第六章 旧職員室の名前
新館へ戻ると、空気の温度が変わった。
旧校舎の冷えた湿気から、空調のきいた人工的な暖かさへ。照明も明るい。床も軋まない。ロビーの壁には観葉植物が置かれ、受付カウンターには整えられたパンフレットが並んでいる。
安全な場所に戻ったはずだった。
だが江口桜次郎は、そうは思えなかった。
身体だけが新館へ戻り、何かを旧校舎に置いてきたような感覚があった。あるいは逆に、旧校舎から何かを連れてきてしまったのかもしれない。そんな馬鹿げた考えが、頭の奥に薄く残っていた。
ロビーのガラス窓の外では、雨がいっそう強くなっている。外灯の光が雨粒で砕かれ、地面に小さな白い点をいくつも散らしていた。石畳は黒く濡れ、玄関前の看板の文字が雨に霞んでいる。
おかえりなさい、旧校舎へ。
その文言が、雨の向こうでぼやけて見えた。
「顔色がまた悪くなったな」
二階堂壮也が隣で言った。
「顔色の実況中継をやめろ」
「旧校舎で何を見た」
「展示物」
「そういう返しをしてる時は、だいたい何か隠してる」
「警察広報は人の心も読むのか」
「広報は相手の言ってないことを読む仕事でもある」
「嫌な職業だな」
「教師も似たようなもんだろ」
江口は反論しようとして、やめた。
確かに、教師もそういう仕事だった。
生徒が「大丈夫です」と言う時ほど、大丈夫ではない。
保護者が「別に怒っているわけではないんですが」と言う時ほど、怒っている。
管理職が「無理のない範囲で」と言う時ほど、無理を前提にしている。
そしていまの自分も、何度も「大丈夫」と言っている。
江口は名札の端を指で押さえた。
江口桜次郎。第六十八回生。
出席簿に載った名前のように見える。
「桜次郎」
二階堂が低く言った。
「さっきの記念廊下で、相沢と何を話してた」
江口は少しだけ目を上げた。
「見てたのか」
「見てた。聞こえなかったが」
「盗み聞きしないだけ良心的だな」
「必要ならする」
「やめろ」
二階堂は食堂へ戻る人の流れを見ながら言った。
「相沢、何か知ってる顔だった」
「お前もそう思ったか」
「思った」
「十四年前の記事があった」
「記事?」
「記念廊下の展示ケース。関東地方の私立高校で男子生徒死亡、という見出しだった。学校名も名前も伏せられてた」
二階堂の表情がわずかに変わった。
「十四年前」
「何か覚えがあるか」
二階堂はすぐには答えなかった。
ロビーの明るい照明の下で、その沈黙だけが少し暗く見えた。
「俺が高一の時か」
「そうなる」
「慶早で、何かあった気はする」
江口は二階堂を見た。
「気はする?」
「噂程度だ。上級生が旧校舎で倒れたとか、死んだとか。自殺だ、事故だ、いじめがあった、いや関係ない、教師が隠した。そういう噂がしばらく流れた。でも学校側から詳しい説明はなかった。俺たち一年は、ほとんど何も知らされなかった」
「名前は」
「覚えてない。そもそも、こっちに名前が出回っていたかも怪しい」
「内田春斗」
その名前を口にした瞬間、自分の声が少し遠く聞こえた。
二階堂が江口を見た。
「誰だ」
「分からない」
「分からない名前を、なぜ知ってる」
江口は答えられなかった。
床に広がった黒いコーヒーの水面。白いチョークの文字。夢の中の黒板。旧職員室の黒板に見えた名前。すべてを言葉にすれば、二階堂は怒るだろう。なぜ黙っていたのかと詰めるだろう。今すぐ帰ると言い出すかもしれない。
「相沢が、あとで話すと言ってた」
江口はそこだけを言った。
「その名前も相沢から?」
「違う」
「じゃあどこからだ」
「分からない」
二階堂はしばらく黙っていた。
江口は責められると思った。だが二階堂は、すぐには何も言わなかった。
「あとで、相沢に聞く」
それだけだった。
食堂へ戻ると、懇親会は再開されていた。
旧校舎見学に参加しなかった人間たちは、すでにかなり酒が回っているらしかった。笑い声はさっきより大きく、距離感も近くなっている。高校時代の呼び名で呼び合う声があちこちから聞こえた。
食堂の壁際には、飲み物を置いた長テーブルがあり、その手前に簡単な料理が並んでいる。サンドイッチ、ローストビーフ、唐揚げ、サラダ、チーズ、フルーツ。皿はきれいに補充されていた。スタッフの動きは丁寧で、無駄がない。
江口は水を取り直した。
コップに注ぐ時、水面を見ないようにする。
「酒、本当に飲まないんだ」
朝倉航平が近づいてきた。
