第五章 旧校舎案内
食堂は、A棟の一階奥にあった。
ロビーから右へ進み、ガラス張りのラウンジを抜けた先にある。床は新しいフローリングで、壁には旧校舎時代の写真が額に入れて飾られていた。運動会、文化祭、卒業式、雪の日の校門。どれも古い写真なのに、笑っている生徒たちだけは妙に現在形に見える。
窓の外では、雨が強くなっていた。
食堂には丸テーブルがいくつも並べられ、簡単な立食形式の料理と飲み物が用意されていた。酒もある。ビール、ワイン、日本酒。だが江口桜次郎は、コップに水だけを入れた。
二階堂壮也が横から覗き込む。
「水か」
「水です」
「偉いな」
「褒められている気がしない」
「褒めてる。今日のお前が酒に手を出したら、俺はその場で没収する」
「警察広報に没収権限はないだろ」
「友人権限だ」
「便利だな、その権限」
二階堂は軽く笑ったが、目は江口の手元を見ていた。震えを確認しているのだろう。
江口はコップを持つ右手に力を入れた。
震えは少しある。だが、昨日ほどではない。そう思いたかった。
食堂の奥では、園田美月がマイクを持って立っていた。幹事らしい手際で、参加者の名簿と進行表を確認している。水嶋沙耶がその隣で司会役を手伝っていた。水嶋の声は、食堂のざわめきの中でもよく通る。マイクを通すと、さらに輪郭がはっきりした。
「皆さん、本日はお集まりいただきありがとうございます。慶早大学付属高等学校、第六十五回生から第七十回生までの合同同窓会、ならびに慶早学園記念館の開館記念懇親会を始めます」
拍手が起こった。
江口も形だけ手を叩いた。
拍手の音が耳の奥に刺さる。ひとつひとつの音が、いつもより硬い。無数の小さな石が、壁に当たって跳ね返ってくるようだった。
水嶋が続ける。
「この記念館は、旧校舎の一部を保存しながら改装された宿泊研修施設です。今夜は懇親会のあと、希望者を対象に旧校舎区域の見学も予定しています。B棟、旧教室棟と、C棟の旧体育館棟の一部をご案内します」
B棟。
C棟。
江口は胸元の名札に触れた。
江口桜次郎。第六十八回生。
名札の白い面が、妙に冷たく感じられた。
園田がマイクを受け取る。
「なお、旧校舎区域には改装前の構造が一部残っています。段差や立入禁止区域もありますので、必ず班ごとに行動してください。特に旧放送室、図書準備室、旧体育館の舞台袖には、スタッフの許可なく入らないようお願いします」
旧放送室。
図書準備室。
舞台袖。
その言葉だけが、周囲のざわめきから浮き上がった。
江口は水を飲んだ。
普通の味だった。
水が普通の味であることに、また安心する。
「顔、険しいぞ」
二階堂が言った。
「同窓会で浮かれてる顔ができない」
「高校時代からそうだったな」
「高校時代の俺を何だと思ってる」
「文化祭の打ち上げで、一人だけ葬式みたいな顔してた」
「人が多いところが苦手なんだよ」
「今もだろ」
「今は体調も悪い」
「認めたな」
「言葉の罠にかけるな」
二階堂はコップの中の烏龍茶を揺らした。
「旧校舎見学、無理ならやめるか」
江口は食堂の入口の方を見た。
入口の向こうにはロビーがあり、その奥にB棟へ続くガラス扉がある。扉の向こうは、照明が少し落とされていた。新館の明るさとは違う、古い校舎特有の沈んだ光が見える。
「行く」
「だと思った」
「分かるのか」
「お前、怖いものほど見に行く癖がある」
「そんな癖はない」
「ある。高校の時も、校舎裏で変な音がするって噂になったら見に行った」
「あれは、野良猫だった」
「結果論だ」
「お前もついてきただろ」
「桜次郎が一人で行くと、猫と逃避行しそうだったからな」
江口は小さく笑った。
その時、青山怜司が近づいてきた。
片手にグラスを持っている。中身は水か炭酸水のようだった。酒ではないらしい。青山は食堂の照明の下でも、相変わらず整っていた。懐かしさに浮かれるでもなく、気後れするでもなく、ちょうどよい温度でその場にいる。
