない部分が多すぎるかも」
リズは冷静に状況を分析すると、イリアに手を差し伸べる。驚きのあまり尻もちをついていたことに気づくと、イリアはリズの手を取って立ち上がった。
「ごめん、全然気づけなくて」
「私も爆発するまで全く分からなかったからお互い様だよ。お嬢様とは仲良くなれた?」
「え、見てたの?」
イリアが話していたことを聞いていたのなら、あまりに恥ずかしすぎる。人のおかげで少しずつ前進できているイリアが、偉そうなことを言ってしまったのだから。
「いや、当てずっぽうだけど。ちゃんと守ってあげてね。見た感じ、今回の相手は性格悪そうだから。屋敷内で気軽に設置できる人なんて、関係者しかいないわけだし」
リズは、砕け散った石に目を向けた。確かに、メイドや執事など屋敷を徘徊しても怪しまれない人の手口である可能性は高い。それに、リズが入った瞬間に魔力的な反応が増幅して一瞬で爆発したのだから、なかなか厄介な代物だ。こんな物を用意するくらいだから、他にも何か仕掛けられていると考えた方がいい。
「分かってる」
イリアは、拳にぎゅっと力を込めた。
「うん。あと、私は明日も引き続き屋敷を調べることにするから。イリア君は、イリア君にできることをしてね」
翌朝、イリアはアリスに呼ばれて書斎を訪れることになっていた。彼女の部屋の前で待っていると、真っ黒なドレスを身に纏ったアリスが出てくる。
「行きましょうか。あなた、前を歩きなさい」
前を歩くのは構わないのだが、イリアは書斎の場所が分からなかった。わたわたしていると、アリスがため息をついてイリアの横に立つ。
「意図的に私の背後を取らないこと。いいですわね?」
「はい」
アリスの横にぴったりついて歩いていると、彼女の足の動かし方が少し不自然に見えた。右を庇うように歩いているのだ。昨日はそんな様子はなかった。
「あの、アリス様。足をお怪我していらっしゃいますか?」
「……昨日少し捻っただけですわ。大したことじゃありませんの。お気になさらず」
そう言って少し早足になったアリスは、目の前で勢いよく転んだ。イリアが駆けつけて手を差し伸べると、猫目を吊り上げてぷいっと反対を向いてしまう。
「よろしければ、僕がお運びしましょうか?」
小柄で身体も細いアリスなら、力に自信がないイリアでも運べるだろう。しかし、アリスは自分でゆっくり立ち上がると一歩ずつ歩き始めた。右足が痛むようで、歩く速度はとても遅い。仕方がないので、イリアは近くのメイドに救急具を書斎に持ってくるように頼んだ。
「アリス様、腕をお貸しします」
「……そう」
不貞腐れた表情ではあるものの、アリスはイリアの腕に掴まりながら少しずつ歩みを進める。書斎へ着く頃には、メイドが救急具を持って待っていた。メイドがアリスの足に触れようとすると、アリスが怒りに満ちた眼差しで口を開く。
「私に触らないで!そこの護衛に任せますので」
怒気を滲ませた声が部屋中に響き渡り、メイドは深々と頭を下げ、慌てて部屋を出ていった。アリスはイリアを見つめると、長いドレスの丈を足首まで見えるように持ち上げる。
イリアは村の医者がやっていた方法を思い出しながら彼女の細い足にテーピングを巻いていき、氷袋を手渡した。それを受け取ると、アリスはそっぽを向いて座ってしまう。
昨日は少し仲良くなれたかと思っていたのだが、彼女はずっと猫目を吊り上げている。
イリアは、アリスが指差す本を次から次へと回収していった。彼女の姿が隠れてしまうほど腕いっぱいに抱えた本を机に置くと、紫眼がこちらをじっと見つめている。
「あの、どうかされましたか?」
「……別に。何でもありませんわ」
アリスは席に座り直すと、本の山に手をつけ始めた。静かな空間の中で、紙を捲る音だけが部屋に響いている。だんだん瞼が重くなってきたイリアは、浅い眠りについた。
目をゆっくり開くと、いつの間にかアリスがいなくなっている。飛び上がって周りを見渡すと、そばにある本棚の梯子を登って、一番上にある重厚な本を取り出そうとしていた。
周りの本が邪魔なのか、引っ張ってもなかなか取り出せていない。梯子から落ちそうで怖かったため、イリアは彼女のそばに近づいた。
「あの、僕が取りましょうか?」
「結構ですわ」
アリスは、重たそうな本を引っ張り続けている。やっと本を引き抜いた瞬間、その勢いで身体が後方に倒れてきた。イリアが彼女の身体を受け止めたが、見かけのわりに重い。それが顔に表れていたのか、アリスは赤面して顔を本で隠す。
「……すみません」
「一応言っておきますけれど、これはドレスの重さですので」
「……すみません」
アリスは顔から本を離すと、力が抜けたようにイリアへ身体を預けた。しばらく、そのまま動かない。唖然としていると、彼女がゆっくり口を開いた。
「……変なの」
ずっと強気な姿勢を保っていたアリスが、とても幼い子供のように見えた。
「……下ろしてください」
アリスはドレスの皺を伸ばすと、本を机に置いてイリアに向き直る。イリアの手を取ると、もう片方の手で自分の口元に人差し指を添えた。入り口から一番離れている本棚の本を丁寧に並び替えていくと、ごとっと小さな音が聞こえてくる。
本棚がゆっくりと横にずれ、地下に繋がる階段が姿を現した。