手にはワイングラスを持っている。顔色は赤くない。飲み慣れているのだろう。
「飲んだら二階堂に没収される」
「高校時代みたいだな。二階堂が前で暴れて、江口が後ろで耐える」
「今は、二階堂が前で止めて、俺が後ろで倒れる」
「笑えないな」
朝倉はそう言ったが、口元には笑みが残っていた。
二階堂が横から言う。
「朝倉、お前、旧校舎の事件って覚えてるか」
朝倉のグラスが、ほんの少し止まった。
「旧校舎の事件?」
「俺たちが高一の時。上級生が死んだって噂になったやつ」
朝倉はグラスを口元へ運んだ。
「そんな話、あったかな」
「忘れたか」
「十四年前だろ。細かいことは覚えてないな」
「弁護士は記憶力がいいものかと思ってた」
「必要な記録は覚える。噂話は忘れる」
朝倉の言い方は軽かった。だが、少しだけ硬かった。
「それに、もし何かあったとしても、学校が正式に発表していない話を、今ここで面白半分に掘るのはどうなんだ」
二階堂の目が細くなる。
「面白半分とは言ってない」
「なら余計に、慎重に扱うべきだ。死人が絡む話ならなおさらな」
「法的には?」
江口が言うと、朝倉は一瞬こちらを見た。
「法的には、事実関係が分からないものに軽々しく言及しない方がいい」
「職業病だな」
「そうだよ」
朝倉は笑った。
笑ったが、その笑いはどこか乾いていた。
そこへ水嶋沙耶がやって来た。
「何の話?」
「高校時代の噂話」
朝倉がすぐに答えた。
「噂話って、だいたいろくでもないよね」
水嶋は小さく肩をすくめた。
「放送委員やってると、変な噂を流すなって先生によく言われた。こっちは校内放送で落とし物のお知らせをしてるだけなのに」
「旧放送室、懐かしかったか」
二階堂が聞く。
「懐かしかった。あのマイク、まだ残ってると思わなかった」
「声、流せるのか」
「今は無理って言ってたでしょう。基本的には」
水嶋はそう言ってから、自分で笑った。
「でも、基本的にはって言い方、気になるよね」
「気になったのか」
「だって、使える余地がある時の言い方だから。昔の放送設備って、変なところと繋がってたりするし。体育館の副盤とか、職員室の親機とか」
「詳しいな」
「放送委員だったから」
水嶋の声は明るかった。
だが江口は、その明るさの裏に何かを感じた。
旧放送室で聞こえた声。
出席を取ります。
水嶋の声ではなかった。少なくとも、はっきりそうとは言えない。だが、声に関わる人間が近くにいるだけで、あの幻聴が少し現実に近づく気がした。
「江口くん?」
水嶋が顔を覗き込む。
「本当に顔色悪いけど、大丈夫?」
「大丈夫という言葉に説得力がなくなってきた」
「なくなってきたというか、最初からない」
二階堂が言った。
「ひどいな」
「事実だ」
水嶋は少し心配そうに眉を寄せた。
「旧校舎、きつかった?」
「少し」
「分かる。あそこ、変に音が残るよね。放送室なんて特に」
「音?」
「うん。古い部屋って、静かなのに音がある感じがする。昔の放送の残響みたいな」
「詩的だな」
「ナレーターだから」
水嶋は冗談めかしたが、その目が一瞬だけ旧校舎側の扉へ向いた。
江口はそれを見た。
水嶋も、何かを気にしている。
そう思った。
食堂の中央では、園田がスタッフと話していた。手には鍵束を持っている。名札をつけたスタッフ、鷺沼が何か説明している。園田は何度か頷き、進行表にメモを書き込んだ。
二階堂がその様子を見ていた。
「鍵、幹事も持ってるのか」
「何の鍵だ」
「旧校舎の一部。少なくともスタッフから何か受け取ってた」
「よく見てるな」
「お前が見てない分な」
「俺だって見てる」
「お前は今、自分の幻覚と現実を仕分けるので忙しいだろ」
江口は二階堂を見た。
冗談のような口調だった。だが、そこには確認があった。
「幻覚と言った覚えはない」
「じゃあ違うのか」
江口は答えなかった。
二階堂も深追いしなかった。
代わりに、低く言った。
「何か見えたり聞こえたりしたら、俺に言え」
「信じるのか」
「信じるかどうかは内容による」
「冷静だな」
「でも、聞く」
その言葉は、妙に重かった。
江口は水を一口飲んだ。
食堂の奥に相沢真帆の姿を探す。
彼女は窓際にいた。手にグラスを持ち、外の雨を見ている。近くに黒須がいる。黒須はカメラの画面を確認していた。記念廊下で撮った写真だろうか。
江口は相沢の方へ向かおうとした。
その時、園田がマイクを持った。
「皆さん、少しよろしいでしょうか」