「江口先生、二階堂さん」
「青山先生」
二階堂が軽く会釈した。
「旧校舎見学、参加されるんですか」
青山は江口に聞いた。
「そのつもりです」
「体調は?」
「悪いですが、悪いなりに安定しています」
「それを安定と言うかは疑問ですね」
「教師には悪い状態を維持する技術があります」
「身につけない方がいい技術です」
青山は困ったように笑った。
二階堂が言った。
「青山先生は、旧校舎に詳しいんですか」
「詳しいというほどではありません。ただ、私たちの頃は、まだ部活動や委員会で使うことがありました」
「六十五回生」
「ええ」
「今日の対象では一番上の回生に近い」
「そうですね。七十回生の方々から見れば、かなり上です」
「旧放送室も使ってました?」
青山は少し視線を上げた。
「私は放送委員ではなかったので、直接はあまり。ですが、文化祭の時に入ったことはあります」
「図書準備室は?」
「なぜそこを?」
二階堂は笑った。
「案内図で、あの辺だけ妙な空白があったので」
「よく見ていますね」
「仕事柄です」
「なるほど」
青山は自然に頷いた。
「旧校舎は、何度も増改築された建物ですからね。現在の図面だけでは分かりにくい部分があるのだと思います」
「増改築」
「ええ。古い学校にはよくあることです。壁の向こうに使われなくなった収納が残っていたり、配管のための空間があったり」
「青山先生、やっぱり詳しいですね」
「昔の校舎に少し興味があっただけです」
青山はそう言った。
答えは自然だった。だが、二階堂は青山の顔を見たまま、もう一拍だけ黙った。
江口にはそれが分かった。
二階堂は、今の答えを頭のどこかに置いた。
やがて懇親会は和やかに進んだ。
朝倉航平は何人かに囲まれて名刺を渡していた。弁護士という肩書は、同窓会では強い。相談したいことがある者、話題作りとして職業を聞きたい者、単純に成功した旧友に興味がある者が集まる。
水嶋は司会を終えたあとも、自然に人の輪の中心にいた。声が人を集めるのだろう。昔からそうだった。文化祭の閉会式で彼女が話すと、体育館の後ろまで不思議と静かになった。
園田は進行表を何度も確認している。幹事の疲労が顔に出ていた。ときどき記念館スタッフと小声でやり取りをし、部屋割りや鍵の確認をしている。
黒須という男は、食堂の壁に飾られた旧校舎写真を熱心に見ていた。江口と同じ六十八回生だったが、同じクラスになったことはない。写真部だったと誰かが言っていた。首から小さなカメラを下げている。いまでも写真を撮るらしい。
牧瀬は旧体育館の話で盛り上がっていた。演劇部の手伝いで舞台装置を触ったことがあるらしい。緞帳が重かっただの、照明のスイッチが古かっただの、妙に具体的なことを話している。
相沢真帆は、食堂の隅で静かにワインを飲んでいた。
江口は彼女をしばらく思い出せなかった。
向こうから声をかけられて、ようやく記憶が戻った。
「江口くんだよね」
落ち着いた声だった。
振り返ると、ショートボブの女性が立っていた。黒のブラウスに細いネックレス。華やかではないが、視線の置き方が鋭い。人の顔を見る時、感情より先に情報を拾う目をしている。
「相沢?」
「そう。相沢真帆。覚えててくれた?」
「名前は。顔は少し時間がかかった」
「正直でよろしい」
相沢は笑った。
高校時代、相沢は図書委員だった。読書家で、文芸部にも顔を出していた記憶がある。江口が大学時代に小説を書き始めた頃、投稿サイトに感想をくれたこともあったような気がした。
「今、何してるんだっけ」
「編集プロダクションを経て、いまはフリーでライター。学校関係の記事も時々書いてる」
「向いてそうだな」
「江口くんは先生なんでしょう。そっちの方が意外」
「よく言われる」
「でも、分かる気もする。昔から、黒板の前に立たせたらやたら似合いそうだった」
「今日それ二回目だ」
「誰かに言われた?」
「水嶋」