「……あなた、私を守るために死ねますの?」
「……死なないで守ります」
「……生意気ですのね」
アリスに連れられて暗い階段を降りていく。彼女が一歩足を進める度に、天井に散りばめられている魔法石が灯りを放って照明の役割を果たしている。
しばらくすると、明かりが見えてきた。あまりに眩しい光に目を細めると、森の中のような緑に囲まれた場所に出る。風が吹き、草の匂いが鼻をくすぐった。しかし、地下に地上が現れるなんて、何とも不思議な現象だ。
「ここって……」
「魔法で作られた偽物の森ですの」
「アリス様が作られたんですか?」
「ええ。お父様たちも知らない場所ですから、他言しないでいただけるとありがたいですわ」
本物にしか見えない緑が、視界いっぱいに広がる。これほど洗練された魔法を、少女が一人で作り上げたという事実に、イリアは言葉を失った。
呆然としているイリアの様子を見て、アリスが手を引いて森の奥へと引っ張った。小鳥の囀りや、川が流れる音を越えて森を抜けると、野原が目の前に広がる。茎が長く、白い花弁が集まった可愛らしい花が辺り一面に咲いていた。
「この花、幼い頃に何度も見たことがあります。可愛らしいですよね」
「そうですわね」
アリスは、心なしか嬉しそうに見える。
「あなた、花冠を作ったことはありますの?」
「ありますよ。最後に作ったのは、もう何年も前ですけど」
アリスは、一面に咲く白い花を指差した。どうやら、作れと言われているらしい。クロスさせて巻きつけてを繰り返していると、隣で彼女も何かを作り始めた。ある程度の長さになってから、輪の形にしていく。茎で縛ると、案外上手く花冠らしいものができた。
「できましたよ」
「……似合っていますか?」
アリスは花冠を頭に乗せると、お淑やかな笑みを見せた。嬉しそうに花冠を触る様子を見ていると、少し気恥ずかしい気持ちになる。彼女も何かを完成させていたようだが、なぜか背中に隠してしまう。
「お似合いです」
「……ありがとうございます」
アリスは口元を緩めて笑った。
「もうこんな時間ですので、そろそろ戻った方が良さそうですわね」
二人は、来た道を戻っていく。長い階段を上がって書斎に到着すると、アリスは本の位置を並び替えた。ゆっくりと本棚が元の位置に戻り、そこに地下階段があることなど全く分からなくなる。
「あなた、どこの客間を使っていますの?」
「……えっと、応接間の近くにある場所です」
「そう」
何を考えているのか分からない瞳が、イリアをじっと見つめた。
「では、また明日」
「はい」
大理石でできた通路を抜けていくと、静かな客間のエリアに入った。アリスを見ていなければいけないということもあり、今日は一度もリズと顔を合わせていない。
それも仕事だから仕方ないのだろうが、そこまで気を遣わなくていい相手と話すことの気楽さをイリアはこの二日でしみじみ実感していた。
そんなことを思っていると、いきなり背後から背中を叩かれた。驚きで身体がびくっと動くと、いたずらな笑みを浮かべたリズが顔を覗いてくる。今日は珍しくローブを着て、フードを深めに被っていた。
「ねえ、ちょっと部屋で話さない?」
「部屋?」
リズは、自分の部屋を指差すとイリアを半ば無理矢理引き連れた。扉に盗聴阻害魔法をかけると、ベッドに腰を下ろす。
「イリア君もそこ座っていいよ」
リズはフードを外すと、そばにある椅子に目配せした。
「何かあったの?」
「それはこっちのセリフだよ。イリア君、ここに来るまでずっとお嬢様につけられてたんだから」
イリアが唖然としている中で、リズは続けて口を開いた。
「なんか怪しまれるようなこととかしてないよね?あの子、一回疑ったら誤解を解くまで凄く時間がかかるの」
「いや、特にしてないと思うけど……」
何もしていないはずだ。アリス自身、イリアの情けなさは散々見ているわけだし、今日に限っては笑顔を見せたりと後半は心を開いてくれた気さえする。
「ずっと気になってたんだけど、リズさんはどうしてアリス様と顔を合わせられないの……?」
「……数年前に公爵夫人が暗殺された時、私の前任者が派遣されてたから。私が直接関わったわけではないけど、あの子にとって十一魔賢は、自分の母親を守りきれなかった存在なの」
リズは、視線を床に落とした。
「犯人は……あの子の専属メイドだった。だからっていうわけでもないんだけどね、いきなり現れたイリア君の方が私よりも印象はいいと思うんだよ」
「……」
酷い話だ。自分の大切な人を信頼していた人に殺されるなんて、相当なトラウマを植え付けたに違いない。確かに、この二日間でイリアは一度も公爵夫人の姿を見ていなかった。屋敷にいる人も、誰一人として夫人の話を出していない。気づかない方がおかしな話だ。明確に、この屋敷に欠けていたものだったのに。
「改めて考えてみたけど、やっぱりしてないと思う。もし疑われてたとしても、ちゃんと話し合って誤解は解くよ」
「そっか。あの子のこと、イリア君に任せてよかった」
リズは、晴れやかな笑顔を見せた。
この時、イリアたちは知らなかった。この後ギーベラント家で起きる悲劇が、王国全体を揺るがす悪夢の幕開けだったことを──