食堂のざわめきがゆっくり落ちる。
「このあと二十分ほど自由歓談の時間を取ります。その後、旧体育館棟の入口までご案内する予定でしたが、雨脚がかなり強くなっているため、見学範囲を一部変更するかもしれません。詳しくはスタッフと相談してからお知らせします」
何人かが窓の外を見た。
雨は、確かに強くなっていた。ガラスに当たる音が食堂の中まで聞こえる。
その時、照明が揺れた。
一瞬だった。
食堂全体の明かりが、ふっと弱くなる。
誰かが「あ」と声を上げた。
すぐに戻った。
だが、空気が変わった。
「停電?」
「雷か?」
「この辺、山が近いからな」
声が重なる。
江口は天井を見た。
照明は戻っている。何事もなかったかのように白く光っている。
だが、耳の奥で何かが鳴っていた。
きん、こん、かん、こん。
チャイム。
江口は目を閉じた。
違う。
いまのは照明が揺れただけだ。
チャイムなど鳴っていない。
だが、次の瞬間、食堂のスピーカーから短いノイズが走った。
ざ。
全員が静かになった。
今度は、江口だけではなかった。
水嶋がスピーカーを見上げる。二階堂も。青山も。園田も。朝倉も。
ざざ。
古い砂をこするような音。
そして、低い声が流れた。
「一時間目を始めます」
食堂が凍った。
江口の手から、コップが滑りかける。
二階堂がすぐに手を伸ばし、江口の手ごと支えた。
「聞こえたか」
江口は低く言った。
「ああ」
二階堂の声も低かった。
「今のは聞こえた」
水嶋が青ざめた顔で言った。
「何、今の」
園田がマイクを握ったまま固まっている。
鷺沼が慌ててスタッフに指示した。
「放送設備を確認してください。A棟の親機を」
「旧放送室じゃないのか」
誰かが言った。
「旧放送室は接続していないはずです」
鷺沼の声には焦りがあった。
その直後だった。
食堂の入口側で、短い悲鳴が上がった。
甲高い、切れた声。
全員がそちらを見た。
悲鳴を上げたのは、七十回生の女性だった。顔を真っ白にして、ロビー奥のガラス扉を指さしている。
「旧校舎の方に……誰か倒れてる」
食堂の空気が一瞬、止まった。
そして、ばらばらに動き出した。
「何だって?」
「誰かって誰?」
「スタッフ?」
園田がマイクを置き、走り出そうとした。鷺沼も続く。朝倉が眉を寄せ、水嶋は口元を押さえた。青山は一瞬だけ動かず、それから静かに歩き出した。
二階堂は江口の腕を掴んだ。
「お前はここにいろ」
「行く」
「今のお前が行ってどうする」
「見ないと分からない」
「桜次郎」
「聞こえただろ、今の声」
二階堂の手に力が入る。
「だからだ」
「だから行く」
江口は二階堂の手を外した。
足元が少し揺れた。だが、倒れはしなかった。
二階堂は短く舌打ちした。
「俺の後ろにいろ」
「前衛か」
「茶化すな」
二人はロビーへ出た。
ロビーの明るさは変わっていない。だが、さっきまで安全に見えた空間が、薄い膜を一枚剥がされたように違って見えた。ガラス扉の向こう、B棟へ続く旧校舎の廊下は暗い。
廊下の奥から、冷たい空気が流れてくる。
悲鳴を上げた女性は、ロビーの端で別の同窓生に支えられていた。
「見たのは誰だ」
二階堂が聞く。
彼の声は、さっきまでの友人の声ではなかった。仕事の声だった。
「私……トイレに行こうとして、そっちを見たら、廊下の奥に人が……」
「どの辺り」
「旧職員室の前、だと思います」
旧職員室。
江口の背中が冷えた。
チャイム。
一時間目。
旧職員室。
黒板。
出席簿。
青山が鷺沼と何か話していた。園田は鍵束を握りしめている。朝倉はスマートフォンを取り出し、電波を確認している。水嶋は自分の腕を抱えていた。相沢は食堂の入口に立ち、江口を見ている。
目が合った。
相沢の顔には、恐怖だけではないものがあった。
来てしまった。
そう言っているように見えた。
鷺沼が旧校舎側の照明を点けようと、壁のスイッチを押した。
B棟の廊下の照明が、一つずつ点いた。
入口側から奥へ。
黄色い光が、古い床板を順番に照らしていく。
旧職員室の前に、人が倒れていた。
うつ伏せではない。
仰向けでもない。
扉の横の壁にもたれるような形だった。首が不自然に傾き、片手が床に投げ出されている。胸元の名札が照明を反射した。
江口には、最初、その人物が誰なのか分からなかった。
園田が小さく叫んだ。
「中原さん……?」
中原修一。