「なら、私の観察眼もまだ悪くない」
相沢は江口の顔を見た。
「体調悪い?」
「三回目か四回目だな」
「そんなに言われてるなら、本当に悪いんじゃない」
「みんな集計するな」
相沢は少し笑ったが、その目は笑い切らなかった。
「無理しない方がいいよ。旧校舎って、元気な時でも少し持っていかれる場所だから」
「持っていかれる?」
「空気に」
相沢は食堂の入口の向こうを見た。
「あの建物、残しすぎてるのよ。きれいに改装してるのに、使われなくなった学校の匂いがまだある。ああいう場所って、人の記憶が勝手に動き出す感じがする」
「ライターっぽいこと言うな」
「職業病」
「二階堂と同じこと言ってる」
「それは不本意ね」
相沢は江口の胸元の名札を見た。
「江口くん、高二からだよね、慶早」
江口は少し驚いた。
「よく覚えてるな」
「転入生は覚えられやすいから」
「俺、そんなに目立ってたか」
「目立つというか、すでに完成してた」
「何が」
「やや面倒くさい人間として」
「評価がひどい」
「褒めてる」
「褒め言葉の形をしてない」
相沢はまた笑った。
「旧校舎のこと、あまり知らないんじゃない?」
「文化祭準備で少し入ったくらいだ」
「だったら、見学は二階堂くんから離れない方がいいかも」
「なぜ」
「迷うから」
「それだけ?」
相沢は少し間を置いた。
「それだけ」
江口はその間が気になった。
何かを言いかけて、やめたような沈黙だった。
「相沢」
「何」
「旧校舎で、何かあったのか」
相沢は江口を見た。
食堂のざわめきが、少しだけ遠くなった。
「何かって?」
「いや。言い方が妙だったから」
「そういうところ、変わらないね」
「どこが」
「言葉の引っかかりを見逃さないところ」
「教師になって悪化した」
「小説を書いてた頃からじゃない?」
江口は返事をしなかった。
相沢はグラスを持ち直した。
「江口くんの小説、まだ読める?」
「何だ、急に」
「『黒板係は、四度名前を書く』」
そのタイトルが出た瞬間、江口の肩がわずかに強ばった。
「処女作を掘るのは二百年後の同窓会でしてほしい」
「面白かったよ」
「やめてくれ。卒業文集を朗読されるのと同じくらいきつい」
「でも、覚えてる」
相沢の声が少し低くなった。
「あれ、旧校舎の話だったよね。黒板に名前を書く話」
「架空の学校だ」
「もちろん」
「何か問題でも?」
「今は、ない」
今は。
その言葉を、江口は聞き逃さなかった。
相沢はすぐに表情を戻した。
「ごめん。旧校舎を見たら、思い出しただけ」
「嫌な思い出し方だな」
「職業病ってことにして」
相沢はそれ以上言わなかった。
江口は追及しようとしたが、園田の声に遮られた。
「皆さん、そろそろ旧校舎見学へ移ります。希望者はロビーへお願いします。班分けはこちらで行っていますので、名札の裏の番号を確認してください」
江口は名札を裏返した。
B班。
二階堂もB班だった。
青山も。
水嶋、朝倉、黒須、相沢もB班に入っている。
江口は園田を見た。
「偶然にしては、知った顔が多いな」
二階堂が言った。
「幹事の配慮だろ」
「配慮か」
「疑うなよ」
「疑ってない。覚えただけだ」
その言い方が二階堂らしかった。
ロビーに出ると、記念館スタッフが班ごとに並ぶよう案内していた。スタッフは四十代くらいの男性で、名札には「鷺沼」とある。館長代理と紹介された。
鷺沼は参加者に小さな懐中電灯を配った。
「旧校舎区域は照明を整備しておりますが、一部暗い場所もあります。階段や段差には十分ご注意ください」
「そんなに暗いんですか」
朝倉が聞いた。
「雰囲気を残すため、あえて照明を落としている場所があります。もちろん安全上の問題はありません」
「安全上の問題はない、って言われると逆に不安になるな」
牧瀬が笑う。
鷺沼も営業用の笑みを返した。
「旧校舎といっても、建築基準や消防設備は現在の基準に合わせて改修しています。ただし、構造自体は古い部分が残っておりますので、指定された順路を外れないようお願いいたします」
B棟へ続くガラス扉が開いた。
空気が変わった。
新館の暖かく乾いた空気から、少し湿った、冷たい空気へ。古い木材と埃とワックスの匂いが混じっている。江口はその匂いを吸った瞬間、胸の奥が小さく鳴った気がした。
旧校舎の匂いだった。
懐かしい、とは思わなかった。
知っている匂いなのに、歓迎されている感じがしない。
廊下は長かった。
B棟一階の廊下は、新館側から奥へまっすぐ伸びている。右側には旧職員室、旧保健室、展示用の小教室。左側には記念廊下へ続く横道と、二階へ上がる階段がある。天井は新館より低く、照明も少し黄色い。床板は磨かれているが、歩くとわずかに軋んだ。
鷺沼が説明する。
「こちらが旧教室棟、通称B棟です。新館側から近い順に、旧職員室、旧保健室、旧三年教室、図書準備室となっております。二階には旧放送室、記念廊下、資料展示室があります。旧体育館へは二階奥の渡り廊下から向かいますが、今夜は時間の都合上、体育館は入口付近のみの見学となります」
江口は案内図を思い出した。
旧保健室と図書準備室の間の空白。
廊下を歩きながら、壁の厚さを目で追う。旧保健室の扉、展示用の掲示板、そこから少し不自然に長い壁面があり、図書準備室の札がある。
やはり、空白がある。
ただの壁にしては長い。
「気になるか」
二階堂が隣で言った。
「何が」
「その壁」
「分かるのか」
「お前が見る時は、だいたい何か気になってる」
「高校時代から?」
「高校時代から」
「俺の観察係か」
「前衛は後衛の動きを見るんだよ」
江口は返事をしなかった。
旧職員室の前で、鷺沼が足を止めた。
「こちらが旧職員室です」
扉が開く。
中は、展示室として保存されていた。
古い木製机が数脚、当時の配置を模して並べられている。壁には時間割表、職員配置図、学校行事の予定表。奥には黒板があり、その横に小さなホワイトボードもある。今の職員室とは違う。空気に紙とチョークの匂いがある。
黒板の端には、当時の日直名を書く欄が残されていた。
江口は足を止めた。
黒板。
白いチョーク。
名前。
手が冷たくなる。
「この旧職員室は、できるだけ当時の状態を再現しています」
鷺沼が説明する。
「机や黒板、出席簿棚は、旧校舎閉鎖時に残されていたものを一部修復して使っています。こちらの棚には、卒業生の出席簿の複製が展示されています。個人情報に配慮し、一部は伏せてあります」
出席簿棚。
江口はそちらを見た。
ガラスケースの中に、古い出席簿が並んでいる。背表紙に年度とクラス名が印字されている。紙は黄ばんでいた。ひとつの冊子だけ、開かれた状態で展示されている。名前の欄には黒いマスキングが施され、一部だけ読めないようになっていた。
相沢が低く言った。
「こういうの、残すんだ」
「保存資料としては貴重です」
鷺沼が答えた。
「もちろん、公開できる形に加工しています」
朝倉が腕を組んだ。
「個人情報の扱い、大変でしょうね」
「ええ。弁護士の方からも助言をいただきました」
「でしょうね」
朝倉の声には、職業的な反応があった。
江口は黒板の前に立った。
日直欄は空白だった。
そのはずだった。
一瞬、そこに文字が見えた。
内田春斗。
白いチョークで、細く、はっきりと。
江口は息を止めた。
名前はすぐに消えた。
黒板には何も書かれていない。
「桜次郎」
二階堂の声が近くで聞こえた。
「おい」
江口は瞬きをした。
「何でもない」
「顔が何でもなくない」
「黒板を見てただけだ」
「何か見えたのか」
江口は答えなかった。
青山が少し離れた場所からこちらを見ていた。
穏やかな目だった。
だが、その目の奥に何があるのか、江口には読めなかった。
「江口先生」
青山が声をかける。
「具合が悪いなら、新館に戻った方が」
「大丈夫です」
二階堂が江口を見た。
その目が「また言ったな」と言っていた。