六十七回生。懇親会の冒頭で紹介されていた男だった。学校法人の事務局に勤めていたことがあり、今回の記念館開館にも少し関わったと誰かが話していた。
中原の顔は、奇妙に白かった。
目は半分開いている。
口元には、黒い液体が少しついていた。
江口は足を止めた。
黒い液体。
コーヒー。
床。
白い文字。
「近づくな」
二階堂が強い声で言った。
彼は全員に向かって手を上げた。
「誰も触るな。スタッフ、救急と警察に連絡を。園田さん、参加者をロビーから食堂側へ下げてください」
「でも」
「早く」
二階堂の声に、園田ははっとしたように動いた。
青山が静かに言った。
「私も手伝います」
「お願いします。誰がどこにいたか、後で確認する必要があります」
朝倉が口を挟んだ。
「警察が来るまで現場保存だな」
「そうだ」
二階堂は短く答えた。
その時、旧職員室の扉がわずかに開いていることに江口は気づいた。
隙間から、黒板が見える。
何かが書かれていた。
白いチョークの文字。
江口は動こうとした。
二階堂がすぐに止める。
「おい」
「黒板」
「近づくな」
「見える」
「何が」
江口は喉を鳴らした。
扉の隙間から見える黒板に、文字があった。
一時間目、出席を取ります。
その下に、名前が一つ。
中原修一。
丸で囲まれていた。
江口は息を吸った。
吸った空気が、肺に届く前に凍った。
旧職員室。
黒板。
出席。
名前に丸。
江口はその光景を知っていた。
知っているはずがなかった。
だが、自分の中にある一冊の薄い本が、勝手に頁を開く。
『黒板係は、四度名前を書く』
大学時代に書いた処女作。粗くて、青くて、いま読むと胃が痛くなる小説。
その最初の殺人。
黒板に書かれた名前。
出席を取るように囲まれた丸。
江口は唇を動かした。
「同じだ」
二階堂が聞き返す。
「何が」
「俺の小説と」
言った瞬間、後悔した。
声が大きかったわけではない。
だが、近くにいた相沢が聞いた。水嶋も、朝倉も、青山も、こちらを見た。
空気が変わる。
誰かが小さく言った。
「小説?」
朝倉の目が鋭くなる。
「江口、お前の小説って何だ」
江口は答えようとした。
だが、言葉が出なかった。
代わりに、耳の奥でチャイムが鳴る。
きん、こん、かん、こん。
江口の視界が揺れた。
旧職員室の黒板の文字が滲む。中原修一の名前が、別の名前に変わる。
内田春斗。
江口は壁に手をついた。
二階堂がすぐに肩を支える。
「桜次郎」
「違う」
「何が」
「違う名前が」
「おい、しっかりしろ」
青山の声がした。
「江口先生、無理をしないでください」
穏やかで、心配そうな声。
江口は顔を上げた。
青山はロビーの光の中に立っていた。乱れのない顔で、こちらを見ている。
その背後で、旧校舎の廊下が暗く沈んでいる。
江口はふと思った。
誰かがこの場面を作った。
チャイム。放送。旧職員室。黒板。名前。自分の小説。
偶然ではない。
だが、その考えを言葉にする前に、鷺沼が戻ってきた。
「電話が繋がりません。雨の影響か、館内の固定電話も不安定で」
「携帯は」
朝倉が言う。
「圏外です。さっきから一本も立たない」
水嶋もスマートフォンを見る。
「私も駄目」
園田が顔を青ざめさせた。
「どうしよう……」
二階堂は短く息を吐いた。
「外への連絡手段を確認してください。館内に無線か非常通報装置は?」
「管理人室に緊急用の回線があります。確認します」
「お願いします。参加者は食堂へ。現場には近づかない」
二階堂は江口の肩を掴んだまま言った。
「お前も戻れ」
「でも」
「戻れ」
その声は、拒否を許さなかった。
江口は二階堂を見る。
友人の顔ではなかった。
現場を管理しようとしている人間の顔だった。
江口は頷くしかなかった。
食堂へ戻る途中、相沢が近づいてきた。
顔が白い。
だが、その目は強かった。
「江口くん」
「相沢」
「やっぱり似てる」
「何が」
相沢は唇を噛んだ。
「あなたの小説と、十四年前の事件」
江口は足を止めた。
二階堂もこちらを見る。
相沢は続けた。
「そして今の事件も」
食堂のざわめきが遠くなる。
江口は、旧職員室の黒板を思い出した。
一時間目、出席を取ります。
中原修一。
丸で囲まれた名前。
自分の処女作に書いた、最初の死体。
その頁が、現実の中で開かれていた。
江口は、初めてはっきりと恐怖を覚えた。
自分が事件を見ているのではない。
事件の方が、自分を見ている。
そう思った。