鷺沼が旧職員室の説明を終え、参加者を廊下へ戻した。
次は旧保健室だった。
白いベッドが二つ。薬品棚。古い身長計。壁には保健だよりの複製が貼られている。匂いは職員室より冷たく、消毒液の残り香を再現したような空気がある。
江口は保健室のベッドを見て、昨日の自分を思い出した。
白い天井。
五十嵐の顔。
青山の声。
鴻上クリニック。
薬。
自分の鞄の内ポケットにある頓服薬が、急に重く感じられた。
旧保健室を出ると、階段を上った。
階段は木製で、踏むたびに軽く鳴る。手すりは新しく補強されていたが、壁には古い傷が残っている。階段踊り場の窓から、外の雨が見えた。雨粒がガラスを流れ、外灯の光をいくつにも分けている。
二階へ上がると、廊下はさらに暗かった。
「こちらが旧放送室です」
鷺沼が言った。
扉には「放送室」と書かれた古い札が残っている。中に入ると、狭い部屋だった。壁には吸音材の跡があり、窓の向こうには小さな副調整室のようなスペースがある。机の上には古いマイク、スイッチ盤、カセットデッキ、校内放送用のアンプが展示されていた。
水嶋が懐かしそうに息を吐いた。
「うわ、これ、使ってた」
「本当に?」
園田が聞く。
「うん。昼の放送で。曲流したり、連絡読んだり。ここのマイク、スイッチ入れる時に必ずノイズ入るんだよね」
水嶋はマイクに手を伸ばしかけた。
鷺沼がすぐに言った。
「申し訳ありません。展示品ですので、お手を触れないようお願いします」
「あ、ごめんなさい」
水嶋は手を引っ込めた。
「現在は、館内放送とは接続されていないんですよね」
朝倉が聞いた。
「はい。基本的には使用できません」
また、その言葉だった。
基本的には。
二階堂が小さく反応したのが、江口には分かった。
「基本的には、というのは?」
朝倉が弁護士らしい調子で聞く。
鷺沼は営業用の笑みを崩さず答えた。
「展示用に一部通電確認を行うことがあります。また、旧体育館側には別系統の副盤が残っています。ただし、一般利用者の方が使える状態ではありません」
「旧体育館側にもあるんですか」
牧瀬が言った。
「舞台袖の近くですよね。あの古い副盤」
「ご存じですか」
「昔、演劇部の手伝いで触ったことがあります。照明と放送がややこしくて」
「現在は安全上、通常は施錠しています」
鷺沼が言った。
江口は古いスピーカーを見た。
壁の上部に取り付けられている。金属製の網が少し錆びていた。何も流れていないはずなのに、江口の耳には微かなノイズが聞こえた。
ざ。
ざざ。
砂をこするような音。
江口は顔を上げた。
スピーカーから聞こえる。
いや、聞こえる気がするだけかもしれない。
ざ。
そして、声。
「出席を取ります」
江口の背筋が冷たくなった。
声は低かった。
遠い。
だが、確かに聞こえた。
江口は二階堂を見た。
「今」
二階堂が眉を寄せる。
「何だ」
「聞こえなかったか」
「何が」
「声」
二階堂は旧放送室を見回した。
「いや」
水嶋も、朝倉も、相沢も、黒須も、青山も、誰も反応していない。
江口だけだった。
「気のせいだ」
江口は言った。
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
青山が静かにこちらを見ていた。
「江口先生」
「大丈夫です」
青山が言う前に、江口は答えた。
二階堂が低く言った。
「その返事を先回りするな」
放送室を出ると、記念廊下へ向かった。
そこはB棟二階の中央を横切る長い廊下だった。片側には古い窓が並び、もう片側には卒業写真、賞状、部活動の記録、新聞記事などを収めた大きなガラス展示ケースが続いている。
外は雨で暗い。
廊下の照明は暖色で、ガラスの表面に人影を映していた。歩くたびに、自分たちの姿が展示ケースの中を滑る。古い写真の中の生徒たちと、現在の同窓生たちの影が重なり合う。
黒須がカメラを構えた。
「ここ、撮りにくいな」
「なぜ?」
水嶋が聞く。
「反射がすごい。夜はほとんど鏡だ」
黒須は角度を変えながら言った。
「展示物を撮ろうとすると、自分の顔が写る。外が暗いから余計に」
「昼なら違うんですか」
鷺沼が頷いた。
「ええ。日中は外光が入りますので、また印象が変わります。夜は照明の関係で、確かに反射が強くなります」
二階堂が展示ケースを見た。
「反対側の廊下も映るな」
「ええ、角度によっては」
鷺沼は何気なく答えた。
江口はガラスを見た。
そこには、自分の顔と、二階堂の横顔と、背後に立つ青山の姿が映っていた。
そのさらに奥に、誰かがいるように見えた。
白いシャツの少年。
細い肩。
顔はない。
江口は振り返った。
廊下には誰もいない。
雨の音だけが、窓の外で続いている。
「桜次郎」
二階堂が小さく言った。
「見えたのか」
「何が」
「今、振り返った」
「反射で、誰かいるように見えただけだ」
「反射か」
二階堂は展示ケースを見る。
「なら、見間違いとは限らないな」
「どういう意味だ」
「見たものは嘘じゃない。ただし、見た場所が嘘かもしれない」
江口は二階堂を見た。
「何だそれ」
「今思った」
「お前もかなり面倒な職業病だな」
「自覚はある」
記念廊下の奥には、旧校舎時代の新聞記事が展示されていた。
全国大会出場。
文化祭来場者数更新。
校舎移転計画。
旧校舎一部閉鎖のお知らせ。
江口は記事を流し見していた。
その中に、一枚だけ不自然に空白の多い記事があった。
見出しの一部が、複製段階で伏せられている。
関東地方の私立高校で男子生徒死亡。
江口は足を止めた。
文字が、胸の奥を押した。
十四年前のニュース。
東北の高校一年生だった江口が、居間のリビングで見たような気がするニュース。
学校名も、生徒名も、出ていなかった。
旧校舎らしき建物。
黒板。
誰も座っていない机。
江口は展示ケースに顔を近づけた。
記事の下には小さく説明文があった。
個人情報保護のため、一部を加工しています。
日付は十四年前だった。
江口の指先が冷たくなる。
相沢が隣に立った。
「気づいた?」
低い声だった。
江口は相沢を見た。
「これは」
「あとで話す」
「今じゃだめなのか」
相沢は周囲を見た。
青山、朝倉、水嶋、黒須、牧瀬、園田、鷺沼。全員が少し離れた場所で展示を見ている。
「今は、やめておく」
「相沢」
「江口くんが知ってて書いたとは思ってない」
突然の言葉だった。
江口は息を止めた。
「何の話だ」
「あとで」
相沢は視線を戻した。
「ただ、似てるのは事実なの」
江口は何も言えなかった。
似ている。
何が。
自分の処女作か。
『黒板係は、四度名前を書く』
旧校舎。
黒板。
出席簿。
名前。
江口は展示ケースの中の記事を見た。
見出しの伏せられた部分が、黒く塗りつぶされている。その黒い帯が、一瞬、虫の群れのように蠢いた。
江口は目を閉じた。
開ける。
黒い帯は動いていない。
ただの印刷だった。
記念廊下を抜けたあと、一行は図書準備室の前へ向かった。
そこはB棟二階の奥、旧保健室の真上に近い位置にある小部屋だった。扉には「図書準備室」と古い札があり、その下に「関係者以外立入禁止」と新しい札が貼られている。
鷺沼が鍵を取り出した。
「こちらは通常、一般公開しておりませんが、今夜は扉の外からのみご覧いただけます。内部は資料保管庫として使用しています」
「入れないんですか」
朝倉が聞く。
「足元が悪く、棚も固定展示ではありませんので」
鷺沼は鍵を開け、扉を少しだけ開いた。
中は暗かった。
懐中電灯で照らされると、古い木製棚、積まれた段ボール、使われなくなった椅子、壊れた地球儀が見えた。壁の一部に、四角い跡がある。棚を外した痕のようでもあり、小さな扉を塞いだ跡のようでもあった。
江口はその壁を見た。
厚い。
なぜか、そう感じた。
廊下側から見た距離と、部屋の内部の奥行きが合わない。
「この壁の向こうは?」
江口が聞くと、鷺沼は少し考えた。
「配管スペースだったと思います。改装時の図面では壁内空間として処理されています」
「昔は?」
「詳しくは分かりません。旧校舎は何度も改修されていますので」
青山が静かに言った。
「教材用の収納があったと聞いたことがあります」
全員の視線が青山へ向いた。
青山は少し笑った。
「古い校舎には、そういう無駄な空間が多かったですから。私たちの頃にも、どこまでが使える部屋で、どこからが塞がれた収納なのか、分かりにくい場所がありました」
「へえ」
二階堂が言った。
「面白いですね」
「面白いというほどのことではありません」
青山は穏やかに答えた。
江口は図書準備室の壁を見続けていた。
その時だった。
ごとん。
小さな音がした。
壁の中から。
江口は息を止めた。
誰かが古い箱を動かしたような、低く鈍い音。
「今」
江口は言った。
二階堂がすぐにこちらを見た。
「何だ」
「音がした」
「どこから」
「壁の中」
二階堂は壁に目を向けた。
鷺沼も耳を澄ませる。
だが、廊下には雨の音と人の呼吸しかなかった。
「私は聞こえませんでした」
鷺沼が言った。
朝倉が肩をすくめる。
「古い建物ですからね。雨で鳴ったんじゃないですか」
黒須が小声で言う。
「木が鳴ったとか」
水嶋は何も言わなかった。
相沢だけが、江口を見ていた。
青山も。
二階堂は江口に近づき、低く聞いた。
「本当に聞こえたのか」
江口は答えようとした。
だが、答えられなかった。
昨日から、自分の耳は信用できない。
放送室の声も、自分だけが聞いた。黒板の名前も、自分だけが見た。コーヒーの水面の文字も、夢の中のチャイムも。
ごとん、という音が本当にあったと、どうして言える。
「……気のせいかもしれない」
江口は言った。
二階堂はすぐには頷かなかった。
「そうか」
それだけだった。
だが、その声には、覚えておく、という響きがあった。
見学はそこで一度区切られた。
鷺沼が参加者を新館へ戻るよう促す。
「このあと食堂で歓談の続きを予定しています。旧体育館棟は雨脚が強くなっておりますので、見学時間を短縮する可能性があります」
参加者たちは廊下を戻り始めた。
江口は最後の方を歩いた。
記念廊下を再び通る。
ガラス展示ケースに、自分たちの姿が映る。青山が前を歩き、相沢がその少し後ろ、水嶋と朝倉が並んで話している。黒須は時々立ち止まり、展示ケースの反射を確かめている。二階堂は江口の隣にいる。
ガラスの中で、全員の位置が少しずれて見えた。
江口は展示ケースの奥にある十四年前の記事を見た。
黒く伏せられた見出し。
関東地方の私立高校で男子生徒死亡。
胸の奥で、チャイムが鳴った気がした。
きん、こん、かん、こん。
そのあと、低い声。
「一時間目を始めます」
江口は立ち止まりかけた。
二階堂が腕を掴む。
「桜次郎」
江口は二階堂を見た。
現実の声だった。
「戻るぞ」
「ああ」
江口は頷いた。
ロビーの明かりが見えてきた。
新館の暖かい空気が、廊下の先から流れ込んでいる。笑い声も聞こえる。まだ事件は起きていない。誰も死んでいない。食堂には料理が残り、酒があり、同窓生たちは懐かしさに酔っている。
そう思おうとした。
だが江口には、もう旧校舎がただの保存施設には見えなかった。
あの黒板は、まだ何かを書かれるのを待っている。
あの出席簿は、まだ誰かの名前を数えている。
あの壁の中では、何かが動いている。
そして十四年前の記事の黒い伏字の奥に、江口の知らない名前が眠っている。
内田春斗。
ロビーに戻る直前、江口はもう一度だけ振り返った。
B棟の廊下は薄暗く、黄色い照明が床に細く伸びていた。記念廊下のガラスが、遠くで光っている。
その光の中に、白いシャツの少年が立っていた。
顔は見えない。
少年は旧職員室の方を向いていた。
江口が瞬きをすると、そこには誰もいなかった。
ただ、雨の音だけが残っていた。




